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A田
2026-07-05 21:03:25
8979文字
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さめしし
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ここではない何処かへ
喫茶店の常連客なさめ♀️と店員のしし♀️
要素ほぼないですが、一応学パロ
⚠️モブ男性→しし要素有
自分ではない何かになりたかった。
カラン、とドアベルが鳴り、客の来訪を告げる。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
この数か月ですっかり板についた営業スマイルを浮かべれば、眼鏡をかけた女性はうんともすんとも言わずに店の奥、ちょうど間接照明で影になっている席へ迷いない足取りで向かっていった。
――
今日も来た。
お冷を準備する傍ら、獅子神は不躾にならない程度に女性へ視線を向けた。
紺色のセーラー服
―
この辺りでは有名なお嬢様学校のものだ
―
を着こなした女性は、背筋をピンと伸ばして、メニュー表には目もくれず、持ち込んだ本を広げている。
「
……
ご注文お決まりでしょうか」
少し声が上ずってしまって、獅子神は内心舌打ちをした。
しかし、女性は獅子神の失態などまるで意に介さず、ただ一言「コロンビアスプレモで」と答えるだけだった。
染髪とは無縁の真っ黒な髪は、毛先にいくにつれ細く尖っていき、ツンと澄んだ冬の朝のような彼女の雰囲気も相俟って、どこか近寄りがたさを感じさせる。
「コロンビアスプレモですね、かしこまりました」
彼女が頼むメニューはいつも決まっているので復唱する必要などないのだが、彼女が告げたものだと思うと、たった九文字の言葉でさえ尊いもののように感じられた。
――
年近ぇのに、すげぇよな。
スプレモとはコロンビア産のコーヒー豆の中で最高等級を示す銘柄だ。彼女のことだ、当然理解した上で頼んでいるのだろう。読んでいる本も難しそうだし、すごく頭が良いに違いない。
「敬ちゃん、そろそろ
……
」
「あっ、すいません!」
フラスコ内にふつふつと気泡が立ち始め、獅子神は慌ててコーヒー粉をロートの中に入れ、フラスコを差し込んだ。蒸気圧によってロート内に湯が上がってきたのを確認して、竹べらで中をかき混ぜていく。少しだけ時間を置いたら火を止めて、もう一度中をかき混ぜれば完成だ。
「
……
うん、良い香りだ」
「そうですか?」
どうにか出来上がったことにほっと息を吐き出し、カップにコーヒーを注いでいく。たった数分にも満たない工程だが、獅子神としては重労働を終えたような気分だった。
「それ運んだら、休憩入っていいからね」
これまかない、とプレートに載せられたサンドイッチは明らかにいつもより量が多く、獅子神は驚いてマスターを見返した。
「良かったら、あの子と一緒に食べてよ」
「えっ、いや、あの」
パチンとウィンクをしてみせるマスターに、獅子神は恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
――
バレてたのか。
せめて彼女にだけはバレていないといい。同性とはいえ、じろじろ見られるなんて良い気持ちはしないだろう。
「大丈夫、敬ちゃんならいけるいける」
「いや、あのオレ、本当にそういうんじゃなくて」
何やら勘違いしている様子のマスター
――
もう良い年だろうに、こういうところは意外とノリがいい
――
に反論するも押しきられてしまった。
「
……
お待たせしました。ご注文の品です」
「ありがとう、そこに置いておいてくれ」
本から顔を上げることなく、淡々と告げられた言葉は取りつく島もない。
――
何ガッカリしてんだよ。
獅子神は彼女の名前も年齢も、好きなものさえ知らない。
かろうじて知っているのは、好きなコーヒーの銘柄くらいで、彼女にとって獅子神は気に入りの店の店員という認識でしかないだろう。分かっていたはずなのに、何を期待していたのか。
――
バカだな、オレ。
小綺麗な格好をして、優しい人と触れたことで、すっかり自分がそちら側にいると勘違いしてしまった。
結局獅子神は、あそこから逃げられないのに。
「まだ何か?」
立ち去らずにいる獅子神に気付いたのか、深紅の瞳が獅子神を見つめた。
