これまでの話→
https://www.pixiv.net/novel/series/13350804
1
「ちょっと君に相談があって」
そうファイノンが口にしたのは、夕食の後片付けをしている最中のことだった。
「来月、父さんと母さんがこっちに来るんだ。観光ついでってことらしいんだけど、夕食だけでも一緒にどうかって聞かれてさ。どうする? 勿論君が嫌なら食事は断るよ」
洗い終えた鍋を拭きながら、モーディスはファイノンの言葉を頭の中で反芻した。
嫌か、と問われれば、別段嫌ではない。ファイノンの両親とは結婚式で一度顔を合わせていて、その時の印象は悪くなかった。結婚も反対されなかった、と言うより、両親を結婚式に招待してもいい? と聞かれただけだった。俺は両親を紹介できないが、と口にしたモーディスに、「うん、大丈夫」としかファイノンは言わず、実際、特に問題はなかった。それ以来、ファイノンの両親とは顔を合わせていない。だから、二度目の対面が来るとは正直、考えてもみなかった。
「嫌ではない。
……食事の好みはあるか? アレルギーは?」
「え」
モーディスの返答に、ファイノンが意外そうに目を瞬かせる。
「外食でいいよ。そこまでしなくていい」
「お前がこの家にあげたくないのであればそれでいいが」
「そういう訳じゃないけど、と言うか、君が気にするかなって」
「お前の両親だろう? 俺に気を遣うな。それに、食事なら俺がもてなすべきだろう。だから、好みやアレルギーがあれば聞いておきたい」
「二人とも苦手なものは特にないと思う。僕と一緒でなんでも食べるし
……。そういえば母さんの作るはちみつクレープはすごく美味しいんだ、いつか君にも食べて欲し
――じゃなくて。本当に作るつもりなのかい? 外食でもいいよ。メニュー考えるのも作るのも大変だろ」
「仕事と変わらない。
――と言うのはさすがに嘘だが、任せてくれ」
「
……モーディス」
ファイノンが困ったような、けれど、どこか嬉しそうに言う。モーディスが鍋を棚に戻しながら答えを待っていると、「無理しなくていいよ」と、ファイノンがもう一度だけ、静かに口にする。
「無理はしていない」
鍋をしまい終わってファイノンに向き直り、モーディスは首を横に振る。ファイノンが照れくさそうな表情で頬をかいていた。
「そう言えば母さん、君の食事も食べてみたいって言ってたな。僕が美味しいって言いすぎたから
……。君が作ってもいいって言うなら、夕食に招待してもいいかい? それか、軽めがいいならランチでも。君に任せるよ」
モーディスは腕を組み、しばしファイノンの表情を黙って見つめた。
ファイノンの両親が来ることへの懸念はモーディスには一切ない。眼前の男の善人さは良く知っている。であれば、両親もきっとそうだろうと感じていた。
(
……いい機会だ。良い印象を持ってもらいたいが)
胸の内で、モーディスはそっと考えた。ファイノンと付き合ってもう長くなった。これからもまだまだ長く付き合っていくだろう。であれば、ファイノンの両親にも余計な心配をかけたくはない。
「夕食でいい。メニューは考えておく」
モーディスが言い切ると、ファイノンは「わかった」と少しだけ申し訳なさそうにしつつも、笑顔で口にした。
*
翌日から、モーディスは隙間を見つけて頭の中でメニューを組み立てることにした。
農村育ちの両親だから、素材の味を活かしたものが合うだろうと思った。しかし、折角こちらに来るのであれば、普段食べ慣れないものも出すべきだろう。かといって、奇をてらいすぎるのも違う。好き嫌いはないと言ったが、口に合わないのは論外だ。デザートはどうする。ファイノンの母親は甘いものが好きなようだが、どの程度の甘党だろうか。
……そんな風に。
昼のピークが落ち着いた頃、モーディスがカウンターで発注作業をしていると、「店長」と声がかかる。先ほどまでキッチンを仕切っていたバイトリーダーだ。
「ここ数日ずっ~と深刻な顔をしてますけど、なにかありました?」
「ない」
「絶対あるじゃないですか。今日だって仕込みの時からずっ~とこんな顔してましたよ」
こんな、と言いながら眉間に皺を寄せ、怒っているような悩んでいるような表情を彼女がする。
「ない」
