Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
小夏🍊
2026-06-30 10:08:31
13048文字
Public
Planet a room
Clear cache
κ.夜の散歩
現パロ原藤(社会人×学芸員)
そのうちまとめる話
原田を意識しているからといって、平助は平助だ。星空観察会の夜、あれほど露骨に迫った直後だというのに、隣の寝袋ですっかり眠りこけていたような男である。一晩眠ってしまえば、土方に指摘されたことまで忘れてしまったのか。翌朝には何事もなかったような顔で朝食を用意し、原田といつも通り同じ食卓を囲んでいた。
そのまま互いに仕事へ向かい、夜になれば同じ部屋へ帰る。夕食を挟んで今日あったことを話し、食べ終われば二人で手分けして片づける。そうして朝から晩まで、平助が原田との距離を気にする様子は一度もないまま、いつもと変わらない一日が過ぎていった。
食後、原田がソファへ腰を下ろしてテレビを眺めていると、食器を片づけ終えた平助が、ふと思い出したようにスマホを取り出した。
「あ、そういえば今日、沖田くんから昨日の写真が送られてきたんです。原田さんが写ってるのもあるみたいですよ。僕もまだ見てないんですけど、一緒に見ます?」
「おー」
原田が応じると、平助はスマホを手にしたまま、何の躊躇いもなくその隣へ腰を下ろした。
「ほら、これなんですけど
……
」
「
…………
ん、」
画面を二人の間へ差し出し、当然のように身を寄せてくる。淡い髪が腕に触れそうなほど近く、肩同士もすっかり触れ合っていたが、平助本人は何ひとつ気にした様子もない。楽しそうに画面へ指を滑らせていく。
写真が切り替わるたび、昨日の賑やかな光景が次々と現れる。
ちょうど子どもへヨーヨーを手渡している原田や、大きなわたあめと同じくらい丸く写り込んでいる平助の後ろ頭。子どもたちに囲まれ、にやりと歯を見せている新八。色とりどりのシロップをすべてかけたかき氷を手に、眉を寄せて口元を引きつらせている斎藤。更に指を滑らせれば、近藤と土方の腕へそれぞれ腕を絡め、満面の笑みでピースをする沖田や、サングラスを掛けて大きな車の運転席に収まっている山南まで、昨日の一瞬一瞬が切り取られていた。
そうして何枚か見進めたところで、平助は写真へ目を落としたまま指を止める。
「
……
沖田くん、いつの間にこんなの撮ってたんだ」
表示されているのは、わたあめ機の前に立つ平助と、その手元を覗き込んでいる原田の姿だった。平助は割り箸を指先で回しながら、機械の中に漂う白い糸を慎重に巻き取っている。そのすぐ隣では、原田が大きな身体を屈め、平助の肩越しに出来上がっていくわたあめを覗き込んでいた。
——
あー、
……
こりゃ、土方さんにああ言われても仕方ねえな。
写真という形で外側から見せられて、原田自身もようやく納得した。そもそも、写真の中でわたあめを作っている平助は屋台の店員側で、原田は本来ならカウンターの向こうで出来上がりを待っているはずの客だ。それなのに自分は、わざわざ屋台の脇へ回り込み、平助のすぐ傍まで寄っている。平助もそれを気に留めた様子はなく、原田を隣に置いたまま作業を続けていた。
確かに、並んで料理をしている時なら、さほどおかしな距離ではない。実際、原田の家の狭い台所では、肩が触れそうな位置に並んで作業することなど珍しくもなかった。だから、
俺たちの間では
いつもなら
、おかしな距離では無いけれど。
直後、隣にいた平助の身体がぴくりと揺れる。
「
…………
!」
声にならない声を漏らした平助が、まず手元の写真を見つめ、それから触れ合っている互いの肩へ視線を落とした。次いで、すぐ傍にある原田の顔を恐る恐る見上げてくる。
目が合った瞬間、画面を支えていた平助の指に力が入った。肩を離そうと身体を浮かせたものの、その動きは途中で止まる。スマホの角を親指で何度もなぞり、何か言おうと浅く息を吸っては、結局そのまま飲み込んでいた。
