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滝沢
2026-07-11 09:37:24
14131文字
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ジプカラ
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残響【若ジプカラ】
恋を知らない子どもと街のチンピラの執着の話
※注意※カラモブ匂わせとジプモブ描写あり
路地の奥で扉が軋む音がした。かすむような早朝の陽光は背の高い建物に阻まれて、夜の気配を振りほどけないままでいる。
しんとした暗がりに沈む通りの、半分ほど向こう。立ち並ぶアパルトマンのうちの一軒から人影が現れた。石畳に靴音が響き、外套の裾が揺れる。ちょうどその周囲だけが、街灯の光に切り取られて浮かび上がっている。
距離があって顔までは判別できないが、肩口で揺れる髪と華奢さを見ればその性別は知れた。女は何かに呼ばれたように振り返り、アパルトマンへ引き返す。建物の軒先の影からゆっくりと出てきた人影が腕を広げると、女は慣れた様子でそこへ飛び込む。細い両腕が相手の首に絡み、二つの影は重なったまま動きを止めた。
夜が明けてもまだ熱が冷めないらしい。良いご身分だな、とジプソは舌打ちした。裏通りにあるくたびれたバーやクラブを夜通し渡り歩き、煙草と酒と汗が入り混じった夜の匂いを身にまとうジプソには忌々しいほどにまぶしい光景だった。
重なり合った影はそっと分かたれ、未練を振り切るように背を向けて大通りへ向かう女と、ジプソのいる方へ向かってくるもうひとり。男だとすれば随分小柄な体格に見えるが、同性同士のカップルなどミアレでは珍しくもない。
まったく、朝っぱらから見せつけてくれる。昨夜はクラブの暗がりで身体を擦り付けてくる女の柔らかさにも、酒気を帯びた甘く思わせぶりな吐息にも、まるでその気になれなかった。浴びるように流し込んだ安酒のせいで、胃の底には鉛のような重さが沈み、覆い被さる倦怠感と眠気が思考を鈍らせる。人より大きな体躯に相応しい頑健な肝臓を備えていなければ、とっくに酔いつぶれて路地裏で醜態を晒していたっておかしくはなかった。
あの恋人たちには何の罪もない。そうと分かっていても不愉快な感触が消えない。すれ違いざま足元を見てやり過ごそうとしたとき、腰に下げたイワークのヘビーボールがかすかに震えた。
「おい、どうした?」
ちいさく声をかけてやる。眠っているとばかり思っていたイワークが何に反応したのか見当がつかない。それでも、ボールを手のひらでそっと押さえると震えは静まった。単に夢見が悪かったのかもしれない。安堵してボールから手を離した、その時だった。
俯いた視界を影が横切る。反射的に目で追えば、ちいさなフシデが触角を揺らしながらこちらを見上げていた。二つ目の節に、白い斜めの傷跡がある。思わず息を飲んだ。
「なんや、ジプソやん」
声が耳に届いた瞬間、喉奥に息が引っかかる。顔をあげると、ここ数ヶ月ほど、行方が知れなかった男がそこに立っていた。
濡羽めいた黒髪を見間違えるはずがない。薄暗がりでも頬がかすかにひかりを帯びている。目を奪うのは、すっと切れ上がった瞼の下できらめく金色の瞳だ。それが今は、見慣れない無粋な黒縁の眼鏡によって隠されている。
「
……
カラスバ」
生意気で、口ばかり達者なクソガキ。運び屋を名乗って我が物顔でミアレを走り回る、得体の知れない余所者だ。やたらと鼻が利き、火種を嗅ぎつけては首を突っ込んでくる。荒事を商売にする身には邪魔な存在だった。
通すべき筋を教えてやろうと追いかけ回しても、あと一歩で取り逃す。いつかは締めてやろうと思っていたが、縁も身寄りもないミアレで才覚だけを武器に食らいつく姿を見ているうちその気が失せた。
ちょっかいをかけるのをやめ、面倒な相手に絡まれているのを気まぐれに助けたことをきっかけに、なぜか纏わりつかれるようになった。季節がひと巡りする頃にはジプソの住む古い屋根裏部屋へ勝手に押しかけ、風呂を貸せ、腹が減ったと勝手なことばかり言う。そのくせ、きのみやポケフードを宿泊代代わりに置いていくのだから、図々しいのか律儀なのか分からない。留守でも構わず忍び込んでは朝帰りのジプソを迎え、ついにはベッドの隙間にまで潜り込むようになった。