モーディスは端末から顔を上げず、発注数の確認を続けた。彼女はしばらく黙っていたが、「もしかしてファイノンさんと喧嘩ですか?」とややにやついた声で言う。
「していない」
「じゃあ仕事の悩みですか」
「違う。気にするな」
「じゃあやっぱりプライベートの悩みってことじゃないですか」
「そうだとすれば、余計にお前には関係がない。気にするな」
端末から顔を上げ、なるべく冷たく聞こえないようにモーディスは口にした。付き合いの長いバイトだから、この言い方でも誤解はしないだろうとは思った。
「そりゃそうですけど
……心配しますよ。だって本当にここんとこずっとですよ? みんな気になってます。ファイノンさんと喧嘩したか、ファイノンさんが怒らせたか、実は来月にはこの店が閉店するんじゃ
……とか」
「
…………………………」
何故ファイノンのことが二回も出て来るんだ、と思ったが、確かに、店に来ても殆ど相手をしない日もあったか、と思い出した。
ふと、視線を感じてそちらの方向を向けば、ホールにいた他のバイトが不安そうな顔をしていた。そこまで顔に出ていたか? と少しだけ反省し、ため息をつく。
本当に大したことではない、と前置きし、言葉を続ける。
「来月、義両親が食事に来る。そのメニューを考えていた」
「
……え、それだけですか?」
「それだけとはなんだ」
「いやだって、もっと大変なことかと。離婚の危機とか、ファイノンさんの浮気とか。いやそんなのあるわけないな~って思ってましたけど。え~
……心配して損しました」
バイトリーダーが拍子抜けしたように息をつくと、そろそろと近づいてきていた別のバイトも頷く。おい、とモーディスが低い声を出すと、慌ててそのバイトが「でも先輩、義理の両親に会うのってたぶん緊張しますよ。私はまだ、恋人の親に会ったことないですけど」と援護するように口にした。
「そう言うことでもない。何を出すか悩んでいるだけだ。前菜、副菜、スープ、主食、それからデザート
……考えることが山ほどある」
指を折って答えると、ええ
……とバイトリーダーが声を漏らす。
「なんか、店長らしいですね
……。気にするとこそこなんだって
……」
バイトリーダーがしみじみとした声で言い、隣のバイトがですね、と頷く。褒められているのか舐められているのか瞬間的に悩んだが、気にしないことにした。
これ以上は彼女たちに余計な餌を与えることになりそうだったからだ。
「
……そういう訳だ、お前たちが気にすることは何もない。わかったら仕事に戻れ」
*
仕事を終えて帰宅すると、ファイノンはまだ戻っていなかった。今日は早番シフトだったので、まだ完全に陽は落ちていない。ファイノンが帰宅するまでにはもう少し時間があった。
モーディスはエプロンをつけ、冷蔵庫を開ける。夕食の準備をしながら、頭の中で引き続きメニューを組み立てていた。リビングのテーブルの上には考えたメニューのメモ書きを置いていて、帰宅して今度こそ決めた、と思った筈のメニューだった。
それなのに、また、本当にこれいいのか? と悩んでいた。
前菜はいくつ作るか、スープを変えるべきか。メインは肉にしたが、魚の方が適切かもしれない。それか、両方か。
農家であれば、やはり濃すぎる味付けは好まないかもしれない。素材を活かす方向で考えたかったが、地味になりすぎるのも避けたい。
……何度も同じことを考えている理由は、ファイノンが「美味しいと言いすぎた」と口にしていたからだ。期待を下回らないようにするには、華やかさや種類も必要だろう。
玉ねぎをみじん切りにしながら、モーディスは小さくため息をつく。
ファイノンは無理しなくていいと言ったが、モーディスにとって、食事を作ることは「無理」に入らない。むしろ、趣味でもあり仕事でもあり、人生と生活に組み込まれたものだ。だから、逆に言えば、料理の他にどうやって、他人に気持ちを示すべきかがわからない。
見た目と態度で誤解されやすい自覚はあるが、ある程度はもう覆せない印象だと分かっている。その代わり、あのお人好しを絵にかいたようなファイノンが傍にいるのだとむしろ開き直ってもいた。
今は、自分という人間を説明する術として、こうして他人に食事を振る舞っている。ファイノンが美味しいと言ってくれるものを、ファイノンの両親にも食べてもらえれば、それで十分な筈だった。
