上下セットで三千八百円。店員に勧められた夏物のブラジャーは、ワイヤー入りでありながら生地が軽く、肌触りが滑らかだった。試着室の姿見に映った自分の上半身に、「良いなぁ」と声が零れる。郡山あかねは白い肌に涼しく映える水色を眺めながら、思わず微笑んだ。
胸部にあしらわれた花模様のレースが可愛らしい。普段はあまり身につけない、あかねにしては少し思い切った女性らしいデザインの下着だ。──実を言うと、あかねはあまり、下着屋でブラジャーを購入することがない。たまにはこういうのも良いな、と物珍しさも相まって、姿見の中の自分をじっくりと観察する。鎖骨に咲いたほくろを指先でつついてから、あかねは上体を捻った。
サイズが合っている下着は、腕を回したり上体を捻ったりしても、浮きやズレが生じないらしい。試着室内に掲示されたフィッティングの方法を参照しながら、一人でぐりぐりと腕を回す。店員が採寸しただけあって、サイズはぴったりだ。しっくりと肌に馴染む下着の軽さに目を瞬き、あかねは再び姿見に向きなおった。
清流のように透明感のある水色に、薄紫や緑の花々が散らされたような、可愛らしくも普段使いしやすいデザイン。レースは控えめで、売り場のポップには薄手のシャツを羽織っても透けないという文字が躍っていた。値段も手ごろで、購入を躊躇う理由は一つもない。買おう、と気持ちを固めながら、普段はあまり凝視することのない自身の胸元を観察する。常とは違い、控えめながらに装った自分の姿に、自然と満足が胸を満たした、
自分が性的なものと関連付けられること、自身の生まれ持った肉体を性的に消費されることには嫌悪を覚えるが、こうして誰にも見られない場所で気に入った下着を身に着けるのは、自分をケアしているようでとても楽しい。自分だけのとっておきの宝物を見つけたような気分だ。
あかねは上機嫌で試着していたブラジャーを外し、私服を着直した。少し乱れた髪の毛を手櫛で整え、試着室のカーテンを引く。試着室の外で作業をしていた店員に、「すみません」と声をかけた。
「お会計お願いします」
あかねの言葉に、このセットを紹介してくれた年嵩の店員は、「気に入っていただけて良かったです」と朗らかに微笑んで、あかねが手にしていたセットを受け取った。あかねを伴って会計カウンターまで向かい、サイズや品番の確認をしてから、商品のバーコードをスキャンする。彼女はてきぱきと商品を薄葉紙で梱包しながら、「このシリーズ、とっても人気なんですよ」と言葉を重ねた。
「生地が軽くて涼しいでしょう? レースも控えめで、甘すぎない雰囲気だから日常のシーンでも使いやすい。私のイチオシなんです」
「お勧めなだけあって、すごく良かったです」
彼女の言葉に相槌を打ち、会計を終えた商品を受け取る。ブランドのロゴがあしらわれたショッパーを片手に提げて、あかねは上機嫌のまま店の外へと歩き出した。いくつものアパレルブランドが軒を連ねる一角を抜けて、柱に掲示されたエリアマップへと向かう。
あかねが訪れているのは、自宅から電車で三十分ほど離れた郊外に位置するアウトレットモールだ。休日だからか、強い陽射しと厳しい暑さにも拘らず、多くの客が敷地内を行き交っている。
あかねがマップを眺めていれば、サコッシュに入れたスマートフォンが震えた。見れば、彼氏である鳩羽良平からメッセージが届いている。来週末に予定しているデートの、待ち合わせ場所についてだ。時間と場所を知らせる文字列に返信を打ち込みながら、あかねは複雑な気持ちで指先を惑わせた。
あかねは、他者に性的な「惹かれ」を感じることがない、いわゆる、アセクシャルだ。アセクシャルは、一般的には『他者に性的欲求を感じない性的指向』とされ、恋愛感情の有無については言及がない。
あかねは男性を恋愛対象として認識し、男性に対して恋愛感情を抱くことがある。しかし、好きになった相手とでも、性的な関係を持ちたいと感じることがない。より詳しく分類すると、あかねのような人は『ロマンティック・アセクシャル』と呼ばれるらしい。
恋人である良平は、それを承知の上で、あかねともう五年も恋人として付き合っている。彼は女性を恋愛対象とし、恋した相手に性的な欲求も抱く、ごく一般的な男性だ。──それでも、あかねが「肌を重ねることが嫌だ」と打ち明けた時に、狼狽するでも激昂するでもなく、静かに「お泊りデートはしない方がいい?」と尋ねてきた、紳士的な人物でもある。
