魚と蝙蝠

飲み屋に来ていたモブ目線 釣った魚を提供しにきたまつだが魚を捌くところを見ていく話

魚と蝙蝠

 へぇうまいじゃん! という声につられて顔を上げれば、デカい男が的確に魚を捌いているのが見えた。左利きの包丁というはどうも危なく感じられそうなのに、さくさくと簡単に身を削ぐ。何匹かの魚の後、ついでにと頼まれた力のいるイカの皮もつるりと剥かれ、あっという間に造られた。自分の前に置かれた醤油と山葵と大葉は、店主がいつも気前良く盛ってくるのに、今日はそのデカい男が用意するらしい。分量もデカいのかと思えば意外とそうではない。低身長の店主の方が豪快に物事を進めるタイプなのだな、とわかると不思議に思う。興味を惹かれて「飲食経験者か、なにか?」と尋ねれば、無愛想な眼差しで一瞥いちべつされ、「そうやない」で終わった。それ以来彼との交流は閉ざされたので、こちらも無理に話を広げられず、肩をすくめてビールを飲んだ。カウンターの向かいにあるキッチンはガラス張りで丸見えだから、魚の目玉がこちらをじっと見てくる。そのつまらなさそうな目は、デカい男がこちらを見たときの目の光に似ている。だから勝手に彼を《魚》と呼ぶことにした。
 人間ではない方の魚が上向きに寝転がされ、また腹を捌かれるころ、店のドアがカラカラと開いて「松田さん」と控えめな声がする。雨降りの外に立つ猫背の男が傘をさしていた。異様に大きく見える傘のせいで、蝙蝠こうもりが羽を広げて店先に止まっているように錯覚した。《蝙蝠》は羽を休めるように濡れそぼった傘を折りたたみ、店の入り口の角になった場所で静かに佇んでいる。それ以上中には入らず、店主も声をかけない。人懐こい店主にしては珍しい、と様子を見ていると、《魚》が手を挙げて「もうちょい待っとけ」と言う。
 外は雷も鳴ろうという勢いだ。《蝙蝠》の持つ傘は雨粒を下に落とし、店の床が染みていく。《蝙蝠》の履いているスニーカーもかなり色が変わっていた。変色していく二つの物体が、いずれ色が混じって同じになっていくのではないかというくらい、《蝙蝠》はその場でじっと大人しく待っていた。
 細身だがよく見れば男だ。白い肌で病的にすら思える。こういう勘はよく当たる──《魚》からけぶるタバコの匂いを、《蝙蝠》もさせていた。同じ家に住む間柄で、わざわざ飲み屋通いの男を悪天候だからと迎えにくるようなほどなのだ。執心は一体どちらが上か。酒に酔った頭は邪推をしたくなる。
 まもなくキッチンから《魚》が出てくる。その目に宿しているのはいくらかの安堵だ。正気のない眼差しのことを、死んだ魚の目、とはよく言うが、《魚》はもう《魚》というあだ名が似合わないほど、元の色をその目に戻していた。心の中で勝手につけたあだ名に詫び、松田という名前を改めて記憶する。
 さて《蝙蝠》の名前はなんというのかと耳をそばだててみたものの、二人の会話は聞こえない。それどころか、どうも不躾に二人をじろじろ見過ぎたようで、松田は《蝙蝠》をその体を盾に隠してしまった。ただ「家で待っとれって言ったやろ」というそっけない癖にその実じれったくなるような気遣いが聞こえた。ビールの苦味が甘くなる。《蝙蝠》の持ってきた傘であれば二人で入るのにちょうど良い大きさだろう。それをわかって傘を一本しか持ってきていないあたり、《蝙蝠》もなかなか間柄を愉しんでいるようだ。
 店主が《蝙蝠》は話しかけなかった理由は後に聞けば「あともうちょっとなんだよな、あの二人。だから馬に蹴られたくなくてよ」だ。合点のいく答えにつまみを頼まなくても良さそうだったが、先ほど捌いたばかりの魚から取れたあら汁は美味そうだから、今夜の締めにもらうことにする。