定食、カレー、蕎麦

平和軸 松→ガスからの松ガス
友人の二人がポメラニアンを飼うまでの話
⚠︎心霊配信者きのことライターのやまだが同居してます
⚠︎まつだに彼女がいます
友情出演イとうちゃん最初だけ
マイペースバカップルです

定食、カレー、蕎麦



(山田)

「これは谷原さん宛スね」
「あ、はい」
 山田は玄関で対応しながら、受領印と書かれた箇所にサインをする。谷原、と書くのはずいぶん慣れた。同居して二年の間で、谷原宛に届く荷物は本当に多いのだ。
 それを言えば「でも山田のだってすごいけど⁈」と返されるので、もはや月末に二人のせいでダンボールはうず高く積まれるのは恒例になっている。廃品回収の日に大人二人で汗をかきながら外に出しに行くのもお決まりだ。
「ありがとうございました〜」
 軽妙に語尾を伸ばして去っていく配達員を見送りながら、山田はため息をついた。今日も谷原宛の荷物は三箱。どれも得体の知れない心霊系のグッズだったり、依頼人からの物珍しい(そして大抵ただの紛い物)品だったりする。
 一度だけ、玄関で今日と同じ配達員が台車に荷物を運んできたときは驚いた。力のありそうな彼でも、さずがに大量のダンボールは無理だったらしい。「いつもすごいスね」とそのときだけは呆れた様子で口を開いた。山田は失笑するしかなかった。
 当の谷原は今配信中で、「受け取ってくれたー?」と声を張って山田に確認している。視聴者に聞こえるだろ、と思いながら、山田は「うん」と大した声量も出さず告げた。
 ──案の定、翌日のSNSのトレンドには、山田と谷原について書かれていた。

 ◇

(松田)

 とここまでを聞いて、松田は思わず尋ねる。
「同棲しとるんとちゃうんやろ」
「違うよ、同居。全然違う」
 ──駅を降り、二人で待ち合わせて入ったここは小さな定食屋で、松田のお気に入りだ。下町に構えた店は山田の取材メモにもない場所だったそうだ。木造の二階建て住宅で天井が低く、年季の入った壁には数年前の甲子園のポスターが大事そうに額に入って飾られている。近くに何名かのサインと色紙が飾られているが、名前を見たところテレビキャスターやグルメ番組のお礼で書かれたものばかりだった。西暦も古いから、近ごろはこの店への注目も落ち着いてきてしまっているのだろう。
 松田一人が客として入ればずいぶん狭く感じられた。それでも周りのテーブルにはひっきりなしに客が入れ替わり、そのたびに店主が景気良く挨拶をする。各所を渡り歩いてきた経験の差を、山田は時折気にして「僕だって負けてないけどね」と強がることがある。
「おっさんくさいって思ったやろ」
 と席に着くなり言い放った。一応店側に配慮して小さめの声ではあったし、山田が首を横に振って、
「こういうところ、僕好きだよ」
 と言ったから、松田は強面に多少笑顔を浮かべた。
 そういう些細なことを、山田が「かわいい」と言う。
「かわいいって言われたことない?」と聞かれようものなら、「はぁ? お前どこに目ぇつけとんねん」とちっともかわいくないドスの効いた声で返したし、「かっこいい」と言われれば「お前が周りで会うてる奴らのこと言うんやろ、そういうのは」と受け止める気のない返事をした。つまりは外見の褒めなど、もう松田にとっては世辞だとわかってしまう。
 さすが松田さん。知らなかった。すごいね。センスいいじゃん。そうなんだ。の「さしすせそ」はとっくに昔の山田が全て出し尽くしてしまったし、言うたびに松田は一向に嬉しそうな顔ができなかった。「媚び売らんでええって」──ある日こう言い、バッサリと切ってしまった。「え、おじさんってこういうの好きじゃん」と心外なことを言われたので、「普通はな、大抵それがぬか喜びさせる作戦やろうなって気づくもんや」と松田が肩をすくめ、「あ、てことは過去にぬか喜びしたってこと?」と地雷を踏んでくる山田に、松田が苦々しい顔をしたことは記憶に新しい。つまりはもう、松田にとってその世辞は場を円滑にするための道具でしかないと思っているし、今までいろんな都合のいい大人たちと適当に喋ったり、愛想良くしていた山田にとって、松田はその点で興味を惹かれた人物だったらしい。
 それがただの、山田の好奇心であることをわかりながら接するのは、ときどき虚しくも感じる。
「はー……そういうのが勘違いされやすいんやろな」
「そういうのって?」
 これ、と松田が指し示したのは昨日配信された谷原の動画だ。松田はアーカイブを見せられながら、食事が来るのを待っていた。画面から、谷原の投げかける気の抜けた「受け取ってくれたー?」が響き、その辺りからリピート数も増え、コメントも山田と谷原の関係性について注視するばかりだった。
 カウンター越しに店員が大きな声で返事をしていたから、もう間も無くここに料理が届くだろう。山田も店の内装や他人の料理に目を向けながら、気を紛らわせていた。あることないことを書き出すコメントを気にするような男ではないが、さすがに近ごろは立て続けに起きて辟易しているのだろう。
「谷原くんのチャンネルなのにお前の声が入ったり、谷原くんがお前をいちいち気にしたりするから、周りもくっつけたがっとんちゃう」
「ええ……僕らを?」
「娯楽の少ない人間の唯一の楽しみや。妄想なんて勝手やろ」
 でもねぇ。と山田が口を開きかけたところで店員の手が降りてきた。山田の前に小皿と大皿を一つずつ、松田の前にはその中間の大きさの皿が二つ置かれる。「黒酢、いりますか?」と聞かれて迷わず「置いとって」と言い、山田もそれに従った。文字通りそこに置かれた黒酢は、つややかな容器に入ったまま鎮座している。
「妄想される身にもなってよ」
「なりたないなぁ」
「松田さんも配信やったら? 博物館についてとか」
「ラジオは出たことあんで」
「え、本当に?」
 大した仕事やなかったけどな。と言って食事を口に運び、その語尾を食べ物と共に吸い込んで消す。黒酢を足しながら、あんかけの唐揚げを頬張る松田は、しばらく咀嚼に忙しいといった様子をわざと作った。ラジオの話はここまでにしておきたい。
「今度教えてね」
 山田に言われ、松田は面倒くさそうに鼻筋をしかめた。ラジオに出た、と最初に振ったのは松田だ。どうして口を滑らせたのか、後悔した。

