Ykanokawa
2026-07-10 17:38:14
10858文字
Public オクトラ0CPなし
 

いつか湯上がりに特選フルーツタルトを

・名授3章途中に移住可能になるモブの視点で物語が進みます。
・名授3章およびサブクエの微ネタバレを含みます。
・アトッサさんは頻繁にウィッシュベールへ出入りしている設定。
・料理レシピや由来等、捏造が多分に含まれます。
以上を承知の方のみお通りください。自衛ご注意。

 私が生まれた町は、赤々とした溶岩と黒い岩肌に囲われた町だ。
 人はみんな下を向いて、大人は延々と贖罪を紡ぎ、子どもは町を出ていきたいと訴える。
 焼けつくような熱波の川。ごつごつとした草木の生えない荒地。山の向こうから聞こえる魔物の咆哮。
 ……そんな、希望のない町だった。


 私と不思議な少年が出会ったのは、何も特別なことではなかった。ただの偶然だ。
 諦観と絶望が転がっている町に、騒がしい一団が訪れた。清い炎と白い外套を纏った聖火騎士とその一行。神妙な表情をした村長が応対したときからわかっていた。来るべきときが来たのだな、と。
 私の故郷――ベルケインに残された古王国の秘された歴史が紐解かれる日が。
 それが私たちに何かをもたらしたかと言えば、何も。多少の責務からは解放されたのかもしれない。が、祖先が行った業が消えるわけではないし、秘された神殿が唐突に綺麗さっぱりなくなったりもしない。溶岩の川が透き通った水の川になるはずもなく、潤いのない岩肌が肥沃な地面に変わるなんて奇跡もない。
 中には、大昔の真実が暴かれたら平和が訪れる、なんて夢を見ていた変わり者もいたけれど。
 私にはそうは思えない。罪には罰が必要だ。私たちは粛々と罰を受け、呪われた土地で暮らしていくしかない。古い神殿と業を背負いながら。
 そう、思っていたのだけれど。
 その日、私は真剣な面持ちで村長と話す聖火騎士の一団を、ぼんやりと眺めていた。銀の髪の乙女がどう、と話しているのが遠くに聞こえた。ひょっとしたら、今日にでもこの町はこの溶岩に沈むのかしら。それもまた罰なのだろうけれど。熱いのは嫌だな。赤い火は熱い。青い炎なら熱くないのかしら。
 なんて、取り留めのないことを考えていたと思う。そんなときに、私は不思議な――変な少年に話しかけられた。
「ねえ、ちょっといいかな?」
 変な少年だった。
 思えば、宿業から解き放たれたばかりで、私にも気の緩みというものがあったのかもしれない。けれど、それを抜きにしても、彼は変わった人間だった。他人の話を聞くのが上手いのか。それとも、商人の格好をしていたから駆け引きに馴れているのか。
 気がつけば私は自身の身の上を明かしてしまっていた。それだけならまだしも、心の奥底にあった一抹の希望に気づかされてしまった。
「うちの村に来てくれたら、ソーセージポトフが食べられるけど……
 こんな町と正反対な、真っ白な雪というものに包まれた遠い町――フレイムグレースへの憧れなんて。
「そ、そこまで言うのなら、まあ」
 請われたから。そう。聖火神の指輪に選ばれた少年にそう請われたら、断るなんて許されない。それだけ。遠い町の食べ物に釣られたなんて、そんなことはない。
 たとえ、そのときはその少年が聖火神の指輪の持ち主だと知らされていなかったとしても。断じて、そんなことはない。私にそんな欲はない。ないはずだ。


 選ばれし者の――いや、ユタカ、という名前をした少年の町はウィッシュベールと言った。
 大陸の北の端に位置する小さな村だった。ベルケインとは何もかもが真反対。
 ベルケインでは熱気が暑すぎて肌を覆う服を着ていたけれど、ここでは肌寒くて厚着をしている。
 ウィッシュベールは一度死んで生まれ変わる途上にあるのだという。一度、死んだ。つまり、一度は滅ぼされた。
 来たばかりの頃、私は何度も本当かしらと疑った。だって、いろんなところで人が右往左往している。声が飛び交っている。ベルケインではこんなに人が駆けずり回っているところなんて見たことがない。人ってあんなに早く走ったり、飛び跳ねたり、できるものなんだな、と思った。
「ええっ? またなの、ユタカ!」
 青々とした森を抜け、真っ先に目に飛び込んでくる小さな家の前。女の子が腰に手を当てている。バツの悪そうな顔をしたユタカ少年が「ごめん、スティア」と謝っている。女の子の名前はスティアというらしい。
 ――もしかして、あまり歓迎されていない?
