景生
4181文字
Public 完花
 

空間

※成人後同棲設定 ※花村喫煙描写


 隣の部屋に住んでいる高齢男性の挨拶が不躾であることを除けばこの古びたアパートで送る生活の日々はそこそこ充実したものなのかもしれない。巽は溜まっていた洗濯物を干しながら快晴の空を眺めてそう考えた。
 小さなベランダに二人分の下着を吊り下げていると、不意に玄関の方から声がしてくる。手を止めて耳を澄ませば花村の声が聞こえたので、ああ、あの人はようやく帰って来たのかと巽は洗濯を中断して玄関まで向かった。
 扉を開けると廊下には花村と隣人のなにがしさんが居た。二人は顔を突き合わせながら何やら言い争っている最中で、苛立った花村がクソジジイこの野郎と荒々しく怒鳴り散らしてから、うるせえな毎日毎日、と嫌気が差したように隣人の男に向かって中指を立てている。高齢の隣人は負けじと小さな拳を突き立てて牽制し、喧嘩を買うのに備えていた。
 巽は一触即発の現場を見て、やれやれと頭を抱えた。
 事なかれ主義であるはずの花村をここまで怒らせているその隣人の男は、巽達と顔を合わせる度に二人の関係性を激しい言葉で罵ってきていて、そのしつこさに堪忍袋の緒が切れた花村がこうして人目も気にせず言い返すことが当たり前になっているのだが、それが今日も変わらずに繰り広げられている。見慣れた光景を目の前にして巽は二人の言い争いに介入すると、今度は隣人の怒りの矛先が巽に向かってきた。相変わらず酷い言葉を連ねながら引っ越せだの何だの唾を飛ばしてくる彼に巽はいつも通りその対応を持て余す。
 なんて元気な爺さんだ、うるさい口は止まらない。自分のように大柄で威圧的な男を目の前にしても一切怯まずに罵倒してくる彼には一種の勇敢さが垣間見えてくるようで、巽は不本意ながらも感心を抱いていた。その度胸をもっと有意義なものに変換してほしいものだがこちらが赤の他人である手前、隠居後の老人に物申してやる義理も無いので「爺さん、勘弁してくれよ」近所迷惑だからと追い返しながら巽は怒っている花村を宥めて部屋に戻った。
「引っ越す、明日引っ越す」と花村は鼻息が荒い。
「それ昨日も言ってたじゃないすか」
 荷物を纏めろと言い出す花村に巽は呆れながら洗濯物の続きに戻った。同居しているはずの花村が家事を全くしないので休日は朝からやることが山程あるのだ。それなのに稀にある夜勤帰りで神経が昂っているのか花村は興奮冷めやらぬといった態度で終始、巽に何やら話し掛けてくる。
 はいはいと聞き流しながら家事を続けるも花村にはその反応が気に食わないようで、今度は膨れっ面で駄々を捏ねてきた。巽はそれが段々と鬱陶しくなり、良いから寝ろ、疲れてるんなら寝ろと一喝して花村をベッドに追いやるのだが、狭いワンルームではほとんど距離も置けないので喧しい声は変わらず耳に届いてきた。
 そろそろ彼の言う通り引っ越した方が良いのだろうか、と巽は考える。当時は立地と二人の条件が兼ね合う最適な場所がここくらいしか無かったのでこうして住むに至ったのだが、今は隣人問題も抱えつつ男二人が住むには手狭な空間であることは確かなので、もっと広い部屋に住む選択肢が無いこともない。もしかすると新しい物件情報があるかもしれないのでそれならば「分かったよ。今度、部屋でも見に行きやしょうか」と巽が振り返るのだがそこに花村の姿は無く、代わりに浴室の方からシャワーの音が響いてきた。
 せっかく人が前向きになってきたのにタイミングの悪い奴だと思いながら巽は再び家事に集中した。どうせ荷造りが面倒だと花村が言い出すに決まっているので引っ越しはまだまだ先の話になりそうだと予感する巽だった。