それで十分、のはずなのだが、考えれば考えるほど、思考は余計な方向へ滑る。
(料理が気に入られなかったらどうする)
モーディスは眉を寄せ、みじん切りのペースを上げた。もし、ファイノンの両親に食事を気に入られなかったとしても、ファイノンとの関係が変わるわけではない。ファイノンはそんな男ではないと分かっている。もし彼の両親が自分の料理を気に入らなかったとしても、ファイノン自身が満足しているのであれば、問題にもならないだろう。きっと両親が帰った後に、ファイノンは少し困ったような顔をして「気にしないでくれ」と言って、本当に一切自分への態度を変えない自信がモーディスにはあった。
――とはいえ。
ファイノンが好きだ。
だから、ファイノンの両親にも、息子は良い相手と結婚したと思って欲しい。
いつもなら、他人が俺たちのことに口を出すなと切り捨てられるのに、やはりパートナーの親ともなると、そこまで割り切るのはモーディスとて困難だった。
みじん切りを終えてもまだしばらく悩んでいると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
いつも通りの明るい声だった。優しい声で、どうやら今はそれほど仕事が詰まっていないらしい、と安堵する。
上着を脱ぎながらキッチンに顔を出したファイノンはエプロン姿のモーディスを見、それから、テーブルに置かれていたメモ用紙に視線を落とした。モーディスの考えていたメニューだ。
「もう決まったのかい?」
「まだ悩んでいる」
「見る限り大丈夫そうだけど、もう少し品数を減らしてもいいんじゃないか?」
「それも含めて考え中だ」
「そっか」
みじん切りにされた玉ねぎを見下ろしてなにか考え込んでいる様子のモーディスに、ファイノンはそれ以上何も言わない。かわりにゆっくりと近づくと、「今日も疲れた」と言って肩に顎を乗せた。
モーディスはおかえり、と言い忘れていたことに気づき、まな板から顔を上げると、「おかえり」と口にしつつ、「邪魔だ」と肘でファイノンを押す。
「えー」
「調理の途中だ」
「その前にもう一つがあるんじゃないか?」
「
…………………………火を使う。もう向こうへ行け」
はぁ、とため息をつくと、ファイノンの頬にキスをして、足首を軽く蹴る。大げさに酷い! と声をあげつつも、ファイノンはしぶしぶ身を引いて離れる。
食卓に腰をついたファイノンはメモを手に取り、鍋で玉ねぎを炒め始めたモーディスの背に声をかける。
「本当にこれ全部作るつもりでいる?」
「まだ考え中だ」
「前菜が三種類あるんだけど」
「一つか二つに絞る」
「メインも二パターン書いてある」
「どちらにするか決めかねている。あるいは両方か」
「
……モーディス」
「なんだ」
「君ががんばってくれるのは嬉しいけど、本当に無理しなくていいからね」
「無理はしていない」
モーディスはじゅわ、と音を立てて色を変えていく玉ねぎを木べらで混ぜながら、ファイノンの方を見ずに淡々と答えた。
「
……食事を作るのは俺にとって、家計簿をつけるよりずっと容易だ」
「それは
……説得力のありすぎるコメントだ」
「うるさいぞ」
「君が言ったのに」
ファイノンの笑い声が聞こえたが、モーディスは振り返らない。
背後でメモ用紙を置く小さな音がし、ファイノンが「お風呂に入ってくる」と椅子から腰を上げる。
「モーディス、真剣に考えてくれてありがとう」
「礼を言うのが早すぎる。まだ何も決まっていない」
ファイノンが小さく笑い、やがて風呂場へ向かう足音が聞こえた。モーディスは鍋から目を離さないまま、木べらを動かし続けた。
2
お昼休み、事務所の外の階段に腰を下ろし、少し悩みつつも母さんに電話をかけた。この時間は家でのんびり休憩しているだろう、と考えていると、案の定二コールで繋がる。
『あら、珍しい。どうしたの?』
「ちょっと報告があって。来月の食事の件なんだけど、モーディスが家で作るって言ってくれて」
『え、本当に?』
「うん。僕は外食でいいって言ったんだけど、本人が作るって」
あら、と母さんの嬉しそうな、それでいて少し困ったような声が聞こえた。
