歩くたびにぎしぎしと音を立てる廊下にも慣れたもので、一護は迷うことなくこの家で一番奥まった場所にある部屋の前に辿り着くと、ためらいなく襖を開けた。部屋は空調が効いていて廊下の蒸し暑さとは裏腹にひんやりと涼しい。少しだけ明かりを絞った薄暗い部屋には、普段は感じない瑞々しい甘い香りが漂っていて、一護は何の匂いだろうと考えた。
「おや、早かったっスね。お帰んなさい」
この部屋の主である浦原が文机の前に座って、一護を迎えてくれる。文机の上を見ると、丸々とした桃がひとつ、ガラスの器に載っていた。その横には銀色に光る果物ナイフが置いてある。
「すげーいい匂い」
一護は匂いにつられるように、浴衣姿で寝る準備を整えた浦原の隣に腰を下ろした。一護よりも先に風呂に入った浦原の髪は、ドライヤーを使わないせいでまだしっとりと濡れていた。
「もう終わりがけだから安くなってたそうで。お好きですか?」
「おう。でも、今年はまだ桃食ってない」
「そりゃよかった。……サイズ、ちょうどよかったっスね」
浦原がじっくり一護を眺めてそう言うので、一護は先ほど脱衣所で着替えた時にも感じた気恥ずかしさがぶり返すのを感じた。一護が寝巻き代わりに着ているのは、いつものTシャツと短パンではなく、紺色の甚平だった。ウチに泊まるときの寝巻きによかったら、と浦原が準備してくれたものだ。
浦原と一護がきちんと約束事をして関係を結び直してから、ひと月ほどが経つ。変わったことがいくつかあった。ときどき一護が浦原の伝令神機にメッセージを送るようになったことと、浦原商店に宿泊する際の寝床が客間から完全に店主の自室に移行したこと、それから、その部屋の箪笥の中に一護の着替えが置かれるようになったこと。一護が商店を訪れるたびに何かと世話を焼いてくれる従業員たちは当然その変化に気づいているはずだったが、何も言わないので一護はかえって大変気まずい思いをしている。
とはいえ、浦原の心遣いはうれしかった。「涼しいよ。ありがとな」と礼を言うと、浦原は満足げにちょっと笑った。それは普段の浦原よりも少しだけ子どもっぽい笑顔で、今のところその表情がいちばんかわいいと一護は思う。
「よく似合ってます」
ご機嫌な浦原がぽんぽんと一護の二の腕のあたりを叩いた。つんと澄ましているときの浦原は近寄りがたいうつくしさだが、リラックスしているときの浦原は存外に距離が近く、スキンシップを好む。自分だけにだといいなあ、と一護は思ったりもするのだが、こういうことを迂闊に言うと浦原の機嫌を損ねてしまう。以前、一護が浦原に自分以外の相手がいると誤解したことがよほど気に障ったようだ。原因が自分にあるため、一護は賢明にも言葉を胸の内に留めた。
「黒崎サン、桃剝いたことあります?」
「ない」
「じゃ、やってみましょう」
「今から食うのか?」
そろそろ日付を跨ぎそうな時間帯だった。先ほどふたりで少し遊んだ布団の上は乱れていたが清潔で、一護はもうこのまま眠るだけだと思っていた。
「お腹いっぱいっスか?」
「いや、桃ぐらいなら全然食えるけど……まあいいか。どうやるんだ?」
一護が首を傾げると、浦原が桃をそっと取り上げて一護の左手に乗せる。桃は頭のほうは濃い紅色だったが、尻に向かって黄色へと色が変化している。ちょうど手のひらに載るほどの丸い果物はよく熟れているのかやわらかく、産毛のような頼りない毛に覆われていた。
「なんかかわいいな」
一護がそう言いながら右手で果物ナイフを持つと、浦原が「そう?」と笑った。
「まずは真ん中をぐるっと一周切ってですね……」