良平があかねに性的な接触を試みたことはなく、デートの時にも注意深くあかねとの距離を測っている。五年という短くない付き合いの中で、良平に対する好意は募るばかりだ。好きな相手に尊重されることは心地よく、けれど、同時に、どうしようもないほどの自己嫌悪に襲われることがある。
自分は、どれだけ優しくされても、彼が望むような愛情を返せはしない。
せめて欲求を発散することは咎めまい、──と、あかねは良平に「堪えるのがつらければ、他の人と関係を持ってもいい」と伝えた。男性であれば妊娠のリスクもないから、と条件を添えて。
異性愛者である良平に、「同性とであれば性交をしていい」なんて伝えても、彼が楽になるはずはない。むしろ、代償行為としては酷くつらいことを強いている。我ながら非道な条件を付したものだと、自己嫌悪はその根深さを増した。──あかねの言葉を受け、良平のスマートフォンに増えた見慣れないアプリの用途を、あかねは頑なに調べないでいる。それを知ってしまったら、自分で追い詰めてしまった良平のことさえも嫌悪してしまいそうな、嫌な予感があったからだ。
良平を尊重するのならば、あかねにとって苦痛でなく、同時に良平の欲求を満たせるような折衷案を見つけるべきなのだろう。現状が最善でないことなど、とうの昔からわかっている。それでも、どうしても、他者に自身の肌を許す覚悟を持つことは出来なかった。たとえ相手が良平であっても、自分の肉体を性的に消費されると思うと、耐えがたい苦痛を感じる。そのくせ、良平の指向を尊重し、彼と別れる思い切りも持てず、彼が他の女と寝ることを許す寛容ささえも持てない。
自分は「何一つ損ねられたくない」と我儘を通しながら、良平には我慢を強いて、暴力にも等しい無茶なことを要求している。自分には、他者を愛する正しい方法がわからない。他者を愛する技能を持たずに生まれてきた。社会から忌み嫌われ、排斥される、蛇蝎のような存在だ。──だから、愛しているはずの相手の幸福を望めない。
良平が他の誰かと結ばれることを想像すると胃が軋んで、目の前が真っ暗になる。こんな私を好きになって、受け入れてくれる人なんて、もう二度と現れないだろう。その、ひどく身勝手な不安が、良平の幸せを願うよりも先に胸中を満たして、あかねの手足を縛るのだ。
良平から連絡がある度に、「正しく愛せないのなら手放すべきだ」と理性が訴えるのに、感情がそれを拒んで決断を先送りにし続けている。デートを重ねる度、何も返せない自分に嫌気が差すのに、彼から与えられる尊重の甘さに酔い痴れて、現実から目を逸らしてしまう。
早く、良平を自由にするべきだ。
自分たちは二十代も後半に差し掛かり、結婚やその後を考えるのなら、そろそろ決断を下さなければならない年になった。分かっている。いつまでもこんな、中途半端なままではいられない。奪うことしか出来ないのなら、今すぐにでも彼を逃がしてやるべきだ。それしか、あかねから良平へと手渡せる、『正しい優しさ』などないのだから。
何度も何度も考え、何度も何度も目を逸らしてきた正しさから、また今日も目を逸らす。あかねは、『週末、楽しみにしてるね』と末尾に可愛らしい絵文字をつけたメッセージを送信し、端末をサコッシュに仕舞い直した。
頭の中をぐるぐるとめぐる暗くて黒い思考を押しやりたくて、現実逃避にエリアマップを見上げる。並んだアパレルブランドの名前を目で辿り、デートに着ていく服を買おうと、あかねは目的地を定めて歩き出した。
レディースファッションのエリアに向けて歩いている道中、広場にいくつかのキッチンカーが出店しているのが目に入った。クレープ屋から漂う甘い香りに釣られて目を向ける。店先では、恋人繋ぎをした仲睦まじいカップルが、立て看板に記載されたメニューを眺めていた。
「期間限定、ピーチアイススペシャルだって! 美味しそう! これが良いな」
跳ねるような彼女の言葉に、ワイルド系の彼氏が首をひねって彼女を見る。
「……昨日、海に行くからダイエットするって言ってたのはいいのか?」
「ダイエットは明日から!」
元気な言葉に苦笑しながら、「俺は何にしようかな」と彼氏がメニューへ目を戻す。これとか好きそう、と提案しながら繋いだ手を揺らす彼女の薬指には、陽の光を受けて輝く指輪があった。婚約指輪だ、と小さな輝きに思わず足を止める。
