ちゆき
2026-07-04 19:09:31
3981文字
Public 短編
 

初めてアヒルが泳いだ日

およそ1300時間プレイして初めてアヒルが泳いでくれたので嬉しさのあまりお話を書いてみました
蛤さん、素敵なきっかけをありがとうございました🥹
セバスチャン×女牧場主(ネームレス・容姿設定なし)

 この寂れた辺境の町に牧場が復活する、そんなニュースで沸いたのももう遠く昔のこと。そしてこの地を出て誰知らない場所で生きていく夢を抱いていた自分が実家から僅か数十分のその牧場で暮らすようになったのはほんの一ヶ月前のこと。季節は春の終わり、この世に生を受けて二十と数回目の新緑の芽吹く季節は今もまだ目新しいもので溢れている。

「セバスチャン! ねぇ!」
 以前よりも大分と早い朝食を後片づけまで終え、自室のデスクに向かい仕事でもするかと珍しく満ちたやる気は自分を呼ぶけたたましい声に敢えなく蹴散らされた。嵐のようなそれは玄関の扉を破る勢いで現れ、硬いブーツの底をかつかつと駆け足で鳴らしながらねえと何度も繰り返す。どうして誰も彼も自分が部屋にいるときは仕事をしていると考えてくれないのだろうか、そう何度溜息を吐いてきたかわからない。
 しかしそのこの名を呼ぶ声の主は季節の移ろいとともに母親から別の人間へと変わっていった。セバスチャン、と慌てたようにこちらへまっすぐやってきたのはこの春に自分の妻となった人、この広大な牧場の主だ。
「どうしたんだ?」
「ねぇ、すごいの! ちょっと来て!」
「だからなにが……
「いいからほら!」
 彼女は切れる息を整えることもせずこの腕を引っ張り上げる。仕事に行ってくると家を出てから三十分と経っていないのにこの様子、一体なにがあったというのか。畑が虫にやられた? いや、もうすぐ夏が来るから収穫できるものももう殆どないはずだ。それなら動物達にかなにかあったのか、こんなことは初めてだと語気を強める彼女の背を追いかけて向かうのはやはり動物達の住まう小屋が建ち並ぶ方角だった。