 松田には彼女がいる。長い付き合いをしているとだけ山田と谷原に明かし、彼らに姿を見せたことはない。が、彼女と歩いている松田を一度だけ見た、と山田に言われたことがある。山田はマスクにハットを被り、顔を見られないようにして外出していたそうで、松田がこちらに気づくことはなかったのだとか。
 山田にも彼女がいたり別れたりしてきたが、長く続く関係性の女性は現れなかったそうだ。だから松田が彼女と二人で寄り添っている姿を見て、単純に、友人関係以外でどうやって人とうまくつながっていけるのかわからなかったようで、「ちゃんと記念日とか祝ってんの」と疑問をぶつけられたこともある。
 松田が長続きしているのは松田の努力ではなく、ひとえに彼女のあっさりした性格が故とも言える。松田が付き合いでキャバクラに行こうが、友人と旅行で不在がちにしようが、なにも言わずに適当に過ごせる女だ。結婚願望は限りなく薄い。いや、あるのかもしれないが、松田との結婚はないものと思っている節がある。だから彼女がもしも他にいい男を見つけたのだとしたら、この関係は終わりだろうと松田は思っていた。悲観的なわけではなく、ただ割り切った気のいい相手だと互いに思うだけだ。セックスはしたが、それもここ数ヶ月は一緒に寝てもいない。これはいよいよ、相手も愛想が尽きたか。そもそも愛想など、持ち合わせていないわけだが。
 ──そうなると、困る問題が一つだけある。それに関してはかなり重要で、センシティブで、どうすればいいかさすがにきちんと相手と話し合わなくてはならなかった。ここばかりは適当ではいけない。
 松田は仕事を終えた足で、スーパーへ寄る。今日のメニューは大体決まっていて、彼女が食べたいと言っていたものをカゴに放り込むと、メインの売り場で幅を取っている夏野菜を見下ろしながら、少しだけ笑う。
 ──僕さ、夏野菜のカレーなら好きかも。
 そう言っていた、数日前に会ったばかりの年下の男を思い出す。この間はその男が同居している友人が、心霊スポットへ繰り出すのに車の鍵を無くしたと喚き、夜中まで散々探すのを手伝ったらしい。あの無気力そうな男が、友人のために必死に床を覗き込み、鞄を漁り、果ては夜道だというのに近くの道路にまで出てわざわざ探したそうなのだ。松田は「大変だったんだから」とため息ばかりつく猫背の男が、いじらしく、いい奴に思えた。
 松田が思うに、山田は、好奇心と日々の取材や今まで見てきた様々な経験則から、男が男を欲する時があるとわかってはいるとは思う。ただその欲しがり方は、あくまで性的でも恋愛的でもなく、友情からは一歩離れた──信用と、ある種の甘えも込められている。
 そして松田も、歴史上文化として男色やそういう行程があったことはわかっているが、自分がそちら側へ行くとは微塵も考えてはいなかった。
 ただ、山田といるのは居心地がいい。話のわかる男で、賢さもあって、要領もいい。危ない橋を渡るときは放っておくか、友人の谷原が基本的には付き添うから大丈夫だろうと思えるし、山田自身も困ったことがあれば松田に素直に言うときもある。
 互いに、自立している身だ。ふらっと家に立ち寄るくらいは誰でもある。近ごろは自分の彼女に手料理を作るより、山田が家にやってきて料理を食べていく回数の方が多いかもしれない。そういう身軽さが山田にはあるから、同居している谷原の方があれこれ騒ぎ立てられるのは道理だろう。かわいそうに、と松田は同情する。
(彼女作ろ思ても、二人ともあれじゃしばらく無理やろな)
 そう考えている矢先、松田のスマートフォンが鳴った。今夜は彼女が家に来るそうだ。

 翌日は山田が家にやってきた。こう頻繁に人が家に来るような人間関係を築いてきたわけではなかったのだが、山田ほどの世代の人間はもしかしたら、気兼ねなく人の家を訪問するのが当たり前なのかもしれない。ジェネレーションギャップを感じながら、松田は山田のくたびれたスニーカーが玄関に置かれるのを眺めた。
「いい匂いする」
「カレーや」
「え、もしかして」
 スパイスとトマトソースの飛び散りが松田の手元についていたのを、目ざとく山田に見られ、うっすら笑われる。
 ──テーブルに置いた皿にスプーンを添えてやると、「お腹減ってたんだ」と高校生のようなことを言い、いつもの山田よりもはるかに早いスピードで食べていく。
「今日、なんにも食べてなかったんだよね」
 案の定、こうである。松田は天を仰いだ。
「まさかまたエナドリだけで生きてたんちゃうやろな」
「一応、きのこがもらってきたっていうお菓子は食べたけど……あれ、結構甘くてさ。松田さんも苦手だと思う」
「どこのなんちゅうやつや」
「ちょっと待ってね、メモしてある」
 スマートフォンを取り出して、メモアプリをスクロールしながら目で追っている。目の動きを見ているのも面白い。松田は山田を、こうして眺めているだけでも飽きない。
 自分とはまるで違う体格だ。痩せ型の体、切れ長の目元、細い眉、色は松田よりはやや白い。一見軽薄そうにも見えるが、滑稽な返しをすることもあれば、深慮して話すこともある。場の雰囲気をよく読める。
「ああ、これだ」
 そう言って店名と菓子の名前を松田に伝えながら、カレーを食べる手は止まらない。「どっちかにせえや」と子ども扱いをすれば口を尖らせる。「松田さんが名前教えてって言ったんじゃん」それはたしかにそうで、松田に非がある。
 夏野菜が山田の口に消えていく。汗をかきながらでも、熱いうちに食べてもらえるのは作った甲斐がある。昨日は松田の彼女がスマートフォンを見てばかりで、すっかり冷めた料理を食べていた。別段気に留めなかった松田は、ついさっきまで、むしろそっちの方が気楽でいいとさえ思っていた。
「おかわりするか?」
「うん。あのさ、前から言おうと思ってたんだけど」
 かすかに心臓が跳ねた。このタイミングでなにを言われるのか、たった今よぎったことと繋がりがあるだろうか。松田はなるべく冷静を装った。装って、
「松田さん野菜の切り方デカくない? これって松田さんの一口サイズ?」
 と全くあての外れたことを言う年下に思い切りため息をつくと、「え、ごめん。一口が大きいっていいことだよね。いいと思う」と変な気を回された。

