ロストラブレター

作文に悩まされるシンジくんが書きたく……。
エヴァのない世界で頑張って生きてる感じです(?)

黒板の真ん中に書かれた「親への感謝」という言葉が、意識の外側を滑っていく。

どうしてこんなテーマで作文を書かなければならないのか。親のいない子への配慮はないのか、こんなもので一体何を評価すると言うのだ、といった子供じみた屁理屈を頭の中でこねくり回しながら、僕は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
青く、雲ひとつない空。校庭の桜はすっかり葉桜になり、吹く風に若葉を揺らしている。
中学二年に進級して一月。夏を前に進路の話がちらつき始める、ただでさえ憂鬱な時期に、これ以上余計なことで煩わせないでほしい。そんな理不尽な苛立ちを、僕は必死に抑え込んでいた。
こういう手合いの課題が出るたびに、いつもそうだった。小学校の頃から、「家族」とか「思い出」とか「感謝」という言葉が黒板に書かれるたびに、僕の鉛筆だけが止まる。クラスメイトは当たり前のように書き始めるのに、僕にはその「当たり前」の入り口がどこにあるのかさえわからない。
世間一般では美徳とされるこのテーマが、僕にとっては出口のない迷路だ。
書けないのは、勿論、反抗心からではない。
自分の中に「親に愛された記憶」も「親を救えた自負」も、一滴として存在しないという事実を、毎回突きつけられるからだ。
何かを絞り出そうとして、でも自分の存在そのものが父にとっての「重荷」でしかないという考えに辿り着いてしまい、結局、言葉を削り取っていく。
周囲からは、カツカツと小気味よく原稿用紙を埋める鉛筆の音が聞こえる。時折、椅子を引く音や、書き終えた誰かの晴れ晴れとした溜息。
僕の前にある原稿用紙は、一向に白さを失わない。
『父への感謝』
一行目に記したそのタイトルだけが、白場の中でひどく浮いて見えた。
その下。何度も書いては消した跡が、紙の繊維を毛羽立たせ、黒い鉛筆の芯を濁らせている。

やがて終業のチャイムが鳴り、教室に弛緩した空気が流れる。教壇の先生が、書けた者は回収係へ、終わらなかった者は放課後までに提出するようにと言い置いて、教室を後にした。
「まーだ、やってんの」
聞き慣れた、少し尖った声。
顔を上げると、クラスの回収係を押し付けられたアスカが、脇に原稿用紙の束を抱えて立っていた。
彼女の腕にある束はもうずっしりと重く、クラスのほとんどが「正解」を提出し終えたことを物語っている。
……うん、ごめん。帰りまでには……
「あんただけよ、まだなの」
アスカは心底面倒そうに眉根を寄せたが、僕の机の上に広げられた、惨めなほど真っ白な紙に目を落とした瞬間、わずかに言葉を飲み込んだ。
一行目に残る、執拗な消し跡。
それは言葉を探した形跡ではなく、自分を否定し続けた傷跡のようにも見えたのかもしれない。
……こんなの、大人が喜びそうな耳障りいいこと並べて書いときゃいいのよ」
アスカはぶっきらぼうに言い放った。
彼女は、両親とはすこぶる仲が良い。ように僕には見えていた。週末の予定を楽しそうに話すアスカにとって、こういう課題は「適当」にこなせる、退屈なルーチンに過ぎないのだろう。

嘘を書けばいい。
そう言われれば、それまでだ。

衣食住には困っていない。学費だって出してもらっている。飢えてもいないし、凍えてもいない。
「いつも働いてくれてありがとう」
「僕を育ててくれてありがとう」
そう書けば、先生は満足し、アスカは原稿を回収し、僕はここから解放される。
けれど。指先が、どうしても動かない。
たかだか四百字詰め一枚分でさえ、埋められない。
それほど、僕と父の間には「何もない」のだ。

ふと、父の背中を思い出す。
いつも書斎の奥にいて、僕が扉を叩いても一度もこちらを振り返らなかった背中。
たまに視線が合っても、そこには怒りも、喜びも、期待もなかった。ただ、そこにある不都合な事実を眺めるような、乾いた静寂だけがあった。
父は、僕を憎んでいるのだろうか。それとも、母を奪って生まれてきた僕に、ただ深く絶望しているのだろうか。
どちらにせよ、僕という存在が、あの人の凍りついた時間を溶かすことは、一生ない。

僕がいなければ、父はもっと自由だったはずだ。
僕がいなければ、母は今も、父の隣で笑っていたのかもしれない。

感謝なんて、おこがましい。

僕が与えられたのは、母の命と引き換えに手にしてしまった、生という名の負債だけだった。
「さすがに、嘘は書けないよ」
ぽつりと漏れた声に、アスカが何かを言いかけて、止まった。
彼女の視線が、再び机の上の原稿用紙に落ちる。
……適当でいいのよ、適当で」
その言葉は、さっきよりもずっと低く、どこか自分に言い聞かせているようでもあった。
「わかった。あと少しだけ、待って」
再び、鉛筆を握る。
結局、その日僕が書いたのは、感謝でも何でもない、ただの事実の羅列。
「学校に行かせてくれてありがとう」
「ご飯を食べさせてくれてありがとう」
鉛筆を持つ手が、そこで一度止まった。

『生んでくれて、ありがとうございます』

それが父への感謝なのか。それともこの世にいない母への、届かない謝罪なのか。
自分でもわからないまま、そう書いていた。

なんとか書き上げた原稿用紙を、黙って見ていたアスカに手渡す。彼女は無言でそれを受け取り、一度も中身を確かめることなく、束の一番下に差し込んだ。

「ひとつ言っとくけど。あんたがどう思ってようが……あんたがそこにいること自体に、文句言われる筋合いなんてないんだからね」

返す言葉が、見つからなかった。
踵を返して、乱暴な足取りで教卓に向かう彼女の背を見つめながら、僕はただ、窓の外で騒めく梢の音を聞いていた。​​​​​​​​​​​​​​​​