「魚料理としての仕事」への行き来は基本的に送迎がついていたが、時折徒歩でホテルとゴルツィネ邸を行き来せねばならないことがあった。それが、ゴルツィネの多忙故か鎖をつけずともペットが逃げ出さないかテストをするためだったのかはわからないが、アッシュとしては一人でいるほうが余程気楽で好きだった。
そしてそういう時、アッシュは極力人気の無い道を通るようにしていた。厄介ごとに巻き込まれる危険が高まることを承知で、それでもとても堂々道の真ん中を歩くような気にはなれなかったからだ。
つまりその日も、アッシュは視線を落としながら寂れた路地を歩いていた。
このまま消えてしまえたらどんなに良いだろうと思っているのに、耳は敏感に周囲の気配を探り危険が無いかを確かめている。最早自分の身などどうでも良いと思っているのに、己の安全を守るためにアンテナを張り巡らせることを忘れない。
なんてちぐはぐだろう。アッシュは心の中で自嘲した。
それだけじゃない、今の恰好だって「ちぐはぐ」だ。
アーガイル柄のベストと真っ白いシャツ、ひざ丈のグレーのズボンに、ワンポイント入りのソックスに磨き抜かれた革靴――……。服装ばかりは金持ちの家の子どものような恰好で、やっていることといえばペドフィリア共の性欲処理だ。アッシュはゴルツィネに飼われるようになってから、上流階級の変態はいかにも「優秀で大人しい子ども」を好むらしいと知った。そんなこと、本当は知りたくなんてなかったけれど。
そうやって己の不協和を思い思考に沈みかけたとき、アッシュの耳がかすかな物音を拾った。
「……?」
咄嗟に顔を挙げて身構える。鋭く視線を周囲に走らせ、気配を探る。けれどどれだけ注意しても、それらしき人影は見当たらない。
勘違い? いや、でも……。
なんとも言えない予感のようなものに背を押され、アッシュは周辺を探索した。
そして、見つけた。
ダストボックスの隅に丸まっている小さな黒い毛の塊だ。それはぷるぷると小刻みにふるえ、命ある「何か」であることをアッシュに伝えていた。
「猫……?」
アッシュが思わず呟けば、それに呼応するように毛玉からぴょんと耳がはみ出す。小さな、けれど長い対の耳はどうみたって猫のものじゃない。うさぎだ。
うらぶれた路地のダストボックスの影に、小さなうさぎがいる。
今の状況をまとめるとこういうことらしい。アッシュは困惑し瞬いた。猫ならともかく、うさぎなんてこの都会の路地に生息しているものじゃない。
アッシュが混乱しているうちに、小さなうさぎはぴくぴくと耳を動かして、それからゆっくりと動き出す。毛の塊にしか見えなかったものに顔と身体の分別が生まれ、真っ黒な毛の中でも一層艶やかな瞳がぱちぱち瞬いてアッシュを見つめた。
しばし、無言。
「あ、おい」
アッシュは慌てて声をあげた。うさぎがのろのろとアッシュの脚元に近づいてくると、何を思ったかアッシュにすりすりと身体をこすりつけてきたからだ。靴下越しに生き物の柔らかく温かい感触がして、アッシュはただただ戸惑った。
アッシュを見て逃げるどころか擦り寄ってくるなんて、きっと誰かのペットが逃げ出したに違いない。この小さな身体ではそう遠くへは行けないだろうし、だとすれば飼い主はこの辺りに住んでいるに違いない。きっと今頃必死になって探している。アッシュがこのうさぎを連れて行ってしまえば、再会は遠のくことだろう。
それでも――……。アッシュは困惑のまま周囲を見回した。
道を一本向こうへ行けば多くの車が行き交う大通り。ゴミを狙う烏にとってこんな小さなうさぎはごちそうだろうし、意地の悪い野良猫にしてみれば格好のオモチャだ。それに、なんでもない顔をしてとてつもない嗜虐性を隠している人間だってわんさかこの街には居る。
もし、飼い主に出会う前にそういう連中に見つかってしまったら……? このうさぎの未来は決して明るくないだろう。それを思うと、アッシュの腹の底がぐっと重くなった。
けれど、だからって、連れて帰ってどうなる? アッシュが連れて帰ってしまえば、それこそ飼い主と再会できる可能性は天文学的な数字になる。それに、アッシュの今の状況で動物の飼育なんてとても現実的じゃない。
ぐるぐると様々な感情が入り乱れる中、アッシュは気付けばしゃがみ込んでいた。
すりすりと足首あたりに身体をすりつけていたうさぎは、ぴくりと耳を動かしアッシュを見たかと思うと、差し伸べられたアッシュの指先―これも、気付けば手を伸ばしていた―に何の警戒心もなくふんふんと鼻先をこすりつける。そして、
ぺろ
「っ……!」
柔らかく暖かかった。それがうさぎの舌だと理解するころには、うさぎはすっかりアッシュの指を気に入ったらしく何度も何度も繰り返しぺろぺろと指先を舐めてくる。
少しくすぐったくて、心地良い。指先を舐められる経験なんて(最低なことに)何度もあったが、あの時の最低な感情とは似ても似つかないものがアッシュの中で渦巻いていた。
アッシュはぐっと奥歯を噛み締めると、ついに観念してうさぎの身体をもちあげた。うさぎは見たままに軽く、けれどふわふわでやわらかい。
アッシュはそっとうさぎをベストの下に隠す。もしゴルツィネに見つかれば、面倒なことになるのは間違いないからだ。
「悪い、少しだけ……大人しくしててくれ」
アッシュの言葉が通じたわけでもないだろうに、兎は少しの間もぞもぞと動いた後はただ静かにベストの中におさまっていた。
やはりうさぎを連れてきて正解だったとアッシュが思ったのは、ゴルツィネの屋敷に戻り自身にあてがわれた部屋にたどり着いた時だ。なんと、アッシュのベストの中でうさぎは眠っていたのだ。
ぷうぷうと間抜けな寝息を立てる毛玉を見て、アッシュは愕然とした。いくら飼われていたからって、動物がこんなにも警戒心なく居られるものだろうか? あそこに置いてきていたら、間違いなく命を落としていただろう。それに、こんな呑気な生き物をみすみす逃すような飼い主の手元に置いておくのだって心配だ。
アッシュは小さく溜息を吐く。とにかく、連れてきてしまった以上はアッシュが世話をする他にない。アッシュはもう、あらゆる困難苦難を乗り越える決意を固めてしまった。
そうと決まれば、まずはうさぎのための環境を作らねば。差し当たっては餌だろうか。適当な箱にタオルを敷いてそこにうさぎを置くと、うさぎが食べられそうなものを持ってくるべく、アッシュは一度部屋を出た。
そして再び部屋に戻った時、アッシュは自分の目を疑うことになる。
うさぎを入れた箱は壊れていた。そしてその箱を圧し潰すようにして、少年が眠っていた。年はアッシュよりも下くらい……多分、十かそこいら。すっぱだかで、ぷうぷうと呑気な寝息を立てている。真っ黒の髪の毛や目鼻立ち、肌の色から、彼が恐らくアジア人であることがわかった。
そして何より特徴的なのは、その頭頂部から生えている一対のうさぎの耳だ。髪の毛と同じように真っ黒のそれは、作り物ではないことを示すようにぴこぴこと小刻みに動いていた。角度の問題で見えないが、尻を見れば黒くて丸いしっぽが生えているのかもしれない。
――ひろったうさぎが、子どもになった……!?
