ゆい
2026-07-10 22:07:32
6137文字
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【宗みか】なれのほし

夢ノ咲、七夕祭後にみかちゃんとなるちゃんが会話してるだけの話です。
宗みかですが、しゅうくんは一切出てきません。



……みかちゃん、眠い?無理はしないで、先に帰ってくれても良いのよ?」

 西日に縋る蝉達の悲鳴の中から、不意に聞き知った音が届く。殆ど液体と化していた意識が、それを声だと認識した途端に波打って、ぐるりと世界が反転した。覚醒と同時に右往左往を始めた五感があらゆる情報を無闇矢鱈に拾うものだから、瞬きの度に目の前のなるちゃんが波打ち際のように揺らいでいく。温い風の抜ける教室は既に隅々まで赤く、おれ達以外の人気は無い。運動場の方からスタートを告げるピストルの音が派手に鳴り、花火のような余韻を響かせながら満ちては引いて消えていく。一つの机を前後に挟んで向き合った互いの輪郭すら茜に負けて定まらず、ただ頬杖にかまけた両肘や顎の痛みばかりが鮮明だった。

……あっ、えと、……ごめんなぁ、ちょっとぼんやりしとっただけ。心配せんでえぇよ」
「心配くらいさせてちょうだい。みかちゃんったら、何度呼んだってちっとも反応してくれないんだもの」

 久しぶりに聞いた自分の声は、熱気から逃げ遅れた蚯蚓みたいに乾涸びていた。反対に、呆れたようにも怒ったようにも響くなるちゃんの声は生命力に滴って、聞いているだけで丸めた背筋も伸びそうになった。匂い立つ明朗さにつられて、おれも薄紙を一枚ずつ破くように重たい睫毛を何度か弾く。徐々にクリアになっていく世界の真ん中、一番初めに価値を取り戻したのは水面の青を孕んだ紫色だった。いつも余裕を忘れない切れ長の双眸が、今日は珍しく色褪せて馬鹿なおれを嘘偽り無く歪ませている。形良く整えられた筈の眉毛をきゅっと寄せて、物言いたげな唇を小さく噤んだ表情は物憂げなのに鮮やかで、まるで氷菓みたいだとこっそり思う。日誌を書く手を止めて気に掛けてくれるところも、深刻になり過ぎないよう語尾で茶化してくれるところも、お節介なふりをした真摯さが惚けたばかりの目には少し眩しい。そうやって貰った返事の咀嚼もろくにせず、正しさに見惚れてばかりのおれへまた遠くで号砲が鳴る。残響の棚引きに合わせてなるちゃんは軽く顎を引き、嫌味にならない程度の湿っぽさで息を吐く。

「七夕祭が終わってまだ一週間も経ってないものね。疲れているのに付き合わせちゃってごめんなさい」
「わっ、あかんよなるちゃんっ、なるちゃんは何にも悪くないって!第一、一緒に帰ろって誘ったのおれやん!」

 悲しげに伏せられた睫毛にざあっと血の気が引き、からからの喉が痛むのも構わずに声を張る。頬を手放した両手で控え目な語尾を蹴散らすように机の端に軽く触れたつもりが、想像よりずっと派手な破裂音が鳴って鈍い痛みが掌に刺さった。みっともなく捩れ上擦った反論を真正面から浴びたせいか、しおらしかった瞳がくるりと丸く襤褸を出す。菫色に澄んだ瞳の奥には、その美しさと不釣り合いな情けなさで眉尻と口端を下げた阿呆面がこれでもかと恥も外聞も無く映っている。校舎のどこかで今度は笑い声のような破裂音がして、束の間落ちたおれ達の沈黙をより一層引き立てていく。口を噤んだり挟んだり節操の無いおれを長い睫毛で窘めるように、なるちゃんは見開いた目蓋のまま一度大きく瞬きをする。その無意識にどれ程の感情が擦れ違ったかなんて考えない。無鉄砲なくせに深読みしがちな思考の癖は歴とした生まれつきで、お師さんの躾を受けても大して治らなかった。先走ってぬか喜んだいくつもの醜態が呼んでもないのに脳裏を鮮明に過ぎるけど、同じことをされて確かに傷付いたいつかを思い出して、何一つ茶化さずまた無様を晒す。誤解されるのは勿論嫌だ。でも、どうでも良くない人に畏避されるのはもっと嫌い。気のせいか鉄の匂いのする唾液を出処を探す当ても無く飲み干して、気まずさも胃まで一緒に落としてやる。諦観も落胆ももう沢山。だけど、出し惜しんだ言葉に溺死するくらいなら、おれは一生節穴で良い。
 これ以上耳を澄ませば秒針の嗤い声まで聞こえてしまいそうな夕暮れの中、口火を切ったは良いが二の句の継ぎ方が分からない。そういえばこういう短慮なところも改めろって、お師さんに言われていたっけ。どうにかするべきところばかりで、もうすぐおれがおれじゃなくなっちゃいそう。忌々しげに吐かれた溜息の質感まで思い出しつつ、引き下がるタイミングに迷っていると、不意に紫が淡く揺らいで綺麗な三日月へと化ける。

