Hnyanko
2026-07-01 23:10:41
11758文字
Public
 

共に"生きる"ということ③

続きです
本になるかも



  リンは、待ち合わせの場所に少し早く着いた。

 別に急いだつもりはなかった。ただ、家にいると余計なことを考えそうで、予定より早く靴を履いて、予定より早く道を歩いて、予定より早く着いてしまっただけだった。

 待ち合わせに選んだのは、人通りの多い通りから一本外れた、小さなカフェだった。

 兄なら選ばない場所だと思った。

 アキラは、こういうとき人の目につきにくい場所を選ぶ。逃げ道もあって、話し声が目立たなくて、相手が黙っても気まずくなりすぎない場所。そういうところを、あの人は自然に選ぶ。相手が困らないように。自分の感情が邪魔にならないように。

 だから、リンはわざと違う場所にした。

 少し賑やかで、けれど騒がしすぎない。窓際の席から外が見えて、店員が適度に来る。逃げようと思えば逃げられるけれど、逃げるには少し目立つ。

 悠真は逃げるのが上手い。物理的にというより、空気の隙間からするりといなくなるのが上手い。面倒くさそうに笑って、くだらないことを言って、こちらが本題に触れる前に、いつの間にか話の中心をずらしてしまう。兄はそれに気づいていながら、追わない。追えば悠真が苦しむと思っているからだ。

 ふざけるな、とリンは思っている。

 苦しめばいいのだ。少なくとも、兄だけが静かに傷ついて、悠真だけが遠くで自分を罰しているような顔をしている現状よりは、ずっとましだ。

 注文したアイスティーの氷が、グラスの中で小さく鳴った。

 リンはストローに触れず、窓の外を見ていた。今日、自分がどんな顔で悠真の前に座ればいいのか、正直まだ決めかねていた。怒ればいいのか、責めればいいのか、それとも静かに聞けばいいのか。兄のためにと思って呼び出したくせに、いざとなると自分の言葉に自信が持てなくなる。それでも、ここで引き返す気はなかった。

 悠真は、約束の時間ぴったりに来た。

 少し意外だった。

 遅れてきて、いやーごめんごめん道が混んでてさぁ、なんて軽く入ってくるかと思っていたのに、店の扉が開いたのは本当にぴったりの時間で、悠真はいつもの軽い足取りで店内を見回し、リンを見つけると片手を上げた。

「やっほー、リンちゃん。僕を呼び出すなんて、もしかして告白?」

 椅子に腰を下ろす前から、それだった。

 リンは笑わなかった。

「座って」

「はいはい。こわ」

 悠真は笑って、向かいの席に座った。店員が来ると、何でもない顔でコーヒーを頼む。ブラック。兄と別れた日にも、テーブルの上にあったはずの味。

 リンはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

 悠真は気づいたのか、気づかないふりをしたのか、いつものように肩をすくめる。

「で? 僕に何の用? お兄ちゃんには内緒って感じだったけど」

「内緒だよ」

「ふーん。悪いことしてる気分だねぇ」

「悠真にとってはそうかもね」

 悠真の笑みが、少しだけ止まった。

 ほんの少し。

 でもリンは見逃さなかった。お兄ちゃんが見逃さないものを、自分だって全部ではないにしろ、少しは見えるようになってしまった。そう思うと、腹が立つ。兄はいつも、こういうものを見て、拾って、拾った上で黙っているのだ。ばかみたいだ。兄も、目の前の男も。

……リンちゃん、今日は機嫌悪い?」

「うん」

「僕、何かしたかな」

「したよ」

 悠真は笑った。笑いながら、少しだけ背もたれに体重を預ける。その仕草がいかにも余裕ぶっていて、リンは余計に腹が立った。

「心当たりが多すぎて困るなぁ」

「じゃあ一個ずつ言ってあげようか」

「え、こわ。本気じゃん」

「本気だよ」

 そこで店員がコーヒーを置いた。

 湯気が立つ。

 悠真はカップに手を伸ばさなかった。リンもアイスティーに触れなかった。短い沈黙が落ちる。悠真はその沈黙を破るのが上手いはずだった。けれど、今は何も言わない。言えないのか、言わないのか、リンにはわからない。でも、どちらでもいい。今日は逃がすつもりがなかった。