ありえない話だ。ありえない話だが、けれどそれくらいしか思いつかなかった。ここは腐ってもコルシカマフィアのボスの屋敷で、警備体制は整っている。アッシュが部屋を留守にしてからまだ十分程度しか経っていないし、何より少年の頭頂部には耳が生えているのだから。
アッシュが混乱のあまり動けずにいると、ぴくぴく、と少年の瞼がゆれた。ほどなくして見えた瞳は、髪の毛と同じくらい真っ黒だった。寝起きのせいか、微かに瞳が潤んでいる。アッシュの心臓は大げさなほどに跳ねた。
「アリス……?」
「…………」
少年のふっくらとした唇から漏れたのは、問いかけのような、独り言のような言葉。それにも何も答えられないでいると、少年がもぞもぞと起き上がりだした。小さな手でごしごしと目をこすって、そしてようやくその瞳にアッシュをうつす。ぴょこん、とうさぎの耳が立ち上がって、少し慌てたようにゆれた。
「……え、わ、僕寝ちゃってた! ご、ごめんなさい! 温かくて気持ち良かったから……」
「お前は……」
眠っている間も幼いと思っていたが、喋り始めると一層幼さが強調されるようだった。もしかしたら、まだ十歳にもなっていないのかもしれない。
少年は少し気まずそうに頬を赤らめると、アッシュを見て言った。
「ええっと、僕はエイジっていいます。それで、アリスを探しにきました」
「アリス?」
「それは……へぷちっ」
何らかの説明をしようとしたはずのエイジの口から飛び出したのは、小さなくしゃみだった。ぷしっ、ぷしっ、というくしゃみが繰り返されるのを聞きながら、アッシュは溜息を吐いた。
説明させねばならないことは山ほどある。けれど今は何より、エイジに服を着せることのほうが先らしい。
そうしてアッシュの服を着たエイジ(幼く見えたけれど、身長はほとんど変わらなかった)の説明はこうだった。
自分はワンダーランドからやってきたうさぎで、「アリス」を探してこの世界にやってきた、と。「アリス」は個人の名前ではなく、この世界に生きる特別な力を持った子どものことで、「アリス」をワンダーランドに招待することがうさぎの一番の仕事なのだ、と。
「特別な力?」
「うんっ。アリスはね、夢を見る力をもっているんだ。アリスの夢が、ワンダーランドを豊かにしてくれるんだよ。だから、これはとってもとっても大事な仕事なんだ」
「へえ……」
アッシュはぼんやりと頷きながら、アッシュは何度もイカレた自分が見ている幻覚の可能性を考えた。けれど目の前でくるくると表情を変え説明するエイジの姿はあまりにもリアルで、そっと手をにぎりこみ立てた爪は確かに痛む。
ならば本当に、こんなことが現実に起こりうるのだろうか。アッシュは渋い顔で考えた。
けれど、これが現実にせよアッシュの妄想にせよ、確かなことが一つあった。
彼が探す「アリス」は自分ではあり得ない、ということだ。
ワンダーランドを豊かにしうるほどの夢を見る力というのは、きっと暖かく幸福に満ちた環境を生きてこそ生まれるものだろう。寝ても覚めても悪夢の中に居る自分とは大違いだ。
「……わかった」
だから、アッシュはこう言った。現実にせよ妄想にせよ、自分のすべきことがはっきりとしたからだ。エイジはきょとんと首を傾げる。
「なら、探しに行けばいいだろ。少なくとも、ここにはアンタの探すアリスはいないぜ」
「えっ」
「……なんだよ」
「いや、ううん。えっと……」
エイジはもごもごと口ごもってから少し首をかしげ、それから困ったようにアッシュを見た。
「手伝ってくれないの?」
「はあ?」
心の底から呆れた声がでた。エイジはそんなアッシュの態度にぴくんと肩を揺らしたかと思えば、しゅん……とうなだれはじめた。頭の上のうさぎの耳も、力なく垂れている。
「あ、えっと……ごめんなさい。そうだよね、君も忙しいよね……」
「…………さっきの毛玉みたいなちびうさぎの姿ならともかく、人になれたんならどうにかして探せるだろ。その服はやるよ」
アッシュが精一杯冷たくそう言うと、エイジは「うぅ」と困ったように小さく唸って言った。
「あの、ワンダーランドからこの世界に移動する時にね、力を使って、それでうさぎの姿になっちゃって……でも、君の傍にいたから少し戻れて、だから僕は今こうやっておしゃべりができてるんだけど……君から離れたら、また戻っちゃうのかもって……」
「な、」
んだそれ。アッシュは思った。脅しも良いところだ。
何が悪いって、ここまで伝えておいて「でも、大丈夫! きっとどうにかなるよ!」なんて言い始めるところだ。散々憐れみを誘ってからこんなことを言うなんて、作戦だとしたらエイジは相当のやり手だ。けれどアッシュには、どうにもエイジが狙ってやっているとは思えなかった。
むしろ、アッシュと話しながら一人で出て行く決意を固めたらしい。エイジは突然アッシュの手をぎゅっと握った。なめらかで滑らかで、傷一つない暖かい手。とても幻覚とは思えない、現実のぬくもり。誰かに触れられるなんて大嫌いなはずなのに、できればずっとこうしていて欲しいと思ってしまう……そういう手だった。
けれど、エイジはアッシュの内情を測ろうともせず、その手をあっさり離してしまう。
「えっと……ここまで連れてきてくれてありがとう。あの、服もありがたくもらいます。それじゃあ……」
「っ待て!」
次に手を握ったのはアッシュからだった。エイジが驚いて、耳がぴんと跳ね上がる。アッシュだって、アッシュ自身の行動に驚いていた。やめろ、現実的じゃない。そう思うのに、口が勝手に動くのだ。
「……わかった。手伝ってやる」
「ええっ!」
「お前は知らないだろうが、この大都会ではお前みたいな小さいうさぎは一時間だってまともに生きちゃいられない。それに……この屋敷はもっと性質が悪いんだ。エイジみたいなガキがうろついているのを見られたら、ひどいことになる」
「ひ、ひどいこと……?」
「ああ」
アッシュは大真面目に頷いた。
いかにもアジアンな見た目も黒髪黒目もゴルツィネの好みからは外れる。けれどどこもかしこも砂糖菓子でできたような見た目に丸い頬、ふくふくとした手、太っているわけじゃないけれど健康的にむっちりと肉のついた脚なんかはあのタコ親父のど真ん中だ。もし見つかれば、どんなことが起きるか……。想像だけで耐えがたいような気持ちになって、アッシュは握った手に力を込めた。
「ちゃんとオレの言うことを聞いて、この部屋で静かに暮らすっていうなら、オレも手伝ってやる。いいな?」
「う……うん! わかった。僕、ちゃんと君の言うことを聞く! 静かにくらす!」
エイジが必死でこくこくと頷くたび、頭上の耳がゆれる。それがなんとも愉快でくすぐったくて、そのせいでアッシュは今自分が「エイジと一緒に同じ部屋で暮らす」と口走ったことに気付くことができなかった。――今オレは何を? アッシュは一瞬我に返ったけれど、それも、
「あの、質問してもいい?」
「……何?」
「君の名前。なんて呼んだらいいかな?」
「……アッシュ」
「アッシュ、だね。わかったアッシュ。助けてくれてありがとう! 君みたいな親切な子に出会えて、とっても幸せだよ!」
エイジがそう言って嬉しそうに笑うものだから、なんていうか、それどころじゃなくなってしまった。
*
果たして奇妙な同居生活がはじまった。そしてそれは、殊の外快適なものだった。
エイジはアッシュの言いつけをよく守って、部屋から無理に出ようとはしなかった。それでいてアッシュと会話することを好み、きらきらとした笑顔や跳ねるような声色、歌うような言葉でアッシュを癒し元気付けた。