彼女の真っ白な肌とは対照的に、いっそ毒々しく見える深紅の瞳。しかしそれは、獅子神にとってピカピカ輝く宝石のように見えた。
――
やっぱり無理だ。
細部に至るまで繊細な造りをしている彼女と、薄汚れた自分。どう考えても釣り合わないし、自分と関わったことで彼女を損なわせてしまう事態になったら目も当てられない。
「あの、これサービスです。よかったら食ってください!」
焦るあまり口調が乱れてしまったが、もはや訂正する余裕など獅子神にはなかった。とにかくあの場から離れたい一心だった。
「オレ、裏行ってきます!」
逃げるようにして、獅子神は勝手口から店の外へ出た。夏を目前にした天気は妙にじめじめしていて、肌にまとわりつく感じがひどく不快だった。
――
絶対変に思われたよな。
反応を確認する余裕などなかったが、殆ど交流のない店員から差し入れをもらったら、不審に思うに違いない。
不審ならまだいい、気持ち悪いと思われたかもしれないし、もう店に来てもらえないかも。
それに何より、自分が踏み込んでしまったせいで、彼女の憩いの時間を台無しにしてしまったという事実に打ちのめされそうだった。
「あれ、ケイちゃん?」
やけに馴れ馴れしい声に、獅子神はさらに気分が落ち込むようだった。
しかし、そんな獅子神の心情などお構いなしに、くたびれたスーツを着た男性は頬を紅潮させて「やっぱりケイちゃんだ!」と一目散に距離を詰めてきた。
「今日シフト入ってたんだ! 前にマスターに聞いたら火曜は入ってないって言ってたのに」
「ちょうど予定がなくなったので、無理言って入れてもらったんです」
「そうだったんだ。でも、会えて良かった。今って休憩中? あ、今日って何時に上がるの? 俺今日は仕事早く上がれそうだから、ケイちゃんさえよければ夕飯でもどう? 奢るからさ」
獅子神の返答などお構いなしに、矢継ぎ早に自分の言いたいことを告げる男に、獅子神はげんなりしながら、何とか平静を装った。
初めて来店してからというもの、男はこうして明らさまに好意を寄せてきた。既にマスターにも相談して融通を効かせてもらっていたのだが、今日はとことんツいていない。
「すみません、店のルールでお客さんにそういうこと言っちゃいけなくて」
「そうなの? でもご飯行くのがダメってわけじゃないよね?」
――
ダメに決まってんだろ、頭沸いてんのか?
よほどそう言いたくなるのを何とか抑えて、獅子神は出来る限りしおらしく見えるよう、顎に手を添えて、視線を下げた。
「私、親に無理言ってバイトしてて
……
。バイトが終わったらすぐ帰ってくるようにって言われてるんです」
獅子神の両親は獅子神がバイトをしているなんて知らないし、獅子神が家に帰らなかったとしても全く気にしないだろう。けれど、そんな個人的な情報をこの男に教えるつもりはなかった。
「そうだったんだ
……
」
「はい、そういうことなので」
やっと引いてくれたかと安堵したのも束の間、男は獅子神の腕を掴むと、
「じゃあ俺から親御さんに連絡してあげるよ。そうすれば親御さんも安心だろ?」
「は?」
男は獅子神の空いた方の手にスマホを押しつけてくる。今ここで親に繋げということらしい。
「何で連絡してくんないの? まさか嘘ついてたとか言わないよな?」
一向に行動に移す気配のない獅子神に、男の表情が見る間に険しいものへと変わっていく。
――
どうしたもんかな。
ここで下手に騒ぎを起こそうものなら、店に迷惑を掛けてしまう。それだけならまだいい、騒ぎを聞きつけて警察が来てしまったらマズい。
「なぁ、何とか言ったらどうなんだよ⁉」
「いっ
……
」
ぐっと腕を掴まれて顔をしかめると、男はむしろ嬉々とした様子でさらに力を込めてみせた。
――
変態野郎が。
完全に逆上せている。
これではいくら言葉を重ねたところで、男の要望が叶わない限り収まらないだろう。諦めて口を開こうとした獅子神だったが
――
。
「何をしている」
切れたナイフみたいに鋭い声が降ってきた。
聞き覚えしかない声に顔を上げると、獅子神が想像した通り、彼女が勝手口に立っていた。
「何だよ、驚かせやがって。ここはお手洗いじゃねぇぞ。邪魔だからガキはさっさと失せな」
第三者の登場に一瞬たじろいだものの、彼女が学生でしかないことを認めると、男はすぐに威勢を取り戻して唾をまき散らした。
「そうか、邪魔をしたな」
あっさり踵を返す彼女に、獅子神は裏切られたような気持ちで女性を見やった。