「悠真」

「うん」

「お兄ちゃんのこと、まだ好きでしょ」

 悠真の目が、わずかに細くなった。

 笑みは消えない。

 消えないけれど、表面だけになった。

「どうだろうね」

「そういうの、いらない」

「リンちゃん、手厳しいなぁ」

「いらないって言ってるの」

 リンはストローを指で軽く押した。氷が鳴る。その音が少しだけ冷たく聞こえた。

「私、悠真と軽口言うために来たんじゃないから」

……だろうね」

 悠真はようやくコーヒーに手を伸ばした。けれど飲まない。ただ、カップの縁を親指でなぞっている。

 兄と同じ癖だ、と思った。

 いや、違う。兄は考えごとをしているときにカップの縁をなぞる。悠真は、触れる場所に困っているだけだ。手持ち無沙汰になった指先をどこかに置いておかないと、何か余計なものが漏れてしまうみたいに。

「ねえ、悠真」

「うん」

「お兄ちゃんのこと、なんだと思ってたの」

 悠真の指が止まった。

 リンは続けた。

「恋人だったんでしょ」

……そうだね」

「好きだったんでしょ」

「うん」

「だった、って言うんだ」

 悠真は黙った。

 リンは、胸の奥で小さく怒りが跳ねるのを感じた。

 悠真は、ずるい。だった、とも言わない。今も好きだ、とも言わない。黙っていれば、どちらにもならないと思っている。言葉にしなければ、誰も傷つかないと思っている。そんなはずがない。黙っていることで傷つく人間を、リンは目の前で何年も見てきた。

「お兄ちゃん、悠真が思ってるほど強くないよ」

 悠真が、顔を上げた。

 その目がようやくリンを見る。

「強いよ、アキラくんは」

「そういう話じゃない」

……

「何でも受け入れるから強いとか、泣かないから大丈夫とか、ちゃんと仕事できてるから平気とか、そういう話じゃないって言ってるの」

 声が少し強くなった。

 リンは一度だけ息を吸う。怒鳴りたいわけではない。泣きたいわけでもない。けれど、兄が飲み込んだ言葉を思うと、どうしても喉の奥が熱くなる。

「お兄ちゃん、ずっとちゃんとしてるよ。仕事もするし、ご飯も食べるし、私のことも気にするし、悠真のこと悪く言わないし、悠真が生きてることは嬉しいってちゃんと言う。すごいよね。ほんとにすごいと思う」

 悠真は何も言わなかった。

 リンは少しだけ笑った。笑えているかわからなかった。

「でもさ、そういうのって、傷ついてないってことじゃないよ」

 悠真の手が、カップから離れた。その指先がわずかに丸まる。

「お兄ちゃん、悠真が誰かとご飯行ったって聞いただけで、箸の動き止まるんだよ。悠真のお土産の紅茶、腹立つって言いながらちゃんと淹れて飲むんだよ。仕事で悠真と組んで、やりやすいって言われただけで、帰ってきてからずっと変な顔してるんだよ」

「リンちゃん」

「なに」

……それ、アキラくんが言ったの?」

「私が見てるの」

 悠真が黙る。

 リンは、そこで少しだけ声を落とした。

「私しか見てないの」

 その言葉は、思ったより弱く出た。

 兄はたくさんの人に頼られている。いろいろな人が兄を好きで、信頼していて、兄の言葉に救われている。けれど、兄が家に帰ってきて、ゆっくり疲れていくところを見るのはリンだけだ。玄関で靴を脱ぐときの、ほんの一瞬だけ肩が落ちる仕草。夕飯の支度をしながら、ふいに手が止まって、鍋の湯気をぼんやり見つめている時間。誰かに見せるために作られていない顔を、リンだけが日常の中で拾ってしまう。