アッシュだって、エイジと話すのが大好きになっていた。エイジを喜ばせて笑わせたい。でもちょっとからかって怒らせて、困らせたりもしたい。そんな気持ちで交わす会話は、アッシュの人生にこれまでにない喜びをもたらしていた。うんざりするような「仕事」だって、エイジが待っていると思えばいくらか気分は明るくなり地獄のような時間に耐えることができた。
気付けば、アッシュにとってエイジは無くてはならない存在になっていた。
一方で「アリス」探しはちっとも順調にはいかなかった。そもそもアッシュが自由に外に出られる機会は限られている。その上エイジの存在を隠そうとすれば、どうしたって探索できる時間も範囲もごく僅かなものだった。
それでもエイジは文句の一つも言わない。アッシュにただありがとうと感謝して、君がいてくれるから心強いよなんて言葉までくれる。
そしてアッシュは、いつの間にかこんなことを考えるようになっていた。
――いっそ、「アリス」なんか見つからなきゃいい。
自分の役目は大切なことだと言っていたエイジの姿を思い出せば、それはひどい裏切りだっただろう。
でも、「アリス」が見つかればエイジはいなくなってしまう。もう一つのベッドに入って声を潜めて話し合うことも、傷ついたアッシュの手をエイジが握ってくれることも、あのうさぎの耳がゆらゆら揺れるのをただ眺めることもなくなってしまうのだ。
――この世のどこかにいるという「アリス」が、どうかできるだけオレ達から遠くにいますように。どうかいつまでも、エイジに気が付きませんように。
こんな酷いことを考える自分を、アッシュはひどく嫌悪した。それでも、それだけがアッシュの偽らざる願いだった。
そんなことを思っていたから、ついに罰が下ったのかもしれない。
ある日ゴルツィネに呼び出された席で、じろりと頭のてっぺんからつま先までをねめつけるようにして眺めながら言われたのだ。
「近頃、何かを連れ込んでいるらしいな」
「……!」
「何、可愛いアッシュのすることだ。夜に抱きしめるためのテディベアであればいくらでも見逃してやろうと思ったが……どうも、人間の子どもだとか」
アッシュの喉の奥で、ひゅっと音がした。そこまでバレていた。身体中から一気に冷や汗が吹き出し、呼吸が荒くなる。
ゴルツィネはその瞳の奥の欲望を隠そうともせずにアッシュを見つめると、肉厚な舌でわざとらしくぺろりと唇を舐めた。
「何……お前がそうも可愛がる子どもなら、儂も一度は挨拶をせねばならんだろう」
「ち、ちがう、」
「今夜だ。その子どもと共に、寝室にくるように。……決して、逃げようだなんて考えるなよ。そんなことになれば、お前を死ぬよりも辛い目に遭わせてやる」
ガチガチと歯の根が合わずに音を立てる。アッシュは今にも叫び出したいような、泣きだしたいような、何もかもをかなぐり捨ててゴルツィネに殴りかかりたいような、そんな気持ちになっていた。けれど現実、アッシュはどれもできなかった。アッシュが行ったことといえば、ゴルツィネの部屋を出て自分に宛がわれた部屋に戻ることだけだった。そして部屋にもどったと気付いたのも、真っ青な顔で帰ってきたアッシュを出迎えるエイジの声を聞いたからだ。
「アッシュ! 君、どうしたの? とっても酷い顔をしてる……!」
「エイジ……」
アッシュはエイジを見る。エイジはぐっと眉を寄せ、心配そうな目でアッシュを見つめていた。真っ黒な瞳の中に、幽霊みたいな顔をした子どもが映りこんでいる。
アッシュは、必死で考えた。もしかしたら人生で一番というくらいに頭を働かせた。そして、今すぐエイジにすがりついてわんわんと泣いてしまいたいと思う心を押し殺し、エイジの身体を思い切り突き飛ばした。
「っ痛!」
まさかアッシュからそんなことをされるとは予想していなかったのだろう。エイジの身体はまともに転がって、どてんと尻もちをつく。エイジの耳がおどろいたようにぴんと伸び、それからおろおろと動きだす。その瞳も、アッシュの真意を探るように見つめてくる。
アッシュは必死で自分の心を殺した。幾度も男に抱かれてきた経験を思い出しながら、その時のようにただ己の感情を自分から遠くに置いて、そして言った。
「今すぐ出て行け」
「アッシュ……!?」
「お前が下手をうったせいで、お前の存在がバレた。お前、オレの言うことを聞くとかいって、本当は嘘を吐いていたんだろう」
「そんな! 僕、この部屋から勝手に出たりなんてしてないよ!」
「そんなことどっちだっていい! もううんざりなんだ!」
アッシュの叫び声に、エイジの身体がびくりと跳ねる。黒い瞳が潤む様が、まざまざと見えた。まともに息ができない。それでも、言わなくてはならなかった。アッシュは己を切りつけるように言う。
「もうお前に付き合ってられない。二度と顔もみたくない。出て行け。さっさと消えろ!」
エイジが今少年の姿かたちをしているのは、アッシュの傍にいるからだと彼は言っていた。だとすれば、彼がここを離れれば小さなうさぎの姿に戻るはずだ。そうすれば、ゴルツィネに見つかることはない。その後のことは賭けだが、少なくともここにいるよりは遥かに可能性がある。
――だから、頼む。エイジ、ここから逃げてくれ。お前だけでも、無事でいてくれ……。
強く爪を立てた手は、鈍く痛んだ。もしかしたら、血が滲んでいるかもしれない。でも、そんなことどうだってよかった。とにかくエイジをここから遠ざける。今のアッシュの願いはそれだけだった。
でも、アッシュは所詮選ばれなかった子どもだ。願いはいつだって叶わない。
エイジは真剣な顔で暫くアッシュを見つめた後、おもむろに立ち上がって、そして言うのだ。
「行かない。僕は、ここから出ていったりしない」
「っ、なんで!」
「僕は君を置いていかない」
それはアッシュにとって絶望と幸福を同時にもたらす言葉だった。
あまりの衝撃にうまく反応できないでいると、立ち上がったエイジがアッシュの手をとる。案の定血のにじんでいるそこをやさしく開いて、柔らかい指で傷口に触れた。甘く痺れるような痛みに泣きそうになって、アッシュはがむしゃらに腕を振った。
「っ触るな!」
「でも、」
「うるさい、うるさいうるさい! 出て行かないっていうなら、殺してやる!」
そして言うがはやいか、エイジの首に手を伸ばしそのまま身体を押し倒した。エイジはまたも簡単にころりと床にころがる。そのままアッシュがエイジの喉にぐっと力をこめれば、エイジの耳がびくんと震えた。当たり前だ。こんなことをされて怯えない生物がいるはずもない。
「アッシュ」
それでも。それでも――エイジの瞳は静かだった。怯えはなく、ただ深い悲しみと慈しみをもってアッシュを見つめ返してくる。アッシュは震える手で、もう少しだけ首を絞める手に力を込めた。
「ほんとうだ、オレだって、お前を殺すことくらい、できる。オレは、人を殺したことがある。お前が想像もつかないような、お前の探し求めるアリスが夢にだって見たこともないようなことだって、たくさん、たくさんしてきたんだ。だから、オレはできる。だから、だから……」
「……いいよ、アッシュ」
うさぎの耳はふるふると震えている。それなのに、エイジの言葉はとても落ち着いたものだった。
「君がそうしたいのなら、したっていい」
そうしたいのなら、だって――!? そのあんまりな言葉に、アッシュはひどく震えた。一体誰がエイジを手にかけたいなんて思うだろう! エイジの首を絞めたいなんて、そんなこと思うはずもないのに!