カラスバはいつも雨の夜とともにふらりとやってくる。「オマエ、留守の時ぐらい窓の鍵閉めたほうがええんちゃう」と呆れた声は聞き流し、いつしか傍にいる存在への違和感は消えていた。
カラスバがふつりと姿を見せなくなった時も、すぐにまた何もなかったような顔をしてやって来るだろうと思っていた。けれど日々は平坦に過ぎ、以前よりも少し広くなった部屋を眺めては、静かになって良かったと思う日が続いた。手持ち無沙汰を埋めるように女を家へ呼ぶことが増えたが、ほかの誰かを同じ場所に置こうとすると妙に息が詰まる気がした。
街角でカラスバに似た背格好の者を見かける度に、つい目で追うことをやめられなかった。厄介な仕事に手を出してヤバい奴らに捕まったかと思っていた矢先、変わらず駆け回っているのを見たと言う仲間の悪気ない報せに苛立った。
手足の先から力が抜けていく。夜の名残を引きずる早朝の路地裏、石畳には街灯に照らされたふたり分の歪な影が落ちている。
「酒くさ。朝帰りか」
相変わらずやね、と目を細めたカラスバが溜息混じりに言う。
頭のなかがぐらりと揺れた。ここしばらく姿を見せなかったカラスバと、ジプソの世界ではまず見ない類の、早朝から働きに出るような真っ当な女。抱き合うふたりの影が瞼によみがえり、腹の底を炙るような怒りがこみ上げてきた。酒に浸された頭に冷静さなどあるわけもなく、視界が赤く滲む。
舐めやがって。血が逆流する。考えるより先に手が伸びた。男の襟首を掴む。足元でぎぎぎ、と威嚇音がして、姿勢を低くしたフシデが視界の端に映る。一瞬、踏み止まろうとする力が手に返ったが、構わず引き寄せる。目の前の生っ白い顔を睨みつけた。
しかし、誰もが青褪めるジプソの威圧にもカラスバは表情を変えなかった。凪いだ金いろの瞳がじっと覗き込んでくる。怯えて暴れ出すならまだ可愛げがあるものを。いつもそうだ。カラスバはけして、誰かの意のままにはならない。
自分がこんなにも苛立つ理由がわからなかった。カラスバに女がいようがジプソには関係のないことだ。裏切られたなどと、なぜ思うのか。馬鹿馬鹿しい、と思うと白く握り締めていた拳から力が抜けていく。
突き飛ばすように手を離すと、意外なほど軽い身体はニ、三歩後退し、石畳に乾いた靴音が響く。
「出会い頭に何やねん。物騒なやつやな」
カラスバの声は静かだった。足元で不満げにぎゅいぎゅいと鳴くフシデを宥めるようにひらりと手を振ってみせる。ジプソの瞳を見つめたままジャケットの襟に手をやり、指先でするりと折り目を整える仕草が様になっている。以前身に着けていた薄汚れたパーカーやデニムとは違う、白いシャツにゆとりを持たせたダークトーンのジャケット。カラスバの童顔は相変わらずだが、細い身体を包み込む輪郭は妙に落ち着いて見えた。
「なんだその服。ガキが大人の真似しやがって」
「信用されるには、まず見た目やろ」
そう言って、カラスバは肩をすくめた。ふと見下ろした自分の革ジャンと破れたデニムには、誠実さとはかけ離れた夜の匂いが染みついている。だが、路地裏の吹きだまりを選んで生きる自分にとって、誰に恥じるものではない。
ジプソは瞬きもせず、ただカラスバを見据える。その視線を受け、カラスバはふと頬を緩めた。当てはまらん奴もおるか、とつぶやく声が聞こえる。
「
――
ま、ええわ」
ほな、また。ひとり何をか納得したように踵を返す男の足取りは軽い。そこにためらいや未練の影は見当たらず、ジプソは咄嗟に腕を伸ばした。あっさり手のひらに収まる二の腕を掴むと、カラスバは目を丸くして振り返る。引き留められるとは思っていなかったようだ。
「お前、今どこで何してる? 俺の
……
」
家になぜ来ない、と続く言葉はかろうじて飲み込んだ。あまりにも未練がましい。こんなことを口にできるわけがなかった。
「いや、それがな」
カラスバはさり気なく手首を内側へ捻る。掴んでいた力を逸らされ、腕はするりとジプソの手から抜けていった。
「オレが家なしやからって、拾うてくれた人がおるねん。毎日風呂入れるし、寝床もあって助かってるわ」
カラスバの目元がやわらかく緩む。たしかに、見慣れない服はジプソの家を出入りしていた時より小綺麗で、頬の血色も良い。明日の食べ物に困るような生活ではないのだろう。
縁故がなく、保証人を立てられないカラスバが、この街で部屋を借りるのは容易ではない。以前にも、ブルー地区に住まう老夫婦の家に世話になっていたと聞いたことがある。拠点さえあれば仕事がやりやすくなるのにと愚痴っていたことを思えば、誰かの家に転がり込むのは合理的な選択なのだろう。
