氷酒
2026-07-11 22:33:56
2978文字
Public SS
 

『沁み』

まりみや組/やわらかな希求ネタバレ有。

 彼が死ぬ夢を見た。
 彼が殺される夢を見た。
 彼を殺す夢を見た。
 彼が千切れ、裂かれ、暴かれる。
 そんな夢を見る。


 暗闇の中で美夜の顔がぼんやりと浮かび上がった。その表情からは感情が抜け落ちており、虚ろにこちらを見返している。
 いいや、違う。美夜は何も見てなどいない。だって彼の呼吸はとうに止まっているのだから。黒い瞳はぬめりとした光沢を帯び、無機質にこちらの顔を映しているだけだ。
 暗闇かと思った周囲は、よくよく見れば暗闇ではなかった。
 それは、濡れて時間の経った血の跡だった。どす黒く変色し、その中に美夜は横たわっているのだ。
 その中央で真倫は力なく座り込んでいる。座り込んで、彼の身体を膝の上に抱えている。
 冷たくなった肉の感触が背筋を震わせる。鉄臭さが、思考を鈍らせた。
 ぐちりと、己の手が彼の胸に空いた空洞――たった今自分が開いた孔へ滑り込む。ぐちゃり、ぐちゃり、様々な体液に手を濡らして、無遠慮に奥へと手を伸ばす。
 指先がこつりと目的のものに触れる。それを確認すると、手に力が込められた。
 血管と筋を引きちぎり、強引に抜き取った。夥しい血が孔から溢れて体を汚すが、気にも留めない。それよりも、引き出したものの方が重要だ。
 手の中には、拳大の心臓があった。冷たい体の中にあるそれは、当然温度など宿していない。それでも、温もりがある気がするのは、その器官故だろうか。
 うっとりと見つめる。どこか俯瞰した視点からでも、それがよく分かる。
 両手でそれを大事そうに抱える。
 誰にも渡さない。
 だってこれは、自分が抜き取ったのだから。

 ◼️の、◼️◼️だ。

 だから真倫は、それをゆっくりと顔に近づけて――





 目が覚める。
 心臓が飛び出してしまいそうな音を立てて早鐘を打っていた。
 喘ぐように息を吸っては、吐き出す。寸前まで忘れていたかのように体は酷く酸素を求めていた。
 しばらくの間そうやって呼吸を繰り返していたが、落ち着いてきた頃合いにそろりと周囲を確認する。
 柔らかな暖色のルームライトはつけっぱなしで、薄暗いながらも中の様子がよく見える。
 天井は見慣れたもので、すぐにここが真倫の部屋で、自分のベッドの上あることが分かった。ただし、不思議なことに寝るまでの記憶が曖昧のため、おそらく誰かに寝かされたのだろう。
 ああ、またやってしまったなと直感的に思った。
 心当たりならある。今の自分は心身共に不安定で、時折倒れてしまうことがあった。特に“家事”をこなした後はひどく消耗するため、今回もその辺りが原因だろうと検討をつけた。
 だからきっと、あんな夢を見たのだろうと。
「真倫、起きた……?」
 すぐ隣から、むにゃむにゃと寝ぼけた声がした。無言で首を傾ければ、気配を察して起きた美夜が緩慢な動きで頭を上げこちらを見上げていた。
「調子は……?」
「悪い、またやったか?」
「んーん、調子は悪そうだったけど、支えたら自分で歩いてたよ。覚えてない?」
 美夜はそう言うが、自分にそんな記憶はない。最後の気力でそうしたか、美夜が気を遣ってそう言ってくれたのか、判断はできなかった。
「でも落ち着いたんなら良かった。もうちょっと寝なよ」
 俺も眠いし、と美夜はこちらに擦り寄って寝る体勢を整え直す。服越しに感じるぬくもりがいつもより暖かいのは、彼自身が言った通り眠いからだろうか。
 ごそごそと、広くない部屋の中に衣擦れの音だけが聞こえる。
「寝れる?」
「ああ……
 口ではそう答えるものの、眠気はとうに失せていた。美夜に悟られないように、そっと指先に力を込め、きつく握る。
 目を閉じれば、先程までの夢が瞼の裏に再生されそうで怖かった。