 ◇

 その日も山田が家にやってきた。「きのこが編集作業忙しくて、邪魔しちゃ悪いからさ」という理由と、手土産に箱をぶら下げている。「俺の邪魔はしていいんか」と聞くのはもうずいぶん前にやった手だ。
 夜道でさえも暑くなってきたから、山田は来るなりエアコンの下でだらしなく口を開けていた。喉元に汗が滴っている。扇風機の前じゃあるまいし、と突っ込もうとしたが、そもそも山田は扇風機でそんなに遊んだ記憶が薄いかもしれない。関東生まれだという彼は、このビルに閉ざされた街で、暑さとずいぶん仲良く人生を共にしてきただろうから。
 ただ──今日は松田にも半日ほど家を空ける用事がある。彼女との食事だと知っている山田は、「大人しくしてるよ」と肩をすくめた。
 冷蔵庫の中身や必要そうな物はある程度わかるだろうし、特に遠慮もなく松田は出かける用意を整える。レザーの靴は彼女と一年前に出かけたときに買ったものだ。Tシャツは愛用している着やすい生地だし、ジーンズもそう。特別に意識した格好をすることもない。松田は「行ってくるから、適当にしとけ」と伝え、玄関を閉めた。
 留守中の山田の行動は至って単純で、パソコンを広げて自分の仕事をしているか、動画を見るか、松田のテレビに入っているサブスクを利用して映画を見ているかである。試聴履歴にはB級映画やコメディホラーが並んでいるのだ。「笑いたいんか怖がりたいんかどっちやねん」と聞いたが、「うーんわかんない。インフルエンザのときに見る夢みたいで面白いんだよ」とのたまっていた。
 そうやって松田の帰りを待つ間、仕事で脳をフル回転させてぐったりしているか、見たばかりの映画の内容について批評したり、夢の続きのようにだらだらと松田に語ってきたりする。家には山田の眠るスペースまでできてしまった。彼女が来たときにくつろげる場所はあまりないというのに。
 ──帰ってくると山田はまだ映画を見ていた。女性のつんざくような悲鳴が聞こえてエンディングだ。大抵そうだ。松田はさっさと浴室に入ることにした。浴室の壁に悲鳴を反響させながらシャワーを浴びるなんて、一体過去の自分は想像できただろうか。放り投げたシャツとジーンズがカゴから落ちた。どうやらうまく入っていなかったらしい。
 浴室のドアにちらっと黒い影が見えた。山田の頭だ。松田は浴室から声を上げる。
「どないしたん」
「シャンプー無くなりそうだよ」
 松田より家の事情を知っているのではないか、と驚く。詰め替えのシャンプーを「ここ置いとくからね」と言ってバスマットの上に置いたらしい影は、リビングへ戻らずなにやら蠢いている。松田が浴室のドアを開けると、洗濯機の上に松田のシャツとジーンズを置いて、粘着性のカーペットクリーナーをころころと上下に動かしていた。
「なにしてん」
「僕、今日から二日くらいここにいるからさ。洗濯させてほしくて。でも松田さんのと一緒に洗濯したら、毛がつくじゃん」
「シャツはええけど、ジーンズなんか滅多に洗濯せんわ」
「だったら余計これ取った方がいいでしょ」
 山田の持っているクリーナーにはすでに白い毛がついている。一回のテープでは収まりそうにないと判断したのか、山田はテープを剥がして新しい粘着面をふたたびジーンズに押し付けた。
「あのさ」
 前から言おうと思ってたんだけど。と山田が続ける。またか、と松田は体を拭きながら少し身構えた。
「彼女さんの化粧品、結構きつめの匂い?」
 それは、山田の中のどの線に触れたのだろう。カレーに入った具材の大きさのように、どこか山田の中でズレていた価値観だったのだろうか。松田は「そうかもな」と答え、一時間前に終わった彼女とのセックスが、急に色褪せて体に張り付いているように感じた。
「派手な奴やからな」
 松田が取り繕うと、山田は「んはは」と屈託なく笑った。今日、化粧品の匂いを嗅ぐほど彼女に近づいたなんてことを、今の応答だけでわかられてしまうのは、どうしてか松田は嫌だった。山田から隠すように、さっさと服を着込んだ。
 山田はおそらく、松田が彼女とうまくいくことを望んでいる。そんなのは誰だってそうだろう。だから松田は、ずっと自分の心が見えないふりをしている。

