草枕
2026-07-04 22:08:20
4093文字
Public syzygy
 

syzygy_overweight_011.アルゴスにて

ここから歩き始めたいと思った。

「この人は隊内に青年隊員の家族がいる、イニシエーターに運ぶのは少し待ってくれ」

リードの遺体を運ぼうとした隊員はシルーの言葉に手を止めた。担架にくくりつけた用紙に何事か書き込むと、承知したというように頷いた。刻限の迫る中でも、こうして人の心を尊べるのがsyzygyの脆いところだ。その脆さが任務遂行の手を遅らせたことを、ほんの数日前のシルーはすこし面倒にさえ感じていたのに。今は、分かり合おうとする勇気を手放せなかった彼らを眩しく思う。シルーに彼らのような信念が育たなくとも、今は。syzygyの脆さこそが光である未来で生きたいと思う。

別れたばかりの薄明の光が頭を過ぎる。彼女は家まで帰ることができただろうか。難しいかもしれない、と片隅で思いながら、見たこともない部屋が箒で掃き清められ、湯を沸かす煙が上がって、メロペイアの茶の匂いが辺りにただよう、そんな光景を思い浮かべた。
────ソアラは、私の跡……たどってもらえたら、待っている、はずだから。

彼女の言葉が、頭の中で繰り返される。
ソアラ。ソアラだ。
シルーにとって、リードの未来を決めるべきなのは、彼の家族であるソアラだ。彼女がまだアルゴスに到着していないというならば、迎えに行かなくては。人の流れに逆らいながら足を動かす。ソアラの個人端末と連絡を取れるよう、端末のアシスタント越しにアルゴスの通信員に依頼。装備の確認──上着の欠如。歩行に際し身体の著しい不調は──……今歩けているので無しとする。気の急くまま艦内を駆けた。今から外に行くつもりか、と焦った声が掛かる。苦しそうな顔で外を見つめる隊員の横を通り抜ける。

そうして辿り着いた降機口は、閉鎖されていた。

当たり前だ。出立を目前にした大型の星間艦が、いつまでも使う予定のない出口を開けておく筈もない。シルーは自分の思考力の低下を苦々しく感じながら荒い足音を立てた。こうなれば、少し強引にでも搭乗口を逆行するしかないだろう。
忙しないアルゴスの中で、殆ど駆け足だったシルーの腕を、一人の隊員が掴んだ。

「今から出て、お前まで帰って来れなくなるぞ。良いのか?」
「っ、」

良い、と言いかけた。言えなかったのは、ほんの一瞬、シルーの意識の内か外か、はっきりしないところで足が止まったからだ。単なる疲労の蓄積かもしれない。自分の命の使い道を悩んだのかもしれない。シルーの耳元で、デバイスが搭乗の刻限を繰り返している。既にアルゴスに到着している、慕わしい人たちの顔が浮かんだ。今がシルーの『引き際』だという予感は、たぶん間違ってはいない。
──。
この一瞬の遅延は、戦場だったなら容易く命を刈ったことだろう。努めて深く呼吸をする。シルーの腕を掴んだ隊員の力が、まだ少し強張ったまま弱まる。その、お人好しの手に礼をした。

「メロペイアの朝日が、美しかったんだ」

だから、曇らなければ良いと思った。彼女が最後に繋ごうとした親子を、シルーも繋ぎたいと思った。いつか己が「人生を楽しめ」と言われたことを、リードに聞いてほしかった。話したところで、これはシルーが受けた言葉であるし、それにしても到底一人では人生を楽しめなさそうなあの人が、それでも娘と一緒に笑っている未来を見てみたいと思ってしまったのだ。皆が敬愛したリーベック副隊長。そして、その皮を脱いだリードが、ほんとうに笑っているところを。
自分の命を賭けても良いと思った。
それは、シルーの心があの隊の、あの部隊員で出来ているから生まれた感情かもしれない。借り物染みた望みなのかもしれない。だが、執われていることを肯定して、ここから歩き始めたいという願いはシルーのものだ。
親子の為に命を差し出すのではない。ただ、目指す光景は美しくて、心が湧き立つだろうと思うのだ。リードのことを考えるに、静かで、誰もが気付くきらめきではないだろうと思うのだ。だから、往く。シルーはもう、自分の家族をぼんやりとしか思い出せない。家族とはどんなものか、エルンスト親子に見るのも楽しいかもしれないと思った。あの二人がこの先、どんな親子関係を築いていくのかを。
そういう、未来のために往く。

隊員は、最後にただやさしく「光あれ」とシルーの背中を押した。この人の為にも、帰るべきだと思う。
それでも踏み出す一歩は、希望と願望に満ちて酷く重い。しかしその望みの重さゆえに、どこまでも行ける。
通知が来たのは、呆気ないほどすぐのことだった。
端末からソアラのGPS情報を得たアシスタントの合成音声が流れる──対象、600m圏内。目視可能距離に入ります。目を凝らした先には複数人の影がある。シルーが駆け出すと同時に、先ほどシルーを引き留めた隊員までも、後方から"青いラインの隊服"に向かって急ピッチの足音を立てた。
隊服が、乾いて酸化した血で赤茶けている。その色の広さに、青年隊員らは遺体を運びながら帰ってきたのだと誤認をして、シルーは息を飲んだ。両脚を失くした身体がゆるりと顔を上げる。ソアラだった。痣が目に入ったとき、その視認性の高さを、喜ぶべきではないと知りながら喜んでしまった。酷い怪我であることを憂うべきと知りながら、高い回復力に安堵してしまった。それほどに嬉しかった。どうか、と切に望んだ人が生きて帰還する歓喜を、本当に長いあいだ、忘れていたために。