 そうね。私のような縁起の悪い血族は、復興途上の村には相応しくないのかも。それならそれでしょうがない。村のリーダーだという彼が私を招いても、他の住民が反対するなら居座るわけにはいかない。
 ……一応、私には帰るところがあるわけだし。帰りたいかは別として。
「あっ、すみません! ウィッシュベールへようこそ!」
 戻ろうか、どうしようか。足を迷わせていたら、スティアという女の子が駆けてきて私の両手を握った。笑顔が眩しい。この村の青空にぴったり。
 そういえば、ベルケインの空はどんな色をしていたっけ。憶えていない。なんとなく、ショックを受けた。心底、私は故郷の景色に興味がなかったようだ。
「えっと、その、大歓迎なんですけど……。実は……
 スティアさん曰く、彼女はウィッシュベールの大工らしい。それも今、村に建っている家屋や施設はすべて彼女の手によるものだというから驚いた。ここから見えるだけでもたくさんの家がある。何人も住めそうな大きな家も。賑やかそうな大きな酒場も。幾多の箱が積まれた商店も。
 大工というものは、もっと、こう、いかつい感じの男の人がなるものだと思っていた。私はどうやら自分が思っているよりも偏見に満ちた人間だったらしい。外の世界は広いものだ。
「それで、えっと、申し訳ないんだけど……
 彼女が語ったところによれば、この村には私の住む家がまだないということだった。私の目にはたくさんの家が並んでいるように見えたけれど、それ以上にたくさんの人が住んでいるらしい。ユタカ少年が、村のリーダーが、あちこちでいろいろな人にウィッシュベールへ移り住まないか、と声をかけてまわっているからだ。私と同じように。
 要はその移住に工事が追い付いていない、と。
 それはそうだ。家を建てるのなんて時間のかかる大仕事だろう。いや、私は家なんて建てられないから、具体的にどのくらい大変なのかは知らないけれど。
「私はどこででも寝られるけれど……
「駄目だよ、そんなの! 村には寝られる場所があるんだから、ちゃんと寝ないと! フェンさんの宿に空きはあるかな?」
「ベッドは空いてると思うけど……。でも、今、寝泊まりしてるのは男性ばっかりだったかも……
「うーん。オリーブさんに相談してみよっか。でなければキアーラさんとか」
「あの、私は本当にどこでも……
 ここに来るまでの寝泊まりだって、真面な宿屋を使わせてもらったのだ。ベルケインのいい加減な宿屋みたいなところではなく。これ以上、贅沢をしてしまったら罰が当たりそうだ。既に罰が下されている身なのに。
「何してるんだい、あんたたち」
「あ、おばあちゃん」
「マーゴさん!」
 赤い頭巾を被ったお洒落なおばあさんが、言い合う二人を止めてくれた。二人から話を聞いたおばあさんは溜め息を吐くと、ユタカ少年に拳骨を落とした。コブも出来ないくらいの強さで。
「おまえさんが人を集めるのは止めん。じゃが、住まいを作る大工には話を通しとけ」
……はい」
 村のリーダーが叱られてしょんぼりしている。何だか奇妙な光景。
 ウィッシュベールのリーダーで、選ばれし者なのに。ここの人たちには関係ないみたい。……いや。実際に関係ないのか。このおばあちゃんから見たら、少年も少女も子どもみたいなものだろう。私だって、故郷の子どもたちに〝業を背負った末裔〟なんて呼びかけたくない。
 ――ああ、そうか。
 だから、彼は〝ユタカ〟という名前を大事にしているのか。
 結局、私はそのマーゴというおばあさんの家にお世話になることになった。