 昼頃になると花村がくしゃみと同時に目を覚ました。換気のために開けていた窓の風が彼の身体を冷やしてしまったらしい。悪い悪いと言いながら巽は窓を閉めて、鼻を啜る花村の傍に近寄った。眠気混じりの垂れ目が巽を上目遣いに覗き込んできたので、おはようと寝癖の頭を撫でてやる。すると寝惚けた花村がその手に擦り寄ってきて甘えた顔を見せてくるので、巽は目の前の可愛らしい光景についつい犬猫を重ね見た。錯覚に誘われて彼の顎の下をまるで動物さながら撫でてやるのだが当然そんなことをしても人間相手にはくすぐったいだけなので、花村は少し笑みを溢して顔を背けた。
「なに。完二ちゃん」
 身近でしか聞けない寝起きの掠れ声。花村は気怠げな気配を抱えたまま、何か企んだような目付きで巽の指先に軽く吸い付いてくる。反射的に巽が手を引っ込めようとすると手首を掴まれて阻まれるので、ああ、まずいまずいまずい、彼をその気にさせてしまった。と慌ててベッドから離れようとするのだが「おい」と手首を引っ張られ、どこに行くのだと制されると巽はそのまま逃げ場を失い、身動きが取れなくなってから花村の揶揄うような眼差しに捕まった。邪な気配に包まれて巽はどうしたものかと頭を掻きながら、まいったこれは全く可愛らしい生き物じゃないと後悔する。
 獰猛な本性を潜ませてこちらの領域に侵入してくる花村の手付きはまるで捕食者のように巽を追い詰めて、使い込まれたベッドを軋ませてくる。重なりそうになった唇を前にすると、巽は慌てて自身の手の平を間に滑り込ませた。
 こうして彼の方から誘われることには満更でもない巽であったが、しかし真っ昼間に盛るとあの口うるさい隣人の怒りをまた買ってしまう恐れがある。そんな醜態を繰り返すわけにもいかず、巽は据え膳を前にどうにか理性を働かせながら「先輩、引っ越したいんだろう。ほら、部屋探しでもしましょうや」とインターネットでも不動産屋でも良いからとにかく別のことに意識を向けさせることにした。
「どこに引っ越すんだよ」と、花村は不満そうに離れる。
「ええと、ほら」巽は空いている手で素早くスマホから賃貸物件を検索すると、それを花村に見せた。「ここ。こことかどうすか。駅近だしよ、広くて良いんじゃないんすか」
 花村が画面を覗き込んでくる。しかし彼はちらりと見ただけで家賃が高いと言ってすぐに興味を無くしてしまい、じゃあこれはどうだと別の物件を紹介しても返事は曖昧で視線は上の空だった。それから何を話しても無視されるようになってしまったのですっかり拗ねてしまった花村に巽は失態の表情を浮かべながら「なあ」と彼のそっぽを向いた顔を自分に向けさせた。「悪かったって」
 すると、じろりと睨まれるのでその子供染みた彼の態度に呆れそうになった。これが年上のする顔だろうか。
「隣の爺さんだけじゃなくて、俺とも喧嘩すんのか」
 巽はそう訊ねながら自分はそれを望んでいないと主張し、謝罪を込めて花村の身体を引き寄せる。こうしてあんたとくっ付くことに何の抵抗も拒絶も無いですよ、むしろこういうことを俺は望んでいますよと伝えるように愛でるような意思を持って触れていけば、限界のやってきた花村が苛立たしげに唸り「煙草」と怒鳴って巽から離れていった。
 すぐ傍の台所で火を付け始める花村を眺めながら巽が、
「あんた抱かれる抵抗は無いのに、まるでぬいぐるみ扱いは恥ずかしいっすか。先輩って可愛いよな」
 からから笑ってしまえば花村から「うるせえ」と吐き捨てられて再び彼の機嫌を損ねることとなったが、巽はそんな彼の様子に満足しながら昼食を作るために立ち上がった。
「なに食べたいすか」と巽は訊ねる。
「何でも良い」不機嫌ながらも花村は答えた。
「どんな部屋に住みたいすか」
「うるさくねえところ」
 花村はそう言って煙を吐き出すと、巽にもどんな場所に住みたいのかと同じ質問をした。巽は隣で料理の準備に手を動かしながら少し考えてみるのだが、今ほど喧しいような隣人に遭遇しなければどこでも良いのではなかろうかと思った。ここという場所にこだわりは無いのだ。何なら八十稲羽に帰っても良いくらいだと「じゃあ、俺の実家でお袋と三人で暮らしましょうや」なんて言ってしまうのだが、花村は煙草を吸い続けながら答えづらそうな顔をして黙ってしまった。
 巽はそれを見て、はははと笑った。
「なら、俺が先輩の実家に住むか」
 その言葉で花村は冗談であると察したようで、少し怒った顔をしながら巽の脚を軽く蹴ってくる。巽はそれを無視して懐かしいジュネスのテーマソングを口ずさむのだが、そうすると彼からもっと強く蹴られることになったので「痛ぇよ」と抵抗しつつも手を洗いながら狭い台所での調理を続けた。
 花村は煙草を灰皿に押し付けるとまたもや拗ねた様子でソファーに戻って行く。振り向けば無愛想な顔付きにじとりと見つめられたので、ああ今日も彼は我儘に過ごしているなと、そういう顔を見るとどうしてだろうか甘やかしてしまいそうになるのだと巽は自分の贔屓さに苦笑した。
 そんな平穏な時間を遮るように、不意に大きな物音が響いてくる。どうやら例の隣人が自分の部屋からこちらに向かって壁を叩いているようで、巽達はそんな騒いでもいないはずなのに何やら彼の気に障ったのかうるさいうるさいとこちらに苦情を申し立てるのが聞こえてきた。花村は背後の壁から喚いてくる声に舌打ちをすると立ち上がり、それを拳で叩き返してから、おいうるせえのはてめえだろうと隣人に怒鳴り返した。巽は料理を中断して花村に壁が壊れるのでやめろと注意しながら、向こう側にいる隣人に謝りつつも彼に向かって同じことを言ってやった。するとそれが何であろうかと、だから何なんだと言わんばかりの怒号が返ってくるのでそれを聞いた花村がまた苛立ってクソジジイの減らず口を塞いでくると玄関の方へ歩き出すものだから、こらこらと憤慨した彼を止めながら、やはりこの場所に関しては早々に引っ越した方が良いのだろうと悟る巽であった。
「はいはい、先輩。よしよし」
「完二。お前、俺を舐め過ぎだろ」
 昔は宥めるのが逆の立場だったはずなのに、ここでこうして一緒に暮らし始めてからというもの時間が経つに連れて互いに様々な面が垣間見える。密接な感情の触れ合いが吉と出るか凶と出るかそれは神のみぞ知るところではあるが、今日も今日とて馴れ合いばかり起きる小さな部屋はあらゆる音を染み込ませて、二人を世俗的な営みに包み込んでいた。