「そんで、目ぇ悪いんちゃうかって言われて、眼鏡屋連れてってもろたんよ」
眼鏡のフレームに指を当てたカラスバの目元がやわらぐ。
そんなこと、ジプソだってずっと前から知っていた。あの屋根裏部屋でふと振り返れば、意外なほど近くで視線がぶつかる。カラスバはいつだって、吐く息が触れる距離から目を凝らすように覗き込んできた。そのたび、複雑に色を重ねる金いろの虹彩に目を奪われずにはいられない。無自覚な迂闊さにぐっと胸が詰まって、お前は目が悪いんじゃねえか、とはなぜか言い出せなかった。
まるで張り合うように考えている自分に気づくと、ひどく白けた気分になった。特別な意味を持たせる必要などない。自分にだけ懐いていると思っていた野良ポケモンが、よそでも同じように媚を売っていた。それだけのことだ。
「オマエみたいなガキをヒモに選ぶ女の気がしれねえな」
胸の奥にこびりつく重さを持て余したまま、吐き捨てる。身の内に踏み込むような発言を一瞬後悔しかけたが、カラスバは言葉よりも本音を探るように、じっとジプソの顔を見つめてきた。静かな眼差しに、目を逸らすのも癪だとただ睨み返す。
「なぁ、なんか怒ってる?」
軽く首を傾げたカラスバのひと言に、一瞬息が詰まった。
「骨のあるガキかと思えば、女に飼われて満足しやがって」
「は?」
悪態を聞きとがめたカラスバが低い声を出し、二人の間に冷たい静けさが落ちた。挑発を素直に受け取るならそれでいい。ジプソは威圧するように見下ろし、腰のヘビーボールに手をかけた。
だが、カラスバは動かない。フシデを制するように、ちらりと足元に視線を投げただけだった。
「カタギのええ人なんや。見返りも求めんとようしてくれはる。あんまり悪く言わんといてや」
首を傾けてゆっくり瞬きをしたあと、曖昧に口元を緩める。庇うような物言いが神経に障った。まるで大切なものに触れるなとでも言うようだ。一度は引いた熱がまた胸の内側をじりじりと焦げつかせる。それでも、カラスバの言葉がふと引っ掛かった。
早朝の路地裏で離れがたく抱擁を交わすくらいだ。男女の関係なのだとばかり思ったが、カラスバが言うように、身寄りのないこいつを哀れに思っただけなのだとしたら。暗がりでは恋人たちの抱擁に見えたやりとりも、同居人へ向けた親愛の表現に過ぎなかったのかもしれない。カラスバの細っこい身体はいまだ成長途中のガキそのものだ。とても情人を囲うようには見えなかった。
「お前が誑し込んで、抱いてやるかわりに身の回りの世話をさせてるんじゃねえのか」
中途半端な酔いと勝手な期待とでつい口が軽くなる。唇の端を歪めるジプソに、カラスバは眉をしかめた。
「下品な言い方するなや。住まわしてもろてるだけや。カネも必要な分は自分で払ろてるわ」
呆れたように目を細める。せやけど、と静かに続けた。
「長いこと一緒におって、何もないわけないやん。オマエかてそうやろ」
そう言いながら腰を落とし、足元でちいさく鳴き声を漏らしていたフシデの触角のつけ根を撫でてやっている。
言葉が出なかった。あっさり返された肯定に、冷たいものが身体の内側を滑り落ちていく。それなら、やはりあれがカラスバの
——
恋人か。どこにでもいそうな、ごく普通の昼間の女だった。カラスバの肩の線は細く輪郭は華奢で、どこもかしこもジプソの大きな手で簡単に覆われてしまう。そんなにも頼りない腕で、普通の男のように女を抱いている。
手足は冷えているのに、頭の芯が熱を持っている。カラスバがどこで何をしていようが関係ないはずだ。好きにしろ、と背中を向けて立ち去ればいい。
「どうした? 飲みすぎて気分悪なったんか」
ジプソの耳に届く声はひどく穏やかだった。
カラスバが姿を見せなくなる少し前のことだ。あの日、夕方から降り出した雨は次第に勢いを増し、屋根を叩く音だけが夜を満たしていくようだった。いつもどおり屋根裏部屋に姿を見せたカラスバは、ジプソの作った夕食を図々しく平らげると断りもなくシャワーを使い、家主よりも先にベッドに潜り込む。もはや文句を言うのも馬鹿らしく、我が物顔で振る舞うカラスバを放っておくのはいつものことだった。
シャワーを浴びて戻ってきたジプソを、しんと静まり返った部屋が迎える。部屋の隅で、フシデが毛布にくるまって丸くなっている。激しい雨音はどこか遠く、足を踏み出すたび床が軋む音がやけに響いた。