 マーゴさんの家は広い畑の隣にあった。野菜と果物が入った籠が山と積まれている。近くに川が流れていて、井戸が近くにある。ざあざあと水の音がする。水の音って、意外に耳に残る音なんだな。もっと無条件に心地よく聞こえるものだと思っていた。馴れるまで時間がかかりそう。
 籠の中にはいろんな野菜と果物があった。食べたことがあるものとないもの。見たこともないものまで。
「これは……?」
 青く茂った低木の木みたいな野菜だ。でも、幹の部分も瑞々しい緑だし、青く茂った部分は固い花のつぼみがぎゅっと集まった塊にも見える。どこを食べるかもわからない。どうやって食べるのかも。
「なんだい、ブロッコリーも知らないのかい?」
「ブロッコリー?」
「その野菜さ。つぼみの部分も茎の部分も食べられる。煮ても焼いても美味いから食べてみるといい。夕食に出してやるよ」
 鶏のつけ焼きに、ブロッコリーが付け合わせとして出された。味付けは塩だけなのに、とても美味しかった。噛んだときに熱く蒸された甘い汁がじゅわりと舌に溢れてきた。こんな野菜は食べたことがない。死の谷を越えてくる野菜は萎びたものが多かったから。ベルケインへの輸送ルートは遠路で過酷な道だから、仕方がないことだけれど。
 マーゴさんに尋ねたら、ブロッコリーは涼しい風を好むそうだ。あまり気温が高すぎると、つぼみの部分が黄色く咲いてしまって長持ちしないのだとか。
 ――なら、ベルケインでは育ちそうもないわね。
 するりとそう浮かんできたものだから、また驚いた。故郷から解放されて新天地にきたつもりが、何故かあの禍々しい色彩の故郷のことばかり考える。おかしいものだ。


 それから私のウィッシュベールでの生活が始まった。
 残念なことに、私には農作物を作る才能も、鶏や牛を育成する才能もなかった。芸術を理解する感性もないし、当然ながら商才なんてあるはずもない。正直な話、ほんのちょっと凹んだ。
 ただ、あんな町に住んでいたせいで、精霊石の扱いには一日の長があった。あの辺りの魔物から身を守るには、何かしら戦う手段を持っていなければならなかったから。鉱床から質のいい精霊石を採掘したり、石を使ってウィスプのような魔物を倒したり。特技だとも思っていなかったのだが、これがこの村では喜ばれた。石を使わない狩人や自警団の一部の人は、入手した精霊石の扱いが非常に雑だったからだ。もったいない。
 この村での私の仕事は質のいい精霊石の入手とその整理だ。質のいいものはユタカ少年が村の外で活動するときに持っていく。その他、雑多に得られたものは村の生活に役立てる。魔法が使えなくても火を起こせるし、食糧や獲物の保管庫に入れて置いてもいい。
 一度、私が精霊石を持ち帰ったとき、ぼさぼさ頭の学者さんに呼び止められた。明るい髪色に負けないくらいに陽気なハイテンションで「君、その精霊石を譲ってくれないか!」と。私が戸惑っていると、彼の助手さんが「先生、村の人を驚かせては駄目です!」と止めてくれた。
 話を聞いてみると学者さんは精霊石の専門家で、精霊石の真価をより深く探究しつつ、ユタカ少年に協力している……いや、探究するために協力している……? どっちだったっけ……
 まあ、ともあれ、村の協力者ではあるらしい。語られた研究内容は難しくてよくわからなかったが、余った精霊石があったら、安価で彼に譲ることになった。学者先生は文字通り、万歳をして喜んでいた。大声を出してまた助手さんに怒られていた。変な人だ。でも、楽しそう。私の故郷では、子どもだってあんなにはしゃいだりしない。
 ――この村は、変で、変だけど楽しそうなんだ。
