昔日の雨は遠く

75アンソロ執筆中に練習で書いていた🔟ヒムSSをちょこっと整えました
ヒは大人です

 
 
 灰色と呼ぶには仄暗い曇り空。壁を揺するほどの強風が吹きすさんでいる。叩きつけるような雨音がそのおどろおどろしさを助長していた。
 カラカラと乾いた破裂音が頭上で跳ねている。そう思った途端、白い閃光と轟音が空を裂いた。
 甲高い声を上げた子供たちの顔色は綺麗に二極化されている。部屋の隅っこで青ざめているか、窓の近くで飛び跳ねているか。ヒースクリフは後者の反応を示す者たちをじっと睨みながら、腕の中でバスタオルにくるまった子供を抱えている。
「おい、とっとと着替えろって」
 数枚のバスタオルを自分の脇に置いて、そのてっぺんを数回叩く。子供たちは一様にびしょ濡れになって部屋に押し込められていた。
 ヒースクリフもまた例外ではない。予兆なく降り出す初夏特有の豪雨に見舞われた子供たちを、他の大人と一緒に避難させ終えたところなのだ。
「外! 外行きたい!」
「駄目に決まってんだろ!」
 ピシャリと叱りつけた直後、また新しい稲妻が空を駆ける。地鳴りのような落雷に、腕の中の子供がびくりと体を震わせた。するとすぐに、雷にも負けないほどの泣き声を上げる。水を吸って重たくなったヒースクリフの上衣が鷲掴みにされた。
「あー、また濡れちまうって」
 その子の背中をバスタオル越しに支えてやりながら、別の子供の名前を呼んだ。適当に髪と体を拭いてやって、窓から遠い部屋の隅で着替えさせる。
 ふと、部屋のドアがノックされた。ヒース? とこちらを呼ぶロージャの声が聞こえる。当分は泣き止まないであろう子供を抱えたまま、ヒースクリフは部屋から顔を出した。
「こっちのバスタオルが余ったから、お裾分け」
「おう」
「っていうか、あんたが一番びしょびしょなんじゃない? お風呂入っちゃえば?」
 そう言われて、ヒースクリフは部屋をぐるりと見渡す。ちょうど向かい側でイサンとホンルが同じように子供を世話していた。こちらの視線に気がついたホンルが、両腕で大きく輪っかを作って見せる。
「じゃ、あと頼む」
「うん。子供たちは任せて、夕餉まで休んでていいわよ」
 ロージャはヒースクリフが抱えた子供を引き取ると、とんとんと背中を叩いてあやし始めた。ああいうのは彼女の方が秀でている。任せておけば心配ないだろう。
 子供が揃うまで庭を駆け回ったせいか、ロージャの指摘通りヒースクリフは全身しとどに濡れていた。廊下を歩きながら、人知れずくしゃみをする。雨に打たれたままではさすがに肌寒い。ぺたぺたと肌に貼り付く衣服を鬱陶しげに引きながら、ヒースクリフは駆け足でシャワールームへと向かった。
 はっきりと思い出せなくなっていたが、悪天候はヒースクリフがかつて身を置いた屋敷では珍しくなかった。
 雷を怖いとは思わない。ただ、僅かに残った記憶の残滓が「不快だ」と告げている。それは天候に対する印象なのか紐付いた記憶のせいか、はたまた記憶の穴によるものか、いまいち明瞭としない。
 不快感が何に起因するのか、埃にまみれた顔や色褪せた情景をひとつひとつ当てはめてみる。だが腑に落ちた物が見つかるより先に、思考はその作業からぱっと離れた。
 いずれにせよ過ぎたことだ。どうでもいい。体が温まったのだから、シャワールームを後にしよう。
 白いバスタオルで体を拭き、ルームウェアに袖を通す。今しがた使ったばかりのタオルを頭に被り、自室へ戻った。
 外は相変わらず酷い天気だった。庭の木々が風雨で暴れている。足は自然と窓の方へと向かっていた。唸るような風の音と途切れることのない雨音。空が白く弾け、遅れて雷の音が響き渡る。