窓際のマットレスのうえで、カラスバが背を向けて横になっている。寝息ひとつ聞こえず、身じろぎもしない。目を凝らすと、ブランケットに覆われた背中がかすかに上下していた。傍らに立ち尽くしたまま、ジプソはそれをぼんやりと見つめる。
先週のことだ。予定よりも随分早くに仕事が退けた日があった。空いた時間に呼び出したのは、半年ほど前に飲み屋で引っ掛けて以来、なんとなく続いている女だ。ゆるく巻いたブロンドが目を引き、呼び出せば気軽にやって来るところが気に入っている。
カーテンは開け放たれたまま、小雨に濡れた淡い光が狭いワンルームの奥まで届いていた。途切れなく続く細かな雨音は、時折こぼれ落ちる女の喘ぎに紛れていく。馬乗りになった女のじれったい動きに業を煮やして身を起こしたジプソは、そのまま覆い被さるように伸し掛かった。深く奥まで入り込んで低くうめく。ふと顔をあげた瞬間、金色の瞳と目が合った。腹のあたりがすうっとして、全身に浮いた汗がざっと引いていく。
「あ、すまん」
玄関を背に、カラスバがポツリと言った。乾いた砂がこぼれ落ちるような声だった。一瞬遅れて気づいた女が短い悲鳴をあげる。手元にあったブランケットを投げてやりながら、考えるより先に舌打ちがこぼれた。
「出ていけ」
吐き捨てる。カラスバの目が吊り上がった。
「女連れ込むんやったら鍵くらい閉めとけボケ!」
玄関のドアが乱暴に叩きつけられる音が響く。それがやけに耳に残った。
女はすぐに気を取り直して続きをせがんできたが、集中しきれないのはジプソの方だった。雨の日には前触れなくやって来るが、いつも陽が落ちてからだとばかり思っていた。その日、カラスバが二度現れることはなく、しばらく顔を見せないかもしれない、と腹の底がざらつくような後味が残った。
だが、そんな想像はあっさりと裏切られ、カラスバは何も変わらない顔でこの部屋にいる。普段から飄々として何を考えているのか掴めない男ではあるが、これだけ当たり前のように入り込んできておいて、ジプソの私的な部分にはまるで関心がないらしい。
あの日覚えたざらつきは消えないままだ。カラスバの顔を見るたび、玄関先で立ち尽くす姿が脳裏を過ぎり、後味悪く胸が冷える。こぼれそうになった舌打ちをやり過ごし、ジプソは奥の壁へ向かってカラスバの身体を転がした。んぅ、と洩れた低いうなり声はどこか不満げで、ざまぁみろと思わず唇の端が緩む。
空いたスペースに身体を割り込ませると、ぎしりとマットレスが軋み、体重の分だけ沈んだ。静かな寝息が耳に届く。ジプソに合わせた大きめのマットレスでも、折り重なるように身体が触れた。女の柔らかさとは違う、薄くごつごつと骨張った感触。寝入り端の体温は思いのほか高く、触れ合う肌の境目が曖昧になった。
ゆらりと腹の底で揺らめくものがあった。これまでとは違う熱を孕んだそれに、なぜか喉が鳴る。綺麗に弧を描く薄い瞼が目に入った。金色の瞳が覆い隠されている今は、妙に静かで無防備だ。吸い寄せられるように見入っていると、いつもより幼い眉間にぐっと皺が寄った。
カラスバの瞼がゆるく持ち上がる。天井から吊り下げた照明はジプソの身体に遮られて影を作っていた。淡くにじむ金色の瞳は潤みを帯びて、ぼんやりとこちらを見ている。
「
……
ジプソ?」
眠気が纏わりつくような響きはどこか舌っ足らずだ。あぁ、と応える声がわずかに上擦った。寝ぼけているのだろう。普段は憎まれ口ばかりのカラスバの安心しきった様子に、頬がじわりと熱を持つ。
「
……
まだ起きてるん
……
」
カラスバの、閉じかけていた瞼がゆっくりと落ちていく。擦り寄るようにもぞもぞと身じろいで、寝巻き代わりの古びたシャツの胸元に額が押しつけられた。温い呼気が触れる。かかっていた黒髪がぱらりと落ちて、白い頬が顕わになった。覗くカラスバの唇の端が、ふとゆるむ。
「オマエ温いなぁ
……
」
胸の奥深く、やわらかな場所を何かが刺し貫いた。カラスバが触れて生まれた痺れはゆっくりと内側へ満ちていき、身勝手な衝動へと姿を変えてゆく。正体に確信はない。ただ、これ以上踏み込めば戻れないと分かっていた。今すぐカラスバから離れるべきだ。激しい雨音は絶え間なく屋根を叩き、この部屋と世界を切り離していく。
「こないだの
……
」
眠気の分だけ甘さを帯びた声が、そろりと落ちる。
「
……