 自分の住んでいた山や南の森にあるものよりもずっと小さくはあるがこの牧場にも池がある。そのすぐそばに鶏小屋を作ったのだということはそれこそ結婚前から知っていた。結婚してからは彼女の手伝いで自分もたまに訪れる場所だが、数日前に餌をやりに来たときも特に目立った変化はなかったように思う。しかし彼女は鶏小屋を囲う柵までやってきたところでああ、と大きく項垂れた。
「やっぱり駄目かぁ」
「おい、なにがあったんだ? そろそろ説明してくれ」
「アヒルがね……
「アヒル?」
 この小屋には茶色や白、黒の鶏のほかにアヒルがいくらか住んでいる。今も柵の中を弾むように鳴きながら元気に彷徨いて調子もよさそうだ。数も変わっていないから脱走もしていない。彼女がゲートを開けて柵の内側に入るのを自分も追いかけた。牧場暮らしの長い彼女が初めて経験することだ、自分の仕事なんかよりもずっと価値があるはずだと。
 けれどどうやらそれは間違いだったらしい。夏に近づく太陽の下、牧草を掻き分け池のそばにしゃがんだ彼女から飛び出した言葉に耳を疑った。
……アヒルが初めて池で泳いだの」
……なんだって?」
「初めて泳いだからセバスチャンにも見せたかったのに」
 そう唇を尖らせる彼女に頭を抱え、脱力した自分はそのまま彼女の隣に膝を折る。あんな剣幕で飛び込んできてアヒルが池を泳いだ、ただそれだけを報告にきたというのか。凪いだ水面にはその痕跡は今やなく、呑気なアヒル達は今も自分達の周りをご機嫌に闊歩している。
「アヒルは泳ぐものだろ」
「みんなそう言うじゃん! でも今まで一回も見たことなかったの!」
「本気で言ってるのか?」
「そりゃ昔公園とかで見たことはあるけど、池のそばに小屋建てても全然水遊びしてくれなかったんだもん」
「そんなはず……
 ここに来てからまだ一月ほどだが彼女が切望するその姿を何度か見かけたことがある。食事どきになっても戻らぬ彼女を探しに外へ出たときも、彼女の眠る朝方に負担を減らそうと放牧をしたときなんか一番に駆けていったことだって、しかし間違いなく今言うべきことではなさそうだ。覗き込んだ彼女の横顔は心底がっかりしている様子で、流石の自分も口を噤むほかなかった。彼女は初めて見た光景を自分と共有したかった、ただそれだけだ。たとえどんなに巷にありふれた光景だったとしても。どう慰めたものかと苦笑したところへ彼女の気持ちに寄り添うようにアヒルが一羽、二人の間へ割り込んできた。
……一度見逃したからってもう二度と泳がないなんてはずないさ。なぁ、そうだろう?」
 ぺたぺたと土を蹴り池へとまっすぐ進むアヒルの背を撫でる。するとそいつは太陽の光を浴びた羽毛のあたたかさをこの手に残す前に目の前の池へと足を止めることなく飛び込んだ。いとも簡単に、そしてあまりに呆気なく。水飛沫を上げることさえなく慣れた様子で入水した一羽のアヒルに、谷中の動物達が一斉に隠れてしまうのではないかと思うほど今日一番の声が響いた。
「あ!」
「ほらな」
 アヒルはそのまま波紋を作りながらすいすいと池の中央まで泳いでいった。それを隣の彼女は池のぎりぎりのところへ手を突き前のめりになってまで目に焼きつけるようにしている。まるでテレビに齧りついていた幼い子ども宛らの姿にふと笑みを溢すと彼女ははっと我に返り、それから恥ずかしいのを誤魔化すようにしてすぐさまずるいとこの肩を軽く叩いた。
「今押したでしょ!」
「押してないよ、こいつが自分から飛び込んだんだ」
「えぇ……お前、セバスチャンの言うことは聞くの?」
 あまりに無茶苦茶な言いがかりだがぴったりと息の合った自分とアヒルのファインプレーだったから仕方がない。彼女がそう残念そうに声をかけても水面をゆくアヒルはどこ吹く風でぷかぷかと気持ちよさそうに漂うばかり、しゃがんだままで軋む膝を鳴らしながら自分はその場に腰を下ろした。午前の真新しい日の光は暗い部屋に慣れた自分には些か眩しかったが、そんな部屋へ今すぐ戻る気には不思議とならなかった。
「これから暑くなるしな、毎日のように見られるんじゃないか?」
「ほんとに今まで一回もなかったのに……でも可愛いね、そのうち雛も連れて泳いだりしてくれるかな」
 卵を孵してみようかなと笑う彼女の横顔は慈しみに溢れていて、きっと名だたる数学者もこの唇の優しい弧の前ではどんなに神がかった定理も意味をなさないことを知り女神に愛を乞うだろう。自分だったらどうだろうか、誰も直すことのできないエラーこそを愛としてしまおうか。いや、そんなものじゃ足りない。視線の先に映るのが自分でなかったとしてもその無邪気な横顔が愛おしくて堪らないのだから。
……新しくノートパソコンでも買おうかな」
「え? なんで?」
「そうしたらお前を見ながら仕事ができるだろ?」
 少し大きな木の下にテーブルやベンチを置いて畑や動物の世話をする彼女の姿を見ているのもいいかもしれない。直にくる夏場は少し辛いかもしれないけれど、それでもたまには二人分のコーヒーを淹れて休憩に誘ってみたり。どうかなと隣の彼女を伺うとぱっと溢れた嬉しさを押し隠すようにはにかみながら首を傾げている。
「ほんと? でもなにも面白いことなんかないと思うよ?」
「あるよ、お前は見てるだけで面白いしな」
「ねぇ、ばかにしてない?」
「してないよ、あいつに誓ったっていい」
「アヒルに誓っても仕方ないじゃん!」
 もう、とそれこそ仕方のなさそうに笑ったのは彼女の方で、こちらに肩をぶつけるようにしながら彼女もまた地面に腰を下ろした。その拍子に土に突いた二つの手が僅かに重なる。それを最初に握ったのは自分だった。指先を悪戯に摘んで絡めて、負けじと握り返してこようとするのを上から掌で包んで押し込めた。目線も交わさず笑い合っている自分達を池に浮かぶ一羽の鳥はどんな風に見ているのだろう。
 草の香りを運ぶ春の風が流れていく。水面に波を立て牧草を鳴らし土埃を立てながら、はしゃぐように二人の間をたったの一瞬駆け抜けた。そうだ。自分も見ていなかった。彼女がこの地へやってきてあの地下室から自分を連れ出してくれるまで、世界がこんなにも鮮やかで美しいことに見て見ぬ振りをしていた。
「だからまたなにか見つけたら一番に教えてくれ……きっとこの谷はまだお前の知らないもので溢れてるだろうからな」
 吹き抜ける風を追いかけて隣を見ればちょうど彼女と目が合った。先ほどまで池を泳ぐアヒルに釘づけとなっていた瞳が今はこちらに向けられ優しく細められる。そのやわらかな熱に誘われるかのように彼女の頭を引き寄せ、微笑みの残る頬へとキスをした。鼻先を擽る髪から陽だまりの香りがする。初めて抱き締めたときからずっと忘れられないその香り。ほんの戯れの、子どもにだってするようなキスのあとにふたりは額を寄せ合い、かくれんぼのさなかの如く静かに笑い合った。
「じゃあね、これ誰にも言わなかったんだけど……暖炉の火を消すと煙突から煙が出なくなるんだよ」
……俺は今なにか試されてるのか? ひどい冗談だ」
「やっぱり言わなきゃよかった! だから誰にも言わなかったのに!」
「言わなくて正解だよ、お前にも子ども達と一緒に家庭教師がつくかもしれないし都会の病院に連れて行かれるかもしれない」
「やだねぇほんとに今のなし、絶対誰にも言わないで!」
「さぁ……俺にも持て余すからな」
「やだってば、ねぇセバスチャン!」
 甘えるように飛びついてくるその勢いに後ろへ体勢を崩すも慌てて片手を突いて抱き留めた。自分達まで池に飛び込むつもりなのか、夏にはまだ少しだけ早いというのに。小さな肩の向こうに見上げた真っ青な晴れ空もそう悪くはないと思いながら少しも静かにならない彼女の唇をそっと塞いだ。
 お前がこの谷に来てから数回目の春の終わり、当たり前を幸せに変えるお前とともに今日もこの谷で生きている。