「っ、
…………
」
どうも今更離れるべきか、このまま写真を見せ続けるべきか。平助の迷いは、落ち着きなく動く親指にそのまま表れていた。
「へーすけ、次の写真は?」
原田が何も気づいていない顔で画面を指差すと、平助は恨めしそうにこちらを睨んだ。
「
……
あなたって結構、
……
意地悪ですよね」
「さぁ、なんの事だか」
わざとらしくすっとぼけると、平助は鼻から短く息を吐き、きゅっと口を尖らせた。それでも結局、その場から離れようとはしなかった。ここで慌てて距離を取れば、原田に意識していると認めるようなものだとでも思ったのか、肩を寄せたまま次の写真へ指を滑らせる。
その後はもう、距離を気にする素振りすら見せなかった。一枚ずつ律儀に説明しながら、原田が何か口を挟むたび、いつもより少しだけ刺々しい調子で言い返してくる。
「
……
今ので、最後です」
「そうか。見せてくれてありがとな。俺が写ってるやつ、適当に送っといて」
「はい。
……
あ
……
最初から、そうすればよかったのか
……
」
返事をした平助の指が画面の上でぴたりと止まった。数秒そのまま固まったあと、悔しそうに眉間へ皺を寄せ深く俯いて、スマホを膝の上へ伏せる。
「原田さん、気づいてましたね?」
問い詰めるような声に、思わず、ふ、と小さな笑いが漏れた。
——
次の瞬間、脇腹へ平助の肘が容赦なく突き刺さる。
「ってえ!」
「ふん」
平助はむすりとした顔のまま、ようやく原田から身体を離した。
「もう部屋に戻ります。おやすみなさい」
「おう。おやすみ」
原田の抗議など聞く気もないらしく、平助はスマホを掴んで立ち上がる。そのまま振り返りもせずにリビングを出ていき、少しして廊下の奥で自室の扉が閉まる音がした。随分とご立腹らしい。
けれど、それから一分もしないうちに、テーブルへ置いていた原田のスマホが立て続けに震え始める。画面を確認すれば、送り主はたった今部屋へ引っ込んだばかりの平助だった。頼んだ通り、昨日の写真が一枚ずつ律儀に送られてくる。子どもたちと話している姿。屋台の前に立っている姿。わたあめを作る平助の手元を、すぐ隣から覗き込んでいる例の写真まで、抜けなく選ばれていた。
最後の一枚が届いたあと、少しだけ間を置いて、もう一度通知が鳴る。送られてきたのは、平助がいつも使っている例の不格好な白い生き物が、眉を吊り上げて地団駄を踏んでいるスタンプだった。ハムスターのようにも見えるが、結局何の生き物なのかは未だによく分からない。
「
……
まだ怒ってんじゃねえか」
誰もいなくなったリビングでひとり呟きながら、原田は堪えきれずにまた笑った。
それからも平助は、何かの拍子に昨夜のことや土方の言葉を思い出すのだろう。ソファに座る時に一人分の隙間を空けたり、不意に耳のてっぺんを赤くして身を引いたりすることがあった。
けれど、そんな距離も長くは続かない。毎日の生活に紛れてしまえば、意識して離れ続けることなど平助には難しいらしく、少し遠ざかったかと思えば、いつの間にかまた元の距離へ戻っている。その繰り返しだった。
原田も、わざわざ指摘して追い詰めるような真似はしなかった。何もしなくても平助の方から傍へ戻ってくることが、どうしようもなく嬉しかったからだ。
火事の夜から、それだけの時間が経っていた。ほとんど着の身着のままで転がり込んできた平助の気配は、今や原田の日常のあちこちにすっかり馴染んでいる。
玄関には大きさの違う靴が並び、洗面台には二本の歯ブラシと、それぞれの洗顔フォームが置かれている。酒と調味料くらいしかなかった冷蔵庫には、野菜や卵、作り置きの保存容器が並ぶようになった。
家へ帰れば夕食の匂いが出迎え、食卓では翌日の予定を確認する。切れた日用品は気づいた方が買い足し、風呂に入る順番も、朝どちらがゴミを出すのかも、今では相談するまでもない。