一護は浦原の指示通り、慎重に桃のやわらかい身に切れ込みをいれた。その瞬間にいっそうかぐわしい香りが広がって、一護は何となく喉の渇きを覚える。巨大な斬魄刀は振り回し慣れているが、こんなに小さな刃物を扱う機会はめったになく、一護は桃を潰さないように覚束ない手つきでナイフを動かした。
桃の実に一周切れ込みを入れて、一護はそっと桃を両手で持つとねじ切るように身を種から外そうとした。しかし、少しでも力を込めれば指先の力で身を潰してしまうと気づいて、困った顔で浦原を見た。浦原は頼りない顔で固まっている一護を見てにまにまと笑っている。
また人が困ってるとこ見て楽しんでやがる。浦原の悪趣味にもすっかり慣れたもので、一護は渋面を作ってしぶしぶ「どうすりゃいいんだ」と浦原に尋ねた。すでに一護の両手は滴る果汁でびちゃびちゃに濡れている。
「回せないっスか?」
「握りつぶしちまう」
「じゃあ、親指で皮を押さえて……そう、そのまま左右に動かしたら皮が剝けますんで、あとは適当に切って食べましょ」
一護が親指に少しだけ力を込めて桃の皮を左右に引っ張ると、まるで服を脱ぐようにずるりと薄い皮が身から剝がれた。おお、と思わず感嘆の声を上げる一護は、その様子を浦原が目を細めて見ていることに気づかなかった。
浦原はガラス皿の上に置かれていた果物ナイフを手にすると、手を拭くために準備してあった濡れ布巾を一護に渡し、かわりに一護から桃を受け取った。一護のぎこちない包丁さばきとは比べ物にならないほどすべらかな動きで、ガラスの上に桃色がかった白い果肉が積もってゆく。一護はぼんやりとその様子を眺めていた。夜更けの薄暗い部屋に甘い香りが満ちる。浦原と過ごす夜は、いつも夢の中にいるように現実味が薄い。
「黒崎サン、口開けて」
ぼんやりしていた一護は、よく考えずに浦原の言うままにぱかりと口を開けた。そこに白い果肉がぽんと放り込まれて、一護は自分で口を開けておきながら驚いた。甘い桃だ。口の中にあふれる果汁を一護はしっかりと味わう。うまい。うまいが。
「自分で食える……」
次の桃を持って一護の口が開くのを待っている浦原に、一護はげんなりした。なんで「あーん」される一択なのだろう。一護は照れ隠しに顔を顰めた。
「だって楊枝忘れてきちゃったんスもん。せっかく手を拭いたのにまたベタベタになったら嫌でしょ?」
そしたらまた拭くからいいよ、と言おうと開けた口に次の桃が突っ込まれる。三日月の形になった浦原の目を見て、一護はすべての反論を諦めておとなしく口の中の桃を咀嚼した。浦原のささやかな嗜虐趣味になにやら火がついてしまったらしい。こうなったら抗うよりも浦原の関心が過ぎ去るのを待ったほうが賢明だと、一護は学習していた。
「美味しいっスか?」と三切れ目をスタンバイした浦原に尋ねられ、一護は素直に頷いた。一護は口の中のものを飲み込むと、次の果肉が押し込まれる前に声を出した。
「浦原さんは食わねえの」
桃一個など大した量ではない。三切れ食べてしまえば、それで半個以上の量になる。浦原はたしかに偏食だが、さっぱりした味付けのものは食べている印象がある。それに、桃のように口当たりのよい果物は嫌いではないはずだ。
一護の気遣いに浦原はにこっと笑って、三切れ目をやはり一護の口に押し込んだ。いらないということだろうか、と思いながら一護が口を動かしていると、浦原がぐいっと一護を後ろに押し倒してその体に覆いかぶさった。さんざん浦原には転がされているのでいまさら大した驚きもないのだが、それほど力を入れていないはずなのにこうも容易く自分より大きな男を倒せてしまうのはどういうわけだろう、と一護はいつも少し不思議に思う。