 ──山田が寝静まったころ、彼女からの着信があった。「遅い時間にごめんね」から始まり、家で無くしたものが見当たらなくて困っている、というのだ。そんな小さなやり取りから、ふつふつと嫌味や喧嘩腰になっていった彼女の応答をきっかけに、久しぶりの口喧嘩をした。
 言い争っている間、「山田に後でドヤされるな」とか「うるさかった詫びになんかしろって言われんのが浮かぶわ」とか、松田の中ではそういうことばかりが駆け巡り、ため息をついたからさらに彼女をヒートアップさせた。
 彼女がいよいよ怒りのピークに達し、過去を蒸し返す。松田はそんな過去を持ち込まれても困ると嘆く。今さら覆しようのないことをあれこれ言われたところで、謝る以外になにをすればいいのか。いつまでもそのことで機嫌を取り続けなければいけないのか。その蒸し返された内容についてを細かく言われ続け、疲弊しているのを見ているのが優越感なのか。それはもう、恋人というレベルから下がった関係値ではないだろうか。これだから反省を知らない男は、と罵られるかもしれないが、建設的な付き合いを続けたいのに、その反省と一生付きまとえと言われ続けるのであれば、こちらの気持ちは離れていく。
 そしていよいよ彼女が怒りのあまり、こんな遅い時間なのに家へやってくると言い出したころ。
『僕、外出ようか?』
 通話の画面の上に、メッセージアプリが開かれた。
 ──山田が持ち出した物はスニーカーとスマートフォン、財布と鍵。ふらっと外へ出て数分で戻れるような格好とも取れるが、山田の場合は泊まりに来るときもこうだ。松田の家の服を適当に漁るからだ。サイズが違いすぎるだろうと、数着だけ部屋着を買ったらそれを延々と着回して部屋にこもっていたので、今ではそれがもう二人の定番になっている。そのまま谷原と住んでいる自宅へ戻るのだろう。松田は今だけ心臓が、かすかな鉛でできた気がした。
 山田が部屋を出たらしき音が聞こえ、その一時間後に彼女がやってきた。怒りの形相は幾分か落ち着きを見せている。歩いてくる内に冷めていったのかもしれない。それなら通話中にいくらでも冷静になれるチャンスはあったのではないか。山田が気を利かせることもなかっただろう。今ではもう、松田の方が苛立ちが大きい。
 山田という存在を、松田の彼女も知っている。松田の家に来て食事をしたり寝泊まりすることも。だから山田の荷物があることを、彼女は別段気に留めない。山田の泊まり道具は服以外だとアメニティ類があって、それらは一式、洗面所の下の棚に百円で買ったカゴに入れられている。ヘアバンド、プロモーション先からもらったというパック、化粧水、歯ブラシ、メンズの整髪料。
 彼女が山田を気に留めないからこそ。松田とある程度の口喧嘩を終えてせいせいしたらしい彼女が、化粧を落とすために洗面台に立ったとき、
「この山田くんが使ってるパック、今人気で売り切れてるやつだ。私も使っていい?」
 と聞かれたとき、やはり松田の脳裏には山田の顔がよぎり──きっとあいつは「どうぞ」と言いながらなんにも気にしないでいるだろう。それが、松田と彼女の円滑のためなら──という想像が容易にでき、それを心のどこかで傷口に水が沁みるように痛みながら、首を横に振った。
 松田の中で答えがストンと腑に落ちた。鉛のように固くなっていた心臓がまた正しく脈を刻み始める。彼女の手元が静止したまま、時が止まったように思えた。やがて彼女が口を開く。