同居を始めた頃は、包丁の音や廊下を歩く足音で目を覚ましていた原田も、いつしか平助の立てる生活音の中で眠れるようになっていた。今ではむしろ、放っておけば起きない原田を、平助が寝室まで起こしに来る。
「原田さん、朝ですよ。起きてください」
「
……
あと五分」
「昨日も同じこと言って、十五分寝たでしょう」
そんなやり取りの末に布団を剥がされ、渋々起き出す朝も、すでに珍しくはなかった。
平助がプラネタリウムの最終上映を担当する日には、今まで通り原田のバイクで一緒に帰る。腰へ回される腕が時折遠慮がちになることはあっても、走り出せば平助は結局いつものように背中へ身体を預けてくる。信号で停まれば、話しかけるために肩口へ寄せられる顔と、背中越しの体温を感じる。そうして家へ着けば、どちらからともなく「ただいま」と口にする。
最初はいちいち喜んでいたはずなのに、いつしかそれさえ当たり前になっていた。
玄関を開けた先に平助の靴があることも、部屋の奥から包丁の音や、テレビに向かって小さく相槌を打つ声が聞こえることも、まるで初めからそうだったかのように受け入れている。一人で暮らしていた頃がどんなものだったか、少しずつ思い出せなくなっていることすら、深く考えたことはなかった。
そんな日々を重ねた、ある夜のことだった。その日もいつもと同じように二人で夕食を終え、先に風呂を済ませた平助と入れ替わるように、原田も浴室へ入った。
夏場の夜、エアコンのない脱衣所は、これからドライヤーの温風を浴びることすら躊躇うほど蒸し暑い。根元と前髪だけを手早く乾かし、火照った首筋へタオルを掛けたまま脱衣所を出た。まだ乾ききっていない赤い髪から落ちた雫が、薄手のシャツの肩口を僅かに濡らした気がしたが、そのうち乾くだろう。くありと欠伸を零しながら廊下を抜け、リビングへ足を踏み入れたところで、原田はふと歩みを緩めた。
ローテーブルの向かい側に座った平助が、何枚かの紙を広げていた。テレビは点いているものの、画面ではバラエティ番組が音量を絞ったまま流れている。平助はそちらへ目を向けることもなく、眉間に微かな皺を寄せ、手元の書類を食い入るように見つめていた。普段、食事の献立や仕事の資料を見ている時とも違う、ひどく真剣な顔だった。
何見てんだ、と問いかけようとして、原田の視線がテーブルの上へと落ちる。
細かな文字までは読めないが、何枚か重ねられた紙の一番上、
——
部屋の間取り図が印刷されているのが見えた。傍らには、火災保険会社の名が記された封筒も置かれている。
——
ああ、そうだった。つい、うっかり忘れていた。
……
いや、きっと、考えないようにしていたのだ。この暮らしが、いつか終わることを。
平助は、新しい住まいを探している。元々ここは、あの火事で行き場をなくした平助が、次の住居を見つけるまで身を寄せるだけの場所だ。俺と同じ家で暮らし続ける理由など、本来はどこにもない。何も、おかしなことじゃない。
……
そう頭では分かっているのに。
僅かに立ち止まった気配に気づいたのだろう。平助がふと顔を上げた。
「
——
、」
視線が重なった瞬間、その表情が明らかに強張る。次いで、何か見つかってはいけないものでも見られたように、平助は間取り図の上へ封筒を重ねた。散らばっていた書類を両手で掻き集め、端を揃え始める。
「
……
もう上がったんですか」
「おう」
原田はいつもと変わらない声で答えた。平助は俯いたまま、書類の角を指先でとん、とん、とテーブルへ打ちつける。いつもなら丁寧に一枚ずつ重ねるはずなのに、今夜はその手元が妙に忙しない。
「すみません。散らかしてしまって」
「別に」
短く返し、原田は平助の横を通り過ぎた。
どこの部屋だ。もう、そこに決めたのか。いつ、ここを出ていく。
聞こうと思えば、いくらでも聞けた。聞けば、平助も誤魔化すことなく律儀に答えただろう。少し申し訳なさそうな顔をしながら、それでも順序立てて、原田に話してくれるに違いない。だからこそ、何も尋ねられなかった。聞けばきっと、平助自身の口から、この生活の終わりを告げられる。そんな予感だけが、妙に確かなものとして胸の底に沈んでいた。