アッシュはたた怯えて首を振った。最早首にかかった手には、微塵も力が入っていない。かぼそく震えるその手に、エイジの手が重ねられる。
「いいよ」
「っ、いいわけ、ない……!」
駄目だった。無理だ。どうしたって、受け入れられるはずもない。
アッシュは喘鳴するように言うと、姿勢を保つことさえできなくなってエイジの身体の上に丸まった。
「いいわけ、ない……! でも、駄目なんだ。エイジのことがゴルツィネにバレた……! 頼む、エイジ、お前だけでも逃げてくれ。オレはどうされたって耐えられる。でも、お前は、お前だけは駄目だ……!」
「……やっぱり、君は僕をかばっていたんだね……。僕のせいで……」
「違う、お前のせいじゃない! でも、駄目だ、駄目なんだ……!」
アッシュの背中と頭に、優しい手が添えられた。それは当然エイジのもので、アッシュは微かな喜びとそれ以上の悲しみで余計に大きな声をあげて泣いた。エイジの肩口を、アッシュの生暖かい涙が濡らしてゆく。こんな時なのに、エイジが優しく頭を撫でてくれる指の感触をアッシュは正確に感じ取っていた。
「……アッシュ」
そして、不意に呼びかけられた名前もまた、アッシュはきちんと聞き取った。ごく近くから聞こえる声は、どこか固く、緊張しているような……決意に満ちているような、そんな声色だった。
「僕と、一緒にいこう」
「っ、無理だ……! アイツに見つかった以上、オレに対する警備は厳重になっているはずだ。逃げ出せない」
「ううん。逃げられるよ。僕とワンダーランドに行くんだ」
アッシュは驚き、思わず顔をあげた。涙が飛び散り、エイジとアッシュの間できらりと光る。
エイジは、とても真剣な顔をしていた。
「でも……オレは、アリスじゃ……」
「大丈夫。確かにアリスを連れて行くのが僕の役目だけれど、アリスしか連れていけないわけじゃないんだ。君が、君さえ頷いてくれるのなら、すぐにでも連れていける」
「っ…………」
最早エイジを疑う気持ちは微塵もなく、アッシュの胸は幸福に甘く震えた。
本当に? 本当に、そんな都合の良いことがあるだろうか。先ほどまでとは違った理由で心臓がばくばくと跳ねている。寝転んだまま、エイジはアッシュに両腕をのばしてきた。
「本当は、もっと早くこうすればよかったんだよね……。さあ行こうアッシュ。僕と一緒に、ワンダーランドへ」
ワンダーランドがいかなる世界なのか、アッシュにはまるで想像がつかない。それでも、この場所にいるより遥かにマシなはずだ。そして何より――そこには、エイジが居る。それなら、アッシュはもう迷う必要はなかった。
「オレを、連れて行って。エイジ」
アッシュはそう言って、エイジに抱き着いた。エイジはアッシュの身体をきつく抱きしめ返し、そしてアッシュの意識は白に沈んだ。
*
目を開けると、辺りは全く違う景色になっていた。
まるでコバルトブルーの絵具を垂れ流したような、わざとらしいくらいの青空。草も木も花も極彩色で、見覚えのあるようなものは一つもない。足元の芝生は、何を思ったかチェック柄だ。遠くのほうには、巨大かつ落書きのようなフォルムの城が建っている。空気の匂いはどこか甘く、風にまじって何かの囁きに似た声が聞こえてくる。
総じて、子どもの夢いっぱいの落書きを忠実に再現したかのような空間だ。
「ここが……ワンダーランド?」
「そうだよ、アッシュ!」
その声に、アッシュは思わず身体を跳ねさせた。聞き覚えのない、低い大人の声がしたからだ。
果たして声のした方に立っていたのは、一人の少年だった。アッシュより背が高い、おそらくいくらか年上の少年。黒い髪に黒い瞳、そして頭の上では黒いうさぎの耳がゆらゆら揺れている。その面差しも、親し気な呼びかけも、全てに見覚えがあった。
「まさか……エイジ」
「その通りさっ! あっちでは、ちょっとしか戻れなくて子どもの姿だったけど……こっちの世界にきたからね。大人の姿に戻れたんだ!」
大人、というわりに、エイジの姿はどうひいき目にみても十五歳程度だった。しかも、幼い仕草は今も尚健在らしい。エイジはえへんと胸を張ると、アッシュに向けてばちんと両目をつぶってきた。多分、ウインクのつもりだ。
「どうだい! 格好いいだろう?」
「…………」
「……アッシュ?」
しかし、アッシュは答えられない。答えるだけの余裕がない。
何故って、エイジの姿に心臓が馬鹿みたいに高鳴って、顔に血液が集中し、腹の底でうさぎが百匹跳ねているような感覚に陥ったからだ。猛烈な羞恥心に似た感情がアッシュをおそい、それなのにエイジから目を逸らしたくない、むしろ瞬きさえ惜しくて食い入るようにエイジを見つめた。
エイジは不思議そうに首を傾げると、アッシュの目の前でひらひらと手をふり顔を近づけてくる。ちょっと背伸びすればキスできるような距離に、アッシュは思わず「ひゃっ」と悲鳴をあげた。
「もー、どうしたんだよ。アッシュ?」
「っ、ご、ごめんっ」
「ううん。いきなり様変わりしたから、びっくりしちゃったんだよね」
そうだが、そうじゃない。でもそうじゃない理由を説明できるだけの言葉をアッシュは持っていなかった。
アッシュがまごまごと唇を開けたり閉じたりしている間に、すっとエイジの手が伸びてきてアッシュの手を握る。それはあちらの世界でも何度もされてきたことなのに、アッシュの心臓はまた一段と大げさに跳ねた。
「行こう、アッシュ。あっちでお茶会をやってるはずだよ!」
アッシュはただ大人しくエイジの後をついていった。眼前でふりふりとゆれる可愛いしっぽに、わああ! と叫び出したいような気持ちになりながら。
エイジが連れてきたお茶会は、なるほど「アリスのティーパーティ」に相応しい様相だった。
開けた空間の中に大きなテーブルが置かれ、その上に真っ白なクロスが乗っている。テーブルの上には巨大なケーキと様々なお菓子、それからティーセットが並んでいた。
テーブルの中央に置かれた椅子には、帽子をかぶった男が座っている。口ひげを生やしたその男は、エイジを見るとぱっと顔を輝かせ立ち上がった。
「エイちゃん!」
それからアッシュのほうへ視線をうつし……ぎょっとしたように目を見開く。
「エ、エイちゃん。その子……」
「イベさん、こちらはアッシュです。あっちの世界で、僕にとっても親切にしてくれて、沢山助けてくれて……。それで、ちょっとワケありで、つれてきちゃいました」
「つ、連れてきちゃいましたって、君……」
「この子は、とっても優しくて、あったかくて、素敵な子なんです。きっとアリスにも引けを取らないくらい」
その後、暫く二人は無言で見つめあっていた。イベと呼ばれた男の顔は真剣で、エイジも口元は微笑んでこそいたが、その目はやはり真剣だった。アッシュは少し緊張しながら、二人を見上げ黙っていることしかできなかった。自分に関するなんらかのやりとりが今まさに行われている、そのことだけはわかっていた。
やがて――イベは大きく溜息を吐いた。ほんの少し肩を落とし、それから、頷いてこういった。
「わかった。君がそう決めたのなら、それでいいだろう」
「はい。……すいません」
「いいさ。さて、ご挨拶が遅くなったね。俺はイベといって、このお茶会を行っているんだ。アッシュ、君を歓迎するよ」
「……アッシュだ。その、エイジには、色々世話になった」
イベがすっと手を差し出してくる。見ず知らずの大人に触れるのは正直気が進まなかったが、ただの挨拶だと言い聞かせアッシュはイベの手を握った。白い手袋に包まれた手はアッシュの手を一度ぎゅっと握った後は、未練も欲情もみせることなく離れていった。
「さあアッシュ、お茶にしよう! イベさんの淹れてくれる紅茶は絶品だよ! お菓子だって、とってもとっても美味しいんだ!」
エイジがそう言って、アッシュを席につかせる。イベは慣れた手つきで紅茶を淹れ、エイジはにこにこ笑いながらアッシュの前にいくつものお菓子を並べた。
「素晴らしい日に、かんぱーい!」
エイジの気の抜けるような開始の音頭が響いて、三人のお茶会はゆるやかにはじまってゆく。
おそるおそるクッキーを一かけら口に含み、アッシュは思わず目を見開いた。――美味しい。バターの香りが鼻孔を通り抜け、さくりとした歯ごたえと舌の上でなめらかに解けるような食感が絶妙でたまらない。柔らかい甘さは、今日の出来事ですっかり傷ついていたアッシュの心ごと包み込むようだった。
「……うまい」
「だろっ! ほら、ケーキもあるよ! プリンも、それからスコーンも!」
エイジは嬉しそうに笑って、アッシュの世話を甲斐甲斐しく焼いてくれる。イベもにこやかに笑って、紅茶に関するうんちくなんかを披露しながらアッシュを見守ってくれた。口にした菓子も、紅茶も、どれも信じられないくらいに美味かった。甘いものは苦手だと思っていたはずなのに、次から次へと口に運びたくなって仕方がない。
ワンダーランドの魔力のおかげだろうか。それとも、エイジがこうして傍にいるから?