 あの赤をもう一度見たくない。
 あの光景をもう一度、認めたくない。
 怖い。見たくない。嫌だ。恐ろしい。
 怖い。怖い。ただ、こわい。
 あれは。あの光景は。あの夢は。
 あのときの、自分は。

――真倫」

 不意に、名前を呼ばれたと思うと視界が暗くなる。同時に暖かな何かに頭を包まれた。
「大丈夫だよ、俺はここにいるから」
 その暖かさが先程擦り寄ってきたものと同じで気付くと同時に、美夜に抱きしめられていると理解する。まるで頭を抱えるように、自身の心臓の音を聞かせるように。
「聞こえるでしょ? ここにいるから」
 とく、とくと。一定のリズムが美夜の体越しに流れ込む。押し付けられた胸が上下して、呼吸していることを教えてくれる。
「どこにも行かない。ずっとここにいる。だから怖くないよ」

 ゆったりとした言葉と、息と、心音。
 静かな部屋それが響く。布越しに、肌越しに、空気を介して。
 そして、真倫に沁みて、伝わって、解けた。

「怖い……?」
「悪い夢を見たら、怖くなるよね。小さい頃それで、真倫がよくこうやってあやしてくれたっけ」
 だから今度はその逆だと、頭の上で美夜が笑う気配がする。
「怖いのは仕方ないよ。だから怖くなくなるまでこうする。心臓の音聞いてたら、落ち着くって聞いたことあるんだ」
 とくん。とくん。
 聞こえる。美夜の音が。
「でも。怪我、当たったら痛いんじゃ」
「あれ? 大したことないって言ったじゃん! とっくに塞がったし痛くないよ」
 触る? なんて笑った声がして、美夜の手が真倫の手を取る。固く握りしめられていた手を解き、胸の上に――かつて包丁を立てた場所を服の上からなぞらせる。
「ほら、平気」
 ここにいる。そう、美夜は何度も繰り返した。信じられないというように首を振っても、何度も、何度も。

 だからようやく気付いた。

 ――自分は怖かったのだ。
 美夜が、どこかに行ってしまうことが。
 死、そのものに連れ去られてしまうことが。
 拒んだ結果。その行いを彼に忌避されることが。
 なんでもいい。彼が、離れてしまうことが。
 ただ、怖かった。

「真倫がここにいるなら、俺もいるよ。怖かったら確かめて」

 染み込んだ言葉に従って手を伸ばす。

 美夜の手に触れた。自分よりも幾分小さい掌。指の長さも、爪の形も。知っていた通りで。傷ひとつない。
 美夜の足に触れた。小柄な割にしっかりと筋肉がある。仕事でいつも歩くから、なんて笑っていたことを思い出す。
 美夜の腹に触れる。傷なんてどこにもない。食べる割には細い腹だが、奥には腹筋があり、内臓がある。くすぐったい、なんて笑う声が響いた。
 美夜の胸に、触れた。今度は服越しではなく、直接。傷は痕に残ったらしい。傷跡独特の肌とは違う感触が少しだけ指先に引っかかる。けれど血に濡れる感触はない。その奥で、心臓が動いているのがわかった。
 目を閉じる。記憶に残り続けた光景が、焼けたフィルムのように崩れ、消えていく。
 鉄の匂いはどこにもない。冷たい死肉の感触は、ない。
 全身から力が抜ける。目頭が熱くなった。
「そうか……
 今更ながら、思った。
 美夜は、生きている。生きていて、ここに居る。
 もうあの日々は終わったのだと。

 やっと、心からそう、思えた。



 ――悪夢の底。小さく擡げた欲望に、終ぞ気付かぬままに。