『なんだかかえって悪い気がするけど
……、嬉しいわ。楽しみにしてるって伝えてくれる? それから、余計なことは言わないでよ』
「余計なこと?」
『あなたって嬉しいと色々言いすぎるじゃない。例えば、意外と味にうるさいけど君の作ったものなら気に入ると思う、とか、そう言う無駄なプレッシャーをかけないでってこと』
「母さんが味にうるさいかどうかは僕も知らないんだけど?」
電話口で笑い声が聞こえた。味にうるさくはないけど、こだわりはある
……よな、と余計なことが脳裏を掠める。だけど、僕の既にしてしまった失言は母さんの懸念よりは多分ましだ。美味しいっていいすぎた。それだけの筈だ。
「まぁいいや、とにかくもし気に入らなくても美味しいって言ってよ。味は心配してないけどね」
『そう言うのが余計なことだって言うのよ』
「
……わかったわかった、気を付けるよ」
母さんの呆れた声に適当な相槌を打ち、通話を終える。
事務所に戻ると、アグライアが書類から顔を上げた。
「ご両親が来られるのですか?」
「え、聞こえてた?」
「はい。声が大きかったので」
アグライアは静かな声でそう言うと、書類から手を離して僕へ視線を向ける。
「来月、両親がこっちに来るんだ。モーディスと一緒に食事がしたいって言うから、外食をと思ってたんだけど、あいつが作るって聞かなくて」
「そうですか」
アグライアはしばらく黙り、窓の外に視線を向ける。何かを考えているような間があった。
「
……一つ言ってもいいですか」
「改まってなんだい?」
「いらないアドバイスだとは思いますが、念のため」
アグライアは僕へ視線を戻すと、真剣なトーンで続ける。
「その食事会で大切なことは、料理の出来よりも、パートナーを気遣うことです。貴方はご両親と会えることが嬉しいでしょう。ですが、メデイモスにとっては違うかもしれません。貴方が当然と感じることが、彼には当然ではない場合があります」
知っていると思いますが、彼は実家と縁が切れていますので、とアグライアが声を潜めて口にする。
それに黙って頷くと、「まあ、貴方がそこまで気を遣えないとは思っていませんが」とアグライアは書類に視線を落として、ペンを執る。
「義理の両親というのは、難しいものです。気を遣いすぎても、遣わなさすぎても、どちらも相手を疲れさせる。
……まあ、メデイモスと貴方のことですから、きっと大丈夫でしょうけれど」
最後の言葉は、どこか独り言のようだった。少しだけ黙ってから、「アグライア」と呼びかける。
「なんですか」
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だと思う」
アグライアは答えず、書類にサインをすると、それを僕に差し出す。
「キャスに念のため確認してもらってから、郵送してください」
彼女の切り替えの早さはモーディス以上だった。既に感情の読めなくなった仕事モードの声と表情に、書類を受け取って黙って頷いた。
*
結局、当日までにモーディスは三度メニューを組み直した。
一度目は「やはり前菜が多すぎる」と削り、二度目は「メインの火入れに不安がある」と別の食材に変え、三度目はデザートを丸ごと差し替えた。
真剣に取り組む様子に余計なことは言わなかったが、「試作したやつ、食べてもいい?」とだけ聞いた。「いい」と僕を見ずに頷くモーディスの横から、スープ皿を自分の前に移動させる。
「美味しい! やっぱり君って本当に料理が上手いな」
スープを平らげると、モーディスがほっとしつつも、照れ臭そうに笑っているのが見えた。
あり得ないことだけど、万が一に両親がこのスープを気に入らなかったとすれば、それは両親の舌が絶対におかしい筈だと言う確信があった。
3
ファイノンの両親がやってくる当日、モーディスは朝早くに目を覚ました。
仕込みのできるものは午前中に済ませ、午後から本格的に調理に入る予定だった。ファイノンが「何か手伝うおうか?」と言ってきたが、「お前は買い出しだけでいい」と告げて調理には関係のない日用品の買い物リストを渡した。
ファイノンは素直に従い、昼前に出かけていった。
静かな台所で、モーディスは一人で手を動かした。