大きくてしっかりした男の手と絡んだ、細くて白い女の指。その華奢な指先によく似合う、繊細なシルバーのリング。幸せそうに弾む声と、甘く香る砂糖に、思わず「羨ましいな」と視線を舗装路へと落とした。
自分は、正しく良平を愛せない。愛せないと分かっているのに、手を離して自由にしてやることも出来ない。あんな風に二人で寄り添い、永遠を誓うなんて夢のまた夢だ。
幸せそうにクレープを注文する二人を視界に入れないよう、低い位置を睨んだまま足早に道を辿る。あかねが背を向けても、甘い香りはどこまでも執拗について来た。
* * *
待ち合わせ場所に向かえば、良平はすでにそこにいた。人の行き交う駅前をすいすいと泳ぐように歩いて、彼へと近づく。あかねが声をかけるより先、彼が目を上げてこちらに気付いた。感情を浮かべずにいた淡泊な目元がパッと華やいで、その顔に喜色が浮かぶ。良平は「久しぶり、今日の服めっちゃ可愛いね。新しく買ったの?」と口を開いた。
あかねが身に纏っているのは、先日購入したばかりのシャツワンピースだ。南国の砂浜を思わせるデザインで、白い生地が裾へと向けて薄青いグラデーションになっている。波打ち際のようなスカートをふわりと揺らして見せながら、あかねは、「そう、新しく買ったやつ」とはにかんだ。
「なんか、海みたいで綺麗だね。あかねによく似合ってる」
恥ずかしげもなく、それどころかどこか嬉しそうに言葉を重ねる良平に、褒められた嬉しさよりも照れが勝って言葉に詰まる。頬が火照るような感覚に、あかねは俯きがちに「ありがと」と呟いた。彼が微笑んでいる気配に、ますます頬が茹る。
あかねが気恥ずかしさを誤魔化そうと、「映画って何時からだっけ?」と話題を変えれば、良平は苦笑しながら自身の腕時計へ視線を向けた。
「十時半からの回。……少し早いけど、もう行こうか」
良平が進行方向を指さす。指先を目で追えば、横断歩道を渡って少し行った先に、大きなショッピングモールが聳え立っているのが見えた。今日の目的地だ。丁度、施設の壁面を覆うほどの大きな液晶ビジョンに、二人が観る予定の新作映画の予告が流れている。
「うん。チケットは取ってるんだよね? 売店でポップコーン買おうよ」
あかねの言葉に、「でっかいやつにする?」と彼が問い返しながら歩き出す。あかねの歩幅に合わせて、ゆっくりと加減された歩調。自然と車道側に立った彼の横顔は穏やかで、少しの負担も感じていないように見える。あかねは彼と並んでショッピングモールへ向かいながら、良平の、空いた右手を盗み見た。
あかねは、カミングアウトの際に、「誰にも触られたくない」と彼に伝えた。良平はその言葉をずっと覚えていて、あかねの気持ちを尊重するために、注意深く距離を測っている。──カミングアウトしてから今日まで、良平からあかねに触れたことはない。
彼は、穏やかで優しくて気遣いの出来る、自分にはもったいない人だ。彼があかねに触れようとしないのは、彼の愛情による行動だと知っている。同じような行動は、これまでのデートでも何度も経験してきた。分かっている。それなのに、普段は甘さを感じるその尊重が、今日はなぜだか切なさを呼び起こす。あかねは、もどかしさを感じながら、空っぽの指先を揺らした。
手を繋いでほしい。──淡い願いと共に、先日アウトレットモールで見かけたカップルの姿を思い出す。あかねは思わず目を細めて、空疎な自分の手へ視線を落とした。
細くて白い、頼りない女の手。爪の先に薄くマニキュアを塗った五本の指を眺めていれば、良平が「どうかした?」とあかねの顔を覗き込んだ。朴訥としたその顔を見返して、言葉に迷う。
あかねが「手を繋いで」と強請れば、良平は快くその手を差し出してくれるだろう。求めれば、良平は何だって差し出してくれる。それを思って、毒針でチクリと刺されたような、小さいけれど無視の出来ない鋭い痛みが胸を貫いた。
自分が望めば、良平は何だって与えてくれる。何だって差し出して、自分の身を傷つけてでも、あかねの気持ちを尊重しようとする。彼は優しい。「手を繋いで」と望めば、その手を差し出すだろう。「誰とも寝ないで」と求めれば、自身の端末にインストールされた見慣れないアプリを消して、抱えた欲求を一人で抑え込むだろう。それでどれだけ傷ついても、苦しんでも、良平がその痛みをあかねに見せることはない。
