五月も終わりに近づき、来月の後半にはプールの授業が始まる頃だった。
夕方。樹は何気なく、全国ネットの情報番組を眺めていた。
『今どきは学校のプールの授業にも変化があるんです』
(あ、プール!?)
その一言で、樹はすっかり忘れていたことを思い出す。
――プールの授業。
今では宗真と名取以外、誰も樹が元は男だったことを知らない。身体も完全に女の子なのだから、女子として授業に参加するしかない。
(女子の水着なんて
……恥ずかしい
……! ていうか、更衣室とかも
……)
一人で勝手に青ざめていると、番組は続けた。
『例えばこちらの水着。現在は男女共通デザインで、ラッシュガードを着用する学校も増えています。露出を抑えられるので、肌を見せることに抵抗があるお子さんにも配慮されていますし、体型も隠しやすく、日焼け対策にも
――』
(そっか
……! 今はこういう水着なんだ)
胸を撫で下ろす。
(だったら、そんなに心配しなくてもいいのかも
……!)
すると隣から、呑気な声が飛んできた。
「えー、かわいくなーい! 昔のやつの方がよかったー」
コン太郎だった。
樹は呆れたようにため息をつく。
「お前みたいな変態狐はそうかもしれないけど、普通はそうじゃないの。
……ていうか、俺もだし」
「ぶー」
コン太郎は頬を膨らませた。
――翌朝。
ホームルームで、水着購入用の注文票が配られた。
(こ、これって
……)
樹は思わず固まる。
そこに載っていたのは、昨日テレビで見たようなジェンダーレス水着ではなく、男子用と女子用がはっきり分かれた、昔ながらのスクール水着だった。
「先生ー!」
一人の生徒が手を挙げる。
「うちの学校って、ジェンダーレスのやつじゃないんですか? ラッシュガードと短パンみたいな」
教師は申し訳なさそうに頭をかいた。
「それが、今年は導入が間に合わなくてな。少なくとも来年からになる予定だ」
「えーっ! じゃあ来年また買い直しじゃないですかー!」
教室から不満の声が上がる。
(うちみたいな田舎には
……令和の価値観はまだ早かったのか
……)
樹は心の中で静かに肩を落とした。
休み時間になると、名取がそっと声をかけてくる。
「樹ちゃん、大丈夫? もしかして、プールのこと気にしてる?」
「
……うん」
樹は苦笑しながら頷いた。
「私も、今どきの水着なら着てもいいかなって思ってたから
……」
少し間を置いて、恐る恐る続ける。
「それに
……名取さんは、私が女子更衣室に入ったりするの、抵抗ない? 他の人は
……まあ関係ないかもしれないけど、嫌じゃない?」
名取はきょとんとしてから、優しく微笑んだ。
「全然」
あまりにも即答だった。
「というか、今の樹ちゃんが男子更衣室に入った方が、むしろ問題かもね」
そう言って、ちらりと樹の胸元へ視線を向ける。
樹はその意味に気づかず、素直に頷いた。
「た、確かに
……そうかも」
少しだけ肩の力が抜けた樹を見て、名取も安心したように微笑んだ。
放課後。
仕事から帰ってきた母に、樹はリビングで声をかけた。
「お母さん。プールの授業で水着買うから、この封筒にお金入れといてくれる?」
「あー、もうそんな時期かぁ」
母は気楽に頷く。
「はいはい。あとで入れとくね〜」
「ありがと」
それだけの、どこの家庭にもありそうなやり取り。
けれど樹の胸の内は、まったく穏やかではなかった。
(どんなに嫌でも、水着を買うこと自体は親に頼まなきゃいけないわけで
……)
樹の両親は、コン太郎の暗示によって「樹は最初から女の子だった」と完全に信じ込まされている。
しかも、その暗示は学校関係者にかけられたものよりも、はるかに強力だった。
——今の身体になって間もない頃、樹は必死に説明しようとしたことがある。
小学校時代のアルバムを開き、
「ほら、この頃は男だったんだって!」
そう訴えた。
だが返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「樹って昔から男の子みたいな格好するの好きだったもんねぇ」
それだけだった。
さらに、生まれたばかりの頃の写真まで見せても
――。
性別がはっきり分かる写真でさえ、
「え? この子、誰?」
と、本気で他人の赤ちゃんだと思われてしまった。
そこまで来ると、もう何を言っても無駄だった。
(
……ああ、この暗示はどうにもならないんだ)
その日以来、樹は両親に本当のことを話すのを諦めた。
今回だって同じだ。
もし今さら、
「男子用の水着が欲しい」
なんて言ったところで、笑われるだけだろう。
樹は机の上に置いた注文票を見つめ、小さくため息をつく。
「
……しょうがない、か」
そう呟いて、震える指で女子用スクール水着の欄に、静かに丸をつけた。
翌朝。
六月になり、今日から衣替えだった。樹も冬服をしまい、今日から夏服に袖を通す。
このセーラー服は冬服と同じく、宗真の上の姉・静乃から譲ってもらったものだ。
(静乃さんからもらったの、こっちもぴったりだな
……よかった)
女子の冬服は、紺色の長袖シャツをベースに、紺のラインの入ったチャコールグレーの襟と、同じ配色のスカーフを合わせた落ち着いた印象だった。
