遊音。(ゆね)
2026-07-10 21:49:41
4528文字
Public 記憶喪失
 

さいごのしっと。


同棲しているtgkbです。「かりそめ。」のその後の話なので読後推奨です。
ある夜の出来事。



 カバキは今、人生でも1,2を争うほどの真剣さで全身の筋肉の力を込めている――なぜなら、7階のベランダから身を乗り上げてトガシが飛び降りようとしているからだ。
「何、考えてんですか、トガシさんッ……! 死にますよッ!」
 トガシの体に腕を回して必死で止めるが、トガシは本気のようでまったく動かない。そろそろ寝静まる人も多い時間帯、隣の部屋の人に気づかれるかもしれないが、そんなことに気を配っていられないほど、全神経を集中させた。
「記憶消してくるから、離して」
「記憶どころか存在が消えますって……!」
 お互いアスリート、筋力差が拮抗している分なかなか譲らないが、カバキの方の真剣さが勝った。一瞬、トガシの手がベランダの手すりから離れたのを見逃さなかった。カバキは腕の血管が浮き上がるほどに全身に力を入れて、掴んでいたトガシの腰を引っ張り、全身全霊を込めてトガシの体をベランダから引き離した。そのままの勢いで開けっ放しの窓にむけて、部屋の中までトガシの体を投げ込んだ。どっと汗が噴き出てきて、カバキは荒い息を吐き続ける。
「何、考えてんですかっ!」
 部屋の中に投げ込まれたトガシは、緩慢な動作で身体を起こすと両手を後ろ手について床に座ったまま、不満げな顔で俯いた。