原田が見たものに気づいているはずなのに、平助もまた何の説明もしようとはしない。揃えた書類を封筒と一緒に鞄へ入れ、ファスナーを閉める。ジ、と短く布の擦れる音が、静まり返った部屋にひどく大きく響いた。その音を聞きながら、原田は知らず奥歯を噛み締める。
それでも何も見なかったような顔をして、平助の横を通り過ぎる。風呂上がりの火照った身体を少しでも冷ましたくて、冷たいものでも飲もうと冷蔵庫の扉へ手を掛けた。蒸した空気の中へ冷気が漏れ出す。麦茶の入ったボトルを取り出して扉を閉め、食器棚からグラスを一つ手に取る。そのまま氷を入れようと、下段の冷凍庫を引き出した。
製氷皿へ手を伸ばしかけたところで、ふと、その隣の空いた場所へ目が留まる。そこには、平助がここへ来てから、いつの間にか常備されるようになったアイスが、一つも残っていなかった。
原田自身は、元々アイスを好んで食べる方ではなかった。暑ければ冷たい酒や飲み物で十分だし、切れていたところで特に困りもしない。けれど、夕食の後や風呂上がりに、平助がいかにも美味そうにそれを頬張っている姿を見慣れてしまったせいだろう。いつもなら箱や袋が収まっている場所だけがぽっかりと空いているのが、妙に目についた。
「
……
アイス、なくなってんな」
何気ない独り言のつもりだった。
「あ
……
すみません。さっき、最後の一つ食べちゃいました」
「別に謝ることじゃねえだろ。俺はそんな食わねえし」
原田は軽く返し、氷をいくつかグラスへ落として冷凍庫を押し戻す。グラスへ麦茶を注ぐとからりと氷が鳴り、冷えた水滴がたちまち表面へ浮かんだ。
アイスがなければ、買い足せばいい。今日の分をもう食っちまったのなら、別に今夜中に買いに行く必要もない。明日の帰りにでも寄れば、それで済む。
……
けれど、平助がここを出ていくのなら、補充する意味はなくなっちまう気がして。
——
それが、怖かった。
原田はグラスへ口をつけ、冷たい麦茶を一息に飲み干した。喉を通る冷たさに、火照っていた身体が僅かに落ち着く。それでも胸に湧いた蟠りは溶けなかった。
「なら、まぁ
……
たまには散歩がてら買いに行くかな」
独り言のように口にする。
明日の分
・・・・
を、とまでは言えなかった。もう要らないと返されるのが怖くて、さも自分が欲しいだけのような曖昧な言い方に逃げた。
今夜のうちに補充したところで、明日も平助がここにいるとは限らない。明日もこの家へ帰ってきて、同じ食卓で夕食を食べて、風呂から上がれば当たり前のように冷凍庫を開け、買っておいたアイスを一つ取り出す
——
なんて、そんな保証はどこにもないのだと、本当に今更になって思い至る。
ついでに、このまま平助と同じ部屋にいれば、先ほど目にした間取り図のことばかり考えてしまいそうだったから、少し外へ出て夜風にでも当たりたかった。
原田は返事を待つことから逃げるように、空になったグラスを流しへ置いた。麦茶のボトルを冷蔵庫へ戻してから、ソファの上へ放り出していた財布へ手を伸ばす。
「あの
……
」
だというのに、背後から控えめな声が追いかけてきた。思わず、財布へ伸ばした手が一瞬止まる。ぐ、と喉仏を大きく上下させて、唾を飲み下した。
「
……
ん?」
それでも平静を装い、財布を掴んだまま振り返る。
「
——
僕も、ついて行っていいですか?」
「
……
え。
……
ぁ、? おまえも?」
予想していなかった申し出に、原田は僅かに目を瞬いた。その反応を断られるものと受け取ったのか、平助は慌てたように言葉を継ぐ。
「その、食べてしまったのは僕ですし。補充するなら、僕も行った方がいいと思って
……
。それに、新しいアイスも気になりますし! あと、えっと、星を見る、ついでに
……
とか
……
」