 笑顔がほどけて、言葉が減って、ふとしたときに何かを思い出したように手を止める。

 リンだけが、それを見る。

 兄が好きな人の前ではちゃんとしてしまうなら、リンが言うしかない。

「悠真はさ」

 リンは、まっすぐ悠真を見た。

「昔付き合ってたのに、お兄ちゃんのことなんにも見てなかったんだね」

 悠真の顔から、表情が抜けた。

 それは、リンが初めて見る顔だった。いつもの軽さも、笑みも、誤魔化しも、何もない。少し幼いようにも、ひどく疲れているようにも見えた。テーブルの下で、彼の指先がシャツの裾を強く握っているのが見えた。子どもがぬいぐるみにしがみつくときのような、無意識の強さだった。

 リンは容赦しないことに決めていた。

 だから続けた。

「悠真、お兄ちゃんのこと全然見てないじゃん。お兄ちゃんがいいよって言ったら、それでいいと思った? お兄ちゃんが大丈夫って言ったら、本当に大丈夫だと思った? お兄ちゃんが尊重するって言ったら、それで傷ついてないって思った?」

……そんなこと」

「思ってなかったなら、なんで何もしないの」

 悠真の唇がかすかに動いた。言葉は出なかった。

「お兄ちゃんはね、悠真が決めたことなら尊重するよ。たぶん、自分がどれだけ嫌でも、ちゃんと離れる。そういう人だから。私のたった一人のお兄ちゃんは、そういうふうに自分を削ってでも相手の選択を守ろうとする人だから」

 リンはアイスティーのグラスを握った。冷たさが掌に移る。

「だから、私は許さない」

 悠真の目が揺れた。

「お兄ちゃんがいいよって言っても、私が許さない。お兄ちゃんにちゃんと幸せになってほしいから。お兄ちゃんの隣に立つ人が、お兄ちゃんの“いいよ”に甘えて、自分の怖さから逃げる人なら、私は絶対に許さない」

……リンちゃん」

 悠真の声は、かすれていた。

 リンは少しだけ胸が痛んだ。でも、やめなかった。

「悠真は、お兄ちゃんの周りに仲良しな女の子がたくさんいるからって、勝手に思ってるでしょ」

 悠真が目を伏せた。

 当たりだった。リンは鼻で笑いたくなった。笑わなかった。

「いるよ。たくさんいる。お兄ちゃん、優しいし、顔もいいし、頭もいいし、困ってる人を放っておけないし、本人にその気がなくても好かれるよ。そんなの当たり前じゃん」

……うん」

「それで?」

 悠真が顔を上げる。

 リンは、わざと少し意地悪に笑った。

「だから何?」

……

「お兄ちゃんの周りに素敵な人がたくさんいたら、悠真は何もしないの? じゃあ悠真は、お兄ちゃんに選ばれるために何かしたの? お兄ちゃんの気持ちを聞いたの? 自分が怖かったこと、ちゃんと話したの?」

 悠真は答えない。

 答えられないのだと、リンにもわかった。

「してないじゃん」

 リンは言った。

「何もしてない。嘘ついて、傷つけて、遠くから見てるだけで、罰みたいな顔してるだけ」

 悠真の肩が、ほんの少し揺れた。

 リンはその揺れを見て、兄の気持ちが少しわかった気がした。慰めたくなる。悠真は、そういう顔をする。傷つける側のくせに、傷ついたような顔をする。そうすると兄は、たぶん自分の痛みより先に悠真の痛みを見てしまう。

 だから、リンは見ない。見えても、慰めない。

「それってさ、悠真が一番自分のこと大事にしてるよ」

 悠真の目が、ゆっくりとリンへ向いた。

「自分はもう資格がないとか、罰だとか、遠くで見てるだけでいいとか、そういうの、きれいっぽい顔してるけど、結局お兄ちゃんに拒まれるのが怖いだけじゃん。お兄ちゃんにちゃんと怒られるのが怖いだけじゃん」

……っ」

「お兄ちゃんのことを大事にしてるんじゃなくて、自分がこれ以上傷つかない場所にいるだけじゃん」

 言ってから、リンはほんの少しだけ息を止めた。

 言いすぎたかもしれない。

 けれど、言わなければ届かない。

 悠真は、しばらく何も言わなかった。コーヒーの湯気はもう薄くなっている。店内の音がやけに大きく聞こえた。誰かの笑い声。ドアベルの音。小さな子どもが椅子を引く音。そんな普通の音の中で、悠真は静かに座っていた。