「ありがとう、みかちゃん。アタシも誘ってもらえて嬉しかったわ」
……今日はいつまででも待てるから、ゆっくりじっくり書いてや」
「椚先生以外の授業でそこまで書くこと無いわよ」

 数十秒前までの緊迫を吹き飛ばすようになるちゃんは笑い、つられて机もばたばたと鳴る。朗らかな声に紛れてさりげなく差し出された左手に促されて、おれもようやく立ち往生から抜け出せた。まだじんわりと痛む掌を閉じたり開いたり誤魔化しながら、膝の上へときちんと戻す。おれの体たらくを見届けてくれたなるちゃんは満足気にまた笑い、ペン先を御機嫌に鳴らして空白を埋めていく。綺麗な旋毛をさらさらと流れる髪の毛が止め跳ねの度に隠して、茜色の陰影をいくつも生み出しては消えていく。よく見れば日誌も残すは感想だけで、体育が何時限目だったか尋ねられた頃と比べても随分と黒が増えていた。六時間目まできちんと埋まるくらいの時間を、自分がしっかりぼんやりしていたことに今更驚きながら、澱み無く生まれる文字列を眺めていく。普段であれば部室に篭もるかさっさとお師さんのお家に帰っている時間帯の教室は広々と寂しげで、身動ぎの度に椅子が軋む音すら耳障りだった。何となく息継ぎすら軽く憚って黙るおれへと向けて、なるちゃんは紙面から顔は上げずに話し出す。

「結局、『お師さん』さんは今日もお休みだったの?少しは調子戻った?」
「あと二日は休むんやないかな。でも、朝はちょっとやけどパンも食べてくれたし、元気にはなってきとるよ」
「それは一安心ね。だけど、みかちゃんだってしっかり身体を休ませないと駄目よ。七夕祭では散々無茶してたでしょ」
「あれくらい無茶とは言わんよ、ばっちりメンテナンスもしてもらったし」

 優しいけれど見当違いな心配に思わず語尾が滲めば、ぴたりと手を止めてなるちゃんが眼差しだけでおれを仰ぐ。滑らかな頬がちょっとだけ膨れて、唇もギリギリ気付かないくらい尖ったけれど、結局どちらも小言まで漏らすことは無い。こういう時の引き際とか余白の潔さを、おれだって見習いたいとは思っている。思ってはいても現実はさっぱり覚束無くて、比べることすら恥ずかしいくらいの出来だった。今日だって自分から張り合ったくせに上手い表情すら作れず、曖昧で情けなく眉を下げるばかりのおれをなるちゃんは数秒上目で睨み、やがて諦めたように視線を切る。ついでにやっとペースが出てきたペンもからりと手放して、さっきのおれみたいに両手で頬を支えてしまう。日誌はもう書き終わったのだろうか。まだ数行残っている気もしたけれど、ちょうど肘に遮られて句読点の有無が分からない。為す術無く狼狽え続けるおれの視線も段々重力に負けて、ちょっと拗ねたようななるちゃんの声を聞く頃にはついに爪先まで伸びてしまう。