 私は最初、マーゴさんが村の畑を管理していると考えていた。ところが、実際に畑仕事の指示をしているのはユタカ少年よりもさらに年端のいかない男の子だった。もちろん、マーゴさんや他の大人たちの意見や教えを聞きながら、だけれども。私は彼くらいの頃、何をして過ごしていただろう。
 畜産だってそう。貫禄のあるアルパカと羊が牧場の柵の周囲を徘徊しているから何かと思えば、彼らは歴とした牧場の従業員なのだという。責任者はちゃんと人間だったけれど。彼はアルパカや羊がなんと言っているのかそれとなくわかるらしい。ユタカほどじゃないんだけどね、と笑っていた。ユタカ少年は畜産の専門家より、動物の言っていることが理解できるのだろうか。謎だ。
 商店の前でタコのような生き物が木箱を運んでいたので、その場で目を擦った。見間違いではなかった。店長だという少年に尋ねてみたら、ちゃんとした従業員だと言われる。一方で、店の奥では生地も仕立てもいい服を着た高貴そうな人が帳簿をつけていた。
 ……まさか貴族さま、なんてことはないよね。質問を呑み込んで、鉱床を探索するのに必要な道具を買った。こうして自由に買い物ができるのは、例の変な学者さんと助手さんのおかげだ。うん、細かいことを気にするのはやめよう。だって、この村で過ごすには、きっと、その方が楽しい。
 ――楽しい?
 不意に、故郷の光景が瞼の裏にちらついた。溶岩が流れていく真っ黒な岩肌。あの故郷を持つ私が、日々を楽しむ、なんて。いいのだろうか。そんなこと。
「あ、いたいた。おーい!」
 呼びかけられて、ぱちり、と瞬きをする。溶岩も黒い岩肌も消え失せる。
 代わりに日差しにさらさらと揺れる長い銀色の髪が見えた。瞳はウィッシュベールの空と同じ色をしている。少し幼げな、しかし、綺麗な面立ちをしている。着飾ったらどこかの王族や貴族にも化けられそうだけど、本人はそんな頓着がなく、いつもたんまり物が詰まったザックを背負っている。あのザックからは何でも出てくると評判だ。ただし、直近で整理整頓がされていれば、の話だけど。
 そんな彼――ユタカ少年が私の前で足を止める。ふー、と息を吐いた手に何か分厚い本を手にしていた。
「ごめん、氷の精霊石って今あるかな? アトラスダムに行くんだけどあそこのフロッゲンは冷気に弱いから」
……私は取ってきていないけど、酒場にいるマフラーの人が納品箱に入れていたと思う」
「テリオンさんが! ありがとう! あ、そうそう、これ!」
 ずい、と本を突き出される。近い。半歩下がってからタイトルを読んでみる。
「温泉、療法……?」
「ベルケインにいた学者さんが持ってたんだ。アトラスダムの図書館のものだから、今から返しに行くんだけど」
「ベルケイン、に?」
 古王国の研究か何かだろうか。首を傾げていると、ユタカ少年が目を輝かせて畳みかけてくる。
「もしかしたら、あそこに温泉が掘れるかもって言ってた。僕も入ってみたいなぁ」
「温泉、って何?」
「うーん、と。自然から湧き出るお風呂?」
「そんなものがあるの?」
 お風呂は入ったことがある。といっても、ウィッシュベールに来てからのことだけど。たっぷりの水を山ほどの薪を使って沸かして浸かる、なんてベルケインでは贅沢すぎる代物だ。
 あそこでは桶に汲んだ貴重な水で身体を拭くのがせいぜいで。私は曲がりなりにも巫女だったから、身を清めなくてはいけなかった。だから、他の人より水を使わせてもらう回数が多かった。もう廃れた王国の身分に過ぎないのに。余計に皆に申し訳なくて。
 あんなところに、あんな場所に、自然のお風呂。想像ができない。
「僕も詳しくはわからないんだけど、ベルケインはとってもあったかいでしょ?」
「熱い、の間違いだと思うけど」
