色々と不幸が重なった結果、邪兎屋の水道が止められた。邪兎屋に過失が全く以って無いわけではないが、それも些細なことでしかなく、止まるに至った要因の多くは物件側のオーナーにあって、と少々複雑な状況だ。おかげで復旧にも数日かかるらしい。
ここで問題になるのが、邪兎屋は人材派遣会社という名のなんでも屋であり、仕事の多くは外に出て何らかの依頼をこなすことにある。つまり外出し、外部の人々と関わらざるを得ないため、顧客の信用のためにも身だしなみを整えることはマナーだった。
だというのに水道が止まり、共同生活を送る事務所ではシャワーも浴びられなければカップ麺すら作れなくなってしまった。顔面を真っ青にさせたのち、自分たちに過失があったかどうか確認したニコが従業員を率いてオーナーに突撃し、数日中の復旧を約束させることには成功したが、それまでは不便であることに変わりない。
その皺寄せが主にどこへ行くかというとビリーである。日程調整の効かない仕事はビリーが請け負うことになり、女性陣は「数日の間だけだから」とお人好しなビデオ屋に拝み倒して、そちらを仮拠点として出来る範囲の仕事を行っている。
汗や皮脂といった老廃物と基本的に無縁の機械の身体はこういう時に便利だ。ビリーとて外に出れば汚れるには汚れるが、エアーダスターと布、ウェットティッシュなどで対応できるから、彼女らほど困りはしない。
『夜まで暇になったんですけど、パイセン時間あります?』
『お? こっちまで来てるのか』
『急ぎの配送の仕事の穴埋め要員として呼ばれたんです』
『なるほどな』
『明日は郊外で予定あるんで泊まれはしないんですけど』
そんなわけで、水道が止まった生活に耐えられない女性陣が事務所を留守にしている間、ビリーはいつも以上に方々へと駆け回っていた最中だった。
覇者のチャンピオンも、今日は運送会社の仕事を手伝っているらしい。ライトから送られてきたメッセージに、玉手箱の運転席に戻って『荷物の配送あと一件やったら俺も暇だぜ!』と返せば、次の反応は返信ではなく通話だった。ビリーの素早い返信が続いたことで、応対する余裕があると踏んだのだろう。せっかちめ、と小さく笑いながら通話に出る。
「よぉライト」
『お疲れ様ですパイセン。どこで落ち合います?』
「ならフツーにルミナスクエアで……あ、いや」
それよりも邪兎屋の事務所の方が近いし、ニコからは直々に「水道が復活したら連絡しなさい」と指令が下されているから、ビリーが連絡していない以上彼女らはまだ事務所に戻ってきていないはずだ。つまりカラオケやホテルなどに入らずともライトと二人きりになれる。
『どうかしました?』
「うちの事務所、いま誰も居ないからどうかなって思ったんだけどよ」
『へえ? 珍しいこともあるんすね。じゃあ近くの喫茶店で待ってます』
「おう、一時間もかかんねぇと思う」
『了解っす』
「良い子で待ってろよ」
『ハハ、あんまり待たせないでくださいね』
でないと悪い子になっちまう、と低く笑ったライトは、ちゅ、とリップ音を響かせて通話を切った。ツーツーと鳴る電子音にビリーは天を仰ぐ。玉手箱の低い天井だと気分を変えるには余白が足りないが、かといって運転席から降りたら不審な目で見られること間違いなしだ。
ここ最近はお互いに忙しかったから仕方ないのかもしれない。
ライトだけが浮かれているわけではないのだ。ビリーも同じだからこそ、二人きりになれる場所を提案した。そのお返しがリップ音になるのは予想外だが。
「あいつ外なんじゃねぇのかよ……」
あのイケメンとよく囃し立てられる男が、街中で電話先の相手にリップ音を聞かせているさまなど、通行人に見られたら黄色い悲鳴が響くのではないだろうか。呼吸モジュールから空気を目いっぱい吸い込んで、よし、とビリーは車のエンジンを掛けた。
ビリーが配送を終えて車で喫茶店の前まで来たところで、窓辺の席に座っていたライトがそそくさと店から出てきた。路肩に車を寄せれば、慣れた様子で助手席に滑り込んでくる。
ライトの片手にあるカップの中身は、ホイップクリームと思われる白さをしていた。
「お疲れ様です、パイセン」
「そっちもな。なんか甘そうなの飲んでねぇか?」
「一昨日出た新作らしいですよ」
「ああ、もう出てたのかアレ」
そういえば予告は見た覚えがある。ここ数日ビデオ屋に世話になっているニコたちは、新作が発売されていることすらまだ知らないだろう。ビリーも知らないはずだ。