オマエ、女抱くとき、あんな顔するんやな」
カラスバがあの時のことを話している。ふいうちだ。カッと頬に血がのぼる。今まで知らん顔してたじゃねえか。カラスバが、吐く息でかすかに笑うのが聞こえた。
「
……
なんや、変な気分なるわ」
寒気のような何かが背骨を震わせた。鳥肌が立つ。はっきりと覚えのある欲。胸を掻きむしるような焦燥が腹の底へ流れ込み、思わず奥歯を噛み締めた。
一気に呼吸が狭まり、まずい、と明確に思った時には、カラスバに馬乗りになり、両腕を掴んでマットレスに押さえつけていた。目を覚ましたカラスバの、まるく見開かれた瞳が隙だらけだ。ざまぁみろ。もう一度思った。
シーツのうえに散る黒髪。手に余るほど細い腕。己の荒い息が耳についた。見上げてくる金色がかすかに揺れている。あの強かで、抜け目ないカラスバが。ミアレいち自由に街を駆け回る男が、こんなところでろくでもない男に傷つけられようとしている。打ちのめされ、這いずって、それでも立ち上がるその強さをジプソはよく知っていた。ここでまた、奪われる。ジプソのせいで。
——
ざまぁみろ、と、今度は思えなかった。そんなこと、あって良いはずがない。
ぽつりと落ちたどす黒い染みが、ジプソの内側を塗りつぶしていくようだった。カラスバの年頃を思えば、セックスに興味がないほうがおかしい。都合の良い解釈に舞い上がって、ガキを捌け口にするなんて有り得ない。頭を振り、腹の底で蠢く熱を意識から切り離そうとする。知らず握りしめていたカラスバの手首は色を失ってしろく見え、おそろしくなってぱっと手を離した。だが、
「ジプソ」
そろりと腕に掛かった手の重みがジプソの動きを止める。カラスバは、マットレスに寝転んだまま、ぼんやりとジプソを見上げていた。ちいさく開かれた口は、何かを言おうとしてまた閉ざされる。伏せられた瞼の影が金色の瞳を隠し、その感情を曖昧にした。それでも、ジプソの腕にかかる手にはわずかに、だがはっきりと力がこもる。まるで、引き留めるように。どっと全身から汗が噴き出した。
ああ、もうどうにでもなれ。ちいさな身体を押し潰すように抱き竦め、カラスバの薄い唇に噛みつく。きつく掴まれた肩に細い指が食い込んで、まるで許しだと言い訳のように思った。
「ジプソ?」
軽く眉を寄せたカラスバが、ジプソの顔を覗き込んでいる。黒縁のレンズの奥で、金色の瞳が不思議そうに瞬いた。案じるように腕に添えられた骨張った手が、自然とあの夜を思い出させる。ぎくりとして、慌てて振り払った。
過剰な反応に頬が熱くなる。ここは雨の日の屋根裏部屋ではない。夜が明けたばかりの石畳の路地裏に、ようやく淡い光が射し込んでくる。カラスバの背に落ちる陽はまぶしく、ジプソは目を細めた。どこかでヤヤコマの鳴き声がする。
「なんか変やでオマエ。気分悪いんやったら早よ家帰り」
カラスバは肩をすくめ、振り払われた手で眼鏡の位置を直している。傍若無人に振る舞うくせ、ジプソのようなならず者にもお節介なカラスバ。服装はすっかり変わっていても、中身は相変わらずのようだ。
気がつけば、腹の底でふつふつと湧いていた苛立ちは煙のように立ち消えていた。かわりに、カラスバへの女々しい問いが脳裏に浮かんでは消える。なぜ、姿を消した。おれのせいなのか。クソみたいなプライドが邪魔して、それを口にするほど開き直る事もできない。酔いと生ぬるい後悔が口のなかを苦くした。
もう言葉は何も浮かばず、考えるのも面倒になって目の前の頼りない身体へ縋るように腕を回す。骨の華奢さがよくわかる、ジプソよりすこし体温の低い身体。すん、と鼻を鳴らせば、冷えた朝の空気と植物めいた青さが香った。そのまま引き寄せて抱き込むと、すんなりと腕のなかに収まる。逃げないのか。胸の奥が痺れるような熱を帯びる。足元で、ぎ、とフシデの鳴き声が尖るのが分かったが、聞こえない振りをした。
「どうした? 腹でも痛いんか」
無遠慮な両手が、頬を挟み込む。子どもじみた強引さでぐいと頭を掴んで引き寄せられ、慌てて背を屈めた。ひやりとして心地よい温度。だが、すべてを見透かすような静かな瞳に耐えられない。顔を背けようとするが、頬に添えられた手の意外な強さが邪魔をする。
カラスバの顔が近い。頬に息が触れた。眼鏡をしていてもなぜか変わらない距離。まだ懲りてないんじゃねえだろうな。眉を顰めて視線をあげる。こちらを覗き込む瞳と、正面からばちりとぶつかった。
——
いや、近すぎないか?
