長月ユウ
2026-07-12 08:17:51
5821文字
Public 庶莉
 

鳥籠の娘・後編

※若干の性的表現あり。

徐庶と思わぬ再会を果たしたその夜、一人で「仕事」を終わらせた馬岱が寝台に腰掛け、隣に座る莉杏に問う。
「徐庶って男、知ってる?」
莉杏の心臓が、跳ねるように脈打つ。彼に会ったことが知られてしまったのだろうかと、言いようのない不安がこみ上げる。
(落ち着かなきゃ……知られたら、徐庶殿が殺される)
馬岱からかすかに漂う鉄錆の匂いが、血に塗れて地面に伏せる徐庶の姿を嫌でも想像させてしまう。
……うわさでしか聞いてないよ。曹操軍の軍師が来たって。その人がどうかしたの?」
莉杏は視線を落とし、興味なさげに答える。
「彼、元々劉備軍にいたのに、その才を見出した曹操に母親を人質に取られたから、嫌々曹操軍に降ったんだって」
離れていた間の彼もまた、過酷な運命を辿っていたのだと知り、莉杏は無言で服の裾を握りしめる。
「だから、曹操を暗殺する時は協力してくれるって言ってくれたよ。内側から崩せば、暗殺成功の確率も上がって万々歳だよねー」
「それを、どうして私に話すの?」
「徐庶が、本当に俺たちに協力してくれるようにするために「お仕事」してほしいのよ」
馬岱に肩をつかまれ、押し倒される。
「彼は曹操軍の軍師だよ? 母親を人質に取られたことは本当だけど、それを今でも恨んでいるかまではわからない」
この後の行為を想像して身構える莉杏に放たれた一言は、彼女を絶望の淵に立たせるには十分すぎるものだった。


「だから、君が徐庶を籠絡して、俺たちに心から協力するようにさせるんだ」


「え……?」
今までは、馬岱が暗殺対象を殺しやすくするために男に接近し、肌を晒していたのだ。抱かれる前に殺してくれるという前提があるから、莉杏は馬岱以外の他の男に素肌を触れられる嫌悪感にも耐えてこられた。
だが、今回は違う。徐庶を籠絡させても、曹操を暗殺するまでは始末できない。つまりそれは……
「大人しく徐庶殿に抱かれろって事? 馬岱様は、それでいいの……!?」
「良くないよ。けど、あの男は過去に西涼にいたし、君のことも知っている……「単福」って言えばわかるよね?」
――!!」
彼の口から出た偽名に、莉杏は全身から血の気が引いていくのを感じた。
「君は覚えてないだろうけど、あの男が君の両親や、君とも会話しているのを見たことがあるよ。 だから、彼と面識のない女じゃなくて君を使おうと思ったわけ」
馬岱が莉杏を安心させるように彼女の服の帯を解き、熱の引いた彼女の太腿へ手を滑らせる。
徐庶が単福だと馬岱に知られていたことと、知り合いとはいえ想い人以外の男に身体を貫かれる恐怖が、全身を駆け巡る。
「でも、君にとってもいい機会だよ。俺以外の男がどれだけ君を酷く扱うのか、体験してみるといいよ。この身体に欲を吐き出すためだけに君を求めてる事を、改めて知るためにね」
「嫌、そんなのできない……!」
「拒否権はないよ」
ピシャリと言われ、莉杏は口をつぐんだ。
「大丈夫。君が他の男に抱かれても、君を手放したりなんかしないって決めたから……言う事を聞いて」
…………
莉杏が涙を堪えながら小さく頷くと、馬岱は莉杏の脚の間に身体を割り込ませる。
(徐庶殿は……徐庶殿だけは巻き込みたくなかったのに……っ!)
心が上げる悲鳴は、痛みとともに嬌声として閨に虚しく響いた。


*******


あれから数日後。
曹操暗殺計画の全容を知るために、徐庶は西涼での相棒にあたる兵卒と共に密かに立ち回っていた。
馬騰に謁見し、かつて抱いていた「母を人質にし、自分を劉備から引き離した曹操への恨み」を理由に間者として利用してほしいと願い出ると、思った以上にすんなり歓迎された。
軍師にあたるような将は、今も受け入れていないと徐庶は確信した。そうでなければ、このような情に訴えかけるような頼みに対して、誰か一人でも異議を唱えるはずだ。
それに、
(引っかかるのは、馬岱殿の態度だ)
謁見している最中もその後も、当時と変わらない陽気な笑顔で、「協力者が増えて嬉しいよー! 末永くよろしくね」と、徐庶に話しかけてきたのだ。
一人の女性を密かに匿い、後ろ暗い仕事に加担させているという話は嘘だと錯覚しそうなほどに。