「バイクはもう駐車場に置いてきてあるんで、このまま行きましょう」
「今日はずいぶんせっかちだな」
「情熱的って言って欲しいんですけどね」
唇に笑みを刷きながら言うライトは、助手席に座ってからこちら、ビリーから片時も目を離そうとしない。サングラス越しでも分かる甘ったるい眼差しと、口説くような熱の籠った声。柔らかな唇にカップが寄せられ、その中身を口に含む。
そうして薄くホイップクリームの白が残った唇を、ぺろりと赤い舌が舐めていった。
「……パイセン?」
機械人に性欲はないはずのに、どうにもその仕草に疼く感覚を覚えるのだから始末に負えない。性的な魅力というものへの理解も、肉の身体を持つ者たちはそう感じるらしい、という他人事としての認識だったビリーを変えたのはこの男だ。
思わず手を伸ばしてその唇を指先でなぞろうとしたところで、ここ最近の生活が思考回路を過ぎった。中途半端に浮いた手を不思議そうに見たライトが自身の手で掴む。
「どうしたんすか、パイセン」
言いながら掴んで引き寄せたビリーの掌に頬を寄せるライトを見て、咄嗟に「いや」と声を発した。掴まれた手は軽く引いたくらいではびくともせず、眉を顰めたライトに苦笑いする。説明しないことにはこのままだろう。こんな状態では運転も出来ない。
「ここ数日、邪兎屋の水道が止まっててさ。洗濯はコインランドリーか店長たちのトコ頼りだし、親分たちはもう向こうで寝泊まりしてる状況でよ」
「は? ついに借金で首回らなくなったんですか」
「今回は色々と事情が複雑でな。根本の解決はしてるから、たぶん明日とか明後日には復旧してると思うぜ」
「ならいいんすけど……」
「まぁ、だからなんだ、その……今の俺、そんな綺麗じゃねぇんだ。も、もちろんちょくちょく関節の汚れは落としてっし、ウェットティッシュで拭いたりとかしてっけど」
ビリーは完全防水だから構わずシャワーを浴びられるが、世の機械人が皆そうというわけではない。それに比べればウェットティッシュ生活でもビリーはまだ清潔な方だ。
――そうは言っても、世の機械人の多くは人間の粘膜に触れられることなどないのである。
金属のはだに心底愛おし気に口付ける存在など、ビリーはライトが初めてだった。あまつさえ舌で舐めて、吸って、愛撫をされた日には、プロセッサに負荷がかかり、機体内の温度がぐんと上がって熱暴走を起こしかけたほどだ。
今となっては触れることも触れられることも慣れたが、だからこそビリーも清潔さを気に掛けずにはいられなくなってしまった。
「でもいつもよか汚れは残ってるだろうから、事務所に呼んどいて今更だけど、その……」
二人きりの時だと珍しくない触れ合いは、今日ばかりは抑えるのがお互いのためだろう。ビリーとしても不本意だが、体調不良が起こるとしたらライトの方だ。ここはビリーが先輩として毅然とした態度で断らなければならない。断腸の思いというやつである。
呆気に取られた様子だったライトは、ぱちぱちとサングラスの下で目を瞬かせて、それからむず痒そうにビリーの掌に唇を寄せた。
「っておいこら、だから汚ぇって」
「舐めはしないんで……」
「唇くっついてたら一緒だろ!」
ふう、と指の関節に入り込む吐息が熱い。サングラスを外してやれば、赤らんだ頬と火を灯す翡翠色の瞳が現れた。重たい前髪と暗色のレンズに隠されていた表情は熱を宿している。ふるりと機体内のパーツが震えて緩むような錯覚に、感情モジュールのパラメーターが一瞬突き抜けるような直線を描いた。
強引にライトから逃れようという気になれず、ビリーはぴんと伸ばしていた指先をその頬の稜線に添わせる。平温だった掌が温まっていく。
「ライト、……もう帰ろうぜ」
「……我慢できる気、しないすけど」
「このままのが嫌だろ」
「……っすね」
いくら車内とはいえ、喫茶店傍の往来だ。そろそろ通行人の目も気になってくるし、通りかかった治安局に駐車禁止で切符を切られたくもない。ちう、と金属を惜しむように唇で吸って頬から離したライトは、そっとビリーの手を下ろしながら「でも」と口ごもりながら言った。
「水道、出ないかどうか試してみて、復旧してたら……いいっすよね?」
「……してたら、な」
もしも本当に水が出たら、ニコへの連絡は翌朝に回してやってもいい。
目を細めて嬉しそうに笑う男にサングラスを押し付け、ビリーはシフトレバーに手を掛けた。
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