最後の方は、取ってつけた言い訳のように声が小さくなった。
はて、平助が何を思って一緒に行くと言い出したのかは分からなかった。気まずい部屋に一人で残りたくなかっただけかもしれないし、家主を追い出すような形になるのを避けたかっただけかもしれない。
……
それでも、平助はこの部屋へ残るのではなく、原田と一緒に外へ出る方を選んだ。そして、補充する、と言った。少なくともまだ平助の中には、買ってきたアイスをまたこの冷凍庫へ収める明日がある。それだけで、胸の底へ沈んでいた重苦しさが、ほんの僅かに和らいだ。
「
……
おう。じゃあ行くか」
「はい!」
平助はどこかほっとしたように頷き、鞄から手を離した。二人は財布とスマホだけを持ち、テーブルから間取り図の消えた部屋を連れ立って出た。
玄関の扉を開けた途端、昼間の熱を未だに抱え込んだ夏の空気が、むっと二人の身体を包み込んだ。風呂で流したはずの汗が早くも首筋へ浮かびそうな生温かさだったが、冷房の効いた部屋の中よりも、今は幾分か息がしやすい。
先に玄関を出た平助が、そのまま半歩ほど前を歩き出す。原田も急いで追いつこうとはせず、一歩後ろからその背中を追って、コンビニのある方角へ進んだ。
住宅街には、家々の室外機が立てる低い唸りと、草むらから絶え間なく聞こえる虫の声が重なっていた。時折、遠くを走る車の音がゆっくりと近づき、姿を見せないまま、再び夜の向こうへ遠ざかっていく。
平助が何も言わないから、原田も尋ねない。普段なら言葉がなくとも心地よいはずの沈黙が、今夜は二人の僅かな距離へ薄い膜のように張りつき、いつまでも消えずに残っていた。
そうして歩いているうちに、平助の視線はいつものように自然と夜空へ向かっていった。建物の屋根や、電線の隙間から覗く僅かな空を辿り、星を探しているらしい。顎を上げたまま、ほとんど正面を見ていないというのに、道端の電柱にもぶつからず、舗装の僅かな段差も器用に避けて歩いていく。
一歩後ろを歩く原田からは、夜空を仰ぐ平助の背中と横顔、その向こうで淡く瞬く星がよく見えた。
しばらく黙ってその姿を眺めていた原田は、呆れ半分に声を掛ける。
「いつも思うけどおまえ、よく躓かねえな。さっきから上ばっか見て歩いてんのに」
平助は足を止めることなく、夜空を見上げたまま少し自慢げにふっと笑った。
「遠くの星を探すのが癖になってるんです。暗い星って、一点をじっと見るより、少し視線を外してぼんやり見た方が見つけやすいんですよ」
「へえ」
「だから、ちゃんと周りも見えてます。僕、目はいいんですから」
そう言って、平助が得意げに原田を振り返る。その視線はほんの一瞬だけ重なり、すぐにまた遠い夜空へ戻っていった。
——
遠くばっか見てねえで、少しは俺を
——
……
。
喉元まで浮かびかけた言葉を、原田は何も言わずに飲み込んだ。
自分の気持ちを押しつけて、今ある距離まで失うくらいなら、今のままで構わない。想いを告げて拒絶されなかっただけ御の字だ。そう思っていたはずなのに、平助があまりにも無邪気に遠くばかりを見つめていると、腹の底へ押し込んだはずのもどかしさと独占欲が、じわりと顔を覗かせる。
原田はそれを誤魔化すように前を向き、平助より僅かに歩幅を広げた。
やがて住宅街を抜け、周囲に建物のない、視界の開けた道へ出た。頭上を横切っていた電線も、空を細く切り取っていた屋根もなくなる。
遮るもののなくなった夜空には、明るい月がぽっかりと浮かんでいた。満月には僅かに足りない。けれど、淡く欠けた輪郭までくっきりと見えるほど強い光を放ち、周囲に散らばる星々を白く霞ませている。
先を歩いていた平助が、次第に足を緩めた。その隣へ追いついた原田にも気づかないまま、空を仰ぐ。
「あ、月が出てますね。満月まで、あと二日ほどあったはずですけど
……
綺麗ですね」
声に含まれているのは、純粋に天体を見つけた喜びだけだった。けれど、言い終えた直後、平助の表情がふと止まった。
「