しかし、扉が完全に閉まるかどうかというところで、彼女は思い出したように、こちらを振り返った。一瞬、視線が合ったような気がしたが、獅子神の気のせいだろう。
「一つ確認したいのだが、あなたの言う対話とは、相手の意向を無視し、己の我欲を押しつける行為を言うのだろうか?」
「は? 何言って
……
」
「あなたも社会人の端くれなら、未成年に付きまとう行為が世間一般で何と言われるのかは重々承知しているだろうな? あぁ、純愛だという戯言は受け付けていない」
「な、な
……
」
みっともなく口を開閉する男に、彼女はやはり眉一つ動かすことなく、まるで教科書を諳んじるかのように滔々と言葉を続ける。
「先程までの威勢はどうした? 何か反論があるなら聞くが、その場合は私が録音したあなた達のやりとりを元に、第三者に判断してもらうので、そのつもりで」
暗に示された警察という単語に、男はやにわに顔を青ざめさせると、渋々といった様子で獅子神から距離を取った。
「納得してくれたようで何よりだ。では行こうか」
すっかり男には興味を失くしたようで、彼女は獅子神の方に向き直ると、手を差し出してきた。
「あ、うん
……
」
彼女の意図が掴めなかったが、促されるままに手を重ねると、まるでエスコートするように彼女は獅子神の手を引いた。
初めて触れる彼女の手は、見た目の通りひんやりと冷たかったが、獅子神にとっては何物にも代えがたい灯火のように感じられた。
「あ、良かった。仲直りしたんだね」
「そもそも喧嘩をしていない。それより、裏にあの男がいたぞ」
勝手口から出てきたのでもしかしてと思ったが、どうやら彼女とマスターは知り合いらしい。
「えっ⁉ 敬ちゃん大丈夫だった?」
「あ、はい。助けてもらったので」
ちらりと彼女の方に視線を送り、改めてお礼を言おうとした獅子神だったが、それに先んじて彼女が声を上げた。
「あなたはどこまでマヌケなんだ?」
「へ?」
今、マヌケと言ったのか。
マヌケ。獅子神が知らないだけで罵倒以外の意味があるのかもしれない。いや、ないだろ。
「なぜ、あの状況で助けを呼ばない? 脳みそにパンケーキでも詰まっているのか?」
氷のような美貌から告げられる容赦のない非難の数々に、カフェで一人の時間を楽しむ孤高のお嬢様というイメージが音を立てて崩れていく。
「オイ、聞いているのか?」
「あ、うん
……
すみません」
「その謝罪は何に対してだ? あぁ、答えなくて結構。あなたが底なしのマヌケだということは分かったので」
獅子神に落ち度があったのは確かだが、さすがに言い過ぎじゃないだろうか。先程の獅子神のピンチに颯爽と現れて、手を引いてくれた姿はどこにいってしまったのだろう。
「マヌケマヌケって言うけどな、そんな細い体で仲裁に入って、何かあったらどうすんだよ」
彼女は風が吹いたら折れてしまいそうなほど華奢で、体術に精通しているとも思えない。男が暴力に訴えてきたらどうするつもりだったのか。
「そんなマヌケな真似はしない」
「ハッ、どうだか。あの手の男は頭に血が上ったら何するか分かんねぇぞ」
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて。とりあえず何事もなくて良かったよ。敬ちゃんも怖い思いして大変だったね、今日はもうお店閉めるから、ゆっくり休んでね」
そう言い置くと、マスターは店の外に出て行ってしまった。慌てて追いかけようとする獅子神だったが、ぐっと後ろに手を引かれる。
「人の厚意くらい素直に受け取ったらどうだ」
「オメーがそれ言うか?」
さっき獅子神が謝ったのにマヌケと一蹴してきたのはどこのどいつだ。口を尖らせて
――
てっきりいつも無表情なのだと思っていたが、どうも違うらしい
――
こちらを見やる女性に、獅子神はでも、と考え直した。
――
助けてくれたんだよな。
勝手口から出てきたということは、明らかに様子のおかしい獅子神を追ってきくれたわけで。少し言葉遣いは横柄だが、それは彼女なりの心配の裏返しなのだろう。
「ごめん、お前の言う通りだ。さっきは色々言って悪かったな。正直あの客には迷惑してたから、お前が来てくれて助かった。改めて、助けてくれてありがとな
……
じゃなくて、ありがとうございました」
「タメ口で構わない。あなたのぎこちない敬語も悪くないが、そちらの方がしっくりくる」
「
……
そうかよ」