そんなことを考えていると、気付けばアッシュの目からはぽろりと涙が零れ落ちていた。うまいうまいと菓子を食べていたアッシュの突然の変化に、「えっ!?」エイジの驚いた声が響く。
「どうしたのアッシュ! 何か、苦手なものとかあった?」
「ちがう、違うんだ……。ただ……あんまりにも、幸せ、すぎて」
言葉にした瞬間、アッシュの胸は確かに痛んだ。
これは、確かに夢の世界だ。そして夢ならばいつか覚める。もしこの夢から覚めたとき、アッシュはどうなっているのだろう。こんな甘く優しい世界を知った後で、本当に生きていけるのだろうか。
アッシュの言葉に、エイジははっと目を見開く。そして、アッシュの背に優しく手を添え言った。
「いいんだよアッシュ。君さえよければ、いつまでもここに居て」
「エイちゃん、それは」
「イベさん! ……いいんです」
「エイちゃん……」
何やら、イベの顔が険しい。やはり「アリス」でないアッシュはここに居てはいけないんじゃないか。そんな不安を抱いたアッシュの背中を、エイジは優しく撫でて言う。
「大丈夫だよアッシュ。もう君にとって恐ろしいことは、なんにもないから」
「……本当に?」
「本当さ! さあ、お茶会の続きをしよう。大丈夫だよアッシュ、ここは楽しいワンダーランドさ」
エイジが当たり前のように頷くから、アッシュの胸を支配していた靄はあっという間に晴れてゆく。ちらりとエイジを見上げれば、どこまでも優しい瞳がアッシュを見つめていた。それが嬉しくてでも恥ずかしくて、アッシュは慌ててカップの中の紅茶を飲み干した。
「……?」
は、と気付いた。目を開ける。身体を起こす。……ここは、どこだ?
アッシュはきょろきょろと辺りを見回す。そしてすぐに思い出した。ここがワンダーランドであること。エイジに連れられて、この世界に逃げてきたこと……。
茶会のテーブルに着いているのはアッシュ一人になっていた。あれだけ並んでいた菓子の類はきれいさっぱり片付けられ、エイジの姿もイベの姿もない。
「エイジ……?」
呼びかけても、返事はない。アッシュは不安になってすぐさま椅子から飛び降りた。
「エイジー!?」
再び叫ぶ。アッシュの声がくわんとこだまする。どうしたんだろう、二人は一体どこへ行ったんだろう。
そう思っていると、そよぐ風に交じって小さな笑い声が聞こえてきた。子どものような大人のような、男のような女のような、複数人のようなたった一人のような、そんな不思議な声だった。
『目覚めた』
『目を覚ましたね』
「!? 誰だっ」
アッシュは慌てて周囲をさぐる。けれどやはり、誰の姿も見えはしない。ただ、風にのった囁き声はこう続いた。
『聞こえてるみたい』
『聞こえてるんだね』
『エイジは行ったよ』
『エイジは行っちゃったんだ』
「! エイジは、どこへ……」
『裁判だよ』
『裁判さ』
「裁判!?」
『そうだよ、裁判さ』
『そうだね、裁判だ』
アッシュはぎょっとして目を見開いた。なんだか猛烈に悪い予感がして、いてもたっても居られずに走り出す。駆け出したアッシュの耳に、声は変わらず届いていた。
『どこへ行くの?』
「エイジのところだ! 裁判は、どこで……」
『お城さ、決まってる』
『決まってるだろう、お城だよ』
「城……!」
あの、落書きみたいな城だ。巨大なそれは、殆ど遮るものの無いこの空間で唯一といっていいくらいの建造物だった。
アッシュは城に向けて走り出す。エイジの役目はアリスを連れて来ることだった。けれど実際彼が連れてきたのはアッシュで、彼は役目を放棄したと思われても仕方がない状態だ。そんな中で執り行われる裁判――……。とても呑気でいることはできなかった。
アッシュは走った。息があがっても脚がもつれても、かまわず走った。ただ、必死だった。
ようやく城が近づいてくると、辺りは城下町といった様相になる。背の低い家々―どれも子どもの落書きみたいなふざけた見た目をしてる―が立ち並び、奇妙な恰好をした人が多く行き交っている。やはりここは現実の世界ではないのだと、アッシュは今更のように思い知る。人々は皆、城のほうを目指して歩いていた。
「しかし、まさかお役目を投げ出すなんてね」
「うさぎ裁判なんて、何年ぶりだろう」
「……!」
トランプに無理やり人間の顔と手足をくっつけたようなのが二人、歩きながらそんなことを離していた。やはり、裁判にかけられるのはエイジなんだ! アッシュはもう一度駆け出そうとして、
「アッシュ!?」
けれど、その声に呼び止められた。振り向けば、そこに立っていたのはイベだった。
「君、どうしてここに」「エイジはっ!?」
アッシュはたまらず、噛みつくようにしてイベの言葉を遮った。イベはハッとした顔になり、アッシュを見下ろす。答えを待つ間すらもどかしく、アッシュは更に言い募る。
「エイジが、裁判にかけられるのか!? オレのせいで……オレなんかを連れてきたから!」
「アッシュ、君、そこまで理解して……」
イベが息を飲む。アッシュの心は裂けんばかりに痛んでいた。やはり、アッシュのせいだった! アッシュのせいで、エイジは裁判にかけられる! たまらず、アッシュは伊部に飛びついた。
「っ、頼む! エイジを助けてくれ! オレは、オレはどうなってもいいから! エイジは何も悪くないんだ! オレのせいなんだ、だから罰されるのなら、オレが……!」
「アッシュ、落ち着いて!」
イベを見上げるアッシュの表情は、不安に満ち溢れていたことだろう。イベはアッシュの両肩に手を置くと、頷き真剣な顔で言った。
「本当ならば、君は裁判が終わるまで目を覚まさないはずだったんだ。だから……」
「っ、そんなことはどうだっていい! エイジの裁判へ連れていってくれ!」
「ああ、もう。わかったから。仕方ない、一緒に行こう」
イベは溜息を吐き、城のほうへ歩き出す。恐らく、この場でどんな言葉を尽くしたってアッシュが納得することも落ち着くこともないと悟ったのだろう。アッシュも当然イベに続いた。今すぐ駆け出してゆきたかったが、部外者な上に子どもでしかないアッシュが乗り込んだところで出来ることはたかが知れていると思ったのだ。であれば、今はもどかしい気持ちを押さえつけてイベについて行くほうが良いに決まっている。
イベは少しだけ振り向いてアッシュを見ると、苦笑しながらこう言った。
「こうして見ると、君とエイちゃんってそっくりだ。言い出したら聞かない頑固者なところとか」