……そうだね」

 ようやく出た声は、ひどく小さかった。

 リンは眉を寄せる。

 悠真は、ゆっくりと笑った。笑うというより、顔がそういう形を覚えているから動いただけ、みたいな笑みだった。

「リンちゃんの言う通りかも」

「かもじゃない」

「うん」

 悠真は素直に頷いた。その素直さが、少し怖かった。

「そうだね。僕は、怖かったんだと思う」

 リンは黙っていた。

 悠真はコーヒーを見下ろす。

「病気が治って、これから先も生きられるってわかったとき、なんかさ、変な話だけど、急に怖くなったんだよね」

 その話を、リンは兄から聞いていた。

 詳しくではない。ただ、病気が治ったこと。悠真に未来ができたこと。そのあと、別れたこと。兄は悠真を悪く言わなかった。だから、リンは想像するしかなかった。

「それまでの僕は、いつ終わるかわからないものを、終わるまでにできるだけちゃんと生きようとしてた。アキラくんといることも、うまく言えないけど……僕に残された時間の中で、精一杯好きでいることなら許される気がしてた」

 悠真の指が、カップの横で止まっている。

「でも、先があるってわかったら、その先にアキラくんを連れていっていいのかわからなくなった」

 リンは何も言わなかった。言えば、たぶん怒鳴ってしまう。それを決めるのはお兄ちゃんでしょ、と。

「アキラくんの周りには、素敵な人がたくさんいるし。僕は顔と金くらいしか取り柄ないし、病気が治ったってこの仕事をしてる以上、いつ死ぬかわからないのは変わらないし。性格だって、まあこんなだし?」

 軽くしようとした語尾は、少しだけ失敗した。

「だから、アキラくんのためだと思った。僕が離れたほうがいいって。もっと良い未来があるんじゃないかって」

「お兄ちゃんに聞いたの?」

 悠真は黙った。

「聞いてないよね」

……うん」

「じゃあそれ、お兄ちゃんのためじゃない」

 リンはきっぱり言った。

 悠真の肩が少し落ちる。

「うん」

「悠真が怖かっただけ」

「うん」

「お兄ちゃんに選んでもらえなかったときのこと考えるのが怖かっただけ」

……うん」

 悠真の声が少し震えた。

 リンは、やっぱり少し胸が痛んだ。けれど、ここで黙ったら意味がない。

「お兄ちゃんはね」

 リンはゆっくり言った。

「悠真が病気だったから好きだったわけじゃないよ」

 悠真が顔を上げる。

「死ぬかもしれないから可哀想とか、守ってあげたいとか、そういうのだけで一緒にいたわけじゃない。そんなの、悠真だって本当はわかってるでしょ」

……

「お兄ちゃんは悠真のこと、ちゃんと好きだったよ。面倒くさいところも、ひねくれてるところも、すぐ軽口で逃げるところも、でも本当はよく見てるところも、全部」

 悠真の目が揺れた。

 リンは、少しだけ声を柔らかくした。

「今も、好きだよ」

……リンちゃん」

「でも、今の悠真のままなら、私は嫌」

 悠真は息を止めた。

「お兄ちゃんが許しても、私は嫌。だって、またお兄ちゃんが大丈夫って笑ったら、それに甘えるでしょ。お兄ちゃんが怒らなかったら、怒ってないって思うでしょ。お兄ちゃんが泣かなかったら、傷ついてないって思うでしょ」

……思わないよ」

「思ったから、こうなってるんじゃん」

 悠真は言葉を失った。

 リンはアイスティーを少しだけ飲んだ。氷が溶けて、味が薄くなっていた。

「悠真」

「うん」

「お兄ちゃんに見てもらいたいなら、まず悠真がお兄ちゃんをちゃんと見なよ」

 その言葉で、悠真の表情が少し変わった。

「お兄ちゃんは、悠真が思ってるほど完璧じゃない。傷つくし、嫉妬するし、ムカつくって言うし、たまにご飯も味わかってなさそうに食べてるし、眠れない夜もあるし、私に心配かけないようにすぐちゃんとしようとする」