一方、夏服は白い半袖シャツに、白いラインの入った淡い水色の襟、そして紺色に白のラインの入ったスカーフ。
ぐっと爽やかな雰囲気になる。
スカートだけは冬服と同じ紺色だが、夏用は生地が少し薄く、履いた瞬間に軽さの違いが分かった。
ちなみに、樹たちの中学校の制服は地元でも「可愛い」と評判だった。
「へぇー、なかなかいいね」
いつの間にか現れたコン太郎が、腕を組んで頷く。
「宗真に見せたら喜びそー」
「変なこと言わないでよ
……」
樹は少し頬を赤くした。
「どうせ毎日見ることになるんだから」
そんなことを言われたら、こちらまで意識してしまう。
樹は玄関に置かれていた、水着代の入った封筒と注文票を鞄へ入れ、家を出た。
通学路には、今日から夏服になった生徒たちがぞろぞろと歩いている。
少し前方に宗真の姿を見つけると、今日は珍しく樹の方から声をかけた。
「おはよ。今日から夏服だね」
「う
……うん、おは、よ
……」
宗真は返事をしながら、どこかぎこちなく目を逸らした。樹の夏服姿を見て照れてしまったのだろう。
もっとも、本人はそんな理由など知る由もない。
「どうかした?」
「い、いや、なんでも
……」
宗真は慌てて誤魔化す。
「女子って夏服になると結構変わるんだなって思ってさ。男なんて半袖になるくらいしか変わらないように見えるけど。一応ズボンも夏用なんだけどさ。樹も、スカートは同じっぽいけど」
ちょっとだけ早口。
「あ、女子もね。スカートはちょっと涼しい生地になってるんだって。履いたら結構違い分かったよ」
そう言ってから、樹は思い出したように笑う。
「あ、そうだ! 静乃さんに私からのお礼伝えてくれる? 夏服まで譲ってもらえて、本当に助かったから」
「ああ、静姉ね。うん、言っとく」
宗真は頷いた。
「そういえば静姉も、樹の顔見たいって言ってたし。またうち来いよな」
「う、うん
……」
いつもなら、教室へ着くまで宗真があれこれ話題を振って、たわいない話を続ける。
だが今日は違った。宗真の口数が、妙に少ない。
「大丈夫?」
樹は首を傾げる。
「ちょっと早い夏バテ?」
「そ、そんなんじゃないから!」
宗真は慌てて首を振った。
「でも、ちょっと蒸し暑いよな。早くプール始まらないかな!」
そこまで言ってから、ふと思い出したように樹を見る。
「
……って、お前。そういえばプール、どうすんの?」
宗真の問いに、樹は少し困ったように笑った。
「ちゃんと参加するよ。水着も女子用の買うことにした。
……名取さんにね、聞いてみたの」
「何を?」
「私が女子更衣室で着替えて、そのまま女子としてプールに入ってもいいのかって。名取さんだけは事情を知ってるから」
「それで
……名取さんは何て?」
「全然気にしてないって」
樹は少し安心したように微笑む。
「むしろ、男子更衣室に入った方が問題かも、って言われちゃった」
「そりゃなあ
……」
宗真は思わず苦笑した。
自分たち男子が着替えている更衣室に、今の樹が入ってくる光景を想像してしまう。
(
……いや、それはダメだろ)
制服越しでも分かる胸の膨らみ。女子そのものの身体で、更衣室に入ってこられたら
――。
「お互い、その
……刺激が強いだろうし
……」
「え?」
樹はきょとんと首を傾げた。
「宗真もなの?」
「
……当たり前だろ!」
思わず声が大きくなる。
(ていうか、男子で唯一事情知ってるオレは余計ヤバいような
……)
そんなことは口が裂けても言えない。話題を変えるように宗真は咳払いをした。
「ところで、ちゃんと水着まで買うなんて、樹は真面目だな」
「え?」
「そんなにコマ数ないし、サボってもいいわけじゃん。そういえば女子って、セーリで入れない日もあるっていうだろ? 小学校の時も見学してる女子、結構いたし」
「あ
……」
樹ははっとした顔になる。
「おい」
宗真は呆れたように笑った。
「『その手があったか』みたいな顔するなよ」
「じ、冗談だって
……!」
樹は慌てて手を振る。
「でも、水泳は結構得意だから、サボったらもったいないかなって。それに、ちゃんと受け入れてくれた名取さんにも失礼だもん」
「そっか
……」
宗真は少しだけ照れたように笑う。
「樹のそういう、妙に真面目っていうか、律儀なところ
……オレは
――」
「おはよ」
不意に後ろから声がした。二人が振り返ると、名取が小走りで追いついてくる。
「樹ちゃんも月城くんも、夏服似合ってるね」
(
……タイミング悪ぃな!)
宗真は心の中だけで肩を落とした。
「おはよう」
樹は笑顔で手を振る。
「名取さんはカーディガン着てるんだ?」
「うん」
名取は袖を軽くつまんで見せた。
「今の席、冷房の風が直接当たってちょっと寒いから。それに朝もまだ少し涼しいし、羽織ってきちゃった」
「そうなんだ
……」
三人はそのまま並んで歩き始める。
夏服姿の生徒たちで賑わう校門をくぐり、いつものように教室へ向かった。
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