(……俺に対して、警戒している様子は見受けられなかった。莉杏と接触していることはバレていないだろうが、俺が過去にここに来ていたことも忘れているのか?)
思考を巡らせながら寝食の場として与えられた邸に戻ると、
「莉杏……?」
扉の前で待ち構えていた莉杏が、徐庶の姿を見た途端笑みを浮かべる。
「徐庶殿、いきなり来てごめんなさい。二人きりで話がしたくて、ずっと待ってたの」
その言葉に流されずに気を張り詰めて周囲を見回すが、人の気配はない。本当に一人で訪れた事を確認すると、徐庶は張り詰めていた緊張の糸を解く。
……そうか。君をもてなせるような物がなくて申し訳ないけど、入ってくれ」


……あの時はごめんなさい」
徐庶が長椅子に腰掛けると、当然のように莉杏も隣に座る……恋仲でもないのに、距離はとても近い。
「逃げてほしいとか、私に関わらないでとか……まるで、ここが余所者に厳しい軍だと思わせるようなことを言ってしまって」
「いいんだ。西涼の気風は圧倒的な力こそが正義なのは、あの頃と変わっていない……それはわかってる」
徐庶が言うと、不安げな表情をしていた莉杏が安堵の笑みを浮かべた。
「よかったぁ。あなたが曹操軍の軍師になったことも、そのきっかけになったお母様の事も聞いたの……徐庶殿は、その恨みを晴らすために曹操暗殺計画に協力してくれるってことも」
その言葉で、徐庶は莉杏がここに来た理由の一端を掴んだ。
「それは……
答えることを避けようとする徐庶の太腿に、莉杏がそっと手を置く。目のやり場に困るあの蠱惑的な衣服は、まるで脱がせてほしいと言わんばかりに、既にいくつかの留め具が外れていた。
「でも、あなたの事を間者だと疑っている人たちがいるの。その人たちの言う事が本当なら、考え直してくれる? それに、私もあの頃のように徐庶殿が味方になってくれたら嬉しいなって思ってるんだ」
莉杏が妓女のように徐庶にしなだれかかり、劣情を煽るように胸のふくらみを当てる。

「ねえ、徐庶殿が本当に協力するって約束してくれるなら……私の身体、いくらでも好きにしてくれていいんだよ? そのために、私はここに来たんだから」

目の前にいる恋い焦がれていた人は、自分以外の男によって別物に作り変えられてしまった。
それを目の当たりにしたためか、彼女を迎え入れる際に懸念していた劣情は全くと言っていいほど湧かなかった。
「君は……
しかし、彼女の魅惑的な言動に反して袖を掴む手がカタカタと震えているのを徐庶は見逃さず、

「馬岱殿にそうしろと言われたのかい?」

淡々とした問いかけに、莉杏の顔がサッと青ざめる。
「違うよ。私が、勝手に……
「こんなに手を震わせて誘う君に、酷い事はできない……君も、慣れないことをするものじゃないよ」
優しく諭しながら莉杏の服の乱れを直そうとするが、
「やめてっ!」
その手を振り払い、莉杏は更に服の留め具を引きちぎるように外していく。
「慣れないことじゃない! 私がこんなことを何度やってるか知らないくせに、勝手なこと言わないで!!」
「莉杏……
「お願い、協力するって言って! 私を抱いて、酷い事をしてよ!! そうしなきゃ、私は馬岱様の元に帰れない!「もういらない」って、捨てられちゃう……っ! 」
「莉杏、もう――
徐庶には莉杏の暗い瞳が、心がここにいない男の影のみを映しているように見えてしまい、奥底に閉じ込めていた嫉妬がふつふつと湧いてくる。
「馬岱様の役に立てない私なんて、生きている価値が――!!」
「莉杏!!」
徐庶は莉杏の肩を掴み、声を張り上げた。
「これ以上、自分の心を削るようなことをするな! 君は彼の道具でも、人形なんかでもない!!」
突然の大声に怯える莉杏に対し、すまないと思いながらも、徐庶はそのまま語りかける。
「君はもう、十分尽くしたはずだ……だから、もういいんだ」
「でも……
「本当は全部わかってるんだろう?」

緑色の瞳が、大きく揺らいだ。

(ああ、やはり……)
快活な姿や幼さの残る言動に隠れがちだったが、内面は達観していて聡い彼女はわかっていたのだ。

……徐庶殿の言う通り」
莉杏が口を開く。
「本当はわかってたの。どれだけ頑張っても、馬岱様は私を見てくれないって。何をしても変わらないって……私が、余計なことを言ってしまったから」
馬岱も莉杏も明るく人当たりのいい性格で、お似合いのように見えていた。

……あくまでも、表面上は。

「でも、諦めたくなかった。今日がダメでも、明日もっと頑張ればきっと馬岱様は私を許してくれるって、昔のように接してくれるって、そう思ってた……
莉杏の言う「余計なこと」とは、恐らく兵卒が言っていた「馬岱の裏の顔」を指すのだろう。
戦場に立つこともあるとはいえ、心根の優しい彼女には馬一族の……ひいては西涼のために、誰も知らない所で一人血にまみれていく想い人を見るのが耐えられなかったはずだ。