 リンは少し笑った。

「あと、悠真のお土産の紅茶、美味しいって言いながらかなりムカついてた」

 悠真が、ほんの少しだけ目を見開いた。それから、泣きそうな顔で笑った。

「そっか」

「うん。ムカついてた」

……そっかぁ」

 悠真の声が、ひどく柔らかくなった。

 その柔らかさに、リンは少しだけ鼻の奥がつんとした。兄が聞いたら、きっと困った顔をするだろう。そんな顔をしないでほしいと思いながら、それでも、その声を少し嬉しいと思ってしまうだろう。兄はそういう人だ。だから、リンが代わりに釘を刺す。

「喜んでる場合じゃないからね」

「はい」

「今すぐ復縁しろとか言ってるんじゃないから」

「うん」

「ていうか、今のまま来られても困るし」

「手厳しい」

「当たり前でしょ。お兄ちゃんだよ」

 悠真は、そこで初めて少しだけ本当に笑った。さっきまでの貼りつけた笑みではなく、困ったような、けれど少し温度のある笑みだった。

「リンちゃんは、アキラくんのこと本当に大事なんだね」

「当たり前じゃん」

「うん」

「唯一の家族だもん」

 悠真の目が、そこで静かに伏せられた。

 リンは少しだけ後悔した。悠真にとって、家族という言葉が軽くないことを知らないわけではない。親に捨てられたこと。病気のせいで施設にいて、師匠と呼ぶ人がいて、その人も行方不明になったこと。全部を詳しく知っているわけではないけれど、何も知らないわけでもなかった。

 でも、だからこそ言った。兄の家族は、兄を守る。それを悠真に知ってほしかった。

……いいな」

 悠真がぽつりと言った。

 リンは眉を上げる。

「何が」

「アキラくんには、リンちゃんがいる」

「いるよ」

「うん」

「悠真は?」

「え?」

「悠真は、どうしたいの」

 悠真が黙った。

 リンは続ける。

「お兄ちゃんの家族になりたいの?」

 悠真の顔が、今度こそ完全に固まった。まるで、そんな言葉を自分に向けられると思っていなかったみたいだった。

 リンは逃がさない。

「恋人に戻りたいとか、好きとか、それも大事だけど。悠真は、お兄ちゃんの人生にまた入ってきたいの? 仕事の相手とか、昔の恋人とかじゃなくて、ちゃんとお兄ちゃんが帰る場所の中に入りたいの?」

 悠真は、長いこと黙っていた。コーヒーはもう冷めているだろう。それでも悠真は飲まなかった。

 やがて、彼は小さく息を吐いた。

……そんなの」

 声が震えていた。

「なりたいに決まってるじゃん」

 リンは黙った。

「でも、なれると思ってなかった」

「なんで」

「僕が、捨てたから」

 その言葉は静かだった。けれど、重かった。

 リンはそれを聞いて、ようやく少しだけ、目の前の男が本当に五年近く自分を罰するつもりでいたのだと理解した。

 ばかだ。本当にばかだ。兄もばかだけど、悠真も相当ばかだ。

「じゃあ拾いに行けば」

 リンが言うと、悠真が瞬きをした。

「え?」

「自分で捨てたなら、自分で拾いに行けばいいじゃん」

……リンちゃん、簡単に言うね」

「簡単じゃないでしょ。だからやるんじゃん」

 悠真は、少しだけ笑った。

「そっか」

「そうだよ」

「でも、アキラくんは僕のこと、もう」

「それを私に聞くな」

 リンはぴしゃりと言った。

「お兄ちゃんに聞きなよ。今度は勝手に決めないで」

 悠真は、何かを言われたように目を伏せた。その横顔は、リンが思っていたよりずっと若く見えた。

 この人は、ずっと大人みたいな顔をしているけれど、本当は傷ついた子どものままの部分を抱えているのかもしれない。親に置いていかれたところから、師匠に手を伸ばしたところから、病気の終わりを数えていたところから、動けないままの部分があるのかもしれない。

 だからといって、兄を傷つけていい理由にはならない。でも、少しだけわかった。兄がこの人を放っておけなかった理由が。

「悠真」

「うん」

「変わりなよ」

 悠真は顔を上げた。

「お兄ちゃんに選んでもらうためだけじゃなくて、悠真自身のために」

 リンは、ゆっくりと言葉を選んだ。

「お兄ちゃん、悠真のこと全部背負おうとするよ。たぶん今でも、悠真が苦しそうにしたら、自分の傷を置いてでも手を伸ばそうとする。だから、悠真がちゃんと自分で立てるようになって。お兄ちゃんが支えなくても隣に立てる人になって」