「その熱いのが大事なんだって。溶岩で温められた地下水が地面のずーっと奥底に眠ってるかもしれない、とかなんとか。本当だったらベルケインにもお風呂ができるかもしれないよ」
「ベルケインにお風呂……
 途方もない夢だ。夢は叶わないから夢だという。でも、ただの夢だと切り捨てる気にならないのは、この村で学者さんたちを見てきたからだろうか。彼らはとても諦めが悪い。失敗しても立ち直りが早い。私と違って。
「帰ってくるまでに、ちょっとだけ読んでみたけど。温泉ってすごいらしいよ。入るだけで病気や怪我が治ることもあるんだって」
……お風呂に入るだけで?」
「うん。本にはそう書いてあったし、学者さんも熱弁してた。温泉上がりの一杯と食事は格別なんだってさ。僕、お酒はそんなに飲めないけど、お風呂上りに食べるブドウアイスは好きだな。温泉ができたら温泉でも食べられるかなぁ、アイス」
 ユタカ少年はよくこうして私に故郷の話をする。ウィッシュベールのことではなく。
……ねえ」
「うん?」
 私は故郷を捨てたわけじゃない。そんなに簡単に捨てられないから困っていた。ずっと息が苦しかった。でも、なんでだろう。ここにいるとあんな町にも希望はあるんじゃないか、って。夢とか願望とか、幻を抱くことがある。
 それがどんなに儚いものか、私は知っていたはずなのに。
「どうして、私をこの村に招いたの?」
 はたり、と言葉が止まる。うーん、と唸りながら宙を見たユタカ少年は、私と目を合わせると、こてん、と首を倒す。
「やることがないな、って顔をしてたから」
「暇そうだったから、って意味?」
「違うよ」
 これは僕の経験と持論だけど、と前置かれる。
「やることがある方が立っていられるんだ。やっているうちに、歩けるようになるし、走れるようになる」
 振り向くには、まだ勇気が足りないけどね。
 笑って言った少年に、私は何も言わなかった。何も、言えなかった。


 近場の鉱床から採掘した精霊石を納品箱に置いたら、小さくお腹が鳴った。
 なるほど、と思った。
 当たり前のことだけど、人は動いたら動いた分だけお腹が空くし、身体は疲れる。お腹が空くから食べようと思う。疲れるから寝る。食べることも、寝ることも、そのまま生きることに繋がっている。
 あの故郷で私はお腹を鳴らしたことがあっただろうか。なかった気がする。別に食べるものが潤沢だったわけではないのに。たぶん、死なない程度に仕事をして、死なない程度に食べていたせいだ。
 面倒だなと思いながらパンの欠片を咀嚼するのと、きちんと空いたお腹を満たすのと。どちらが健全かなんて言うまでもない。全部ではないけれど、ユタカ少年の言っていたことがちょっぴりわかった気がした。
 ぼさぼさ頭の学者さんから貰ったお金は、まだちょっとある。お昼は酒場で食べようか。開いているかな。
 村のほぼ中央に位置する酒場を目指す。複数人の声が聞こえた。よかった。少なくとも誰かはいるみたい。木造りの扉を押し開けると、かろん、と軽やかなベルが鳴る。お酒の匂いと何か穀物を焼いた香ばしい匂い。なんだか懐かしさを感じる。なんだろうな。私の故郷とは何もかもが違うから、そんなわけがないのに。
 ウィッシュベールの家屋はみんなそう。どこか温かくて、優しくて、ときどき泣きたくなるくらい懐かしい。
「あ、ちょうどいいところに!」
 カウンター越しに厨房を覗いていたスティアさんが振り返った。厨房にいるのは店主であるフェンさんと、教会に出入りしているオフィーリアさんだ。フェンさんは軽く片手を挙げて挨拶をしてくれる。オフィーリアさんはこんな私にもとても丁寧に頭を下げてくれる。