……
あ」
遅れて自分の言葉が持つもう一つの意味に気づいたのか、何かを言い足そうと開いた唇が、曖昧に閉じられる。そうして僅かに逡巡した末、いつの間にか隣へ追いついていた原田を、そっと横目で窺ってきた。
その視線を受け、原田は口元を緩める。
「
……
『違います』とは言わねえんだな」
「
……
ご存じだったんですか」
「日本で生きてりゃ、一度くらいは聞いたことあるだろ。けど、ちゃんと意味まで
覚えた
・・・
のは、おまえに会ってからだ」
「僕に会ってから
……
?」
「いつか使えるかもしれねえと思ってな」
にやりと笑ってみせれば、平助は言葉を失ったように目を瞬かせた。
「最初は、なんでそれがそんな訳になるのか、さっぱり分かんなかったけどな。
……
今なら、ちったぁ分かる」
そこで一度言葉を切り、原田も平助につられるように夜空を仰いだ。白く輝く月の輪郭。その周囲で、光に負けまいと微かに瞬く星。
隣から、平助がこちらを見上げる気配がした。
「それは
……
どうして、ですか」
……
どうして、か。
「月も星も綺麗で、飯も美味えって、ちゃんと思えるようになったから」
以前の原田にとって、食事は生きるために腹へ入れるだけのものだった。空を見上げることもほとんどなく、月や星を眺めたところで、どちらもただ空に浮かんでいるだけのもので、何かを感じることもなかった。
それが今では、平助の作った飯を食えば美味いと思う。平助が見上げる先を追えば、星の光に気づく。小さな光の名前がわかる。今日の月は明るいだの、昨日より少し満ちているだのと、今までなら考えもしなかったことまで目に入るようになった。
それらを教えた本人は、何も知らない顔で隣に立っている。原田は夜空から視線を下ろし、平助へ戻した。
「平助なら、どう訳す?」
「えっ」
予想していなかった問いだったのか、平助が僅かに目を見開いた。
「僕は
……
どう、でしょう。まだ、分からなくて
……
」
言葉を探すように視線を彷徨わせる。一度月を仰ぎ、足元へ落とし、最後には助けを求めるように原田を見上げ返した。
「
……
そういう原田さんは?」
「俺か。俺なら、そうだな
……
」
原田はすぐには答えず、もう一度夜空へ目を向けた。明るい月の傍らで、光に霞みながらも微かに瞬いている星を仰ぐ。
「
……
ほし
……
星を、
……
うしないたくねえ」
隣で、平助が小さく息を呑んだ。
「綺麗で、眩しくて、どうしたって好きになっちまったから。見つけると、つい願っちまいそうになる」
落っこちてきて、俺の手元に残ってくれねえかなって。
口にしながら、先ほど目にした間取り図が脳裏を過った。できれば、平助にはこの家に残ってほしい。これからも帰れば同じ部屋にいて、同じ食卓を囲み、眠る前に他愛もない言葉を交わしてほしい。手を伸ばせば触れられる場所で、明日も、その次の日も、変わらず笑っていてほしい。
遠くにあった星が地上へ落ちても、燃え尽きることなく形を残し、手元に留まってくれるみたいに。本当なら、それが一番いい。
「
……
けど、」
原田は一度、言葉を切った。
落ちた星がすべて形を残すわけではないと、知ってしまったから。残る方が稀で、光の筋を描いて流れた末に燃え尽き、何ひとつ残らないものが多い。だからこそ、流れ星は儚くて美しいのだと。
……
そう解説していた、他でもない平助の声が耳に残り続けている。
そんな美しさ、御免だ。
「落ちる途中で燃え尽きて、跡形もなく塵になるくらいなら
……
遠くても、落ちてこなくたっていい」
無理に手に入れようとして、平助を傷つけたくなかった。迂闊に踏み込み、今ある関係まで壊してしまうくらいなら、自分のものにならなくても構わない。
ただ、目の前から完全にいなくなることだけが、どうしようもなく怖かった。
「
……
いやまあ、よくはねえんだけどな」
そこまで言って、原田は僅かに自嘲するように口元を歪めた。