一言余計だが、彼女なりの茶目っ気なのかもしれない。憧れの女性は遠目で見ていた時よりもよほど人間らしい形をしていて、血が通っている感じがする。そのことに、獅子神は小さく笑みをこぼした。
「それより、コーヒーが冷めてしまったので、淹れ直してもらえるか?」
「もちろん。いつものでいいか?」
彼女は鷹揚に頷くと、カウンターに立つ獅子神に寄り添うようにして近付いてきた。さっき男に詰められた時は嫌悪感しかなかったのに、今はドキドキして落ち着かない。
「近くで見ていても?」
「いいけど。オレ手際良くねぇし、見てて面白いもんでもないと思うけど」
「構わない。それに、あなたの淹れるコーヒーは十分美味しい」
手放しで褒められると、不思議な気分だ。
頬が熱を持ちそうになり、獅子神は慌てて「そういえば」と声を上げた。
「名前聞いてなかったよな。何て言うんだ?」
「村雨礼だ」
想像していた通り、綺麗な名前だ。
名は体を表すというが、本当にその通りだなと感心してしまう。
「それで、あなたは?」
「し、獅子神敬
……
」
口にしてから、大仰な自分の名前がひどい羞恥心を覚えた。小学生の頃はこの苗字でよくからかわれたものだ。
「獅子神か、そうか」
村雨は含み笑うと、確かめるように獅子神の名前を口で転がしてみせた。
――
不思議だな。
村雨に呼ばれると、あんなに嫌いだった自分の名前が尊いもののように思えてくる。
「あなた、さっきも思ったが、少し注意力が散漫なのではないか?」
「えっ? あっ
……
‼」
フラスコの中が沸騰し、今にもお湯がこぼれそうになっている。慌ててフラスコを火から離し、ロートにコーヒー粉を入れるも、お湯がうまく移動してくれない。サイフォン式で淹れる際の典型的な失敗に、獅子神は頭を抱えたくなった。
「わ、悪い。すぐに淹れ直すから、村雨は先に席に着いててくれ」
もう一度器具をセットしようとしたところで、制止するように村雨の手が重ねられた。
「構わない。それより、サンドイッチが食べたい。あなたが勝手に出ていったせいで、まだ食べられていない」
「そうだったのか、悪い
……
って、あれはお前にやるって言っただろ」
「マヌケ」
「お前それ何回言うつもりだよ」
何度も言われ続けたからなのか、もはや村雨なりの愛称のような気さえしてきた。
「この狭い店内で話していて会話が聞こえないと思うのか? 私もあなたと話したいと思っていので、あれはきっかけとして丁度良かった」
「えっ」
思いがけない言葉に、分かりやすく胸が高鳴る。
「ちなみに、私が読んでいるのは教養本の類だ。試験では様々な分野の評論が出題されるので、その対策も兼ねて一通り目を通している」
口に出したわけではないのに、村雨はあっさりと獅子神の長年の
――
せいぜい数か月だが
――
疑問に答えてみせた。じろじろ見ていたから、視線に現れてしまっていたのかもしれない。
「教養か、やっぱ難しい本読んでんだな。そういえば、村雨って何年なんだ? 結構来てくれてるし、高二ぐらいか?」
「高三だ。言っておくが、既に志望校の合格判定はA判定をもらっているし、ここでの時間は息抜きに最適なので気にしないように」
「そっか。ならいいんだけど」
頭良い奴って、時間の使い方がうまいんだなと獅子神が感心していると、
「何なら、あなたの勉強を見てやるくらいの余裕もある」
「いや、さすがに受験生に勉強見てもらうわけにはいかないって」
村雨の提案は願ってもないものだが、受験を控えた大事な時期の邪魔をするのは申し訳ない。
「あなたの勉強を見てやるくらいの余裕はある」
「くり返さなくても聞こえてるっての。その上で断ってんだよ」
「なぜ断る? あなたも受験生なのだから勉強をして然るべきだろう」
さらりと告げられた言葉に、獅子神は思わずサンドイッチを落としそうになった。対して村雨は、黙々と次のサンドイッチに手を伸ばしている。
「今さら自分も同い年だなどとつまらない嘘をつくなよ。それと、店主に告げ口するつもりはない」
「それは助かるけど、何で分かったんだよ」
気取られないよう細心の注意を払ってきたつもりだったが、もしかして村雨以外にも気付いた奴がいるんだろうか。
「まず、あの男は社交的ではあるが、自分の孫くらい年の離れた女性を軽々しく名前で呼んだりしない。
ということは、そうしなければならない事情があったのだろうが、それはあなたの苗字を聞いてすぐ合点した。獅子神なんて苗字、一度聞けば中々忘れられないからな。だから名前で呼んでもらっているのだろう。