「それに、馬岱様は両親と一緒に殺されるはずだった私を、立場が危うくなるのをわかっていて匿ってくれた……だから、一生をかけて彼の側にいようって、一緒に汚れようって決めたのに……
馬岱は、本来は彼女の両親と同じく殺害する予定だった莉杏に情が湧いて匿ったが、「余計なこと」を言われたせいで彼女を愛せなくなった。
――あるいは、「余計なこと」に気づいた彼女を愛そうと決めた代償に、自分以外の人間は敵だと徹底的に刷り込み、依存させるためにわざと彼女の心を擦り減らすような事をさせたのだろう。

「それなのに、何度も馬岱様のために身体を投げ出しても、身体を触れられるのが怖いの……馬岱様のようになれないの……!」
莉杏の瞳に光が灯ると同時に、大粒の涙がポロポロと零れ出す。
「もう嫌……心の底から馬岱様のために生きようと思えない私にも、こんな毎日を過ごすことにも耐えられない……! 消えてしまいたい……!!」

堰を切ったように溢れ出す彼女の悲痛な叫びを聞いた徐庶は、抱き締めたい衝動を堪えて口を開く。
「消えてしまいたいだなんて言わないでくれ。俺は……ええと、今の君には残酷なことに聞こえてしまうかもしれないが、君が生きていてくれて良かったと思ってる」
「徐庶ど……の、私……わたし……!」
「ずっと一人で耐えてつらかっただろう? そのつらさを、俺に全部吐き出してくれ。馬岱殿にも、誰にも言わないから……
莉杏が両手を顔で覆い、泣き崩れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、徐庶殿……関係ないあなたを巻き込んで、ごめんなさい……っ!!」

なぜあの時、馬岱なら莉杏を大事にしてくれる、幸せにできると思ってしまったのだろう。
彼女への想いを断ち切ることができなかったのに、どうしてもっと早く彼女の行方を追わなかったのだろう。
悔やんでも仕方のないことだとわかってる。けど、悔やまずにいられない。
(すまない……)
本当なら君を抱きしめるべきだろうし、抱きしめたいけど、その役目はきっと俺じゃない……俺なんかじゃない。

――違う)

​今まではそうして、一歩引いた態度を取っていた。
曹操に母を人質に取られ、劉備への忠義との間で身動きが取れず、中途半端に立ち止まっていた自分には莉杏の隣に立つ資格も、ましてや顔を合わせる資格すらもないのだと自嘲していた。
だが、想いを寄せる男のために心をすり減らし、消えてしまいたいという衝動で今にも壊れそうな彼女を前にして、そんな綺麗事は一瞬で吹き飛んだ。
どれだけ手を伸ばしても届かない眩い天や、もはやただの自己満足でしかない忠義に取り憑かれていた自分と決別し、足元の地を見て歩もうと、あの赤壁の戦火の中で決意したはずだ。


​「……莉杏、顔を上げてくれ」
徐庶はこれまでの躊躇いを捨てて、莉杏の涙に濡れた両手を優しく包み込む。
「巻き込んでいいんだ……俺は、曹操殿の暗殺計画に協力するつもりはない」
「え……?」
驚きに涙を止める莉杏に、徐庶は真っ直ぐかつ、静かに己の思いを口にする。
「曹操殿が母を人質にしたことは、曹操軍の軍師として生きている今も許していない。だからと言って、報われもしない感情に囚われて俺が何もしなかったことで誰かを……特に近しい人たちを不幸にするような生き方は、もうしたくないんだ」
​だから、と徐庶は更に言葉を紡ぐ。
例えそれが、今の莉杏に視えている世界を破壊する残酷な真実だとしても、告げなければならない。

​「君をこれまで縛り付けていた呪いを、解かせてほしい……莉杏、君の両親を殺害したのは――馬岱殿だ」

莉杏は激しく動揺し、
…… 何を、言って……!」
「君を助けたんじゃない。自分以外の人間を敵だと思わせて、都合のいい道具として依存させるために、彼は君をわざと生かして囲ったんだ」
徐庶はそんな彼女への遠慮を振り払い、容赦なく揺さぶりをかける。
「馬岱殿が君の気持ちを利用していることは、君が一番わかっているはずだよ。彼のために男を籠絡して、邪魔者たちを排除する行為に加担させることや、彼と同じように闇の中で生きる道を選ばされていることも」
……馬岱様が、そんな……
​莉杏の表情に、戸惑いの色が浮かぶ。いきなりこんなことを言われても信じられない……いや、信じたくないだろう。
​「君を世話してくれている女官がいるだろう? 彼女の夫と協力して、二人とも俺たちが必ずこの西涼から連れ出してみせる」
​莉杏から目を逸らさず、握る手に力を込めた。
​「……今はまだ難しいけど、俺が持てる限りの力を尽くして必ず迎えに来る。だから……どうか俺を信じてほしい」
​それは、今にも消えてしまいそうな鳥籠の娘を救済するという大義名分を借りた、己の身勝手な庇護欲なのかもしれない。


しかし、彼女が再び外の世界へ羽ばたくための力を与えていたことに、徐庶は気づいていなかった。


end.