脳裡に、先日見かけたカップルの姿がよぎる。大きくて頼りがいのある男の手と、シルバーのリングが輝く白い女の指先。仲睦まじく寄り添うカップルの後ろ姿を思い浮かべながら、唇を閉ざす。あかねは「何でもない」と微笑みを返して、良平から目を逸らした。彼が「そう?」と相槌を打って、「体調が悪くなったら、遠慮しないで言ってね」と控えめに言葉を添えた。普段は甘いその気遣いが、今だけは苦い。
あかねは、良平から奪ってばかりだ。どうしても、彼を正しく愛せない。愛し方がわからないのに、愛したいと願ってしまった。
目を逸らしていた己の醜さを自覚して、自己嫌悪に思考が冷える。頭の中で、サソリが鋏を鳴らした。サソリと対を為す毒蛇が、鋭い牙を剥いてあかねに囁く。
他者を愛する技能を持たずに生まれたのなら、お前はその事実を受け入れて、一人で生きる努力をするべきだった。
抗弁を許さない強い断言が、自分の内側で響く。今日まで目を逸らし続けた正しさを前に、あかねは諦めと共にゆっくりと瞬きをした。
本当に良平を思っているのなら、今日こそ終わりにするべきだ。
公開直後というタイミングも相まってか、二人が選んだ作品は大入り満員だった。大きなポップコーンを二人の間において、作品を楽しむ。二人が選んだのは、海外のスタジオが作成したアニメーション映画だ。主人公は、とある少女の飼い犬で、近所で飼われている犬や猫、果ては野生のリスやクマなどと協力して、少女のピンチを救うという物語だった。
コミカルな掛け合いや、人間の常識を覆す大胆な行動。小さな生き物たちが熱い思いをぶつけあって少女のために奔走するという、単純明快で、だからこそ力強いストーリー。あかねは普段、あまりアニメーション作品を観ないが、作品の強さに引き込まれ、あっという間に物語に没入した。
百分間があっという間に過ぎて、劇場内に明かりが灯る。ポップコーンは半分以上残ったので、購入時について来たビニール袋に入れて持ち帰ることにした。良平と共に映画館を出て、飲食店の集まるフロアへ向かう。時刻はちょうど昼時だ。飲食店はどこも混み合っている。良平はあかねを人混みから庇うように先導しながら、「何食べたい?」とこちらを振り向いた。
「軽食がいいかな。思ったよりポップコーンでお腹いっぱいになっちゃった」
「それじゃあ……、少し待つけど、あの店にしよう」
彼が視線を巡らせて、比較的空いているカフェを指さす。十数分ほど待って店内に入り、それぞれパスタやサンドイッチを注文した。料理を待つ段になって、待ちかねたように良平が「面白かったね」と口を開く。彼は、月に二回は映画館に通う映画好きだ。今日の作品も、彼が「気になってる作品なんだけど、一緒にどうかな?」と選定したものだ。
あかねは水で喉を湿してから、「ね、面白かった。流石、良平くんが選んだだけあるよ」と相槌を打った。
「もっと子供向けなのかな~って思ってたけど、途中のリスさんの作戦とか、かなり複雑で、容赦なくて良かったよね。軍隊みたいに統率が取れてるリスさんたち、ちょっと怖いくらいだった。……だけど、実行するのが動物たちだから絵面は可愛いし、観てて楽しかった」
「分かる。画面がずっとモフモフしてて可愛かったよな。オレは向かいの家のシャムネコが好き。見た目の割に熱血系なのも良かった」
思わず笑ったシーンや、印象に残ったシーンについて感想を交わす。
あかねが、「まさかあの二人が想い合っているとは思わなかった」と、ラストシーンで結ばれた主人公と隣家のトイプードルの話をしながら目を上げれば、相対する良平の視線が強張っていることに気付いた。迷うような、躊躇うような、怯えるような。──彼の目には時々、寂しさとも悲しさともつかない、影が落ちる。
それが生来のものなのか、あかねと出会って生まれたものなのか、確かめるのが怖くて、これまでずっと、その影に気づかないふりをしてきた。黒く、深い闇を抱えた眼差しが水の入ったコップの縁へと注がれている。あかねは口を開いて、──思い直して、閉ざした。良平から目を逸らして、自身のコップを手に取る。
良平の瞳に映る影は、SOSなのではないか。
幾度となくよぎった推測に、肺が重たく沈み込む。もう終わりにしたい、と良平が望んでいるのなら、自分はそれを叶えるべきだ。何を切り出されても、それがいつ訪れるとしても、自分が彼に返せる優しさはそれしかない。