 スティアさんは相変わらずの笑顔で、酒場に花が咲いたみたい。フェンさんは村の自警団の指揮も務めているから、遠目にも鍛えているのがわかる。精悍な顔つきだ。オフィーリアさんはフレイムグレースの神官だと言っていた。私の憧れ。雪の町。青い聖火が燃えるところ。一目、一声で人の心まで解いてしまいそうな美人さんだ。
 そんな三人が並んでいると、眩しくて目を覆ってしまいそうになる。なのに、スティアさんは初めて会ったときのように駆け寄ってきて私の両手をがっちり掴んだ。
「あの、確かベルケイン出身の方でしたよね!?」
「そう、だけど……
「料理を手伝ってくれませんか!」
「料理……?」
 そうはいっても、私は別に料理が得意なわけでもなんでもない。そんなに器用な方ではないし。むしろ、ここにいる三人の方が、そうしたことには長けているだろうに。私にできることと言ったら。
「私は、せいぜい果物を並べるくらいのことしか……
「その果物を並べるのが大事なの!」
「え?」
 古王国が栄華を誇った時代の名残で、ベルケインの町には果物の盛りつけ方なんて作法が残っている。巫女一族である私は、神饌の供し方としてそれを習っていた。だから、フルーツの盛り合わせくらいなら見られるように作れる、けれど。
 スティアさんに手を引かれて厨房に入る。三種類の果物のカットが置かれている。イチゴ、オレンジ、ブルーベリー。傍にはクリームが敷かれた丸いタルトの生地。作りかけのフルーツタルト、かな。後は果物を配置するだけ、に見えるのだけど。
 ぱん、とスティアさんが私の前で手を合わせた。
「お願い! タルトの果物を並べてみて欲しいの!」
「え? わ、私が?」
 思わず声が痞えてしまった。
「すまねぇが頼まれちゃくれないか? 俺は料理ならそこそこできるんだが、こういうのはどうも苦手でな」
「私も飾り付けというのは不得手で……。すみません。私の住んでいる町のお菓子なのに、お力になれず……
「あたしも木とか煉瓦の配置なら得意だけど、こういうセンスはないみたいで……
 じっと三対の綺麗な目に見つめられる。どこか縋るように。そんな目で見られても。
 盛り合わせの飾り方とタルトの果物の並べ方は、また違うものだと思うのだけれど。どうしよう。そんなの上手くできる気がしない。自信がない。断ろうかと視線を上げたとき、スティアさんのきらきらした瞳があった。
 ――どうしよう。
 断れない。そんな鮮やかな期待を向けられたら。できない、なんて言えない。
 クリームが盛られたタルト生地を見る。タルトはこの円状からピースに切るわけだから、中心から放射状に並べたら、少なくとも不平等にはならない、はず。よね。うん。
……失敗しても、知らないからね」
 きらきらした三対の目に見つめられた。眩しくて目を覆った。


 酒場の厨房で歓声が上がった。
「すごい、とっても綺麗!」
「はい! すごく美味しそうで、果物が宝石みたいです……!」
 女の子二人が降るような賞賛を浴びせてくるので、私は恥ずかしくて俯いてしまった。
 半分にカットしたイチゴとスマイルカットのオレンジを中心から互い違いに。ブルーベリーは丸のまま隙間を埋めるように散らして。我ながら上出来だとは思う。でも、こんなに真正面から褒められたことなんかないから、すごく気恥ずかしい。
 ――恥ずかしい、けど。
 心臓が、とくとく鳴っている。ほっとしながら、とくん、とくん、と鼓動している。頬が熱い。
 私は今、とても嬉しいんだと思う。タルトの飾りつけを褒められて嬉しいなんて。まるで子どもみたい。
