何はなくとも、天気が良ければ気分はあがる。しかし、たとえ空がどんより曇りしとどに空気を濡らしていようとも、決して仕事がなくなるわけではない。
近くを通るついでに上司から届け物を頼まれた重悟は、珍しく第三機動隊の庁舎に来ていた。届け物といっても、ここの中隊長に書類を届けるだけだ。
とはいえ、只のお使い要員で終わる気はない。
なかなか顔を突き合わせて話す機会もないことから、中隊長とは最近の神奈川県内で起きている事件や案件などの情報交換に余念がない。交通部には、緊急検問や犯人追跡などで力を借りることも多々ある。
「今日はまた、随分と人が多いんだな」
「まぁこの雨じゃ白バイは開店休業、パトカーの台数にも限りはある。全部出払う訳にもいかないし、もう少し配備を増やせとかけあってるところだよ。ああ萩原の小隊も、そのへんで何かやってると思うぞ。搭乗訓練は他の小隊が使っているし」
「……なぜそこで、ちは…萩原が出てくる」
「なんだ、違うのか? たまに視線が自分の背後に飛んでいるから、てっきり探していると思ったよ」
さすが、たたき上げの白バイ隊員から中隊長にまで昇進しただけあり、なかなか鋭いところをついてくる
うっかり名前で呼びそうになり、さすがに改めた。一応、彼女の上司だ。
解っているぞ、というだいぶ面白がっている視線をどうにかかわし、真面目に仕事の話に流れを戻す。部下が部下なら、上司も上司だった。
仕事の話も一段落したところで、重悟はおいとますることにし、廊下にでる。
張りのあるアルトボイスが自然と耳に入り、聞こえた方向をみれば千速とその部下達がいた。
これから何か訓練をするのだろうか、念入りにストレッチをして身体をほぐしている。
「ただ走るだけじゃつまらんからな。私に勝ったら、食堂のランチをおごろう」
ストレッチしながら千速が言えば、それに応えるように隊員達は右拳をえいえいおーと挙げて賛成の意を示している。
やがて廊下に広がると、ピッピッ、と規則正しく流れるビープ音に合わせ、走り始める。ある一定の距離を走るとターンすることから、どうやらシャトルランをしているらしい。
次第に上がるテンポに一人また一人と脱落していくも、千速は涼しい顔をして足は止まらない。
ほぼ全力で走るくらいのテンポまで上がってくると、もう意地の張り合いだ。諦めずに走り、ラインを超えてまた走る。最後は千速との一騎打ち、打倒小隊長に燃えた隊員も充分に奮戦したものの、あと一歩及ばなかった。
「く、くやしぃぃ」
「小隊長の持久力、どうなってんですか」
大の字になって休憩する隊員達に、千速はさぁなと笑って答える。
その視線が、重悟にむいた。
「おい、そこで見ているだけか、横溝重悟警部」
「げっ」
つかつかやってきた千速は、にやっと笑うと重悟のネクタイをつかみ、ゆるく引っ張っていく。
「ちょ、おいこら、ネクタイ引っ張るな」
「さっきからずーっと見ていただろう。仲間に入りたいのかと思ってな」
ああ、気がついても存在にはあえてふれなかったのに、小隊長も自ら行ってしまった。
残された部下達は顔を見合わせ、頷きあった。
ああなってしまったら、これはもう成り行きを興味津々わくわく、もとい、真摯に見守るしかない。
「いや、ただ雨でも熱心に訓練しているんだって思っただけだ。べつに千速を見ていたわけじゃ…」
「ほう、では誰を見ていた? うちの部下に用があるなら、小隊長の私を通すのが筋だろう」
真顔で道理を通す千速に、離れたところで見守る隊員たちは揃って頷いている。階級も年齢も上の者にも遠慮することなく、部下を守る。そんな小隊長の凛とした姿に感激している様子。
……と重悟からは見えているが、なんてことは無い、何を話しているのか気になっている、ただの野次馬だった。
「べ、べつにお前の部下に用があるわけじゃ」
「じゃあなんだ? 最近は天候不良が多い、さすがの警部殿も運動不足で身体がなまっている、ここらで少し走りたいと思ったと? それならやるか?シャトルラン。持久力アップで、張り込みにも役立つかもしれんぞ」
「は、走るかっ」
「なんだ負けるのは嫌か? 私は一本走っている。多少のハンデもあって、私に勝つならまたとない、いい機会だと思うが」
「ただ訓練してる、熱心だなって見ていただけだ」
「そうかそうか。横溝警部のお手並み拝見といこうじゃないか」
「断る」
「なんだ。挑まずに棄権か?」
お前らしくない。
言外にそう言われ、重悟は無言でスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖もまくりあげる。その辺にぶん投げようとしたところで、千速の部下がさっと近づき上着を預かってくれた。
「重悟、やるならちゃんと準備運動しろよ。急に走って肉離れを起こしてもたまらんからな」
「わーってる。小隊長殿は、その間に体力回復させることだな」
「別にいらんだろう。もう二、三回はできるぞ」
「……おい、おまえんとこの小隊長、どんだけ体力おばけなんだ?」
「小隊長なので」
澄んだ眼差しできっぱりと言い切る千速の部下に、重悟はそうかと返すしかない。
重悟が念入りに準備運動をしている間、千速も脚の筋肉を中心に丁寧に筋を伸ばしたり、肩を回してと準備万端。水分補給もしっかり行い、いつでも走れる。
「待たせたな、千速」
「おう、待ちくたびれたぞ。じゃ、やるか。音頼む」
「了解です」