身体を重ねたあと、知らず相手との距離が近くなることにはジプソも覚えがあった。勢いで触れ合っただけの自分たちにこの距離は正しくない。慌てて身を引こうとする。
目の前で、ふ、とカラスバの瞳が隠れた。伏せられた瞼の先、生え揃った睫毛の健気さに、一瞬、目を奪われる。つるりとした頬にはヒゲを剃った跡すらない。ひと晩遊び歩き、脂じみて無精髭が生えたジプソとはまるで違う。その頬に触れられている羞恥で胸がざわついた。ひどく喉が渇く。あの夜、ジプソの下で、汗ばんだ身体を強張らせ、声を押し殺していたカラスバ。熱っぽく融けた金いろが脳裏を過ぎる。
ジプソは動けなかった。触れれば際限がなくなることも、自分にその権利がないことも分かっていた。それでも、ふたりの間に残された身動ぎひとつぶんの距離を埋めたのは、カラスバのほうだった。
ふ、と唇が柔らかく押し当てられる。鼻が触れるほどの親密な距離で、呆然と開かれたジプソの唇の端をぺろりと舐める仕草はどこか子どもじみている。隙をつくように捩じ込まれた薄い舌がぬるりと粘膜を撫でると、耳がざわつき、背筋を這い上がるような痺れが走る。
慣れているとまではいかなくても、それなりの経験があることをあの夜に知った。ジプソと同じように真っ当な生き方を許されなければそういうこともあるだろう。ようやく喉仏が目立ち始めたカラスバを見ながら、かすかな痛々しさとともに自分を納得させたはずだ。だが、今改めて腹の底をじっとりと炙るのは、おれよりも先にこの男に触れたやつがいるという事実だった。
腰を抱き寄せて引き上げると足が浮く。バランスを崩しかけたカラスバが、ジプソの首にしがみついた。首の後ろを支えて押さえこみ、逃げ道を奪うように口を塞ぐ。分厚い舌をひたりと這わせ、探り当てた舌先を吸った。ねっとりと粘つく唾液をかき混ぜると、カラスバの腕に縋るような力が籠もる。その身体を腕のなかに閉じ込めた今、カラスバは、たしかにジプソのものだった。
滑り落ちそうになったカラスバの脚が、ジプソの厚い胴に巻きつく。離れまいとする仕草は幼気で、単純な男を思い上がらせた。腰に回した手で身体を支えたまま、親指でスラックス越しの尾骨を強く擦ると、重なった唇の隙間からくぐもった声が洩れる。腹のあたりに押しつけられた中心はすでにかたく萌していて、腹の底から浮き立つような高揚がこみ上げた。こいつをおれのものにしたい。みぞおちを突き上げる焦燥に鳥肌が立つ。首を支えていた手で耳朶をいじり、窪みに指を潜り込ませると、びくりと震える素直な反応が返ってつい頬が緩む。尻の薄い肉に指を沈めて揉みしだき、眼鏡がぶつかるのも構わずさらに深く口づけようとして、
——
灼けつくような鋭い痛みが脛を駆け上がった。
「
……
痛え!!」
カラスバを抱えていた手から力が抜ける。足元に視線を落とすと、触覚を高く掲げたちいさなフシデが、こちらを見て勝ち誇ったように鳴いた。突然腕のなかから失われた体温に呆然とする。我に返る間もなく、カラスバにどんと胸を突き飛ばされた。
「ここどこやと思てるねん、アホ!」
カラスバは眦を吊り上げてジプソを睨みつける。だが、金色の瞳は薄い膜を張ったように潤み、瞼のふちはほの赤く色づいていた。ジプソの喉がごくりと鳴る。自分の足元で、靴底が石畳を擦る音がする。
「見境ないんかオマエ。オレまで街歩けへんようになるわ」
カラスバは距離を取るように一歩後退り、外した眼鏡をジャケットの裾で拭いている。足元のフシデを見下ろして表情を緩め、おおきにな、と声を掛けた。捕まえたと思った、その瞬間に逃げられた気分だ。内側でじりじりと何かが焦げつく音がする。
「
……
どういうつもりだ」
フシデを見つめる横顔から目が離せない。表情のごくわずかな変化すら見落とすわけには行かなかった。こいつが何を考えているのか、知らなきゃいけない。
だが、カラスバは眉を寄せて黙り込んだ。どんな時でも息をするように減らず口を叩く男が、珍しく言葉を探すような素振りを見せる。こちらを見て唇を引き結び、視線を外して軽く首を傾けた。