 ◇

 あの日は谷原の元へは帰らず、ネットカフェで過ごしていたとあっさり言ってくる山田に、松田は謝ることさえできなかった。
「きのこにも一応帰っても大丈夫か聞いたんだけどさ、既読にすらならなかったんだよね」
 おそらく谷原は徹夜で編集作業に打ち込み、やっと終わって泥のように眠っていたのだろう。いつ起きるかわからないが、もしもその長い睡眠が明けなければ、山田は危うくネットカフェの住人になるところだった。
 ネットカフェでは、動画と記事になりそうなネタを探して過ごしていたそうだ。時折買い物に出てコンビニ飯を買ってカフェへ戻り、また椅子に座っては画面を眺めていたとか。
「体バキバキになった。あそこの椅子、古すぎ」
 あとシャワーも出が悪くてさ。と文句は続く。山田は駅前のネットカフェの名前を挙げ、ため息をついた。もしかしたら数日後、口コミに低評価をつけるのかもしれない。もちろんアカウントは山田名義ではなく、複数持っているらしい山田ガスマスクと勘付かれないものだろう。そういうちょっとした周到さと性格の悪ささえ、今の松田には面白い奴だと思えてしまう。
 山田が冷蔵庫を開ける。タッパーが規則正しく並んでいるのを見ただろう。いつもと違う具材の雰囲気に一度だけ躊躇し、しかし大きさのまばらなそれを一つ掴んで、山田がフタを開けたらしい音がした。「あー……」と複雑そうな声を出しながら、炊き立ての白飯をよそい、何個か惣菜を皿に並べて電子レンジにかける。その間に洗面台に行った山田は、おそらく昨日使われた歯ブラシを確認するだろう。洗濯カゴに入ったバスタオルも、一人分多いことに気が付くかもしれない。そして山田のアメニティの入ったカゴが棚から出ているのを発見して、
「ごめん、これ邪魔だったでしょ」
 と言うのだ。
 全てに山田らしくない遠慮が入り混じっている。冷蔵庫のタッパーは彼女が料理をして置いていったもので、袋から開けた使い捨ての歯ブラシは、彼女が使って捨て忘れたものだ。浴室へ来てまで痕跡が残り、山田ではないもう一人がいたという違和感が積み重なっている。いつもならこんなことは当たり前に思えたはずなのに、松田にはだんだんぎこちなくなり、そしてそれはまた、山田にとってももしかしたら同じなのではないかと、うっすら期待した。
 松田を通して存在だけは分かり合っていた松田の彼女と山田は、おそらく仲良くできたはずだ。三人でこの家で食事をすることも、連絡を取り合い、谷原を誘って四人で出かけることも、笑い合うこともできただろう。松田と彼女が結婚するとなれば、友人代表として式に参加したかもしれないし、会食が嫌いだからと断って、それでも友人だからという名目で祝儀やプレゼントをこっそり用意して、「一応、それくらいはするよ」と面倒くさそうにしながら言ってくる。山田はそういう未来をきっと描いていたはずだ。
 その未来を、壊してしまったのは松田自身だ。
 ──あの日、彼女は「あのさ、前から言いたかったんだけど」と松田を見上げながら言った。松田の心は少しも動揺しなかった。その先に来る言葉を想像できたからだ。
 ──別れた方がいいよね、私たち。
「お前のそれ」
 松田は呼吸を整える。
「あいつが出して使おうとしたから、止めたんや」
「え? いいのに。これとか眉崎さんの新商品だよ?」
 大学時代の先輩が作ったという美容ブランドのマークを指差し、山田は驚いた顔をしている。彼女ならきっと使うと思っていたのだろう。あらかじめ多めに入っていたのはそのためか。松田は歯痒く感じた。
「谷原くん、もう今はしばらく仕事追われてないんか」
「? ……わかんない。また怪しいの引き受けてくるとは思うけど」
 なんで今きのこの話? という疑惑がありありと顔に浮かび、視線が揺れる。松田の様子がどうにもおかしい、と疑っている。
「あ、帰った方がいいなら」
「俺な、別れたわ」
…………は?」
 あいつと、と付け加えると、数秒の沈黙の後、山田は持っていたスマートフォンをラグの上に落とした。命と間違えているかと思うほど連日肌身離さず持っているスマートフォンなのに、今は存在すら忘れてしまうほどだったかと驚く。動揺している山田を見て、やけに冷静になってきた。
「それ、って、僕のせい?」
「いや」
 短く答え、キッチンへと向かう。後ろをついてくるかと思いきや、山田はダイニングの椅子に腰を下ろした。というより脱力してそこに座った、という方が正しい。
「あいつ、もともと他に男がおってん」
……うわ、大人の世界だね」
 ひどく棒読みのそのセリフに、松田は言葉を続ける。
「まあ先が見込めない奴とおるより、間口広げてちゃんと次を見据えた付き合いを考えとる方が賢いやろ」
 山田は黙る。きっと山田自身やったことはないが、世の中にそういう打算が溢れ返っているものだと知っているから、なにも言えないのだろう。大人、という言い方に刺々しさを感じられたから。
「やから、ええ頃合いやった」
 それでな、と松田は改めて山田を見下ろす。椅子に座った山田の後頭部はいつ見ても丸みを帯びていて、触ったことはないがきっと骨も丸いのだろう、となんとなく思っている。
「それに、お前のせいやないんやけど、まぁお前のこともあったっちゅうか……
 と煮え切らないことを告げてみると、案の定山田が弾けるように顔を上げ、一声唸った。
「僕のせいじゃん」
「いや、これは俺のせいもあるんや」
「なんだよそれ」
 言ってしまおうか、どうすればいいのか。松田は「あー」とか「うー」とかもどかしい声を出し、山田の顔を正面から見られないでいる。しかし山田は覗き込むように松田を見てくるから、その鋭い視線から逃れられず、冷や汗をかいた。
「このまま続いとっても、いつか俺から別れるって言い出してた」
 弁明を始める自分が情けなくも感じるが、今は言い募るしかない。
「お前と出かける方が楽やってん」