イベと共に入り込んだ城の中、そのメインホールとも呼べる場所が裁判の会場のようだった。中央には悪趣味なぎらぎらとした装飾があしらわれた真っ赤な玉座があり、その対面にはちっぽけな台が置かれている。観客の席はそれらを見下ろし取り囲むように置かれ、既に多くの住民たちでひしめいていた。丁度最前列に当たる部分が開いていて、アッシュとイベは並んでそこに座った。
ほどなくして、奥の扉が開かれる。まずあらわれたのは、トランプの兵隊たち。そして、彼らに挟まれてエイジが会場にやってきた。
「っ、エイジ!」
アッシュは思わず叫んだ。エイジ達が入ってきたことで一層大きくなった喧噪の中だ。普通であれば、決して届くことのない声だっただろう。
けれどエイジはうさぎだ。エイジの耳はぴくんと立ち上がると、そのまま驚いたようにアッシュのほうを見た。ぱくり、と口が開く。恐らく「アッシュ!?」と叫んだのだろう。アッシュはたまらず、柵から身を乗り出して叫んだ。
「エイジ、オレが代わりになる! だから……!」
「女王様の、おな~り~!」
しかし、アッシュの声は遮られる。トランペットのファンファーレが会場を支配し、それが鳴り終わるころにはあれだけのどよめきもおさまっていた。
エイジ達が入ってきたのとは異なる、一際豪華な扉が開く。あらわれたのは、悪趣味な杖を携え、真っ赤なドレスに身を包んだ女王だった。……いや、あれは男だ。アッシュは思う。身体の線の細さと艶やかな黒髪や神経質そうな顔は一見して女のそれだが、控え目でも喉仏があり手も女のものよりもずっと骨ばっている。
男の女王は不機嫌そうに玉座まで赴くと、そのままじろりと台の上のエイジを睨みつける。
「お前、大事なうさぎの役目を放棄したそうだね」
「……!」
エイジの耳がぴくりと揺れて、そのまま力なくしおしおと垂れる。アッシュはそれだけで胸が張り裂けそうなほどに痛んだが、見るからに意地の悪い女王はまるで手を緩める気はないらしい。カツン! 苛立たし気に床を蹴り、ハイヒールが高い音を鳴らす。
「お前の役目がどういうものか、放棄すればどうなるか……まさか、わからなかったわけじゃないだろう? 何か申し開きがあるのなら、してみなよ」
「……もちろんです。女王様、僕は、でも、」
「言い訳はいらない!」
ガツン! 女王が杖を床に打ち付け、酷い音が会場に響いた。
なんていう理不尽。なんていう暴虐っぷり。申し開きをしろといったのに、まともに喋らせないうちから言葉を遮るなんて。
アッシュの身体の奥底から、めらめらと怒りが燃え上がる。最早この裁判がまともに機能するはずもない。エイジを放っておくことなんてできない。
「異議あり!」
気付けばアッシュは叫び、そして柵を飛び越えていた。「ああっ! アッシュ!」背後からイベの声が聞こえる。慌てたように手が伸ばされたが、間一髪アッシュに届かない。アッシュはすたりと裁判場に着地すると、エイジを女王から庇うようにして立った。
「エイジは、オレのせいで役目を果たせなかったんだ! 罰されるのならエイジではなく、オレだ!」
「アッシュ!」
「なんだ、この子ども! おい、兵士は何をしている!」
「アッシュ、駄目だよ!」
「駄目じゃない、エイジが裁判にかけられるなんて変だ!」
アッシュとエイジの周りを、トランプの姿をした兵隊が取り囲む。アッシュはぎゅっとエイジに寄り添い、エイジもアッシュの身を庇うように抱きしめる。
自分はどうなったって構わない。とにかく、エイジを助けたい。
そんな気持ちでアッシュが兵隊たちを睨みつけていた時だった。
「女王様ー! おそれながら、もうしあげますー!」
緊迫した裁判場に、男の声が響く。イベだ。会場の注目が、一気にイベに集まる。
「っなんだ、次から次へと!」
苛立たし気な女王の眼光に、イベはびくりと肩を揺らした。けれど柵から身を乗り出すようにして、彼は叫ぶ。
「その……その少年、アッシュが、エイちゃん……エイジが連れてきた子どもです! 彼は、薔薇の蜜の入った紅茶を飲みました! エイちゃんは、彼がこの世界でずっと暮らしていけるように願っていた……。けれど、彼は目を覚まし、こうして裁判の席にまで参列しているのです!」
「何っ……」
イベの言葉に女王の、そして周囲の空気が変わった。どよめき、戸惑い、そしてその中の微かな興奮――決して悪いばかりではないような空気に、アッシュは警戒を怠らないままエイジに尋ねる。
「なんだ? 薔薇の、蜜……?」
「うん……。その、簡単に言うとね、薔薇の蜜には願いを叶える力があると言われているのさ。僕は君がここで穏やかに暮らしていけることを願って君の紅茶に蜜を混ぜた。君は……本当はこの裁判が終わったずっと後に目覚めて、僕のことなんか綺麗に忘れて、ここで楽しく暮らしていけるはずだった」
「何っ!?」
聞き捨てならない言葉に、アッシュは思わず飛び上がった。呑気に飲み食いしていた自分が憎らしかったし、エイジの思惑が読めたからこそ悲しくて悔しかった。どうしてそんなことをしたんだと今にも怒り出しそうなアッシュの肩に、エイジの手が触れる。
「でも、君は僕の願いに反して目を覚まし、今ここに立っている。……そんなことができるのは、選ばれた子ども……アリスだけのはずなんだ」
「!」
アッシュは今度こそエイジを振り向いた。エイジは真剣な顔でアッシュを見下ろしている。
カツン! 神経質な杖の音が響く。
「そこの子ども、こちらをお向き!」
女王は片方の眉をあげると、まじまじとアッシュを睨みつけた。まるでヘビが獲物を検分するような視線に、アッシュの眉間の皺も自然と深くなる。
「……確かに、アリスの片鱗が全く無いわけではないようだ。だが、それにしたって力が弱すぎる。歳だっていきすぎているし、とても我々の求めるアリスとは言えないね」
「っなら! どうしたらいい! なんだってする! オレがアリスってやつになれば、エイジは無罪だ! なあ、違うか!?」
「お前がアリスに、ねえ……」
女王は暫し思案するように視線を中空に向けると、ふん、とひとつ鼻を鳴らす。いちいち嫌味ったらしい動作を挟まないことには言葉も言えないらしい。アッシュは心の中で女王を罵った。
女王はアッシュとエイジを見て、嘲笑うように言った。
「ならば、チャンスをやろう」
「チャンス……」
「そうさ。今ここで、アリスとして覚醒してごらん。そうしたらお前の言う通り、そこのうさぎは無罪放免だ」
「ど、どうすればいい」