 ほんの10分ほど前のこと――何がきっかけか忘れたが、珍しく喧嘩になった。その日のトガシはなんだか上の空で、話しかけてもまともに返事をしないし、頼んだことも生返事でろくに対応しなかった。多少気になったが、こんなことで怒ったところで仕方ないので、注意を向けさせようとカバキがわざとキスを強請ってもぼんやりしていたので、苛立ってしまったカバキがつい言ってしまったのだ。
『記憶がなかったときのトガシさんのほうが、もっとスマートだったし、やっぱカッコよかったですね』と――それを聞いたトガシは顔がすっと真顔になったかと思うと、突然ベランダに向かった。
 どうしたのか、と聞くとトガシは『記憶、消してくるね』と言ってベランダに出て縁に足をかけたので、慌てたカバキがタックルを決めて今に至る。
「な、なに……なに……なに考えてんですかっ……‼」
 もしかしたらトガシが死んでいたかもしれない、という恐怖が襲ってきて体が震え始める。当のトガシは床に座ったまま片膝を立ててそこに腕を置き、あらぬ方向を見ていた。
「記憶ないときの、俺のほうがいいんでしょ」
「七階から落ちたら、死にますよ! よくて半身不随ですっ! 走れなくなってもいいんですかっ⁉」
 一歩間違ったら本当にやばかったと思うと、怒りと安堵と恐怖と不安が押し寄せてきて、頭は痛くなるし、目は熱くなってくる。
 荒い息を何度もついていると、ぶわっと一気に涙があふれてきて、今度は情けなくなってきた。
「ほんま、ほんまに、ほんま、アホやろ、ふざけんなやっ!!」
 溢れた涙を両手の平で拭うと、ぼんやりとトガシが見上げてくる。
……なんで、そんなに怒るの……?」
「当たり前でしょっ! 死んでたかもしれないんですよッ!」
「大丈夫だよ。下に木もあるし、うまくすれば多少怪我しても、記憶失くせると思う」
「ふっざけんなっ……! なんで記憶失くしたいんですかっ!」
……だって……カバキくんは、記憶ない時の俺のほうがいいんでしょ? やっぱりまだあの時の俺の方が好きなんでしょ?」
 カバキは頭に血が上って涙をぼろぼろこぼす目でトガシをきつく睨み上げると、床に座るトガシに向かって行きそのTシャツの胸元を掴み上げた。
「いつまで……ッ! いつまで、いらない嫉妬続けてんですかッ! 記憶なかったときも、記憶戻ってからも、その前も今もこれからも全部同じでしょ、アンタッ! 記憶あろうがなかろうがおんなじ事言うし、どっちも全部同じアンタなんですよっ! 変わらないんですよ、アンタはッ……!」
 カバキはゆっくりと膝をつくと、トガシのTシャツを伸ばし掴んだまま、懇願するように頭を下げた。
……もう、ええ加減にしてください、ほんまに……もう二年以上、一緒に住んでるのに……
「でも、そのうち半年は俺だけど、俺じゃないじゃん」
「それをええ加減にせぇっていうてるやろがッ!」
 カバキは平手でトガシの頬を思い切り叩いた。バチンっと強い音が部屋に響く。打たれて赤く染まった頬を見せたまま、トガシは固まった。
「二度としないでください……俺が好きなんは、今も昔もずっと同じトガシさんですよ……記憶があろうがなかろうが、同じ貴方です……
 なんでわからないんですか、と言葉が口から零れ落ちる。急に悲しくなってくる。
 どうして、こんなに伝わらないのか。
「もし信じられないなら、俺の言うことが信じられないなら、それでもいいです。でも、俺の……俺の好きな人の……命を軽く扱わないでください。トガシさんでも……たとえ本人でも許しません……
 何でこんな事を言わないといけないのか、馬鹿らしくてカバキは顔を歪ませて俯いた。あふれた涙が床にぼたぼた落ちていく。
 立てた膝をくずして胡坐をかいたトガシは、緩く手を組んでそこに視線を落とした。
……ずっと、不安があって」
 ぽつり、とトガシが言葉を落とすので、カバキはぼろぼろこぼれる涙を腕でぬぐいながら視線をあげる。
「記憶なくしてた時があったから、カバキくんは俺のこと受け入れてくれたんじゃないかって。その延長線上にしか今の俺はいないのかなって思ってて。そしたら、俺がどれだけ君のこと好きになっても、あの時の俺には勝てないんじゃないかって……
「何と勝負してるんですか、意味わからん……
 一瞬顔をあげたトガシは苦笑して、また視線を落とした。
「記憶が戻ったから、わかるんだよ。やっぱり、自分だけど自分じゃなかった気がするし。カバキくんも、ちょっと違うんだよ。なんていうか、たぶん怖がってたよね。いつか俺の記憶がもどって関係が壊れるのを恐れてたから、すごく大切にされてたような気がして……いや、カバキくんの気持ちを疑ってるわけじゃなくて……
 トガシは視線の先にある手を、不安げにゆっくりと動かし続ける。
「あのままの方が、俺は良かったんじゃないかって。その方が君を幸せに出来たんじゃないかってたまに本気で想うんだよ。俺はこんな、陸上でしか世間と繋がれないし、自分勝手だし。今もさ……カバキくんを泣かせちゃったし」
 そんな顔させたかったわけじゃないんだよ、とトガシはうつむいたまま眉を寄せた。
「怖い……そう、怖いんだと思う。君に好かれるほど、俺はいい人間じゃない。あの時の俺のほうが君には良かったんじゃないかって。でも俺は自分勝手だからさ、カバキくんを手放したくないから。あの時言った通り、俺は、記憶を失くしてたときよりも、今の方がもっとカバキくんを好きになったよ。だから余計に怖い。君がもし記憶喪失の間の俺のほうがいいんだったら、そっちの俺の方がいいと思ったんだ」
「ほんと、言ってることめちゃくちゃで、自分勝手なところ変わらないですね……
 やっと少し落ち着いて、軽い笑いが出るが涙は止まらない。
「ほんと、アホみたいなことして、何回も泣かさないでくれますか……最悪なんですけど……
 カバキはTシャツを掴んでいた手を離して、トガシの顔を両手で包む。
「俺が好きなんは、トガシさんです……ずっと同じ人ですよ、今までも、これからも……だから、二度と今みたいなことせんといてください」
 メリメリと顔を包む手に力を籠めると「痛いです、カバキさん……」とトガシが顔をしかめる。
「誓ってください……今みたいなことは二度としないって……二度と記憶失くさないって……
……いいの、今の俺で……?」
「だから、そのままのアンタでええんやっていうてるやろがっ!」
 両手でトガシの顔を掴んだまま、まっすぐに睨みつけると、ぼうっとしていたトガシの目の焦点がしっかりあった。
……ごめん……二度と、しない……
「当分、許しません、今日のは……命、もうちょっと大事にしてください……
 トガシの顔から手を離すと、カバキは涙であふれた目元を腕で拭う。
……ごめん、ね……
 呆れてため息が出る。
「ねぇ、ほんとに俺で、いいの? 俺がすき?」
 何回言わせるんだ、と思うが、それで満足するなら何度でも言ってやる、とカバキは軽く息を吸う。
……俺は、トガシさんがいいです。いま、目の前にいる、貴方がいいです……
「うん……そっか……
 目を伏せて少し笑ったトガシが、上体をずらして右ポケットを弄るので、カバキはトガシから手を離して目元をぬぐう。
「今日、ずっとさ、タイミング伺ってて……でも不安もあって、色々考えてたときに、さっきああやって言われたから、ちょっともういいやって自暴自棄みたいな気分になっちゃって……でもさ……
 握り込んだ手をトガシはポケットから出すと、カバキの目の前で手を開く。
「そのくらい、俺もほんとにカバキくんが好きで……ずっと一緒に居たいって思ってて……
 トガシの掌の上に銀色のペアリングがのっていて、カバキは茫然と見つめたあとに、トガシの顔を見上げた。決まりの悪い苦笑が見えて、また手の上のリングに目を落とす。
「こんな俺なんだけどさ……ずっと一緒にいてくれる?」
 カバキは信じられなくてトガシの手の上にあるものとトガシの顔を何度か往復する。それが何を意味するのか分かってくると、また目から雫がぼろぼろ零れ落ちてきた。こういうものに、縛られる人ではないと思っていた。
……ごめん……やっぱり嫌……?」
 情けない顔で眉を下げるトガシに、カバキは「ほんまに、アホやで……」と呟いて、涙を腕で拭う。
「トガシさん」
 トガシの両頬を手で包むと、しっかりと目を見据える。
「一生、離しませんから、覚悟しておいてください」
 何か言いかけたように薄く開いたトガシの唇を自分のそれで一瞬塞いだあと、笑いかける。
「やっぱり、カバキくんのその顔、大好き」
 蕩けるようにトガシが微笑んだ。
「俺も、です」
 トガシの首に腕を回して抱き着くと、背中に腕が回って抱き返される。
「カバキくん、カバキくんも、俺の好きなカバキくんを一生大事にしてね」
「当たり前です。トガシさんも、俺の好きなトガシさんを傷つけたら、許しません」
 鼻が触れるほどの距離で見つめあうと、思わずお互い笑いあう。
 トガシの細めた目が濡れていて、カバキも笑うと目尻から涙が落ちる。どちらからともなく唇が重なった。




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トガシはもう自分に本気で嫉妬はしないかな、と思います(でもこの自分に嫉妬しているの好きなので、また書くかもですが)。
一区切りと言いたいところなんですが、この3年後の話を思いついたので、どこかで書きたいです。
WEBオンリー合わせでできたらいいなぁと思うのでそのときはお付き合いください!ありがとうございました!