近くの部下に頼むと、二人がライン上についたのを目視後に音を流し始める。
五秒前、のアナウンスに重悟はやや重心を前にし飛び出す用意。ちら、と隣の千速を盗み見ると、走る気は全くないように見えるほど、リラックス状態だった。
爪先は付けたまま軽く身体を上下させてリズムを取り、肩から手をぷらぷらさせて、力を抜いている。
そうこうしている間に、走行開始を知らせる音が鳴り響きラインを超えていく。
同時に駆け出すも、シャトルランは速さを競う競技ではない。あくまで音に合わせ、一定のペースで走り続けるのが肝要。
二十回を超えた頃はまだ余裕があり、視線が合えばニヤッと笑いかけ、お互いを挑発。千速は軽やかにライン手前で減速、旋回するようにターンして、また次のライン越えを目指す。重悟も減速を利用し呼吸を整え、一歩踏み出していく。
「小隊長も横溝警部も、まだまだ余裕だ。俺、さすがに三十回越えてくるとキツかったよ」
「小隊長、さっきも六十越え行ってたよな。副長があと一歩及ばなかったって、落ちたのがその位だろ」
千速の部下達も、固唾を呑んでこの勝負を見守っている。
大台の五十回を越えてくると、額に汗も浮かび、ターンすると時折雫が飛んでいく。特に重悟は汗でワイシャツがはりつき始めている。
「── 千速のやつ、まーだ涼しい顔してんのかよ。あんなほっせぇのに、体力バケモンか ──」
「── 重悟、意外とやるな。捜一の警部は伊達じゃないってことか。だが負けん ──」
六十回のアナウンスが流れると、もう互いを気に掛けている余裕などはない。
千速も重悟も、ただ前を見据えて手足を動かし、視線の先にはラインのみ。応援の声は声援からビープ音に合わせたカウントダウンにかわり、その声に押されるように千速はラインを越えた。
重悟は僅かに及ばずテンポに合わせてラインを割れなかったが、まだ一回目。挽回する機会はある。焦らず、わずか前方を行く青を追いかける。
「七十! 小隊長、警部、ファイト!」
「── くっ、さすがに二本立て続けのランはきついが、まだだ ──
重悟に続いて、千速もライン越えが出来ず、それでもまだやれると自らを鼓舞する。荒い呼吸がやけに響くが、それはほぼ真横にいる重悟の呼吸の荒さも要因の一つ。苦しいのは自分だけではない。
「くっそ」
七十三回目、重悟はラインを越えられず二回目の失敗。すぐ足を止めることなく緩やかに速度を落として止まった。
まだ千速は走っているが、並んで走った時の呼吸からして、相当苦しいのは間違いない。
「だーーーーーーーーっ」
悔しそうな咆哮があがり、同時にビープ音も止まる。どうやら千速も二度目のライン越えが出来なかったよう。
「お疲れ様です、小隊長」
「ああ、先に横溝警部に渡してくれ」
部下がタオルとスポーツドリンクを差し出してくれ、心遣いをありがたく受け取るとまずは重悟へ、と頼んだ。
「悪いな。ありがとう」
ドリンクを受け取ると、何口か飲みほし、ふぅ、と大きく息をついた。走った直後で熱を持った身に、キンキンに冷えた飲み物が染みる。
「なかなかやるじゃないか、重悟」
「千速もな」
拳をこつんとあわせ、互いの健闘を称えあう。
クールダウンのストレッチをして、程よく落ち着いたところで千速はすっと立ち上がった。
そろそろ昼時になる頃合い、訓練でいい汗をかいた後はしっかり栄養補給だ。
「よーし、皆頑張ったからな。今日のランチは私の奢りだ。好きな定食を選ぶといい」
「ありがとうございます!」
小隊長の一声、隊員達はぱっと整列すると声を揃えて頭を下げた。
「そういうわけだ、重悟。私の昼は奢ってくれるよな?」
「なんでそこで俺が奢るんだよ」
「私が勝ったからだ。文句あるのか?」
小隊長、お席取っておきます、という気遣いのできる部下の言葉に甘え、わらわら駆けていく部下達の背中を見ながらゆっくり歩く。
食堂に入れば、外の見えるいい場所を確保してくれていたよう。こちらです、としっかり重悟の席も確保されていた。千速の向かいの席で、小隊の面々とは通路を挟んでテーブルも別と、判っている仕事ぶり、これも小隊長の部隊運営のたまものなのか、はたまた補佐するナンバー2の采配も効いているのか。
「一汗かいたあとの昼食は美味いな。しかも唐揚げ定食、重悟のおごり。最高じゃないか」
はぐっと美味しそうに唐揚げにかぶりつく様は、さっきまで真剣に前を目指していた彼女と同一人物とは思えないほど、ゆるんだ表情。こうしてころころ変わる表情も目が離せず、ついみつめてしまう。
「俺は中隊長に書類を届けに来ただけなんだが……」
「まぁいいじゃないか。時にはこんな日もあったほうが、刺激的だろう? また勝負したくなったら、いつでも来ると良い。受けて立つぞ」
「そのたびに、奢れってか?」
「奢ってくれるのか? 重悟はいい男だな」
「な、何言ってやがる」
「動揺が声に出ているぞー。捜一の警部が、それで被疑者落とせるのか?」
「落とすんだよ」
軽口の応酬をしながら、重悟も唐揚げを頬張る。
じゅわっと口の中に広がる肉汁を味わいながら、反芻するのはただ一つ。
書類を届けに来ただけだったのに何をしているのか、と。
我にかえってしまうも、雨だからしょうがないと言い聞かせて最後の唐揚げを口に入れた重悟なのだった。
【了】
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