「そんなこと、自分で考えることだ。ほらほら、時間がないよ」
カツ、カツ、カツ。急かすように杖が鳴る。アッシュはぎくりと身体を固くした。何故コイツはこんなにも非協力的なんだろう、お前だって「アリス」とやらが目覚めればメリットはあるだろうに……! 頭の中で女王を罵っていると、アッシュの肩を優しく叩く手があった。エイジだ。
「エイジ」
「アッシュ。君、なんて無茶を……」
「無茶でもなんでも、エイジが一人犠牲になるなんて絶対駄目だ。教えてくれエイジ。オレはどうしたらアリスになれる? お前のためのアリスになりたい」
アッシュの真剣な言葉に、エイジは一度迷ったように視線を泳がせた。それから、小さな声で言う。
「……思い浮かべるんだ。幸せを」
「しあわせ……」
「そう。身体中をいっぱい、幸福で満たして、そして夢を思い描いて自由に未来を空想して……。子どもの夢と希望と幸福が、僕たちを生かしてくれるから……」
エイジの言葉に、アッシュは愕然とした。エイジの言う「アリスの条件」は、アッシュとはまるで正反対の子どもを指していたからだ。
エイジもまた、自分がどれだけ残酷なことを伝えたかを理解しているのだろう。辛そうに眉を寄せ、アッシュの頭を撫でた。
「……いいんだアッシュ。君をこの世界に連れて来ると決めた時から覚悟していた。ここでなら、ここでこそ、君は幸福に過ごせる。だから……」
「っ嫌だ、絶対に嫌だ!」
「アッシュ!」
エイジがいくらなだめても、アッシュは聞き分けのない子どものように首を振り続けた。ここでアッシュが諦めてしまえば、エイジは有罪になる。その結果どういうことになるかはわからないが……少なくとも、こんな偏屈で不公平な女王が取り仕切る裁判だ。真っ当な扱いがあるとも思えない。
アッシュは必死で考えた。幸福なんて、遥か昔に破り捨てられた。夢は引き裂かれ、自由は手に入らないものとしてアッシュの心と身体に刻まれた。幾重にも重なった暴力が、支配が、アッシュを蝕み縛り付けている。それはどうしたって逃れ様のない事実だ。
それでも、アッシュは諦められない。必死で思い出そうとする。遠い昔、アッシュがまだ何でもない子どもだったころのこと。兄が居て、貧しいながらも楽しく二人で暮らした日々のこと。あの頃のアッシュならば、きっとエイジの望むアリスになれた。だから、その頃の自分を思い出そうとする。けれど遠くの幸福はむしろアッシュの現在の不幸を浮彫にさせるばかりで、とても夢も自由も描けそうもない。
――どうしたらいい、どうしたら……どうしたらオレはエイジを助けられる!?
ぎゅっとエイジの手を握る。小さな姿の時も、大きくなってからも、―こんな時でさえ―エイジの手は暖かく、アッシュの心に安らぎをくれる。この手を守りたい。手だけじゃない。真っ黒い瞳も穏やかな声もゆれる耳も、彼を構成する全部を守りたかった。
その時、ふと、ぱちんと泡がはじけるように疑問が浮かんだ。確かにアッシュはアリスには足らない子どもだろう。でもそれならば、何故自分は目を覚ますことができたのだろう。なぜエイジの思惑通りに眠りこけ、エイジを忘れてしまわなかったのだろう。女王は確かに、アッシュにはアリスの片鱗があるといった。それは、何故。
「……アッシュ?」
エイジが気遣うようにアッシュの名前を呼ぶ。優しく頬を撫でる。
これだ、と思った。
「エイジだ」
「え?」
「オレの幸福も、夢も、自由も……全部、エイジだ」
アッシュは思った。認めてしまえば、こんなに簡単なこともない。どうして気付かなかったのだろうと自分の愚かさを笑いたいくらいだった。
エイジが居て、アッシュは幸せだった。辛くとも、エイジが傍に居る日々の中で、アッシュはいくつもの夢を抱いた。ずっとこのままで居たいと思った。いつかこんな場所から抜け出して、二人で暮らせたらどれだけ良いだろうと思った。
アッシュの胸がかっと熱くなる。腹の底から力がみなぎってくる。世界が一層鮮やかに色づいて、エイジの顔がよくみえる。――これが、オレの幸福。
「エイジがいるから、オレは幸せになれる」
「アッシュ……!」
エイジの目の中に、きらきらと星が飛び散っている。よく見ればそれは涙で、彼の瞳はしとどに濡れていた。けれどアッシュは慌てたりしない。エイジもまた、自分と同じように幸せな涙を流しているのだとわかっていたからだ。
アッシュはエイジの手をぎゅっと握りしめた。パチパチと星が瞬くような音がする。世界がきらきらと光ってゆく。
「信じられない、まさか、本当に……!」
女王の声がどこか遠くで聞こえた気がしたけれど、アッシュはそんなことに構っている余裕はなかった。ただ目の前のエイジのことを刻みつけたくて、それだけで、精一杯だった。
*
「……ラン、アスラン!」
はっと目を開けると、目の前に兄が居た。瞬きを数回するうちに、段々と視界がはっきりしてくる。
見慣れた古い天井と、頼りない電灯。それに、眉を下げて苦笑する兄の姿。兄はアッシュが目を覚ましたことに気付くと、優しく頭を撫でて言った。
「おはようお寝坊さん。もう十時を過ぎてるよ」
「……?」
「ブランチにパンケーキを焼いてるからね。顔を洗って、はやくダイニングにいこう」
アッシュはきょろきょろと部屋を見回した。古びたベッドにボロの壁、窓の外から見える景色。間違いない、ここはアッシュの生まれ故郷だ。アッシュは次いで自分の手を見た。記憶にあるよりも、ずっと小さい子どもの手。……あの悲劇が起きるよりも前の、兄と居たころの自分は、これくらいだっただろうか。
「エイジは……?」
「えいじ?」
「おれの、うさぎで、ワンダーランドの、おれはアリスになって……!」
信じられない思いで兄に言い募ると、兄は少し考えた後にこう言った。
「なるほど、夢を見ていたのかな? アリスの絵本なんて、君に読み聞かせたことがあったかな?」
「ゆめ……?」
「そうだよ。さあ、アスラン……アスラン!?」
兄の声色に、ぎょっとしたようなものが加わる。アッシュは、ぼろぼろと涙を零して泣き始めていた。
夢なわけがない、と思う。あの地獄のような日々も、その中でのエイジとの出会いも、エイジの暖かさも声も笑顔も何もかも、しっかり覚えているのに――!
けれど実際問題、今のアッシュは四歳程度のおちびで、兄と共に暮らす子どもだ。やはり、オレにはアリスたる資格はなかったのだろうか? だから、こんなことになってしまったんだろうか――?