「みかちゃんってばいつもそう。自己犠牲も程々にしないと、流石のアタシも怒るわよ」
「んあっ、それは堪忍してやぁ……。次のライブはまだ決まってへんし、暫くは大人しくしとるつもりやから」
「聞いたわよ?約束よ?ライブが素敵だったのは認めるけど、アイドルは身体が資本なんだからね」
……七夕祭、観てくれたんや。格好悪い結果で恥ずかしいわぁ」
「謙遜しないの。配信観ただけでも凄さは伝わってきたわよ。アタシ、特に二人の衣装が好きだったわぁ」

 無邪気に夢見てくれる声につられて思わず顔を上げれば、うっとりと目を閉じてあの夜を思い出すなるちゃんがいた。お師さんの衣装が褒められるのは素直に嬉しい。お師さんが作るものは一切の差別無く、最高だから。だけど、今日は何故か褒められた分だけ小石のような後悔がおれの胸を重くしていく。知らず立てた爪先が制服越しでも痛みを生み出し、それがまた悪足掻きみたいで嫌だった。あの夜のお師さんは最強だった。誰がどう見ても本当に最高だったのに、どうしておれはお師さんを一番星まで導けなかったのだろう。
 今になって思い返せば、初めからあの舞台におれ達の勝機なんて一つも無かった。ルールもお客さんも場の空気すら、おれ達の方を向いていないことは声を張り上げる前から分かっていたし、失望も諦観も最近のおれには慣れっこだった。お師さんを蔑ろにしてからもうすぐ一年を迎えるこの学園では、芸術なんてとっくの昔に息絶えていた。ありふれたフレーズとステップを適当に並び替えて、浅い流行に迎合した奴から順に持て囃されるような世界では、創作の息衝くような余白は生まれない。返せ、そこはお師さんの独壇場だ。おれがいくら喚いても群衆は新しくも分かりやすい輝きに夢中で、一度でも傷物になった美しさにはもう見向きもしなかった。誰も彼もが愚かで最悪だと思う。お師さんを貶めた星紛いを性懲りも無く仰ぐ観客も、成り代わりに必死でおれ達を見縊ったまま愛だの希望だのと歌うアイドル達も。この世界に真に完璧な偶像はたった一人だけ。有象無象がいくら星だと自惚れたって、お師さんの前じゃ揃って真昼の鉄屑以下だ。だから、今日の七夕祭だっていつも通りValkyrieは不参加だと、おれは勝手に信じていた。だって、少しずつ元気になってきたとは言っても、おれ達はまだまだ本調子から程遠くて。お師さんは、おれがどれだけライブを望んでも、頑として首を縦に振らなかった。おれがいくら再興を焦っても、万全になるまではと一切の特別を認めなかった。お師さんについていくことがおれの幸せだから、逸る心を何度も押し殺しては地下でも場末でも窶れた背中を追いかけていた。でも、今回だけは。病み上がりでも急拵えでも、お師さんは表舞台に立つことを選んだ。それは、確かにあの日からおれがずっと夢見ていた景色だった。目を焼く程に熱い照明の下で、翻る度に存在感を増す臙脂色が目蓋の裏でまだ生き生きと咲いている。生地や光沢にまで拘った天の川のような装飾がお師さんに恭しく傅く様を、今も絵画のように覚えている。なるちゃんも褒めてくれた衣装はお師さんが寝食を惜しんで仕立て上げたとびきりで、袖を通した時の興奮は未だに冷めない。青や白を多用した衣装の中、重く血の通った赤色は、きっと流星のように人々の心を揺らしたことだろう。そして、花のように星のように輝きを零し、その他大勢の影なんてステップ一つで蹴散らしていく姿は、おれがかつて殉じると決めた憧れのままで。お師さんは衣装もパフォーマンスも中途半端だと忌々しげだったけれど、おれはまた一緒に広く明るいステージに立てただけで嬉しかった。——そう、心底嬉しかったはず、なのに。