関係を終わらせるのなら、早い方がいい。これ以上彼から何かを奪う前に、逃がしてやるべきだ。今はその、絶好の機会だろう。──分かっているのに、覚悟を決めることができない。別れよう、とその一言を紡ごうとするだけで喉が締まって、声が出なくなる。
尻すぼみに交わしていた言葉が途絶え、机上に沈黙が落ちる。混んでいるからか、注文した料理は運ばれてこない。まずは話題を変えよう、別れを切り出すとしても食事を終えてからの方がいい、とあかねが思考を回していれば、頬に良平の視線を感じた。何か言いたげな気配に、体が強張る。呼吸が浅くなって、コップを掴んだ指先から温度が消えた。
今は、別れを告げる、絶好の機会だ。──先ほどよぎったばかりの思考は、きっと良平の頭にもよぎったはずだ。
彼の目にはきっと、影が落ちているのだろう。予感がするから、顔を上げられない。彼はもう、覚悟を決めたのだろうか。何か言おうと彼が息を吸い込む気配に、体が強張る。躊躇うような沈黙に、あかねは硬く目を瞑った。自分から切り出すことさえも叶わなかった、と一筋の申し訳なさが思考に流れる。
最後まで与えられてばかりだ。せめて笑顔で受け入れなければ、とあかねが黙して覚悟を決めようとしていれば、良平が、「あかねは、」と口を開いた。
「あの二人みたいな……、永遠を、夢見ることは、ある?」
怯えたような問いかけに、目を瞠る。
その言葉はまるで、──と、あかねが答えられずに黙っていれば、良平がゆっくりと、言葉を重ねた。
「変なタイミングでごめん。オレは、……オレに、それを望む資格はないかもしれないけど、」
思わず、顔を上げる。見返した彼の目には、やはり影が落ちていた。──自身の持つ醜さが日の下に引きずり出されはしないかと不安がるような、暗い色。それは、SOSとは程遠い、愛する人との離別を恐れる、不安の影だ。
あかねの眼差しを受け、怯えたように視線を揺らし、拒絶を恐れて苦しげに頬を引き攣らせながら、不安に震えた声で、彼が言う。
「君のことを、愛してる」
その一言に胸が高鳴り、──すぐにサソリが鋏を振り上げ、蛇が頭蓋の内に毒を注いだ。
どんなに深く愛されても、自分は彼に正しいそれを返せない。貰ってばかりで、奪ってばかりだ。彼の幸福を願うのなら、こんな関係は早く断ち切って、彼を自由にした方がいい。
人を愛する技能を持たずに生まれた。そんな自分が本当に彼から愛されていい立場なのか、誓いを望む言葉を受け取って永遠を望む資格を持っているのか、分からない。
相手の幸福を願うのならば、今すぐに良平を逃がしてやるべきだ。──蛇の囁きに、なぜか、固く結ばれた男女の手を思い出した。永遠を誓った証をその指に煌めかせ、甘い香りに包まれた、幸福な二人。正しく愛し合い、正しく寄り添う、真っ当なカップルの背中。
自分は、彼らのようには、なれない。
蛇の言葉はいつでも力強く、あかねを否定する。手を離すなら今だ。唆す声に、息を止めて、唇を噛む。己を否定する蛇の声を無視するために、あかねは深く、深く息を吸い込んだ。真っすぐに、良平へと視線を返す。きっと、自分の瞳にも、良平と同じ、不安の影が揺れているのだろう。自覚しながら、「私は、」と、震える声を発する。
正しく他者を愛せない。愛したはずの人でさえ、傷つけ、苦しめ、その幸福を望めない。自分たちが真っ当に寄り添い合うカップルになる日が来るとは思えない。──それでも、羨ましいで立ち止まってなんかやるものか。
怯えと、恐怖と、不安に揺れる双眸を見つめ、目を逸らさぬようにと震える手を硬く結ぶ。あかねは、揺れる声で、言葉を続けた。
「私に、こんなこと言う資格なんてないかもしれないけど、……それでも、ずっと、誰よりも、」
愛してるよ、良平くん。──紡いだ言葉に、彼が目を瞠る。
生まれ持った体でヒトを愛することができないのならば、牙を折って鱗を剥ぐことだって厭わない。鋏を砕いて、毒がすべて消えるまで血を流してでも、私は、貴方と永遠を紡ぎたい。
硬く握っていた手を開いて、良平のそれと重ねる。緊張に冷え切った指を絡めて、あかねは彼を安堵させるように、強張った口角を持ち上げて見せた。ぎこちない微笑に、彼が応えるように頬を緩める。かすかな震えを誤魔化すようにあかねの手を握り返して、良平は言葉を重ねた。
「午後は、指輪を見に行こうか」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.