遠くから眺めているだけで、満足できるはずがない。近くにいてほしい。自分の元へ帰ってきてほしい。願うことを許されるなら、この先もずっと手の届く場所にいてほしい。その身に触れて慈しみたい、と思う。
それでも。
「
……
それでも、流れて燃え尽きていなくなっちまうよりは、ずっとマシだ。
……
見ていたいんだ、ずっと」
たとえ平助がこの家を出ていっても。別の場所を選び、自分とは違う道を歩いても。どこかで変わらず生きていて、その光を見つけられるのなら。その背中を、声を、追いかけられるなら。
原田はそこでようやく夜空から目を離し、隣に立つ平助へ視線を戻した。
「だから、うしないたくねえ。俺なら、そう訳す」
おまえが好きだから。
平助は、言外に滲む好意を真正面から浴びせられ、すっかり声を失っていた。ただ呆然と原田を見上げたまま、頬から耳へ、やがて首筋にまでじわじわと赤みを広げていく。胸元へ持ち上げかけた手も行き場をなくし、結局、服の裾を指先で強く摘まんだ。
「僕は、あなたに何も返せなくて
……
待たせてばっかりで
……
こんな風に想われる理由も、わからなくて」
「おう」
原田が急かさずに相槌を返すと、平助の指先がますます強く布を握り込んだ。長い睫毛の下で瞳が忙しなく揺れ、喉が小さく上下した。
「自分の気持ちだって、わからない。
……
わから、ないのに
……
」
そこでまた声が途切れる。平助は困り果てたように眉を寄せ、何度か小さく唇を動かす。続けるべき言葉を探しているのか、それとも口に出してしまうことを恐れているのか。
それでも、逃げるように足元へ落としていた視線を、少しずつ原田へ戻した。夜気の中でもわかるほど頬に熱を集めながら、今度は逸らさなかった。
「
……
うれしい、と
……
思ってしまうんです」
「そっか」
短い返事を聞いた途端、平助の表情が僅かに歪んだ。安堵したようにも、余計に困ってしまったようにも見える。それきり、平助は長いこと何も言わなかった。虫の声だけが二人の間を埋めていく。
やがて一度だけ大きく息を吸い、その息を震わせながら吐き出した。
「
…………
ごめんなさい。もう少しだけ、
……
待ってくれませんか」
充分、本気で考えていることは伝わっていた。むしろ、そこまで言えるのなら、答えなどほとんど出ているようなものだとすら思う。
待つことは、昔から得意ではない。けれど、平助が逃げずに向き合おうとしているのなら、
「しゃあねえなあ」
態と大袈裟に息を吐き、原田は大きな手を伸ばした。平助が身構えるより先に、淡い髪へ指を差し入れ、頭をぐしゃぐしゃと掻き回すように撫でる。
「わっ、ちょ、原田さん
……
!」
「
……
今日が満月じゃなくてよかったな」
髪を乱されたまま、平助が動きを止める。恐る恐る原田を見上げ、僅かに声を潜めた。
「
……
ヒトじゃ、なくなるからですか」
原田は答えなかった。ただ、ゆっくりと口角を吊り上げる。そのまま指先を平助の額へ伸ばし、傷痕の上をちょん、と軽くつついた。
その笑みが何を意味するのか、正確に察したらしい。平助の肩が強張り、自分の腕を守るようにぎゅっと抱え込む。靴底が一歩ぶん原田から離れた。
「っ
……
コンビニ、急ぎましょう!」
掴んでいた裾を離し、握り拳を揺らして、突然足早に歩き出す。
「別に店は閉まらねえだろ」
「アイスが売り切れるかもしれないじゃないですか!」
まだ買ってもいないアイスを口実に逃げていく小さな背中を、原田はその場に立ったまま見送った。しばらくしてから、堪えきれずに小さく吹き出す。
「
……
待てっつったのは、おまえだろうが」
聞こえないほどの声で呟き、原田は後ろ頭を掻きながら、その背中をゆっくりと追いかけた。
コンビニへ着くなり、平助は迷うことなく冷凍ケースの前へ向かった。透明な蓋越しに並ぶ色とりどりの箱やカップを、端から一つずつ真剣な顔で眺めている。先ほど急いでいたのは単なる口実だったはずなのに、いざ選び始めればすっかり夢中になっているらしい。