 ああこの言い方も違うか、と頭をかくが、「松田さんにデリカシーなんて求めてないから、気遣わなくていいよ」と言われた。怒ればいいのか悲しんだらいいのかわからず、松田は口を開く。
「飯食うのも、カレー作んのも、勝手な時間に来て勝手に居座って、勝手に帰るやろお前は」
……勝手にしててすいませんね」
「怒んなや。その勝手なのが楽やってん。いちいち凝った連絡もなくて、なにしとっても良くて」
「でもそうしてたら、松田さんもう恋愛できないよ」
「やから、する気ない」
「ちょっと、それ今僕がこうやって言ってるから拗ねてるだけでしょ」
「いや、ほんまにええんやって」
 どう言えば伝わるか。お前がいるからいい、お前がいてほしい、お前が──これは松田にとって、あまり良くない感情である。頭が警鐘を鳴らしていた。恋愛なんてする気がないのに、山田がそこにいればいいという大きな矛盾。友人としているのであれば、今のままでじゅうぶんなはずなのに、それよりも過ぎた感情が溢れ返る。困った、と松田は眉をひそめた。山田だって、こんな煮え切らない男との対話は苛立つだろう。
「なあ」
 松田は見下ろした額が、妙に丸いことに笑ってしまいそうになった。含んだ笑いを見抜かれて、「バカにしてる?」と疑う目つきを向ける山田は、やっぱり丸くて、片手で掴めそうだ。
「お前がおったらええ、って言ったら、重いか」
 その片手で掴めそうな頭が次第にあんぐり口を開いて、しばらく硬直している。死んだか? と思うような長さで凍ったように止まっているから、これはやってしまったと松田は後悔した。気持ち悪いだろう、もう近寄りたくはないだろう。なんでも正直に伝えることが正しいとは限らないのに、松田はやはりデリカシーというか、気を遣えない男だから、山田のことを少なからず友人以上として見えてしまっていることを隠せなかった。
 固まっていた男が、ようやく声を出す。
……お、もく、ないけど、なんで?」
「なんで、って」
「いや、なんで僕?」
 え、と今度はここで松田が唸る番だった。
 そういえば、なぜなのだろう。
 ──少し、兆しのようなものはあった。
 まず、山田とは取材を通して知り合った。博物館への調査や展示案件の中に一つだけ異質なダイレクトメールが紛れていて、それが山田からのメールだった。いつもなら蹴ってしまう依頼もなぜかその日は無視できず、山田と出会って会議室で話をした。
 その日の夜、彼女と過ごしていた矢先、ふと松田は山田を思い出したのだ。そして彼女に何気なく「あの配信しとる奴知っとる?」と聞いた。谷原きのこという心霊配信者とルームシェアをしていると密かに話題になっていて、SNSで陰ながら人気があることは彼女も知っていた。「その人がどうしたの?」と聞かれ、初めて適当にはぐらかした。
 二度目に会ったのは取材の延長だ。一回で終わらず立て続けにあれこれと質問を投げかける山田が、周りから見れば不躾に思われたらしいが、むしろ歯に衣着せぬ言い方がすっぱりとわかりやすく、好印象だった。三度目、四度目と経る内、「飯でも行かん?」と口説いたのは松田からだ。「松田さんの家行ってみたい」と誘ったのは山田から。「服、置いてったらええやん」と決めさせたのは松田から。「泊まっていい?」と聞いてきたのは山田から。彼女がいるから、谷原がいないから、彼女がいないから、今日は一人だから。さまざまな条件をあらかじめくっつけて誘ったり断ったり、少しの言い訳を混ぜて一緒にいた時間は緩やかで、松田にはとてもちょうど良かった。
「重くないん」
……重くないよ」
 わかるでしょ、と言いたげな山田に、まずは触れてみた。指で髪を撫でるとくすぐったそうだった。しかしそこまでしか許されず、山田がその手を掴んで拒絶する。
「楽なんだったら、楽な付き合いを探すって手もあるよ」
「どんなんや、それ」
 山田から提案した割に思いがけず言葉が出ないのは、意外とこの男が恋愛に対して面倒くさがるせいで、経験値が少ないからだ。
「て、適当に女の子引っ掛けるとか」
「一番めんどいやろ。なに恨まれるかわからん」
 下手したら刺されんで。と肩をすくめると、いや、でも、と山田はイライラし始めた。
「松田さん、かっこいいんだからさ」
 思ってもいないことをそんな裏返った声で言ってくるものだから、松田は鼻で笑った。
「その世辞はもう聞き飽きたわ」
「この……ひねくれ者……!」
「お前に言われたないわ」
 ちょっと調子に乗らせようと思ったのに、と舌打ちさえする山田の、あくまで松田を思っての行動に、おかしくなってきて肩を震わせてしまう。
「うまくいくようにって考えてくれとったんやろ? 悪いな。性格拗らせた四十代やから」
……僕の周り、みんなうまくいかない人ばっかなんだ」
「は?」
 山田が顔を伏せ、額に手を当てる。長いため息の後、滔々と語られるのは山田の話によく出てくる友人たちの事情だった。
「眉崎さんは彼女がいるけど、モラハラっぽくてさ。黒沢さんは最近行った高級ラウンジでナンパしたって。絶対金に物言わせたんだ」
「いや、後者は完全にお前の予想やん」
「栄子さんは男の趣味悪いし。きのこは最近見た女の人、心霊写真に載ってる霊ばっかりだし」
「谷原くんのはそれ、大丈夫なんか」
 先ほどから山田の意見には終始独断と偏見が混じっている。
「だから松田さんはうまくいかなきゃいけなかったのに」
 極め付けはこれだ。松田は天を仰いだ。
「それはお前の勝手な願望やろ」
「せめて僕に成功体験をくれよ」
「なんでお前のためにちゃんとせなあかんねん」
 いや、ちゃんとするのは良いことか? 山田がいいと言ったのだから、山田のためにちゃんとするのはありだろう。松田は正論を並べて一人頷くが、今ここで折れれば山田はこの手をすり抜けていきそうな気がする。改めて山田の頭を撫で、頬に手を伸ばした。山田は拒絶しなかった。
「あとは、お前の友達選びの悪さが招いたことやろ」
