氷酒
2026-07-08 02:13:50
2567文字
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『ふきこぼれ』

まりみや組/やわらかな希求ネタバレ有。後日談その2/嘔吐表現あり

吹きこぼれ

「さて、夕飯どうすっかな……
「平気? なんか買ってこようか?」
「簡単なものなら出来んだろ。リクエストは?」
「じゃあ〜、オムライス!」
「簡単って言っただろうが。早く食いたいなら手伝え」
「勿論!」
……材料切るのはお前の担当な」
「? うん!」







 部屋の中はひどく静かだった。窓の外からはいくらか人の声はするが、朝や夕方程の喧騒はない。
 平日の昼過ぎ。真倫は一人で、自室のキッチンに立っていた。
 美夜は来ていない。先日の一件で大きく体調を崩した自分は半強制的に療養中であるが、大きな怪我もなかった美夜は早々に仕事に復帰していた。出る時の美夜は今日もかなり後ろ髪を引かれた様子で、「できるだけ早く帰るから」と何度も告げていた。
 あの一件から幾らかの時間が過ぎたのが、それでもなお自分は酷い顔をしているのだろう。大丈夫だ、という度に美夜は痛そうな顔をしている。まるで、自分が怪我をしたように。
 もう、彼の身体の怪我なんてどこにもないというのに。
…………やるか」
 物思いに耽っていては、すぐに時間が経ってしまう。真倫は一つ息を吐き、思考を切り替えまな板に向かう。
 夕飯の準備にはいささか早い時間だが、作り置きをしておきたいものもあるし、体力が落ちてしまった身体ではまだ以前の調子で動くことが出来ない。
 それに、もう一つ。真倫には確かめなけれればならないことがあった。


 まずは野菜の下拵え。キャベツは軽く水で洗い、一部はサラダ用に一口大に千切っておく。その他の野菜も扱いやすい大きさに切り、ラップに巻いたり、面倒にならないレベルで長持ちするように保存する。
 玉ねぎやじゃがいなどの根菜類にも包丁を入れる。よく手入れされたそれは何なく刃が通り、まな板にこつりと当たった。
 慣れた作業だ。始めた時こそ苦戦はしたが、何年と続けるうちに苦も無く出来るようになった。
 あらかた切り終わる。
 大きく息を吐いて包丁を置く。
……
 ここまでは出来た。特に問題はない。
 半分は今日の夕食用にボウルにいれ、レンジで軽く火を通しておくようにする。もう半分はタッパーに入れて明日以降に使うつもりだ。
 冷蔵庫にしまうついでに、次の食材も取り出した。
 まな板の上に置いたのは、発泡トレーに入った豚肉だった。美夜がその方が喜ぶからという理由で、シチューの際はお買い得のブロック肉を買い、大きめにカットしているのが真倫の食卓の常である。
 トレーのラップを外し、肉をまな板の上に置き直す。冷蔵庫で保存されていた肉は冷たく、触れば生肉独特の、湿った感覚が走った。
「っ……
 ぬるりとした何かが纏わりつく錯覚を覚え、息が詰まる。反射的に手を引きかけるのを意思の力で抑えた。
 思い出したくない。思い出してはいけない。
 大丈夫だ、大丈夫だと何度も心の内で繰り返す。
……平気だ。普通の肉だろ」
 一度目を閉じて息を吸う。再び目を開けてそれを見た瞬間。

 まな板の上が、一面真っ赤な血の海に見えた。

「ッ――!」
 
 悲鳴を上げかけ、必死にそれを押し殺した。無意識に大きく後退していたのか、後ろに置いておいた椅子にぶつかって我に返る。
 もう一度肉へと視線を遣る。そこにあるのは、取り出した時と変わらない、何の変哲もない、肉の塊だった。
 ばくばくと心臓が早鐘を打っている。あたりは静まり返っているはずなのに、耳の奥でキンと高い音が鳴った。
 意識して肺を膨らませるように息を吸う。
 もう一度みても、目の前のソレに変化はない。

 大丈夫。大丈夫、大丈夫だから。

 カラカラに乾いた喉に無理矢理唾液を飲み込み、一歩踏み出した。
 包丁を掴む。あとはただ、これを使って切るだけだ。
 何を。この、薄い桃色の塊を。
 手に脂が触れる。そうだ、筋に沿って切って、分けるだけ。何度もやってきた、簡単なことだ。
 肉に刃を立て、引いた。微かな抵抗の後に、刃が通る手応えがする。そう、簡単なことなんだ。

 ――だってこれよりもっと大きくて、血生臭い肉を切り開いたことがあるのだから。

「あ――
 
 ぞっと、背筋が寒くなる。なのに身体中から冷たい汗が吹き出した。

 赤い光景。鉄臭い、白い部屋。
 ペンキをひっくり返したような赤。ナイフを持つ自分。それを肉に突き立てて、開いて?
 伝わる感触はあの時と変わらない。いや、あの時はもっと苦労した。硬い骨があったから。
 そして、切り開いた幕のその先。最奥にあったアレは。


 そうだ。ちょうどこの肉塊と同じくらいの大きさの。


「ぐ…………!」


 ぐっと喉の奥から酸味を帯びたものが込み上がる。同時に、内臓をひっくり返されたかのような不快感。

 取り落としたかけた包丁を辛うじて調理台の上に置き、そのままトイレへと駆け込んだ。半端倒れ込むかのような勢いでしゃがみ、せり上がってきたものを吐き出す。それでも出てきたのは薄い色のついた胃酸ばかりだった。
 ああそうだ。朝に美夜と一緒に食べて見送った後、一度吐いたのだ。その後、そういえば何も食べていない。
 それでも身体は全てを吐き出すまで気が済まないと訴える。吐くものなんてないのに、何度も、何度も。
 頭が痛い。手足が冷たい。耳鳴りが強くなり、視界が明滅する。

 覚えている。覚えてしまっている。
 あの冷たい肉の感触を。肉の赤さと、隙間にある脂肪の白さを。ずっしりとしたあの重みを。
 自分のエゴが、齎した行動を。
 ずっと、忘れられないでいる。
………………
 どれくらいそうしていただろう。
 トイレから戻ってふと外を見れば、だいぶ空は暗くなっていた。記憶が大分あやふやだから、もしかすると少し意識が飛んでいたのかもしれない。
 美夜が帰ってくるまで、きっとあまり時間はないだろう。夕食の支度を事前にすることは、多分無理だと悟り、苦笑した。
 体が重い。ソファに座って休もうとしたが、バランスを崩して倒れ込んでしまった。そのまま、起き上がることが出来ない。

「なにやってんだか………

 その声は酷く掠れ、自分でも笑ってしまうほどに情けないものだった。