ソアラを担架に乗せたシメイズともう一人の青年隊員は、少しの間会話を交わしていたようにも見えた。シルーは彼女らと入れ替わりに、ソアラに話しかけた。痛ましい怪我に労りの言葉をかけるべきだろうか──いや。

「副隊長、いや、リードさんだが、イニシエーターに入る前で待ってもらっている」
「ありがとう、シルーさん。あのね、ロハって人がパパのこと運んでくれたの。ロハは?」

リードが死んでいることを、ソアラが知っているかどうか、シルーの危惧はあっさりと霧散した。幼気でありながら、同時に年齢の枠など超えたような眼差しが、父親の戦死と、この星で受けた親切と、今も痛むであろう重症を、ただそのまま受け止めている。そう感じられるような静けさだった。彼女の本心がどこにあるのか分かるほど、シルーは鋭くない。

「ロハは、おれにリードさんを預けて、家に帰った。ソアラのことを、気にしていた」
「そう……、お礼言いたかったんだけどな」

ロハとソアラの関係は、メロペイア人とルクス人にしては、良好だったのだろう。互いに、相手の行動への礼をしようとする誠意。そしてシルーには、戦中であるのにそれを通そうとする強情さ……気の強さ……いや、意思の固さ。意思の固さのような部分が、通じ合ったのかもしれないなと思った。そんな風に考えてしまうくらい、二人の再会が叶わなかったことが惜しかった。シルーの下手な口が何か返す言葉を見つける前に、ソアラは言った。

「シルーさん、お願いがあるの。パパと一緒のイニシエーターに入るから、運ぶの手伝ってほしいの」
「一緒に?」

それは遺体の復元を、青年隊員の超常的な回復力で補うということだ。シルーが考えたことなど、やはり、当人は考えていた。

「あのね、パパ最後に何か言ってたの。でも聞けなくて。だからちゃんと聞きたいの」

そうしてきっと、とうに覚悟を決めているのだ。
だから、シルーは、その覚悟を問わなくてはならない。ソアラが、戦えるように。自分の理屈で歩めるように。

……危険だ」
「うん知ってるよ、私、適合率低いんだって」
「怖いか」
「怖くないよ。パパが死んじゃう方が怖い」
「そうか。……わかった」

シルーの目から、ソアラは穏やかそうに見えた。激情ではないのに揺らぎのない心が、理知的な冷静さにも、道理を知らぬ幼子のようにも感じられる、そんな受け答えだった。
ずっと、これだけは伝えようと思っていたのに、口を開くのが僅か躊躇われて、ただ迫る刻限が背を押した。

「ソアラが決めるのを待っていた。
──あの人に、『このまま死にたかった』と言われ続けて共に生きる覚悟はあるか?」

リードを背負った時に。あの人たちの蘇生を望んだ時から。片時も離さなかった、離れなかった、自身への問い。それをソアラにも投げかけるのが正しいかどうか、シルーは分からない。分からないけれど、聞くべきだと思った。ソアラのためだろうか。リードのためだろうか。シルーの我欲でないことを祈った。

……
でもパパ、私のために生きるって言ってたよ?」
……! そう、か」

ソアラの顔に、邪気は無かった。リードの言葉を、ただ信じているような眩しさが、シルーを刺した。
この姿を覚えていようと思った。再構築でソアラにも危険があるなら、彼女がリードの言葉に寄せた信頼を、覚えておこうと。

「ありがとう、パパが生き返ったらちゃんとパパにもシルーさんに助けてもらったって言うからね」

シルーは、ソアラの覚悟を問わなくてはならなかった。ソアラが、戦えるように。自分の理屈で歩めるように。
そしてもし、その先に困難があったなら。ソアラが、或いは彼女を思う誰かが、何故背中を押したと、シルーを詰められるように。
それが、死者に我欲を通す同志への、シルーからの健闘の祈りだ。

「パパに叱られる時は一緒だ」

シルーはソアラの頭を下手くそに撫でた。いつか隊の先輩にされた動きの再現だ。女子隊員に向けるには少し力が強かったかもしれない。でも、あの手のひらは、無性に元気が出たのだった。
ソアラの顔を覗く。

「大丈夫だよ、パパ、私に怒ったことないもん」

それは激甘パパさんだな、と言ってソアラを車椅子に乗せる。脚を失った体は軽い。重みのない車体は不安定で、却って押しにくい。
リードの居場所までの道のりを、シルーはできる限り丁寧に、ソアラと進み、別れた。


そんな事が、記憶に残っている。



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協力:しえ(@itoyoriTRPG)