 そして隣に座ると、山田は下を向いた。前髪が流れ、頬をなぞっていた松田の指に当たる。
「僕、やっとまともな人と知り合ったなって思ったんだよ」
 俯いていた山田が、下から上へ、松田を睨みつける。
「大学入って、サークルの先輩も同期もそんな感じでさ。楽しかったし、今でも楽しいよ。でもまともな人と喋るとさ、僕はこっち側にもいられるんだな、って自分を取り戻した感じになれた」
 それは大学入学前の自分、ということだろうか。山田は入学前、ひどく自分を内側に篭らせて、自己表現をすることがなかったらしい。表現をすることに対し、なんの喜びも悲しみもなく、むしろ表現をすれば周りから必ずなにかを言われるのだろうという先読みが故の諦めがあったそうだ。
 サークルに入って配信をやるようになり、谷原と住んでからは表に出ている自分に関してあけすけになってきた。多少炎上するような発言もある。猫背をさらに折り曲げ、卑屈に笑う姿は奇妙だった。松田の知らない山田を見ているようだった。本当はもっと、背伸びをしたかったのではないだろうか。その伸び方を折られ、曲げていることで自分を守ってきたのでは。
「松田さんと彼女、うまくいくといいと思いながら、きっと駄目だろうなともわかっててさ。化粧が濃い人、松田さん嫌いじゃん」
……まあな」
 松田は女性と付き合った当初、わからなかったのだ。女性の化粧にかかる時間も費用も、その全てを。特に今の彼女は一番時間がかかって、朝早くから鏡の前を独占することが多かった。隠すことなどなにもないのに、素顔の隙間も見えないほど埋められた皮膚は艶やかにマットで、陶器のような肌が完璧に作り上げられていた。
「きのこと住んでると嫌でも配信で取り上げられる。外に出れば変装しないと気づかれる。そんな中松田さん家に来るのが一番安全だった。はっきり言って、僕は松田さんを利用してたよ。僕の身の安全と、気持ちの問題ってだけで」
「おう」
「それなのに、一緒にいるのがいいなんてさ……松田さん、騙されてるよ僕に」
「お前は、騙してるつもりないんやろ?」
「ない。勝手に騙された松田さんが悪い」
「ならそれでええから」
 なぁ、と頼りない声をわざと出してみる。弱った、困った、お前を落とすにはどうしたらいい。と含んだ吐息を漏らせば、山田が「捨て犬みたいな顔しやがって……」と絆されてくれる。頬を、顎を撫で、薄い唇に親指を当てると、山田は最後の抵抗をした。
「こんなの、割に合わない」
 と文句が始まるから、なにを要求されるか身構えていると、
「松田さん、この間言いかけてやめた、ラジオの話してよ」
 と打って出られた。
 松田は色めいていたはずの息遣いを落胆に変え、せっかく近づいていた顔をがっくりと項垂れさせる。勝ち誇った山田の顔は、ともすればかわいいものにも思えたが、それは惚れた弱みでそう見えただけで、実際は非常に腹の立つ顔なのだろう。
「ラジオ……ラジオ、な」と観念して、松田は座り直した。
「お前と会う二年前に出たわ。古代史博物館の特集で、毎週昼にゲスト呼んでな」
 一ヶ月限定の番組で、地方では有名なDJが司会をしていた。松田の他に数名のスタッフが狭いブースにひしめき、松田は窮屈な思いをしながら出番を待った覚えがある。台本を渡されて話した内容は努めて平坦なもので、これは果たして自分が出なくても良かったのではないかと散々思いながらマイクに向かっていた。編集をされて後日放送されると言われて聞いた自分のラジオの声はあまりに嫌で、内容も薄っぺらく、二度と出演するかと嘆いた。
「それって」
「配信は残ってへんからな」
「まだなにも言ってないじゃん」
「うっさいわ。お前のやりそうな嫌がらせはすぐわかる」
「たとえば?」
……知らんけど。配信を消えへんように録音して、弱み握っとくんやろ」
「んはは、それいいね」
 無いのが残念だよ。と言い、山田は諦めたように笑った。
 あのラジオに出演したときの心境は、ちょうどさっきの頼りない自分と似ている。初めてのものに対して、驚くほど無防備な自分は、ラジオのときは早く終わってくれと願っていたのに、山田の前ではもっとその時間が続けばいいと思った。これに関しても、山田には一生バレてはいけない。
「ねぇ、蕎麦食べに行こう」
 なんで蕎麦やねん。と言いたいが、堪えて山田の次の言葉を待つ。
「細く長くよろしくお願いしますって意味があるんでしょ」
……そら、年越しに食うからやけど……まぁええわ。食いに行くか」
 いつもならここで「やった」とでも言って楽しそうにスニーカーを履く山田が見られるが、今回はもはや戦場へ赴くような顔つきをしていた。契りをかわすのでもないのに思い詰めているのはなぜかと思ったが、ぶつくさ言っているのを耳で拾えば、「僕が……絆されて、松田さんと一緒に暮らす……?」と全然納得していない様子を隠さないし、細く長く、なんて言い出したのはお前やろ、と言いたくなった。その表情がいつか和らいで、ぎこちなさが取れて、向かい合えるようになるには少し時間を要するだろう。松田だって同じだ。四十にして慣れないことをやった。もう二度とこんなことは訪れないはずだ。山田で最後の人──そこまでを考えて、額に手を当てた。おめでたい恋愛脳を振り払うべく、とっとと外へ出ようと山田を促した。
 ──さて、困る問題が一つだけある。それに関しては、かなり重要で、センシティブで、どうすればいいかさすがにきちんと相手と──今回であれば山田と話し合わなくてはならなかった。ここばかりは適当ではいけない。彼女とはすでに折り合いをつけ、こちらで引き取ると決めた。最初は渋々だったのに、結局情が移った。その移ろいの過程も、山田と過ごしていく内に身につけたものかもしれない。
「それでな」
 松田は息を吸い、ここからが本題だと咳払いをした。玄関を出る山田が振り返る。
 靴の近くに落ちていた、いつからあるのかわからない白い毛束を見ながら松田は言った。
「犬が、今度から一緒に住むんやけど」