緊張はしない、と思っていたが、そうはならなかった。しかし、やれることはやった。あとは出すだけだ。そう言い聞かせながら、鍋の火加減を調整し、野菜の切り口をそろえ、塩は普段よりずっと繊細に調整した。オーブンを何度も開けそうになり、ぐっと耐える。
店で出すよりもずっと工程の多い料理ばかりで、記念日にしか作らないようなメニューだった。初めて作る料理はやめよう。そう考えて、頭の中で何度もシミュレーションをした。時間も火加減も塩気も、甘みも、全て完璧にできた、筈だ。
買い物から帰って来たファイノンは、モーディスの真剣な様子にじゃれつくのをやめて、静かにその様子を眺めていた。
ただ、両親が来るせいで、貴重なモーディスとの休日を構ってもらえないのは少しだけ不満だった。そんなことを考えるのはどうかしているとわかっていたが、不満なものは不満だった。
モーディスの食事を両親に自慢したい気持ちと、やっぱり外食にしておけばよかった、と後悔する気持ちが半々だった。モーディスに言えばきっと「馬鹿馬鹿しい」と呆れられるだろう。だから口にはしなかったが、今は、両親が帰った後にどうやって二人の時間を取り戻すかとそんなことで頭がいっぱいになっていた。
*
夕方、とうとう自宅のチャイムが鳴った。
ファイノンが玄関に向かう足音を聞きながら、モーディスは最後の盛り付けを確認し、食卓へ視線を向ける。
食器の色、食卓に飾った花、飲み物とグラス、家具の配置。どれもファイノンとああだこうだと言い合って、完璧に準備した。問題はない、はずだ。問題はない。そう自分に言い聞かせる。
「母さん、父さん、久しぶり。元気そうで良かった」
「久しぶりね、あなたも元気そうで良かった。
……予想より遠くてびっくりしちゃったけど、久々に父さんと旅行ができてよかったわ。あら、いい匂い」
よく通る、明るい声だった。続いて、低くて穏やかな声が「お邪魔します」と言うのが聞こえる。
モーディスはエプロンを外し、手を拭いて三人を出迎える覚悟を決める。
「こんばんは、モーディスさんもお久しぶり! 結婚式以来ね。改めてよろしく」
ドアを開けたファイノンの背後から顔を出したアウダタは、どことなくファイノンに似ていた。親子なのだから当たり前のことだったが、モーディスにはなぜかそれが新鮮な感覚だった。彼女の明るい笑顔は年齢よりもやや若く見え、隣の夫
――ファイノンの父であるヒエロニュモスは息子より少し背が低く、日に焼けた肌をしていた。穏やかな目許がファイノンに似ている、と感じた。
「お久しぶりです。遠路はるばるありがとうございます。夕食の準備ができているので、座ってください」
モーディスが口にすると、アウダタが「まあ」と声を上げる。その隣で、ファイノンが「別に普段通りの話し方でいいのに」と余計なことを口にしているのが聞こえ、モーディスは小さくため息をついた。咎めるような視線を送る前に、「余計なことを言わないのって言ったでしょ」とアウダタがジト目で息子を見る。
けれどもモーディスに向き直り、「そんなに気を遣わなくて大丈夫よ。初めてじゃないんだもの」と苦笑した。
「ファイノンから聞いてたけど、本当に作ってくれるとは思わなかったわ。大変だったでしょう、嬉しいわ」
「大したものではない」
「そんなことないわよ、いい匂いがするもの。ね!」
アウダタがヒエロニュモスに同意を求めると、彼は静かに頷いた。それからモーディスに視線を向け、「息子がいつも世話になってる」と口にした。
低くて、穏やかな声だったが、モーディスは一瞬、返答に詰まった。
「
……こちらこそ」
なんとか言葉を返すと、ヒエロニュモスは静かに微笑んだ。その返答に頷くアウダタの姿が目に入り、きっと、彼もファイノンと同じく余計なことを言うな、と言われているのだろうとモーディスはなんとなく感じた。
無言の気遣いにむず痒くなり、モーディスは視線をどこに向ければいいかわからなくなる。答えに窮して、「座ってくれ」と繰り返した。
ファイノンが視界の端で笑っているのが見え、少しだけ腹が立ったが、モーディスは何も口にしなかった。
モーディスが食卓に四人分の料理を並べていると、アウダタが「手伝うわ」と立ち上がろうとした。それを手で制し、首を振る。
「座っていてくれ。すぐに出せる」
「そう?