「みかちゃん?随分と顔色悪いわよ?」

 未熟なまま黙り込むおれをなるちゃんが呼んでいる。なるべくぎこちなくならないように気を付けて、さっきよりもゆっくりと顔を上げれば、きょとんと傾げられた小首の白さが抉じ開けた目に痛かった。お師さんによく似た紫の瞳が、お師さんには有り得ない軽やかさでぱちりとおれを弾く。いつの間にきつく閉じていた目蓋が今更になってやけに重い。なるちゃんも、おれじゃない種火で燃え広がったお師さんを見た。誰も何も悪くないのに、何故だか鼻の奥が強く痛む。

……何も問題無いよ。おれも七夕祭を思い出して落ち込んどっただけ」
「落ち込む?そんなお肌に悪いことすぐに止めなさいよ」
「確かにそうやねぇ…………でも。本当は、……おれが、お師さんを勝たせてあげたかった」
……まぁ。やっぱりみかちゃんも男の子ね」

 揶揄うでも甘やかすでもなく、ただ少しだけ呆れを滲ませた声でなるちゃんはおれを窘めてくれる。急に頬の内側が痒い気がしてきて、寒くもないのに唇が勝手に震えた。なるちゃんはいつだって優しくて、気配りも上手ければ頭も良い。なるちゃんだけじゃ無くて、本当はおれの周りに酷い人も意地悪な人も居ないのだろう。自分の力不足から目を逸らして憎むべき相手を四方八方に探してしまうおれこそが、きっと一番嫌な奴だ。おれの主語はお師さんだけど、お師さんにまでおればかりを強要するのはおかしい。目を閉じなくなって、全部きちんと理解している。こんなおれじゃあ、お師さんの炎を分けてもらいたいと願うことすら烏滸がましい。
 ぶり返す痛みが先程よりも強まって目頭まで上がってきそうだから、これ以上のだらしなさを覆い隠すようにぺたりと机へ顔を伏せる。強く押し付けたおでこと鼻筋がこの後きっと赤く傷むのも構わずに、木目が霞む程の距離できつく目を閉じ直せば、睫毛が窮屈そうに机と擦れる音がする。起きたり寝たりと落ち着きの無いおれにもなるちゃんは何も言わず、ただ吐息のように小さく笑う。その余韻が言える前に、投げ出した旋毛の辺りに殆ど重さを感じさせない掌が乗った。そのまま、仄温かい指先がワルツのみたいに優しくおれを叩くから、また少し隠した眉間に力を込める。

「次は二人で勝つ姿を見せてね」
……おれで良ぇのかな。お師さんはおれと勝ってくれるやろか」
「あの人には、みかちゃん以外いないでしょ。それに、舞台に上がればおれ達が世界なんだって、前に教えてくれたじゃない」

 ——でも、おれは。どんなに願ったってお師さんの一番星になんてなれないもん。今にも舌先から転げ落ちそうな本音を寸でのところで飲み込んで、なるちゃんの冷たくて耳障りの良い声に集中するフリをする。耳先や頬ははしたない程に熱いのに、直に触れている筈の机の冷たさや硬さはまるで分からない。一気に暗くなった脳裏を埋めるように、あの夜拾った全ての輝きがちかちかと瞬いて、ちっぽけなおれを嗤っている。お師さんは強くてしぶとくてしたたかなおひとやから、理由と信念すら用意出来れば一人でだって燃えていける。その火にあてられてばかりのおれは、お師さんが手を伸ばしたいと思える相手が見つかるまでの時間稼ぎでしか無い。炎に焦がれた羽虫の運命なんて、火を見るよりも明らかなのに。ただ燃え上がる過程を彩るだけの薪や黒炭の分際で、星を夢見てしまったおれが心底馬鹿に違いない。
 遠い茜の向こうから人々の日常が小雨のように役立たずのおれの耳まで届く。髪の流れに沿って丁寧に撫で続けてくれる指先みたいに、おれもお師さんの平穏を祈るだけの生き物だったら良かったのに。挫折と屈辱を糧に、呪いと怒りを吐きながら命を燃やす貴方こそ世界で一番美しいと思い詰めるおれなんて、やっぱり理由には向いていない。もう何度目かも分からない気付きを得て、また強く暗闇に目を瞑る。流れる価値すら無い光を誰にもばれないよう目蓋の裏に閉じ込めながら、おれは成れもしない星をいつまでも思い出していた。