 ◇

(谷原)

 山田は松田からポメラニアンの話を聞いて以来、いまだに腹が捩れるほど笑えるらしい。
「あの松田さんが! 昔、彼女と犬見にいって! 彼女の家で飼ってたんだって、絆されたからって!」
 今思い出してもだめだ、笑える。と言いながら、谷原は先ほどから延々と続く山田のバカ笑いを上の空で聞いていた。今日はこれから心霊配信をやるというのに、配信準備中もせっせと段ボールに最後の荷物を入れていく後ろの男のせいで、視聴者が寄り付かなくなりそうだ。
 あんな強面で屈強な男が、彼女と付き合って犬を飼おうと言われてペットショップに行き、ポメラニアンを購入した。おそらく犬種は彼女の趣味で、彼女に合わせてやって──あのデリカシーのかけらもなく、かわいいものとは無縁そうな松田が! と山田は言いたいのだろう。彼女ができた男がやるド定番を地でいくような行動を、ちゃんと松田もやるのだと思うとたしかに意外性はある。
「いや、なんか毛があるな〜とは思ってたよ。白い毛がズボンにたくさんついてるな、ってときあったから、彼女さんの飼い犬だろうなってしか考えてなくてさ、僕も」
 あ、元カノ、か。そう言ってビッと音を立ててガムテープを引き出し、手際よく梱包を一つ終える。次に入れるのはキャンプ道具だが、おそらくあれは松田の車に適当に積み込めば終わりだろう。むしろ積み込みっぱなしにしておいて、どうせ毎週末に釣りやキャンプに二人で行くようになるのだから、そのまま入れておくのがいい。谷原でもそのくらいの想像はつく。アウトドアな趣味を持つ友人二人が、さらには犬まで飼うのだ。これはもう犬連れ旅行待ったなしだろう。谷原は「山田もさ」と天を仰ぐ。
「あんまり人のこと言えないね」
「え、なにが」
 ヒイヒイと目尻の涙を拭いながら次の段ボール制作に取り掛かっている男に、谷原は釘を刺す。
「彼女と別れたばっかの男の家に転がり込んで、飼ってる犬と仲良くなって今度キャンプ連れてくんでしょ?」
 じゅうぶん冷笑対象なんじゃない? と言えば、バカ笑いはようやく収まり、部屋の空気がシン……となる。やれやれ、と谷原は肩をすくめた。こっちだってその身の変わりように笑いたくもなる。
……きのこ、言い方」
「だってそうじゃん、その浮かれ具合とかもさ」
「浮かれてない」
 あんなに手際よく進んでいたパッキングが、一気に遅くなる。谷原は慌てて山田にとって前向きなことを言おうと言葉を選ぶ。早くここからいなくなってもらわないと、また配信中に面倒くさくなるからだ。「山田くんなにしてるの?」とか「同棲乙」とか、どうでもいいコメントで埋まるのは本意ではない。
「良かったね、まともな人と会えて」
 ──谷原は知っている。
 山田と大学のサークルに入ったころ、同い年だった自分たちは先輩との関係性がそこまで良かったわけではなかった。その中で黒沢や眉崎、清水とはまだ価値観も合ってつるむようになったけれど、性根の悪さやうっすらと見える損得勘定がしっかりと根付いていて、利害の一致で結ばれた間柄なんだと次第に諦めていた。谷原は自分のチャンネルが伸びるのであれば構わなかったし、山田も出会った当初とは違う傾向の文章を書き始め、炎上もアンチもファンの質を保つのも、うまく波に乗ってやっていた。おそらくサークルで知り合った四人の中で、インターネット上の行動は山田が圧倒的に優れていたと言える。
 社会に出てまともじゃない人間の母数が多くなり、つながっていくのは必然的にそういう闇を抱えた人間や日々に不満を抱えて、谷原や山田の言動を通して社会を見ているような人間ばかりだった──媒体がなにであろうと、ただそこにサンドバッグがあればいい、と暗に顔に書いてあった。日に日に疲弊しながら、表面上ではそういうのを嘲り笑っているようにポーズしていた。もはや、ポーズなのか本心なのか。
 谷原はまだ心霊現象という目に見えない物に対する不可思議さを相手取っていたから、たとえそれの真偽が降りかかっても、「霊だから」で済ませられる。が、山田は対人間だ。そこは谷原が唯一、まずいものを相手にしたな、と思った瞬間だ。あんなに上手く波に乗れる山田にしては珍しく、そこに固執して記事を書き始めたのだから。
 山田がPVにこだわったのも、多少の炎上も厭わなくなったのも、谷原は商売として、利益の追求や傲慢な性格の部分を満たすためという名目として、ありだと思っている。谷原も同じだからだ。ビジネスに数字を追い求めることはなにも悪くない。
 ではどうして谷原と一緒に住んだのか。ときどき一人でキャンプをして帰ってこないのか。仕事の付き合いで松田と出会い、懐いたのか。松田が彼女と上手くいくようにと、今までだったら考えもしなかったことを言い出したのか。山田は満たされなかった小さい自分を受け止めようとしている。まともな人間へ戻ろうとしている。
 山田といるときに、松田がリラックスしていることを、嬉しいと思いながらそこに彼女の影を感じていただろう。山田は人生できちんとした友情を築いてこなかった。そのせいで松田の向ける山田への思いが、思慕なのか友愛なのか単に──下心もあるような思いだったのかとわからないまま、ぐちゃぐちゃの心で松田との同居を始めるのだ。
(松田さん、かわいそうだな)
 人間の悪たる一部分でしか人間を捉えられていなかった山田が、そうではない男と住む。きっと正され、間違いを認めさせられる。松田もそればかりを説教する立場だから、きっと苦労するだろう。それでも選び、選ばれたのは──人というのは、本当に変わるものだな。と山田の悔しそうな顔を見て思う。
 その道を山田が選んだという事実が、谷原には奇妙に映った。積み上げられる段ボールの数がその証明のように、なぜだが大きな壁に見える。
(山田事変、山田の産業革命、山田の第三次性徴)
 脱皮する瞬間に立ち会っているようだ。谷原は失礼なフレーズを思い浮かべながら少し心が躍った。そうしていると、山田が口を開く。
……まぁ、松田さんは僕らよりずっとまともだよね」
「えぇ? きのこさんはいつだってまともです」
「まともな人間は心霊配信のために山奥の山荘になんて行かないんだよ」
「そういう人たちもノリで肝試しするかもしれないじゃん! それに今回はちゃんと一人で行って、撮影してきたんだから」
……アーカイブ、ちゃんと見るから」
「はいはい、リアタイしないんでしょ。仲良くやっててくださいね」
「そんなんじゃ」
「ほら、部屋出た出た。段ボールの移動とか手伝わないから」
 谷原が山田を部屋から押し出し、積まれた段ボールもついでにドアまで引きずった。床に傷がついたのは明日以降残りの荷物を取りに来たときにでも直してもらうとして、まもなく始まる配信開始を前に、椅子に座って体勢を整えた。マイクの調子を確かめながら、画面を見る。
 インターフォンが鳴った。配信開始ボタンを押す手を止められなかった。視聴者の開始を待望していたコメントが増えていく。「松田さん、きのこならあっちだよ」と聞こえ、部屋のドアが無遠慮に開けられる。画面に映るきのこの後ろで、図体の大きな男が現れる。白字のコメントがきのこの右側に無数に連なり出す。
「すまん。菓子折り持ってきたからここ置いてええ?」
 ──案の定、翌日のSNSのトレンドには、山田と松田と谷原について書かれていた。