……本当にいい匂いね」
アウダタはモーディスの言葉に頷くと、大人しく席に戻り、テーブルの上に並べられている料理を眺めた。
「ファイノンから聞いていたけど、本当に色々作ってくれたのね」
「大したものではない」
「そんなことないわよ。ファイノンったら、世界一美味しいって言うんだもの」
モーディスが思わずファイノンに視線を向けると、「余計なプレッシャーかけるなって言ったのは母さんなのに
……」と小さくぼやく声が聞こえる。しかし、結局ファイノンは全く悪びれた様子もなく、「だって本当のことだから」と晴れやかな笑顔をモーディスに向けた。
「
…………」
「照れてる」
「
……照れてはいない」
アウダタがくすくすと笑い、モーディスは少しだけ顔が熱くなるのを感じた。それと同時に、成程、ファイノンのあの「おしゃべり」は母親譲りだろう、とも考えた。
不快ではなかったが、どう反応するのが正しいのかわからず、落ち着かなかった。
「ほらほら、食事が冷める前に食べよう」
「そうね、せっかくこんなにたくさん作ってくれたんだもの」
二人のやり取りを聞いたファイノンが、ただ幸せそうに笑っている。 その顔は悪くない。
まったく、と思いながら、モーディスは最後の皿をテーブルに置いた。
*
食事が始まると、アウダタはよく喋った。
ここに来るまでに行った観光の話、村の話、ファイノンが子どもの頃の話。話題は次々と移り変わり、モーディスは相槌を打ちながら、手元の料理の減り方を確認していた。口に合っているかどうか、食べにくいところはないか。皿の空き方を見る限り、どれも問題はなさそうだった。
「モーディスさんって、お料理はいつからはじめたの?」
「子どもの頃から」
「お母様に教わったの?」
「独学だ」
モーディスは一瞬ひやりとしたが、アウダタは少し驚いたような顔をしたが、すぐに「それでこんなに作れるなんてすごいわ」と笑っただけだった。自分の親の話はファイノンから聞いているのだろうが、それでも、改めて深く聞かれなかったことに感謝した。
「この子ったら、子どもの頃は全然料理ができなくて。卵を三個割ってもらったら三個とも殻が入ってたのよ」
「母さん」
「あら、本当のことでしょう」
「そんな子どもの頃の話はやめてくれよ。恥ずかしいから。今は僕が作る時だってあるし
……」
「お前は簡単なものしか作らないし、俺がいないと手を抜く」
「
……否定はしないけど、ばらさなくたっていいだろ」
ファイノンが気まずそうに笑っている顔を眺めながら、いつものファイノンとは少し違うな、とモーディスは感じた。
声の出し方がどこか子どもの頃に戻っているような、そんな気がした。知っている筈なのに見たことのない表情と聞いたことのない声で、それは悪くない、と思った。
「この子は普段、料理は手伝ってくれてるの? 掃除なんかはしっかりできる筈だけど」
モーディスへ向けられたアウダタの言葉に、ファイノンが「えーと」と困ったように声を上げる。
「
……手伝わなくていいと言っている」
「あら」
咎めるような視線を息子へ向けるアウダタに、モーディスは「一人でやった方が早い」と続けた。
「そうそう、それから、モーディスが作ったほうが圧倒的に美味しいから
……」
「買い出しとたまに片付けをしてくれる。それで十分だ」
「たまにって、それは誤解が
……」
「手が空いた方がすることにしている。問題はない」
ファイノンの慌てた様子に、モーディスは淡々と言葉を連ねた。
アウダタは息子を見てからモーディスを見、それからにっこりと笑う。隣のヒエロニュモスは黙って、アルコールのグラスを傾けていた。
「よくできた人ね」
「そんなことはない」
「ファイノンがあなたのことを世界一って言うのもわかるわ」
モーディスは返答に詰まり、スープを一口飲んだ。柔らかい空気に居心地の悪さを感じていると、ファイノンがこちらを見て、満足そうに笑っているのが視界の端に入った。