次に、あなたの容姿だ。あなたほど目立つ容姿をしていれば、わずかな情報でもすぐに身元が明らかになってしまうだろう。普通なら、校則でバイトを禁止されているから素性を隠したいと考えるところだが、あなた、私が行かなければ、あの男の要求を呑もうとしていただろう?」
「それがどうしたんだよ?」
憧れの女性とお近づきになれて、優雅にティータイムを過ごしているというのに、まるで尋問を受けているような心地になるのはなぜだろう。
「先程の状況は、未成年であるあなたにとって圧倒的に有利なものだった。男の度重なる付きまとい行為も含めて、さっさと警察に突き出してしまえば良かったのに、あなたはそうしなかった。なぜか?」
答えなんて分かりきっているだろうに、村雨はそこで言葉を切ると、獅子神に視線を向けた。
「だって、騒ぎが大きくなると面倒だろ」
「それも一因としてはあるだろうが、一番はあなた自身が騒ぎを大きく出来ない事情を抱えているからに他ならない」
村雨はちょっとした言葉遊びを楽しむように優雅にコーヒーに口をつけ、それから「
……
まずい」と眉をひそめた。
だから淹れ直すって言ったのに。
カップを回収しようとしたが、村雨は頑として譲ろうとせず、一息で飲み干してしまった。
「下手に外で助けを求めようものなら、警察沙汰になるのは間違いない。あなたはそれを恐れて、誰にも助けを求めなかった。
身体的な危険を冒してまであなたが警察を呼ばれることを避けた理由。それは、あなたが後ろ暗いことを抱えていることの証左でもある。だが、慣れないながらもカフェの給仕に従事するあなたにそんな秘密があるのか、と考えたところで結論に達した。
労働基準法第五十六条。中学生は特定分野以外での就労を禁止されている。労働基準法に違反した雇用主は罰則を科せられるし、あなたの雇用契約も無効になる。あなたはそれを恐れていた。違うか?」
「あー、そうだよ! 全部大先生の言った通りだ。素晴らしい推理をありがとな」
今後の立ち回りの参考にしようと思って聞いたのに、まさか獅子神の脳みそを覗いたかのように事細かに説明されるとは思いもしなかった。
「勘違いしないでもらいたいのだが、あなたの事情を暴いたからといって、何かするつもりはない。むしろ私は、あなたの悩みを解決するだけの技量を備えているので、提案を持ちかけているだけだ」
「提案? あれ提案だったか?」
「疑う余地もなく提案だ。それにあなた、私の提案に少し心動かされただろう?」
「それは
……
そうだけど」
「なら、話は早い。これからあなたの勉強は私が見てやる。どんな難関校でも合格できるようにするので、そのつもりで」
何とも心強いお言葉だ。
だが、これでは獅子神ばかりが得をしていることにはならないだろうか。
「あなたは、つくづくマヌケだな」
まるで獅子神の思考を読んだかのように、村雨が口を開いた。
「私にもメリットがなければ提案するはずがないだろう」
「でも、こんなことして、お前に何のメリットもなくない?」
「なぜ? 勉強を教えている間、あなたと一緒にいられる。あなたと過ごす時間が増えるのは、私にとって喜ばしいことだ」
淡々と語られる言葉口とは裏腹に、それらは確かな熱量を持って獅子神の胸を打った。
「何だよ、それ。お前、オレのこと大好きみたいじゃん」
こんなことは初めてで、獅子神は茶化す以外にこの気持ちを表現する方法を知らなかった。素晴らしく頭のいい先生なら、獅子神のこの気持ちが何なのかも教えてくれるのだろうか。
「初めからそう言っている」
村雨の右手が、獅子神の左手に触れた。
あっと思う間に、指を緩く絡め取られる。たったそれだけのことなのに、頭が茹だってしまいそうだった。そんな獅子神の様子に、村雨は嬉しそうに口端を緩める。
――
お前、そんな顔も出来るのか。
氷の女王が春の雪解けを喜ぶような、そんな得も言われぬ瞬間を目の当たりにした気分だった。
「あなたのその疑問については、追々教えていくので覚悟するように」
穏やかに笑う村雨に、獅子神は少しだけ涙が出そうになった。
自分ではない何かになりたかった。
オレがオレである限り、幸せになれる日なんて絶対にないと思っていた。
でも、お前となら
――
。
村雨と一緒なら、オレはオレのままで幸せになれるのかもしれない。
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