「
……
前にもしたやん。いっぺんしたら同じやろ」
「はぁ?」
なんて言い様だ。誰に見られるともしれない場所であんなキスを仕掛けてきたなら、それは勿論そういう事だと思うだろうが。気づかぬうちに人の懐深く入り込んできておいて、こんなにも無自覚にジプソの独りよがりな期待を踏み躙ってゆく。とんでもない性悪だ。握りしめた拳の内側がやけに汗ばむ。
「お前の女は、お前がよそで他のやつとキスしてても気にしねえのか」
「オレの女やないって言うてるやん」
「一緒に寝て、ヤッてんだろ」
「
……
オマエもそうやったやろ」
ぼそりと吐かれた言葉は容赦なくジプソの急所を射抜いた。息を吸い込んだ喉が震える。目の前がまっくらになりそうだ。石畳を踏む足にぐっと力を込める。
今、ようやく腑に落ちた。カラスバは、誤魔化そうとしていたわけでも、嘘をつこうとしたわけでもない。わずかなやり取りを目にした傍観者ですら、あの女がカラスバに傾ける想いの深さを察したと言うのに、当人は悪気なくオレの女じゃないなんて言ってのける。
感謝や好意はあるだろう。何よりカラスバは、受けた恩を忘れるような人間ではない。だが、それだけなのだ。恩人は恩人。カラスバにとってのたったひとりにはなれない。
きついな、と思った。胸郭を押し上げるような重苦しさを、深い息でゆっくりと吐き出す。あの女はジプソ自身だ。少し触れることを許されたぐらいで近づけたと思い込むなんて、勝手な妄想に過ぎなかった。だが、ただひとつ。特別な意味などないと言うなら、なぜカラスバは姿を消したのか。
「なぁ、カラスバ」
息を吸い、ジプソは口を開いた。
「なんで、おれの家に来なくなった」
「
……
」
カラスバの頬が強張った。それは、見ているジプソがぎくりとするような変化でもあった。何かを言おうと開きかけた口からは何も紡がれることなく、定まらない視線が宙に浮く。動揺など滅多に見せない男の、余裕のない表情。何か、理由があるのか。気づけば奥歯を噛み締めていた。この答えだけは、絶対に聞き逃すわけにいかない。
カラスバは、ふと腰を下ろして足元のフシデを抱き上げた。甲殻を撫でながら、ゆっくりと瞬きをする。
「オマエの家には行きたない」
きっぱりと告げられた言葉に、みぞおちがずしりと重くなる。だが、引っ掛かったのはその内容よりも、カラスバが唐突に見せた頑なさのほうだった。詐欺師まがいによく回る舌で、いつものように躱してくれれば良いものを。ジプソが無言でじっと見つめると、カラスバは、フシデを抱き締めたまま引き結んだ唇を解き、ちいさくため息をこぼした。
「他人のセックス覗く趣味ないねん。オマエのヤッてるとことか、頼まれても見たない」
「
……
」
言葉が出なかった。何を今さら、と思った。カラスバの言葉が指しているのは例の雨の日のことだろうが、あのあとも何度か、何事もなかったような顔でジプソの屋根裏部屋を出入りしていたはずだ。
——
まさか、嫉妬か? ふと浮かんだ考えに鼓動が跳ねる。だが、さすがに都合が良すぎるとすぐに打ち消した。カラスバが何を考えているのか分からない。年頃ゆえの潔癖さなのか、それとも言葉にされない何かがあるのか。
だが、そもそもカラスバの考えを理解できるなんて思ったこともない。
「もう誰も来ねえよ」
「嘘や。オマエ、何人もオンナおるやん」
「お前が嫌なら誰も入れねえ。それに、」
そこで不自然に言葉を切ったのは、その続きを口にするのに覚悟が必要だったからだ。男との経験がないカラスバとは深くつながることもできず、ただ触れ合っただけだ。それなのに、あの夜も、さっきのキスだって、正直どんな女を抱くより鮮烈だった。自らそれを手放すような真似ができるのか。
躊躇いは、どこか不安げにも見えるカラスバの顔を見て、掻き消えた。ジプソは、自分にできる限りいちばんやさしい声を出そうとした。柄にもない必死さを滑稽に思う余裕すらない。
「お前には手を出さない。安心していい」
「
……
」
フシデを撫でていたカラスバの手がふと止まる。金色の瞳は感情を映さず、磨かれた鉱石めいてジプソを見つめる。その喉がちいさく鳴った。