後頭部が畳に着いた拍子にごくんと桃を飲み込むと、直後に浦原が一護の唇に吸い付いた。浦原はしばらくそのまま桃で風味付けされた一護の唇を食んだり舐めたり好きにしていたが、やがて彼女の舌が口の中に入りたそうに唇をつつくので、一護は唇を緩めて口の中に迎え入れてやる。浦原の舌が躊躇いなく一護の舌に絡まったかと思うと、今度は歯列をなぞっていく。一護は彼女が自分の口の中を自由奔放に楽しむのを黙って受け入れながら、脳裏に味見のためにねずみを舐める猫の姿を思い浮かべた。もしかして桃は俺をとっ捕まえて食うための餌だったのだろうか、と馬鹿馬鹿しい考えがよぎったが、あながち間違いでもないだろう。浦原は野蛮で、ときどき猛獣のような女だった。
浦原のご馳走に徹していた一護だったが、さすがに舌を吸われたり口内を舐められたりすると腹の底から湧き上がるものがある。彼女の笑い交じりの呼吸が肌に当たるのもよろしくなかった。まだまだ物慣れない一護がぎこちなく放埓な浦原の舌を絡めとると、浦原はよりいっそう一護に自分の身体を密着させた。
このままその身体に手を伸ばしても怒られない気はしたが、しかしいくつか気になることがあり、一護は浦原の顔を両手で挟んでそっと自分の顔から離した。浦原はおとなしく一護から離れたが、彼女の濡れてつやつや光る唇と自分の唇の間に銀色の糸が引いていることが気恥ずかしくて、一護は自分の唇を舐めてその糸を切った。その一連を浦原はうっとりとした眼差しで見つめていた。
「もう寝る時間って言ってなかったか?」
一護は妹たちによくかける言葉を、しかしその時よりももっと低めた声で口にした。明日は朝から用事があると、たしかに浦原は言っていた。浦原は自分の頬に触れる一護の手に自分の手を重ねて頬をすり寄せると、「まだ眠くありません」とまるきり子どものようなことを言う。もっとも、その返事が示唆するところはまるで子どもではなかったが。
「桃、まだ残ってるだろ。黒くなっちまう」
一護は仰向けに寝そべった体勢のまま、ちらりと文机を見上げた。あいにく机上の桃は見えなかったが、あと二、三切れは残っていたように思う。桃の果肉は空気に触れるとあっという間に黒くなってしまう。せっかく剝いたのだから、そうなる前に食べてしまいたかった。
この一護の心配に浦原は呆れた顔をすると、いかにも仕方なさそうに一護の上に跨ったまま身体を起こした。机の上からひょいと桃を摘まみ上げて一切れを一護の口に入れたかと思うと、ややぞんざいに最後の一切れを自分の口に放り込んでさっさと呑み込んでしまった。
「これでいいっスか?」
浦原が急かすように一護の口に親指を突っ込んで、一護が桃を食べ終えたことを確認する。桃の果汁でしとどに濡れた指先は甘く、一護は腕を伸ばすと記憶を頼りに机の上の濡れ布巾を掴んだ。
なにがおもしろかったのか、浦原の指先は一護の口内で、肉のやわらかさや歯の固さを確認するように動き回り始めた。ぐちゃりと唾液をかき混ぜられる感触に、生理的な違和感と興奮で背中に鳥肌が立つような感覚があったが、一護はそれを無視して口の中に指を突っ込んでいる浦原の左手を取ると、その手を布巾で拭った。それが終われば肩に添えられた右手も捕まえて、同じように白い指の股の間まで丁寧に拭く。