原田は特に食べたいものもなく、少し離れた通路からその背中を眺めていた。
平助は一度手に取ったカップを戻し、隣の商品と見比べてから、また最初の方へ戻っていく。随分と悩んだ末にようやく一つを籠へ入れたかと思えば、今度は新商品の札が貼られた棚の前で足を止める。
その様子を眺めているうちに、ふと平助がこちらを振り返る。
「あれ、原田さんは買わないんですか」
「俺はいい。平助が
明日
・・
食う分を買いたかっただけだから」
今度は、きちんと口にできた。
平助の手が、冷凍ケースの取っ手に触れたまま止まった。やがて、吐息に混ぜるように小さく零す。
「
……
分かりづらい」
「悪かったな」
口を尖らせながらも、平助は再び冷凍ケースへ向き直った。結局、いつも食べているものを幾つかと、先ほど気にしていた新商品のアイスまで籠へ入れていく。見事にチョコレート味ばかりが揃った籠の中を見て、相変わらずだと苦笑する。
原田には、それぞれの味にどれほど違いがあるのかよく分からない。けれど、その中のどれを平助が一番よく選び、最後まで取っておこうとして結局真っ先に食べてしまうのかだけは、いつの間にか覚えていた。
会計を済ませ、二人は再び夜道へ出た。行きには半歩先を歩いていた平助も、帰りは原田のすぐ隣にいる。どちらから近づいたのかは分からない。それでも肩の間にあった僅かな隙間はいつの間にか消え、歩調も自然と揃っていた。
買ったばかりのアイスが入った袋を提げながら、原田は隣を歩く平助へ目を向ける。
「言い忘れてたけど、さっきの。別に、隠さなくていいからな」
平助の歩幅がほんの少し狭くなった。返事はなく、二人の足音が一度だけずれる。原田が急かさず隣を歩いていると、やがて平助の方から再び歩調を合わせてきた。
「ま、おまえはこうと決めたら突き進むだろうからあんま心配してないけどよ。
……
出てくにしても、残るにしても、平助の好きにしろ。前に好きなだけ居りゃいいとは言ったけど、俺に気ぃ遣って決める必要はねえよ」
どの部屋を見ていたのかも、いつまでに決めるつもりなのかも尋ねなかった。残ってほしいと願っていることは、もう誤魔化さずに伝えた。それでも、その願いを理由に平助の選択を縛りたくはなかった。
平助は、自分の進むべき道について悩んだとしても、己の意思で考えて、選ぶことができると
知っている
・・・・・
。
「俺は、どっちでも変わらねえから」
同じ家で暮らせなくなったとしても、平助を好きでいることは変わらない。近くにいても、遠くへ行っても、うしないたくないと思う気持ちは変わらない。
たとえ、おいていかれたとしても
——
。
少しの間、二人の足音だけが夜道へ重なる。
「
……
まだ、何も決めてません」
やがて、前を向いたまま小さな声が返ってきた。
「そっか」
間取り図を見ていただけで、出ていくと決めたわけではない。それだけのことに、また胸の奥が僅かに軽くなる。原田はそれを声には出さず、平助の隣を歩き続けた。
「なら、決まるまでは安心してうちに帰ってこい」
平助の提げた袋が、小さく音を立てた。持ち手を握り直した指が、ビニールを僅かに食い込ませる。返事はなかったけれど、そのあとも平助が距離を取ることはなく、二人は同じ歩調のまま家までの道を進んだ。
部屋へ戻ると、平助は買ってきたアイスの袋を手に、真っ先に冷凍庫へ向かう。空になっていた場所へ、一つずつ丁寧に収めていく。いつも食べているものも、初めて買った新しい味も、明日から少しずつ食べるつもりなのだろう。
だからといって、この暮らしがいつまでも続くと決まったわけではない。その現実だけは、もう見なかったことにはできなかった。
それでも今夜はまだ、二人とも同じ場所へ帰ってきた。そして明日もきっと、平助は居るつもりだ。
……
それだけで、良かった。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color