更に居心地の悪さを覚えたが、こっちを見るな、とは言えなかった。モーディスは黙って皿に視線を落とすと、「デザートを持ってくる」と逃げるように席を立った。
後ろで、アウダタとファイノンが笑う声が聞こえ、背中にむず痒さを覚える。知らない空気だ、と改めて思った。
自分の家族とはこういう空気になったことがない。その事実に傷ついたり何か感じるような歳ではもうないが、ただ、知らない空気だ、と不思議に感じていた。
悪くはない気分だった。
*
食事が終わる頃、アウダタが「本当に美味しかった」と何度も繰り返した。社交辞令ではないことは、皿の綺麗な空き具合を見ればわかった。ヒエロニュモスも口数は少なかったが、アウダタ同様、出した料理はデザートも含めて全て平らげていた。
デザートは今日のために何度も作りなおした林檎のタルトで、二人が送って来たものを使用していた。
正直なことを言えば、今日出した中で一番緊張したメニューがこの林檎のタルトだった。彼らが自ら育てた果物を、台無しにされたと感じて欲しくない。その考えは全て杞憂で、今晩で一番反応がよかった。
食器を片付けるのはファイノンの役目だった。席を立ち、食器を持ってキッチンへ向かうファイノンに聞こえないよう、アウダタがモーディスに小さく声をかける。
「ファイノンのこと、よろしくね」
「
……ああ」
「あの子、人のことばかり気にするでしょう。自分のことは後回しにするから」
「
……知っている」
俺に対してはそう言うわけでもないが、とモーディスは一瞬だけ考えたが、余計なことは口にしなかった。
「そう」
アウダタが小さく笑う。
「知ってるなら安心した」
モーディスは彼女の言葉に、どう答えるかしばし悩んだ。ファイノンのことはきちんと見ている、と答えるのは少しだけ違和感があった。
「
……あいつには
――ファイノンには俺の方こそよくしてもらっている。だから問題はない」
悩んだ末、モーディスは少し曖昧な言葉を口にした。曖昧になったのは、恥じらいが混ざったものあるし、偉そうに聞こえないかと迷いもしたからだった。
アウダタはモーディスの言葉に少し驚いたような顔をしてから、目許を優しく細めて微笑んだ。
「こんなことを今更言うのもなんだけれど、あなたたちが一緒になった理由が少しわかった気がするわ」
「
……なんの話をしてるの?」
妙な空気を感じ取ったのか、ファイノンが慌てた様子で戻ってくる。それに、アウダタがにやにやしながら口を開く。
「モーディスさんからあなたへの惚気を聞いていただけよ」
「え!?」
「違う」
「違わないわよ」
「
……違う」
「僕のこと愛してるって?」
「それはそうだが、違う」
「
……君の照れるポイントっていまだに難しいな。そこは照れないのか
……」
二人のやり取りにアウダタが声を上げて笑い、席を立つ。
「お皿を片付けるのくらいは私にも手伝わせて」
皿に手を伸ばす彼女を、ファイノンもモーディスも止めなかった。
*
食後のお茶を楽しみながら、アウダタは再びよく喋った。
これからの季節の話、来年の麦の出来の話。ヒエロニュモスは時々相槌を打ち、稀にファイノンに話しかけた。ファイノンは嬉しそうに答えていた。
ファイノンの声が、いつもと違う。低くなったわけでも、高くなったわけでもない。ただ、どこか力が抜けているような、そんな声だった。実家に帰った時の声というのは、きっとこういうものなのだろう、とモーディスは再び新鮮に感じていた。知っている筈なのに、知らない顔と声だった。
そう言う顔を知れてよかった、と素直に思う。
*
帰り際、アウダタはモーディスの手を両手で握った。
「本当に美味しかったわ。またご馳走してもらえる?」
「機会があれば勿論」
「安心して、頻繁には来ないわ。多くても一年に一回か、それ以下で」
