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駅のホームにて

輝薫  書き散らし


 見慣れない駅の電光掲示板。縦に三つ並んだ行先と時間を確認して、視線をがらんと空いた線路に戻す。目的の電車までは十分と少し、間が空いている。
 隣に並んだ桜庭の様子も、似たようなものだった。落ち着いて過ごすには時間が足りず、かと言って手持ち無沙汰なままでは宙ぶらりんなこの時間。
 ぼんやりと線路の方を向いて立っている彼の横顔を眺め見ると、すぐに険しい視線が向けられた。バレてら、と視線を逃がす。
 けど別に悪いことしてるわけじゃないしな。目の前にあるのは車両の幅二つ分ぽかりと空いた空間と、その向こうには雑多に広告が貼り付けられたホームの壁があるだけだ。何の面白みもない景色を眺めるよりは、隣にいる男の顔でも観察していた方が幾分か楽しいんじゃないだろうか。
 直線に通った鼻筋に、ふつりと閉じられた唇。時に苛烈なまでの光を浮かべる瞳は、今は透明に凪いでいる。もう珍しくもなくなったと思っていたが、彼がこうして力の抜けた顔をしているのを見ると、どこか嬉しく、誇らしく、それから落ち着かない気分にさせられる。
 どこかを見据えたままの視線が、ふとした瞬間緩むことを知っている。キッとつり上がった眉ばかり見ているような気もするけれど、綻んだ目元のあどけなさだって彼の一部だ。見ようと思うとその表情は遠ざかるので、俺は彼のそういう顔を、横目でばかり見ている気がする。……あぁほら、平坦だった眉の間にシワが寄った。
「僕の顔に何かついているか」
「いや? 何も」
「なら言いたいことでもあるのか」
「今は、特には」
「それなら少しくらい大人しくしていろ」
 大人しくって、別に騒いだりしてないけどなぁ。口を噤んでじっと見つめると、ますます桜庭の眉間のシワが深くなっていく。見慣れた表情。この顔だって嫌いじゃないけど、どうにも俺にばかりこの顔が割り当てられているような気がして釈然としない。
 しかしこれ以上見ていると本当に怒られそうなので、仕方なく他に意識を逸らす。ホームにアナウンスの音声が響いた。次に来るのは背後の電車らしい。俺たちの電車はまだ先だ。
 なんとなく流れるアナウンスでその行先を聞いていると、ふと思い当たるものがあった。たしか事務所で、誰かが近くに紫陽花の名所があると話していたのはこの辺りじゃなかったか。
「なぁ、紫陽花が見れるって言ってたの、この辺だったよな」
 そう問いかけると、桜庭も少し思考を巡らせた後で曖昧に同意を返す。それがどうしたと言いたげな視線を遮って、最寄りの駅名は何だったかと検索してみた。
「これ、次の電車乗ったら行けないか?」
……行けるんじゃないか」
 画面を見せるようにして同意を求めると、桜庭もちらと覗き込んで頷いた。電光掲示板を見上げる。その駅に停まる電車で間違いなく、心がソワソワと浮き足立つのを感じた。隣で涼しい顔をしている桜庭を振り向く。
「行こうぜ」
「は?」
「ほら、だって行けるって」
「今から?」
「あぁ」
 桜庭は怪訝な顔で眉を顰める。
「何故君と僕で紫陽花を見に行くんだ」
 何故、と言われると返答に困る。たまたま行ける場所にいて、たまたま一緒にいたから誘った。多分、俺一人だったら行かない。隣にいるのが桜庭じゃなくても俺はそいつに声をかけただろうか。
「せっかくこんな所まで来たんだし、行ったっていいだろ?」
 尖らせた唇は言い訳気味だった。桜庭の返答はない。そうこうしているうちに、電車がホームに入ってくる音がした。
「行かねえ?」
 並んでいた足元の表示から一歩、外れる。乗るなら今決めないと間に合わない。桜庭の目線がちらりと向こうの電車の方に移った。
「行こうぜ」
 最後は賭けだ。もう一歩足を動かしたら、桜庭との距離が二歩分開く。焦ったような顔をした桜庭と目が合った。
 結局、俺たちはドアが閉まるアナウンスを車内で聞いた。
「どうするんだ」
「どうってそりゃあ、紫陽花を見に行くんだろ」
 何にも調べてないけど、今から行っても見れるんだよな、と呟くと桜庭が途端に目を剥いた。
「そんな思いつきで言ったのか」
「どう見ても思いつきだったろ」
 誘うんだったらもっとちゃんと誘うぜ、とぼやいたら桜庭は黙った。さっきまで俺たちが立っていたホームが流れていく。それを睨むように見つめている彼の表情に、浮かれていた心が萎んでいくのを感じた。
……時間とかは、大丈夫っぽい」
 です、と申告する。これでまさか行かないとは言われないと思うが、二人で寄り道しようってのに気まずい空気のまま向かうのは勘弁だ。
「ちゃんと誘えば良かったか?」
 桜庭の表情を窺うと、彼は苦々しい顔でため息をついてみせた。
「君の思いつきに乗せられた自分を恥じているだけだ」
「何でだよ。俺は乗ってくれて嬉しいのに」
 はぁ、と向けられる二度目のため息。どこか所在なさげな様子で窓の外を眺める桜庭は、まるで電車に乗り間違えましたという風体だ。
 何とか挽回の方法は、と考えている間に次の駅が近づいてくる。目的の駅はまだ先だ。ここで降りて戻るとか言い出さないよな。桜庭の方を見ると、ちょうど目の前のドアが開くというので、そちらに視線をやっていた。
「待っ、……
 思わず掴んだ手首の細さに息を呑む。桜庭がパッと振り向いた。ドアは誰も降ろさないまま閉まっていく。
「何なんだ、さっきから」
「や、降りちまうかと、思って……
「は? 紫陽花はどうしたんだ」
 あれ、もしかして全然帰る気はなかったのか。勘違いの気配に一つ息をついて、へらりと笑みを浮かべると呆れ顔を向けられた。
 安堵して緩んだ空気の中で、下ろした視線の先にあるものを一旦見過ごす。掴んだままの手は、まだ離せと怒られない。その細さをもう一度確かめようと指を滑らせると、ブンとすごい勢いで振り払われた。ガラスに映った彼の頭に角でも生えているんじゃないかと思った。悪かったって。
 あのまま何もしなかったら、今も掴んだままでいられたのだろうか。空を切った手のひらが物足りなくて、ぎゅうと拳を握った。当然得られるものは何もなく、すぐに手を開いた。ぶらんと二つ、手が空いている。目的地はまだ先だ。