 その時だった。突然、自室のドアが開け放たれる。何事かと目をやれば、ヒースクリフと同じように目を丸くさせたムルソーが、頭から水を被った姿で立っていた。
……は?」
 目の前の光景が呑み込めず、間の抜けた声だけが口をついて出た。
「なにしてんだよ」
「お前を探していた」
 少しの逡巡もなく答えが返ってくる。ヒースクリフは言葉を失った。
 彼の髪から滴が床へぽたりぽたりと落ちる。靴の中まで水を吸わせたまま、ムルソーは当然のように立っていた。思わずもう一度問い返す。
「探すって、外をか?」
「そうだ」
「なんで」
 すると、ムルソーはほんの僅かに口を閉ざした。問い返される理由が分からない、とでも言いたげな表情だ。
「お前は決まって嵐の夜に不調を起こす。敷地を飛び出したり体調を崩したりとさまざまだったが、決まって私が面倒を見ていた」
 今度はヒースクリフが黙る番だった。ムルソーもまた事実を語っているに過ぎない。だが、それはヒースクリフが幼い頃に起こしていた発作のようなものだった。雷雨がヒースクリフを惨めにさせるきっかけとして作用していた頃。具合が悪くなったり涙が出てきたり、あるいは無性に腹が立って暴れたり孤児院を飛び出したりと、この気質は目の前のムルソーをはじめとした大人の頭を悩ませた。
 随分と昔の話を持ち出してきたものだ。思わず眉間に皺が寄る。
「それ、いつの話してんだよ。つかずぶ濡れじゃねーか」
 苛立ちに任せ、先ほどまで自分の髪を拭いていたバスタオルを投げつけた。
……湿っている」
「黙って使えよ!」
 そう怒鳴りつけた相手の腕を引き、押し込めるように椅子へ座らせる。
「座面が濡れてしまう」
「いいんだよ、別に」
 余計なことを口走る前に、髪をガシガシと拭いてやった。されるがままのムルソーから手を放し、向かいのベッドに腰かける。
「熱はないか」
「ない」
「苛立ちや衝動は」
「ねえよ」
「寂しくはないか」
「あのなあ……
 ひとつ溜息をついて、ヒースクリフは顔を上げる。ふと、こちらを見つめるムルソーと目が合った。
 眼鏡越しに覗く瞳の色を見て、ヒースクリフは得心が行く。どうやらムルソーの中ではその頃の話が続いているらしい。ようやく腑に落ちた。
……もう平気だよ。ガキの頃と今じゃ状況が違うだろ」
 それは自分に言い聞かせるための言葉ではなかった。今のヒースクリフにとっては紛れもない事実だ。
「屋敷で過ごした時間より、ここにいる時間の方が長くなったんだ。だから平気」
 そこまで言い切って初めて、彼は納得したようだった。ヒースクリフは努めて穏やかに告げた後、じっとりと目を細めて再び口を開く。
「それに、この話は五年くらい前に終わってる。また記憶落っことして来やがったな」
 呆れ半分に吐き捨てた言葉を、ムルソーは静かに受け止めた。返事はすぐには来なかった。代わりにじっとこちらを見つめている。
「よかった」
 それから、息を吐くような声色でこう呟いた。
 ムルソーは白いタオルを被ったままこちらを見据えている。その表情はいつもと少しも変わらないように見えた。だが、目元だけはほんの僅かに柔らかかった。
 こちらが何かを言うより先に、ムルソーは徐に立ち上がる。その体が目の前を通り過ぎると思った矢先、彼はヒースクリフの額にキスを落とした。
「髪は乾かしておきなさい」
 そう言ってムルソーはヒースクリフの部屋を後にする。額に残る微かな温もりに、思考が一瞬止まった。
 気づいたときには扉は閉まりかけている。
「だから……もうガキじゃねえんだって!」
 廊下の向こうへ消えていく背中に向かって、ヒースクリフは遅れて怒鳴り返した。