「気を遣っているようにはそんなに聞こえないけどな
……」
ファイノンはぼそりと口にしたのが聞こえたが、モーディスは敢えてなにも言わなかった。
緊張はするし面倒に感じるかもしれなかったが、今回の食事会は嫌ではなかった。それに、と思う。
きっと、頻繁に両親を自宅へ招くのは、自分よりもファイノンの方が嫌がるだろう、と感じていた。
「またいつでも。
……この男の許可が下りるなら」
茶化すようにモーディスが答えると、「あ」とファイノンが少しだけ嫌そうに表情を歪ませる。普段より子どもっぽい表情に、もしここに彼の両親がいなければ、少しむくれた頬を指でつついてやっただろう、とモーディスは感じた。
「それじゃあまたいつか」
「うん、二人とも気を付けて」
玄関で両親を見送り、ドアが静かに閉まった。
しばらく、静かになったその場所で、二人で黙って立っていた。
「
……疲れた?」
やがて、ファイノンが静かにモーディスへと尋ねた。
「少しはな」
モーディスは正直に答えた。思っていたより疲れてはいなかったが、全くと言うわけではない。しかし、悪くはない気分だった。
「そっか」
隣のファイノンが少しだけ考える顔をしてから、モーディスに腕を伸ばし、優しく抱き寄せる。
「ありがとう。本当に」
「
……礼を言うようなことか?」
「言うようなことだよ。だって、僕にとって両親は大事な家族だけど、君にとってはよく知らない他人も同然だろ」
「
………………」
この男にしては珍しい物言いだ、とモーディスはファイノンの頬が自身の頬に触れるのを感じながら思った。緊張していたのか、ファイノンの頬が随分と熱い。
自分を抱きしめている体はいつも通りの温かさで、その慣れた体温が心地良い。
モーディスはファイノンの背に腕を回し、そっと抱きしめ返す。
「お前の両親は俺にとっても大事な家族だ」
ファイノンが驚いたように顔を上げる気配がし、モーディスはさりげなく視線を反らした。顔を覗き込んでくる男に視線を反らし続けるのは負けたような気がし、「そうだろう」となるべく、意識して無表情を装って口にする。
青い瞳がじっと自分の顔を観察してくるのに居心地の悪さを覚えたが、モーディスはそれでも黙ってファイノンを見つめ返すことにした。
ファイノンが数秒無言で見つめて来たかと思うと、にこっ、と屈託のない笑顔を浮かべる。
「そう言ってくれて嬉しいよ」
頬や唇にキスしてくるファイノンになんと答えるべきかわからず、モーディスは黙って頷くだけにとどめ、口付けを受け入れた。
モーディスは、先ほど出した林檎タルトのことを考えていた。
丁寧に育てられたのが良くわかる、大きくて蜜の多い林檎だった。ファイノンを育てた二人が育てた林檎で作るタルトは、店で出す物よりも数段美味しく作れたように感じた。これから先も、きっと彼らは林檎を送ってくれるだろう。
「次に来た時も、林檎があればタルトを作る」
モーディスがぽつりと口にすると、ファイノンが顔を上げた。
「本当に?」
「林檎があればな」
「わかってるよ。でも、さっきのは今まで食べた中で一番美味しいタルトだった」
嬉しそうに笑うファイノンに、ならよかった、とモーディスはようやくほっとしたように息を吐いた。
「片付けを手伝え」
そっと体を離そうとすると、「もうちょっとだけ」と言いながら、ファイノンがぎゅう、と強く抱きしめて来る。
「
……せっかくの休みだったのに、君を独占できなかったから」
拗ねたように呟く男に、「お前のために時間を使った筈だが
……」とモーディスは苦笑した。
ファイノンの背と髪を撫で、「こんなところにいつまでも立たせるな」と文句を口にする。
「うん。でももう少しだけ」
抱き着かれたままファイノンを引きずってリビングへ向かおうとしたが、妙に頑なな男のせいでそれは叶わない。
仕方なく、モーディスはファイノンが満足するまで、その場で抱き合っていることにした。