何を悔いて嘆けば良いのかもわからないまま、アッシュはついに声を上げてわあわあと泣きだした。戸惑った兄がベッドに腰掛けアッシュを抱きしめてくれても、ずっと、落ち着くことはなかった。
その日から、すっかりアッシュ……アスラン・J・カーレンリース坊やは変わってしまった。
日がな一日憂鬱な溜息を吐いては、アリスの絵本を読む以外は何もしようとしない、そういう陰気な子どもになったのだ。兄は大いにアッシュを心配し、あの手この手で励まそうとしてくれた。
それでもアッシュの気分は落ち込んだままだった。大好きな兄が傍にいてくれることは嬉しいのに、その幸福を上手に受け取ることができない。それが悲しくて申し訳なくて、でもやはりエイジが居ない今が認められなかった。
そんなことがしばらく続いたある日、兄はアッシュの隣に腰掛け、優しい声で言った。
「アスラン、これは提案なんだけど……良かったら僕と引っ越さないかい?」
「ひっこし……?」
「そう。実は、こっそり書いて応募していた小説が認められてね。纏まったお金が入りそうなんだ。それに、編集さんもとっても良い人で、僕に継続的な仕事を紹介してくれると言っている。だからアスラン、ここから引っ越して、一緒にもっと都会へ行くのはどう?」
アッシュはその言葉に上手く反応できなかった。
兄が戦争に行かず、ずっと傍にいてくれる。それどころかアッシュの人生の悲劇のはじまりとも言える出来事からも逃れられる。それは願ってもないことのはずなのに、同時にこうも思ってしまったのだ。
――もし、もしも「前」と同じように生きたのなら、もう一度エイジに出会えるかも……。
それはアッシュにとって酷く甘美なことだった。何度も死にたくなるような思いをしたのに、エイジに会える、それだけであの人生が途方もなく価値のあるもののように思えてならなかったのだ。
それでもアッシュが迷っていたのは、やはり兄のためだった。もし同じ歴史を辿るのなら、兄は再び戦争に行かねばならない。自分はいくらだって耐えられるけれど、兄は違う。この優しい人を、あんな場所に送り出すべきではない。
エイジに合いたいという気持ちと、兄を思う気持ち。二つの間で激しく天秤は揺れ動く。
兄は、その迷いをどう受け取ったか、アッシュの頭を撫でて言った。
「突然こんなことを言われても困るよね。どんな場所かだってわからないし……。そうだ、今度の休日、下見をかねてその街へ行ってみるのはどうだい? もしかしたら、君がとっても気に入るような何かがあるかも」
ここまで言われれば、最早断ることもできなかった。アッシュがおずおず頷けば、兄はただ嬉しそうに笑った。
兄と共に訪れた都会は、「アッシュ」がよく知る街だった。けれどあの頃よりもアッシュはずっとちびで、そして隣には兄が居る。決してはぐれないようにと固く手を繋がれた状態で歩く街は、まるでアッシュの知らない顔をしていた。
細い路地の入り組んだ道も、追い回された時に身を隠すべき場所も、面倒な奴らが縄張りにしているエリアもアッシュはよく知っていた。けれど、大好きな兄と共に訪れるデパートも、芝生に座って食べるアイスクリームの味も、兄に抱き上げられて見る大道芸のことも、何も知らなかった。
「すごいねえ、アスラン!」
興奮したように笑う兄に、アッシュも頷く。幸福なのに、胸が痛かった。エイジに会いたいと思っていた。
その時だ。アッシュの視界の端を、何か黒いものが駈けていった。
「……エイジ?」
「え?」
「エイジッ!」
「アスラン!」
それはほんの一瞬だった。勘違いという可能性のほうが、大いにあった。けれどアッシュは駆け出していた。あれはエイジだという確信だけが、アスランを突き動かしていた。
兄の慌てた声にも、振り向く余裕はない。もう見失ってしまったら、きっと二度と会えない……! そう思ったのだ。
アッシュは駈けてゆく。公園を抜け、大通りを抜け、路地を走る。アスランの今は訪れたこともない、けれどアッシュとして何度も何度も通ったあの道だ。迷う訳がない。
そうしてたどり着いた、ダストボックスの隅。一人の青年がそこに蹲ってなにやらもぞもぞしているのを見かけると、アッシュはたまらずその背中に飛びついた。
「っ、エイジ!!」
果たして振り向いたのは――やっぱり、エイジだった。
エイジはこぼれそうなくらいに目を見開いて、それから、ぐっと泣きそうな顔をする。エイジだ、間違いない! アッシュは絶対に、二度と離れないようにときつくエイジをだきしめる。
「エイジ、エイジ、会いたかった、エイジ……! おれだよ、アッシュだよ! おまえの、お前だけのアリスだよ……!」
「アッシュ……!」
エイジは少し躊躇ったような間を見せたあと、アッシュの身体を抱きしめた。「っ、アッシュ……!」抱きしめてくれる腕の温かさも、お日様みたいな匂いも、鼓膜を震わせる声色も、間違いなくエイジのものだった。アッシュはたまらなくなって、わんわん泣きながらエイジを詰る。
「なんで、なんでずっと会いに来てくれなかったんだよ! エイジがいないと、意味がないのに……!」
「ご、ごめん、違うんだアッシュ」
「違くないっ! もう、ぜったい離れない! ずっと、エイジの傍にいる! ぜったい離さない! おれもいっしょにワンダーランドにいく!!」
そのアッシュの言葉に、エイジの身体がぎくりと跳ねた。そして「……よく見て、アッシュ」アッシュのびしょびしょに濡れた頬に構うことなくそこに触れ、アッシュの顔を持ち上げさせる。見上げたエイジには、よく見ればあの特徴的なうさぎの耳が無かった。
「僕、その……ワンダーランドを追放されたんだ」
「! なんで! お、おれのせい……!?」
「違うよ! 君が僕たちの探し求めたアリスだったのは間違いない。でも、僕はいくつもうさぎとしてのルールを破ったから……女王様の寛大なお心で、命までは取られなかったけれど」
エイジの言葉に、アッシュはひどく憤慨した。あの野郎! せめて一発殴っておけばよかった! 寛大なお心だとかいうけれど、そもそもアッシュをアリスとして覚醒させたのはエイジが居てこそなのに!
あまりの不公平不平等にアッシュがじたじたとしていると、エイジは申し訳なさそうに続けた。
「だから……僕は、今、君と同じ世界に生きる、ただのエイジってわけ」
「それって……」
アッシュはぱちりと瞬く。それってもしかして、ちっとも悪くない――むしろ、ずっといいことじゃないか? と思ったのだ。だってこの世界には大好きな兄が居て、それでエイジも居るとなったら……もう、完全無欠だ。けれどアッシュの瞳がきらりと輝いたことにも気付かず、エイジはしゅんと眉を下げる。もう無くなってしまったはずのうさぎの耳が、しゅん……と垂れたのが見える気がした。
「僕はもう、君の幸福のうさぎじゃない。それでも……それでも、君は僕を必要としてくれる?」
「っ当たり前だろ!」
なんて簡単で当たり前のことを聞くんだろう、エイジときたら! アッシュは笑いだしたいような怒りたいような不思議な気持ちで、エイジの目を見て、丸く小さくなってしまった人間の耳にも届くようにはっきりと言った。
「おれの幸福は、エイジだって言っただろ? あの時から、ずっと変わらない。そばにいて、エイジ!」
そうして、アッシュはエイジを抱きしめる。あの頃よりも短くなってしまった手足で、身体全部を使って、自身の幸福をぎゅうっと抱きしめた。
「……うんっ」
路地裏のじめっとした空気も、隣のダストボックスから漂う生ごみ臭も、通りを抜ける車のクラクションも、今は何一つ気にならなかった。エイジがここにいる、ただそれだけで、この空間は世界中のどこよりも素敵な場所になっていた。
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