 悠真の目が、静かに揺れていた。

「それから、ちゃんと謝って。別れたことだけじゃなくて、嘘をついたこと。お兄ちゃんの気持ちを聞かなかったこと。お兄ちゃんを信じなかったこと」

……うん」

「あと」

「まだある?」

「あるよ」

 リンは少しだけ身を乗り出した。

「今度は、お兄ちゃんが大丈夫って言っても、一回疑って」

 悠真が瞬きをした。

「疑う?」

「うん。お兄ちゃんの大丈夫は、だいたい大丈夫じゃないから」

……それは、なんとなく知ってる」

「知ってるならちゃんと見て」

 悠真は、今度は逃げなかった。まっすぐリンを見て、頷いた。

「うん」

 その頷きが思ったより真剣で、リンは少しだけ照れくさくなった。けれど、まだ終わらせない。

「あと、これは私からの条件」

「条件」

「お兄ちゃんをまた泣かせたら許さない」

……うん」

「泣かないかもしれないけど、泣いてるのと同じ顔させたら許さない」

「うん」

「あと、私にもちゃんとお土産買ってきて」

 悠真が目を丸くした。それから、ふっと笑った。

「そこ?」

「大事でしょ」

「うん、大事だね。リンちゃんには何がいい?」

「高いやつ」

「遠慮ないなぁ」

「お兄ちゃんの恋人になるかもしれない人には、これくらい請求していいと思って」

 言ってから、リンはわざとらしくアイスティーを飲んだ。

 悠真は、しばらく固まっていた。それから、ゆっくりと両手で顔を覆った。

……それ、ずるくない?」

「何が」

「そういう言い方」

「まだ認めてないからね」

「わかってる」

 悠真の声は、手のひらの向こうで少しこもっていた。

「でも、嬉しいんだ」

 その言葉があまりにも素直で、リンは一瞬だけ何も言えなくなった。

 悠真は顔を覆ったまま、細く息を吐いた。

……嬉しいな」

 リンは視線を逸らした。なんだか、自分がいじめたみたいだった。

「泣かないでよ」

「泣いてないよ」

「声が泣きそう」

「泣いてないって」

「これからお兄ちゃんに会うことになったとき、泣いてたらさすがの悠真もイケメン度落ちるって」

 悠真はそこでようやく顔を上げた。目元は少し赤かった。泣いていないと言い張るには、少し無理がある。

「リンちゃん、意外と容赦ないよね」

「お兄ちゃんの妹なので」

「なるほどねぇ」

 悠真は、冷めたコーヒーにようやく口をつけた。きっと不味いだろうに、眉ひとつ動かさず飲んだ。

 リンはそれを見て、少しだけ満足した。不味いものくらい飲め。兄はもっと長いあいだ、甘すぎるものも、苦すぎるものも、黙って飲んできた。

「悠真」

「うん?」

「私、お兄ちゃんには幸せになってほしい」

「うん」

「悠真と一緒にいることが、お兄ちゃんの幸せになるなら、それは否定しない」

 悠真は静かに聞いていた。

「でも、お兄ちゃんが悠真のために自分を削るだけなら、私は絶対嫌」

……うん」

「だから、ちゃんと頑張って」

「うん」

「お兄ちゃんに見えないところでも」

 悠真は少しだけ目を細めた。

「それ、難しいね」

「簡単なこと頼んでない」

「そうだね」

「できる?」

 悠真は、すぐには答えなかった。

 リンは待った。ここで軽く「できるよ」と言われたら、たぶん怒っていた。

 悠真は長い沈黙のあとで、ようやく口を開いた。

「できる、って今は言えないかも」

 リンは黙って聞いた。

「でも、やるよ。やらなきゃ、僕はたぶん、ずっと同じところにいる」

 その答えなら、悪くないと思った。

 リンは小さく頷いた。

「じゃあ、見てる」

「こわ」

「見てるから」

「はいはい」

「はいは一回」

「はい」

 悠真は少し笑った。今度の笑みは、少しだけまともだった。

 その日、二人は店の前で別れた。

 悠真は来たときよりも少し足取りが遅かった。リンはそれを見ながら、少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。