 フェンさんが温めたブレッドナイフをタルトに翳す。ケーキやタルトを切るときは、刃を温めておくのがコツらしい。クリームやジュレなんかのベタつきを無くすことができるのだとか。知らなかった。刃が引かれると瑞々しい果物とカスタードクリームの綺麗な断面が現れた。私が並べた果物が。あんな綺麗に。何だか妙に感動してしまう。
 ピースに分けられたタルトがお皿に乗せられる。フォークが添えられて、その完成した一皿目が私の前に差し出されたので、目を見開いた。
「え、っと……?」
「功労者なんだから、一番に味を見てくれよ。味見は作ったヤツの特権だぞ」
 功労者。特権。いいんだろうか。私は果物を並べただけで、生地を焼いたのも、クリームを仕上げたのも、フェンさんやオフィーリアさんだろうに。けれど、オフィーリアさんも、スティアさんも、うんうんと頷くばかりで他のお皿を取ろうとしない。
「タルトが美味い寿命は短いんだ。出来立ての今が食べ頃だぞ?」
 なんて、フェンさんが脅してくる。それって、私が食べなくてはオフィーリアさんもスティアさんも食べ頃を逃してしまうってことよね。期待という圧力と空腹に負けて、添えられたフォークを持ち上げた。
 艶々したイチゴの部分にフォークを入れる。このイチゴも、タルト生地に使っているジャガイモも、ウィッシュベールの畑で収穫されたものだ。クリームも、たぶんここのミルクと卵だろう。そう考えるとすごい。村の人の努力の結晶体だ。
 イチゴとクリームとタルト生地。一口分を掬い上げて、口へと運ぶ。
……美味しい」
 しっかり冷えた甘酸っぱいイチゴ。程よい甘さのクリームはしつこ過ぎず、果物の味を引き立てる。ジャガイモから作られた生地は、ざっくりというより、もっちりとした歯応えで果物の果汁とクリームを受け止める。ざくざくしたクッキーみたいな生地も好きだけど、このしっとりした生地も悪くない。
 二口目はオレンジとブルーベリーを掬ってみる。舌に残っていたクリームの甘さを、さっぱりしたオレンジが洗い流してくれる。ブルーベリーも味が濃い。クリームも、生地も、負けないくらいどっしりとしているから、一切れの満足感がすごい。私の胃の大きさなら、これでお昼ご飯にできてしまうかも。
「おいひぃ……んん、これ美味しいです、フェンさん! ね、オフィーリアさん!」
「はい、とっても。フレイムグレースのタルトと同じくらい美味しいです……!」
 紅茶を淹れましょうか。いいんですか。悪いな、客人なのに。
 美味しいものは人の会話も弾ませるのか。瞬く間に陶器のティーセットが用意され、薬缶に湯が沸かされる。そこで気がついた。あの釜戸に使われているのは私が採掘してきた火の精霊石だ。タルトを見下ろす。イチゴやオレンジが舌に心地よく冷えているのは、保管庫に氷の精霊石が使われているから。
 ……ひょっとしたら、私もこの結晶体の一部になれている、のだろうか。
 私が、こんな美味しいタルトの。
「紅茶が入りましたよ! ほら、一緒に!」
 スティアさんが呼んでいる。フェンさんが手招きしている。オフィーリアさんが私の分の紅茶を用意して待ってくれている。
 なんでだろう。悲しくないのに、なんだか泣きそうになった。
 『温泉ができたら温泉でも食べられるかなぁ、アイス』
 ユタカ少年の何気ない一言を思い出した。そうね。そうだ。もし、私の故郷に、ベルケインに、私の生きている間に、そんな素敵なものができたら。そんな素敵なものに入った後は。
「私は、このタルトを食べたいな」
「え?」
「ううん、何でもないわ」
 フレイムグレース。ウィッシュベール。それから、ベルケイン。大事な場所は、何も故郷だけじゃない。いくつあったっていいわよね。
 私、生きていてよかった。この村に来られてよかった。