沈黙は、ほそく伸び続ける糸のようだった。急く気持ちを何度もやり過ごす。カラスバが深く息をこぼした。長く胸の内に溜め込んでいたものを吐き出すような、力の抜けた息だった。唇の端がかすかに歪む。
「
……
まぁ、そんなに言うんやったら考えといたるわ」
同じとこにずっと世話になるのも迷惑やろし。カラスバが歯切れ悪くつぶやくのを聞いて、詰めていた息が解けた。みぞおちの重さがやわらぐ。普段なら引っ掛かる生意気な言い回しも、今は不思議と腹が立たない。口許がつい緩みそうになるのを、頬の内側を噛んで堪えた。
「待ってるからな」
おいうちのように言うと、カラスバは露骨に眉を顰めた。頭でも打ったんかオマエ、と容赦のない悪態を吐くが、その横顔はどこか居心地が悪そうでもある。いつまでも涼しい顔をしていられると思うなよ。顔には出さずに心のなかでつぶやいた。
「もう行かな」
ぽつりと言って背を向けたカラスバは、ひらりと一度だけ肩越しに手を振り、遠ざかっていく。後を追うちいさなフシデだけが途中で振り返り、ジプソに向かって、まるですてぜりふのように一度だけ鳴いた。
ふ、と詰めていた息を吐き出した。冷えた朝の空気が肌を撫でる。石畳を照らす白い陽の光が眩しい。建物の壁を横切る影をふと見上げると、屋上を駆けていくデデンネの姿がちらりとのぞく。そうしているうち、カラスバの背は、路地の角を折れて見えなくなってしまった。
まっすぐに覗き込んできた瞳の金いろと、首にしがみつく腕の頼りない重み、触れ合う体温の生々しさ。言葉を失って立ち尽くし、年相応の戸惑いを滲ませた横顔が脳裏を過ぎる。
息が洩れ、唇の端が持ち上がった。焦燥がジプソの内側を掻きむしる。「いっぺんしたら同じやろ」などと、よくもあんなことを言えたものだ。無自覚で迂闊なカラスバは、どれだけのものをジプソに植えつけたのか、まるで気づいていない。
金属の軋む音にふと顔を上げると、ちょうど目の前の建物から住人が出てきたところだった。リュックを背負った学生ふうの男は大きな欠伸をひとつ、そこで路地裏に立つ男に気づいてわずかに足を止めた。ジプソは何事もなかったかのように踵を返し、大通りへと歩き始める。その途中で、ふと脇の建物を見上げた。カラスバが出てきたアパルトマンだ。胸の内の熾火は油を注がれたように勢いを増す。
考えといたるわ、とカラスバは言ったが、どれだけ当てになるものかは怪しいものだ。気の向くままに振る舞う男が、大人しくジプソの手元に収まるとは思えない。
ただ、分かったこともある。ここ数ヶ月顔を合わせることがなかったのは、今のカラスバが昼間の仕事をしているからだ。ジプソの屋根裏部屋にやってきていた時だって、それ以外の時間にどこで何をしているかは知らされなかったし、ジプソ自身尋ねようともしなかった。知っていることは、いつだったかふとカラスバが口にした、ジョウト地方の生まれだと言うこと。幼いうちに親を亡くして、その後転々と居場所を移しながらミアレに流れ着き、受け入れてくれたこの街に大きな恩を感じていること、それだけだ。
腹の底をじっとりと炙る熱がジプソを急かす。このいびつで強い衝動を、恋と呼ぶ気にはなれなかった。これほど何かを欲しいと思ったことはない。何かを求めれば遠ざかり、固執しても良いことはなかった。力づくで奪い取ることはあっても、最低限の寝床と食料、信頼できる仲間がいれば十分だと思って生きてきた。
塗り替えられた世界が濁流のようにジプソの内側へ流れ込んでくる。あの女のほかにもそういう相手がいるのか。ジプソの知らない所で、何をして、誰と出会い、そして何を思うのか。あの金色の瞳にこの街はどう映っているのか。おれは、まだあいつのことを何も知らない。
すべては変わってしまった。どうすれば何も考えずカラスバと過ごしていたあの屋根裏部屋に戻れるのか、ジプソにはもう分からない。
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