果汁のついた手であちこち触るとベタベタになって後始末が大変だろうという気遣いだった。きれいになった手に、よし、と満足して布巾を机の上に戻した一護が浦原を見上げると、彼女はきつく眉間に皺を寄せていつまでも皿に載らない一護を苛立たし気に睨んでいた。一護にはその目に怒りとは違う炎がみるみるうちに燃え広がっていく様が鮮明に見えた。浦原がもどかしげに一護の腹の上で大きく腰を揺らす。その刺激に思わず上がりそうになった声を、一護はとっさに歯を食いしばって押しとどめる。
やばい、と一護が思ったときにはすでに唇に嚙みつかれていた。甚平の合わせ目から入り込んだ細い指が性急に一護の肌を這い回る。紐を引かれれば、それだけで一護の腹も胸も剝き出しになった。急激に体温を上げられて、今度こそ無視できないほどの熱が一護を襲った。
浦原の瞳に燃えていた炎。それは浦原が一護をひときわ「めちゃくちゃ」にしたい時にだけ見える火だった。今回は何が浦原の琴線に引っかかったのかはわからないが、少なくとも今夜、一護がこの部屋に足を踏み入れた時にはそうすると決めていたのだろう。あの桃は、やはり浦原が張った罠だったのだ。
猛獣に食い尽くされる予感に反射的に身を固くしながらも、一護は手を伸ばし、手探りで彼女の体に巻き付いた紐やら布やらを解いた。浦原のおかげですっかり浴衣を脱がせる手順を覚えた一護は、しかしそれらがわざと緩く締められていることまでは知らない。
浦原の思惑通りにあっという間に乱れた着衣から、暗闇の中でぼうっと光るほど白い乳房があらわになる。一護の固い手のひらが吸い付くように白い肌に触れると、彼女が唇を合わせたまま満足そうに小さく笑うので、一護はこの先を想像してくらくらしてしまう。彼女の野蛮は、時に驚くほど官能的だ。
しかし、桃と浦原から発せられる甘い香りに包まれながら肌を合わせる恍惚にぼんやりし始めた頭でも、一護はどうしたもんかなあ、と悩んでいた。実はもうひとつだけ気になっていることがあった。
浦原は野蛮でうんと丈夫な女だったが、その白い肌はやわらかく、畳に擦れるだけで赤くなる。浦原自身はきっと大して気にもしていないが、一護はどうしてもそれが気にかかった。できれば、やわかい布団の上で彼女の服を脱がせたい。しかし、このタイミングで布団へ、などと提案すれば、絶対に布団に行かせてもらえなくなることは目に見えていた。あの目をした浦原はちょっと遊ぶ程度では満足してくれないだろうから、せめてどこかのタイミングで、と一護は思案する。
一護の気が逸れたことに浦原はすぐに気がついた。とたんに唇に歯を立てられて、一護は眉をひそめ、言い訳をするように彼女のあばら骨を撫でる。自身を食い荒らそうとしている女に、桃を剝くときよりもさらにやさしい手つきで触れながら、一護はほんの少しだけ苦笑を浮かべた。興奮に上気した彼女の頬の赤らみが、うるんだ瞳がたまらなくかわいかった。そのいかにも美味しそうに映る彼女に歯を立てたいという暴力的な欲求が、自分の中にもあることに一護はもうずっと前から気づいている。もちろんそれを実行に移すつもりはさらさらないので、今夜も一護は静かにその欲求を押し殺した。
少しの逡巡の後、結局一護はしばらくの間、彼女の肌を傷つけないために下敷きのままでいることに決めた。浦原が少し落ち着けば自分の要求は通るはずだと、これまでの経験から算段する。それに、やわらかい肌と鋭い牙を持った情熱的な恋人はもうこれ以上待ってはくれないだろう。一護ももういい加減に目の前の女以外のことを考えられなくなってきた。一護はやわくなめらかな皮膚に触れる手に少しだけ力を込めて、かわいい猛獣に食事の始まりの合図を送った。
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