 言いたいことは言った。それでも、これでよかったのかどうかはわからない。兄に黙って悠真を呼び出したことも、兄の知らないところで兄の傷を話したことも、正しかったかどうかはわからない。

 でも、何もしないよりはよかった。兄はたぶん、何もしない。悠真も、放っておけば何もしない。だったらリンが石を投げるしかない。水面を乱すしかない。

 家に帰ると、アキラはキッチンにいた。

 夕食の支度をしているらしい。袖を少しまくって、鍋の中を覗いている。いつも通りの横顔。穏やかで、少し疲れていて、でもリンが帰ってきたことに気づくとすぐに表情を柔らかくする。

 その顔を見た瞬間、リンは今日聞いてきたばかりの言葉の数々が、急に生々しく胸に迫るのを感じた。この人が、あんなふうに指先でカップをなぞりながら耐えていたのだと思うと、湯気の向こうの横顔さえ少し違って見える。

「おかえり、リン」

「ただいま」

「遅くならなかったね」

「うん」

「楽しかった?」

 リンは少しだけ迷った。友達と会ったのかと聞かれて、そんな感じ、と答えた。だからこの質問も、たぶんその流れのものだった。兄は深く聞かない。相手が言いたくなるまで待つ。

 そういうところが、優しい。そして、時々とても腹立たしい。

「楽しいっていうか」

「うん」

「説教してきた」

 アキラが瞬きをした。

「説教?」

「うん」

「友達に?」

「そんな感じ」

 アキラは少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。

 リンは靴を脱いで、手を洗いに行く。鏡に映った自分の顔は、思っていたより疲れていた。頬のあたりに、まだ怒りの熱が薄く残っている気がした。

 リビングに戻ると、アキラが味見用の小皿を差し出した。

「味、どうかな」

 リンはそれを受け取って、少しだけ口に入れる。出汁の優しい香りが鼻を抜けた。いつもと同じ、丁寧な味だった。

「おいしい」

「よかった」

「ちょっと薄いかも」

「じゃあ少し足そう」

 兄はいつも通りだった。いつも通り、こちらの言葉を受け取って、少し笑って、鍋に向き直る。

 その背中を見て、リンは急に泣きたくなった。

 お兄ちゃん。

 悠真に会ってきたよ。

 悠真、まだお兄ちゃんのこと好きだったよ。

 でも、まだだめだよ。ちゃんと怒ってきたからね。

 そう言いたくなった。喉の奥まで出かかった言葉を、リンはゆっくり飲み込んだ。

 でも言わなかった。これはたぶん、今はまだ兄に渡す話ではない。悠真が自分で渡さなければいけない話だ。

「リン?」

 アキラが振り返る。

「どうかした?」

「ううん」

 リンは笑った。

「お兄ちゃん、今日のご飯楽しみ」

「そんなに?」

「うん。お腹すいた」

「じゃあ、もう少し待っていて」

「はーい」

 リンはソファに座り、クッションを抱きしめた。

 スマホを開く。悠真からメッセージが来ていた。

『今日はありがとう。あと、ごめん。ちゃんと考える』

 リンはしばらくそれを見た。それから返信した。

『考えるだけじゃなくて動いて』

 すぐに既読がついた。少し遅れて、返事が来る。

『はい』

 リンは満足して、スマホを伏せた。

 キッチンから、兄が何かを刻む音がする。一定で、落ち着いた音。その音を聞きながら、リンはそっと息を吐いた。今日一日で、自分の中の何かが少しだけ重くなったような気がした。悪い重さではない。ただ、大事なものを預かってしまったときの重さだった。

 三年目の春。

 兄はまだ知らない。悠真がようやく、自分の足元を見ることを始めたことを。自分が手放したものを、もう一度拾いに行くにはどうすればいいのか、考え始めたことを。

 そして、その変化が兄を救う前に、一度兄をもっと遠ざけることになるなんて、リンもこのときはまだ知らなかった。