やまだ
2026-06-30 00:19:25
4055文字
Public 無双オリジンズ
 

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元化と夏侯惇の話 惇紫

 元化は巨大な黒猫と暮らしている。あまり鳴かず、室内ではうとうとと眠ってばかりいるのに、なぜか気づけばあちこちに物を散らかして際限がない。また食欲が旺盛かつ腹が丈夫で、どんな怪しいものを食べたとしてもけろりとしている。珍しい紫瞳は光が当たるときらきらと澄みきるのだが、長い前髪が影を作るせいであまり目立たないのが少し惜しいと思う。
……何をしてるんですか、紫鸞殿」
 名を紫鸞というその黒猫もとい青年が、珍しく、本当に珍しく泥酔しているらしかった。
 重たい泥のようになった体を馬車から引きずり降ろし、わざわざ邸内まで運んでくれたのはなんと夏侯惇で、この曹操股肱の将は本当に面倒見がよく配下にも気安い。紫鸞を引き取ろうとした元化へ、体格が違いすぎると言い置いただけでのしのし廊下を歩いていく夏侯惇の背中ときたら、頼もしいことこの上なかった。もっとも元化が実際に見た背中は、負われた紫鸞の後ろ姿で隠れていたのだが。
「五日ほどろくに眠っておらぬまま宴会にやって来おったらしいわ。そのせいで酒の回りが早かったようだな」
「何をしてるんですか本当に……
 そういえばしばらく留守にすると言っていた。元化は許都で患者の世話があったので同行を控えたが、それがたしか五日前ではなかったか。夏侯惇へ客間の床榻に紫鸞を転がしてくれるよう頼みながら額を押さえる。
「夏侯惇殿、酔い覚ましを作りますから、せめてそれだけでも飲んでいってくれませんか。さすがに申し訳なさすぎます」
「すまんな。気を遣わせる」
 夏侯惇へも榻を勧め、家僕に軽食や湯、薬草をいくつか持ってくるよう頼んでから紫鸞の顔を覗きこむ。かろうじて意識はあるようで、ぼんやりした目が元化を見とめて少し緩んだ。
「元化だ……
「はいはい、元化ですよ。紫鸞殿、吐き気はありますか? 指先に痺れなどは? あなたは顔色がそれほど変わらないから分かりにくいんですよね……
「何も……ない。大丈夫だ」
「本当でしょうね? あとから腹が痛いなんて言ったって知りませんからね、俺は」
 日夜腰に下げたままの小袋から、乾燥させた薄荷の粉末を取り出して紫鸞の舌の上で開ける。おとなしく口を開けた紫鸞は、口中が冷たい、と言ってうっすら笑った。
「飲みすぎてしまった」
「そうですよ。しかも遠出から休息を取らずに宴会に向かったとか? まったく、悪酔いして当然です」
「うん。すまない」
 ちっともすまなさそうではない声に呆れて、元化は紫鸞の鼻の頭を弾くふりをする。
「だが、惇兄が久しぶりに許都へ来ていると聞いたから……顔を見たかった」
「紫鸞殿は本当に夏侯惇殿のことがお好きですよねえ。まあ篤実な方ですし俺みたいな医者にも礼を示してくれますから、俺も好きですけど」
 紫鸞の襟元を緩め、帯を解いて腹周りに余裕を作ってやる。履は引き抜いて床榻の下に入れた。元化の見るところ呼吸は落ちついているし、会話もできる。水分と睡眠をとらせれば明朝には回復するだろうと診断する。ただ薬湯を飲ませるまで眠らせたくはないので、もうしばらくこの寡黙な男には口を動かしていてもらいたい思惑がある。首筋に触れて陽気の巡りを確認しつつ、緩慢な瞬きを繰り返す紫鸞を覗きこんだ。
「それにしても、どうしてそんなに夏侯惇殿にべったりなんです?」
 ふっ、と紫鸞が薄く微笑む。
「あの人は、朱和と似ているから……
……朱和殿は、女性……でしたよね?」
 しかも、元化は紫鸞の主観から語られる彼女しか知らないが、それでも美しい人だったと想像ができる。本人もかなり水際だった容姿をしている紫鸞が、しみじみと綺麗な人だったと述懐するような人なのだ。そんな女性と戦場で隻眼となった将軍が似ていると聞かされても、空想の糸が絡まるばかりだった。
 元化の混乱をよそに、紫鸞は笑みを浮かべたまま浅く顎を引く。
「朱和も惇兄も、厳しくて優しい。それに……一番大切なものをずっと握りしめている。そっくりだ。そして、違う」
「性別がですか?」
「確かに、それもそうだが」
 はるか遠景を臨むように細めた紫瞳が酒精で僅かに濡れている。
……朱和は俺のことが一番大切だったから、俺を生かすために死んでしまった」
……紫鸞殿」
「だが元化、惇兄の一番大切なものは曹孟徳だ。あの人は殿のために生き抜くから、絶対に俺のためには死なないだろう?」
 天は蒼いもの、水は高きより流れるもの、そんなごく当然のことを告げるような口調だったものだから、元化は反駁ができない。看護の手が止まったことに気づきもしない紫鸞が、一度大きくあくびをする。
「だから俺が側にいても、好きでいても、大丈夫なんだ……
「あっ、ちょっと! まだ眠っては駄目ですよ、紫鸞殿……!」
 ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえてきそうな寝顔だった。満足そうに閉ざされた瞼の下にひどい隈があり、それを改めて見つけてしまうと叩き起こすのも気が引ける。やれやれ、とかぶりを振り、せめて薬湯だけは作って置いておいてやろうと振り返る。
 そして、そこで元化は思いきり固まってしまった。
 友人の診察に夢中で恩人の存在を頭からすっかり掃き出したおのれの未熟さが、冷や汗となって頬を伝う。正面の榻に座し、死ぬほどいたたまれない様子で茶を啜っている夏侯惇を見る。
……すまん。容喙の隙がなく、かといって無言で辞するわけにもいかぬものでな」
「いえ……いえ、全面的に俺が悪いです! ……本当にすみません、目を離すと酔っ払ったままどこへ行くかわかったものじゃないので、この人」
 夏侯惇は黙って頷いたが、それが元化の謝罪を受け入れるためか、それとも内容に同意するためのものなのかはわからない。そして元化が答えを決める前に夏侯惇はゆるやかに腰を上げた。引き留める資格など今の元化にあろうはずもない。
「俺のぶんの薬湯もそいつの口に流しこんでやってくれ。見送りもいらん」
「夏侯惇殿、あの」
「元化殿。貴殿のような男がそいつの傍にいてくれてよかった。腹蔵を晒せる相手がいるのだな、紫鸞にも」
 まだ居心地悪そうにしてはいるものの、それでも夏侯惇はどことなく満足げに見えた。こういう気性を元化は尊敬しており、また紫鸞も慕っているのだろう、と思う。
 では夏侯惇が紫鸞を語るときのこの声音や、わざわざ背負ってまで送り届けてくれた善意の出処は、とも思う。
「ですが夏侯惇殿、紫鸞殿は俺といるときには絶対に酔い潰れるまで飲んだりはしませんよ。ほかの誰と食事に行ったときにもです」
 元化が口にできるのはこの程度までだ。そうか、と頷いた夏侯惇の爪先は廊下を向いている。
「今夜、俺は何も聞いていない。そういうことにする」
「いいんですか、それで」
 ぐるりと右肩越しに振り向いた夏侯惇は、元化が一瞬目を疑うほど静かな顔をしていた。嵐が来る直前の凪いだ晴天を思わせる。
「聞きたくなれば直接本人と対面して言わせるまでよ。それに貴殿こそ」
 声も淡々としている。夏侯惇特有のあたたかみのある深さが失われた、浅い音だ。
「よいのか? 俺が聞かぬことにせずとも。俺は確かに孟徳大事だが、だからといって情動の手綱まで譲り渡した覚えはない。貴殿の友を掠め取って行くやもしれんぞ」
 元化は巨大な黒猫と暮らしている。あまり鳴かず、室内ではうとうとと眠ってばかりいるのに、なぜか気づけばあちこちに物を散らかして際限がない。また食欲が旺盛かつ腹が丈夫で、どんな怪しいものを食べたとしてもけろりとしている。珍しい紫瞳は光が当たるときらきらと澄みきるのだが、長い前髪が影を作るせいであまり目立たないのが少し惜しいと思う。
 この黒猫との生活は、元化の日々を新鮮な楽しさで塗り替える。
「ともにある時が減れば、友の情も薄まり消えるものというお考えなんですか? 夏侯惇殿は」
 今まさに五日ぶりに会った紫鸞の泥酔ぶりを見せつけられた元化は、夏侯惇へにっこり笑いかけながらとある山間の廃村を思い出している。治療の完了を告げた元化へ、寂しい、と初めて吐露した紫鸞を思い出している。あの日、紫鸞は元化の患者ではなく友人になった。
「夏侯惇殿。あなたが曹操殿を何より優先しているように、俺もこの世のあらゆるものの最前に医学を置いています。俺の一番大切なものは紫鸞殿ではなく、紫鸞殿もそれを知っているんです。だから俺は紫鸞殿より患者を優先するし、紫鸞殿も俺に会うより先に向かった場所があるでしょう?」
 元化はこの世で一番紫鸞のことが大切だとは言えないが、寡欲な友人に萌芽した貴重な願いが叶ってほしいとは心から思っている。
「俺もあなたも紫鸞殿を最優先にはできませんが、きっと紫鸞殿にとってはあなたが一番なんですよ。本当に聞かなかったことにしてしまうんですか?」
 元化の問いかけに重なる嘆息は長かった。夏侯惇の背が少し曲がり、ひねるように動きかけ、再びまっすぐに伸びる。もう隻眼は元化を振り返ってはいなかった。
「すべて、紫鸞本人から聞くべき話だ」
 大きな体が廊下へ消える。遠ざかる足音に耳を澄ませながら、元化は床榻に凭れて片膝を引き寄せた。そこに顎を乗せると卓に伏せられた茶杯がちょうど視線の高さになる。
「俺は大丈夫じゃないかって見立ててるんですが、どう思います? 紫鸞殿」
 紫鸞は元化が側にいても深く眠るようになった。目覚めるのは元化が酔い覚ましをその口に流しこむ瞬間になるだろうが、そう知っていながら声にしてしまったのは、案外動揺していたからかもしれない。夏侯惇は紫鸞を掠め取ると言った。
「あの人も、紫鸞殿のことをちゃんと好きだったんだなあ……
 それは紫鸞当人の口から委細聞きたかろう。返すがえす自分の至らなさがいやになる。
 あのとき元化が少し振り向いてさえいれば、この話は今夜のうちに決着したに違いないのだ。