はっけ
2026-07-06 00:11:32
2307文字
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アス浦


「アンタ、まだ生きてんのかよ」
 驚きと呆れと、少しの愉悦と侮蔑。あらゆる感情の混じった声色で軽薄そうにアスキンが吐き出した言葉は、無機質な空間に跳ね返っては消える。見渡す限りの壁と窓の一つもない強固な檻――滅却師の本拠地の一室で、アスキンに応えを返すべき男、浦原喜助は冷たい床に這いつくばっていた。
 表情を隠す縞模様の帽子は部屋のソファを陣取るアスキンの手元で遊ばれていて、愛用の下駄は片方をどこかへ置いてきてしまった。乱れた髪はじっとりと滲む汗と、赤黒く凝固した血のせいで額や頬に張り付いている。ボロボロに引き裂かれた衣服から露出した肌は、尋常ではない速度で変色を繰り返していた。血管が浮き出てどす黒く鬱血したかと思えば、次の瞬間には色素が完全に抜け落ちたかのように青白く変化する。
――っ、は、……あ、……――
 呼吸をしようと胸を上下させるたびに、喉の奥から肺胞の隅々に至るまで、ガラスの破片を流し込まれたような灼熱の激痛が迫り上がって全身を焼き尽くす。アスキン・ナックルヴァールが浦原の肉体に設定した『酸素の致死量』、それが浦原の生死そのものを握っていた。
 酸素は人間でも死神でも生存に不可欠な要素である。それがアスキンの指先一つで猛毒へと書き換えられていた。一度深く息を吸い込めば、過剰な酸素が細胞を内側から焼き焦がし、脳の血管を一瞬で破裂させる。逆に、呼吸を止めれば当然酸欠となって窒息死する。死を逃れる唯一の方法は、アスキンが設定した生存可能な領域のゼロコンマ数ミリ、数パーセントという極小の隙間を狙って、呼吸の深さと頻度を完璧に制御することだけだった。
 吸い込みすぎてはならない。吐き出しすぎてはならない。浦原は自分の心拍数、血流量、そして肺の酸素量を脳内でミリ単位で計測し、極めて浅い呼吸を機械のように正確に繰り返していた。脳に十分な酸素が行き渡らず、視界の端はチカチカと明滅し、指先足先は痺れ、思考の靄が濃くなっていく。正気を奪われるような経験は数々してきたはずなのに今回は特に厄介なものだった。
 チリン、と涼やかな音が静寂に響く。部屋の隅、ソファに深く腰掛けたアスキンが長い足を気怠げに組み替え、手元にあるグラスを揺らしていた。グラスの中では、コーヒーとミルクが混ざり合い浮かんだ氷がカラコロと音を立てる。
 波紋のように広がる音が浦原の耳に届いた瞬間、無意識に喉がゴクリと鳴り目線がアスキンの方へと向く。脱水症状の極限にあり、唇がひび割れて血を滲ませている浦原にとって、その氷の鳴る音は、理性を狂わせるほどの甘い誘惑だった。
 しかし、浦原の天才的な頭脳は、その本能を冷静に冷酷に抑え込んでいた。あの中の液体もまた、アスキンの「致死量」の操作下にある。一口でも口に流し込めば、水分が体内に吸収された瞬間、五臓六腑が異常な免疫反応を起こして自壊するはずだ。アスキンはただ、浦原が本能に負けて自滅するかどうかを観察しているのだ。
「いやァ、実に見事なもんだって。拍手したくなっちゃうよ、ホントに。致命的に」
 アスキンは形の良い唇を歪め、退屈そうに、しかし瞳の奥にじっとりとした愉悦を滲ませて呟いた。
「普通の死神ならさ、もうとっくに脳の血管ぶち切れて死んでるわけよ。そこらの隊長格だって三分と持たず白目剥いて泡吹いて終わり。それをアンタときたら、さっきから自分のコンディション頭の中で完璧に計算しながら、俺の「致死量」の細かい網の目をすり抜けて生きてる。……こわ、マジで化け物じゃん、浦原喜助。何その執念?何のためにそんな苦しい思いして生き延びてんの?」
 アスキンは椅子から立ち上がり、すたすたと軽快な足取りで浦原の傍へ歩み寄る。上から見下ろすアスキンの影が、床に伏せる浦原の身体をすっぽりと覆い隠した。
 アスキンの長い指先が容赦なく浦原の髪を掴み、乱暴にその顔を上へと向かせる。頚椎がミシミシと悲鳴を上げても、抵抗する力は今の浦原の四肢には残っていない。されるがままに晒された、無防備な顔。間抜けな面を拝むはずだった。
 しかし――アスキンは刹那、ぞくりと背筋が震えるのを覚えた。浦原喜助の瞳は、これほど肉体的絶望の最中にありながら、一ミリも死んでいなかったからだ。汗に濡れた睫毛の隙間から垣間見える、深い灰緑色の双眸。それは限界の苦痛に細められながらも、獰猛なまでの光を宿してアスキンを観察していた。まるで、自らを捕らえた罠から抜け出す方法を探ろうと、細胞の壊れる速度から霊圧の法則に至るまでサンプリングをして解析している科学者の目だった。
……随分と、手荒な……おもてなしで……そんで、アスキンさん……
 ひび割れた唇がめくれ、引き攣った喉から掠れているのに、妙に温度の低い声が漏れる。浦原はあえて口に溜まった血を口端から溢れさせながら、歪んだ不敵な笑みを浮かべてみせた。
……次は、アタシに……何をして……くれるんス、かねェ……?」
「うわ、出た。そういう顔する。あ〜イヤだイヤだ」
 アスキンはわざとらしく大袈裟に肩をすくめ、パッと掴んでいた浦原の髪を放す。浦原の頭が床にどさりと落ちた。
「心が折れてさァ、『助けてくださぁい、アスキンさァん』なんて泣きつかれたら、致命的につまんないわけよ。俺、そういう安っぽいオモチャはすぐに飽きちゃうタチだからさ。アンタにはそうやって死ぬ気で足掻いてもらわなきゃ困るんだけど……。でもさァ、その目で睨まれると、俺、首元にナイフ突きつけられてる気分になんのよねェ。監禁されてるヤツがしていい顔じゃないワケ、それ」