ビルを出ると、外は暗かった。最近はこの時間でも随分と明るくなったものだと思っていたが、今日はその限りではない。灰色の厚い雲が、空をすっかり覆ってしまっているせいだ。
空の様子を窺い見るように首を上向ける。所々に濃淡の強い雲が混在していて、そこから今にも雨粒の一つが落ちてきてもおかしくはないように思われた。
早く帰ろう。気持ち足早にその場を離れることにした。天気予報に従って雨傘は持ってきているが、使わずに済むならその方がいい。駅までは十分ほど歩けば着いたはずだ。せめてそれまではもつといい。
そうして乾いたアスファルトを踏んで歩いていると、背後から走ってくる足音が近づいてきた。
「おーい!」
周りには、他に歩いている人間はいなかった。少し先にスーツの男性が歩いているだけだ。後ろの男が声をかけるにはまだ距離がある。視界のほとんどを味気ないアスファルトが埋めた。爪先は逃げるように速度を速める。
「おいって。無視すんなよ」
肩に衝撃があって、その方向を睨んだ。悪びれるでもなく僕の視線を受け止めた天道は、呆れたように息をついてみせた。
「何の用だ」
「先帰ることないだろ。まだ話してたのに」
話していたという天道の言い分には語弊がある。たしかに天道は、楽屋を出るところで僕に話しかけた。けれどその直後、廊下の奥から共演のタレントに天道は声をかけられ、話は有耶無耶になったのだ。何事か声を上擦らせて話す相手に合わせて、天道も気安く対応していた。隣で広げられるその様を見て、彼は中座したと見なして挨拶だけしてその場を離れた。それだけの話だ。
「いつまでかかるかも分からない話を待つほど、重要な話をしていたか?」
「ちょっとで終わっただろ」
「それは結果論だろう。僕は君たちの関係性も話の内容も知らない」
選んだ言葉に他意はない。にもかかわらず、耳に戻ってきた言葉はどこか当て擦るような響きを含んでいた。それに天道が気がつかないはずもない。明確な失態だったと歯噛みする。
「関係って。ただの共演者で、挨拶がてらの立ち話だよ」
彼の声音はため息混じりに憮然としていた。ぶつけられたそれにも無性に腹が立つ。
天道は僕の苛立ちの種に見当をつけているようだが、それは全く的外れのように思えたし、これ以上なく的を射ているようにも思われた。
「それで、わざわざ追いかけてきて何の用なんだ」
天道の目をそこから逸らせるなら何でもいいと、水を向けた。
できることなら仕事の話であればいい。しかし一瞬浮かべた淡い期待は、瞬きをして開いた天道の瞳の色を見た瞬間、いとも容易く消え失せる。
「あぁ、飯行こうぜ。今日はもう予定無いだろ?」
直前にした会話の中身など忘れてしまったような、軽やかな声だった。快活に上げられた眉の下で、大きな瞳が期待を浮かべて輝いている。
腹の奥が沸き立つ感覚を無理やり飲み下したせいで、続く言葉も一緒になって沈んでしまった。その間を勝手に解釈した天道の目尻が下がる。僕はまだ行くと言ってない。
「今日は時間もちょっと早いし、店選べるぜ。何が食いたい?」
和食がいいのか洋食がいいのか、ラーメンにそば、そういえばあそこの駅前の店がどうのこうの。二人分の発話を一手に担って、天道は機嫌良さげに足音を弾ませる。
「決まったか?」
天道が小首を傾げる。行くと言った覚えもないのに、行き先の決定権だけは手渡してくるその仕草が気に入らない。
つい先ほど、熱い塊を飲み下したせいで喉がカラカラに乾いている。ろくに言葉を発しない喉を潤すために、一度唾を飲み込んだ。
「君が、今日食べるつもりだったものでいい」
引っかかりを覚えながら、低く呟いた。食べるものに特段こだわりはない。無数に与えられた選択肢の中から、行かないという一つだけが選べなかった。その一つだけは天道が先んじて奪ってしまったからだ。単調な足音が二つ続いている。
「……じゃあ、俺んちになるけど」
「は?」
「今日本当は、有り合わせで適当に食べるつもりだったからさ」
少しの困惑を浮かべながら、天道は否とは言わなかった。それどころか緩んだ頬に隠しきれない喜色が滲んでいる。投げやりに選んだ一つはよりによってひどい外れくじだったらしい。口の中に苦いものが広がった。
「君はすぐ、そうして……」
「……なんだよ」
思わず口にした言葉の続きを、天道が促す。僕の声音に何か予感するものがあったのか、彼は僅かに唇を尖らせている。構えられていると分かっていながら、僕もこの苦い味を吐き出さずにはいられなかった。
「そうして、誰彼構わず家に上げるのか」
天道が眉を顰める。想定内の反応だった。塞いでいた息を吐き出し、天道はコンクリートの砂利を蹴った。
「呼びたい人を呼んでるだけだ。それに、この仕事始めてからは事務所の奴らくらいしか上げてねえよ」
知ってるだろうと言いたげな視線を受け止める義理も理由もない。僕は天道の交友関係など知らないからだ。天道の瞳は相変わらず詰るように僕を見つめている。
僕自身も、天道の家に行ったことはある。彼を家に上げたことも。そうしたやり取りは、彼にとって何ら特別なことではない。今は多少なり人を選んでいるか知らないが、アイドルという職業に就く前まで範囲を広げれば、何人がその権利を得たかなど知りようもないことだ。
「俺んちが嫌なら食いたいもんくらいなぁ、」
「……もういい。君の家に行く」
訝しげな視線に晒されて、いたたまれなさに唇を噛む。自分の言動に一貫性がないことくらい分かっていて、こうなることが分かっていたから早く帰りたかったのだ。それなのにわざわざ追いかけてきた天道が悪いと心の中で彼を責める。
未だこちらの様子を掴みかねて向けられる彼の視線だけが、辛うじて僕の足場を保っている。帰り際、彼との話が遮られて安堵している一方で、あの場を去る足が根を張るように重かったことも事実だった。
自分自身ですら正体を掴めないままの衝動を、彼にだけは悟られてはならない。脅迫めいた確信は、日ごと大きくなるばかりだった。
天道は、腑に落ちないことも一旦そのまま飲み込むことにしたらしかった。「んじゃ、今日は俺んちな」と言う声は明るく、そこに余計な感傷はない。
「なぁ、スーパー寄ってからにしてもいいか」
「構わないが、食材が無いなら……」
「無いわけじゃないけど、せっかく食べてもらうのに有り合わせじゃあちょっとな」
天道は顔をくしゃっとさせて笑う。そうして寄せられた目尻の皺に、どうしようもなく心臓が痛み、鼓動が早まる。
「余計な気遣いは不要だ」
「待て待て、それじゃ俺の気が済まないって」
右の肩に手が乗せられる。すぐさまそれを払って、そうしてしまったことにまた息を呑む。傍で一瞬呆けた顔をする天道を見て、取り繕うようにして空を指した。
「雨が降るぞ」
あぁ、と得心したように頷いた天道は、しかしにこやかに言葉を続けた。空を見上げて濃い灰色の雲のいくつかを視界に収めた後で、彼は手に持っていた雨傘を少し掲げる。
「傘持ってるし平気だろ」
早めに済ませるからさ、と彼は歩く速度を速くする。そういう問題ではないと言ったところで無駄だろうとため息をついた。上手く話のまとまった気配に、天道は目元を緩めている。
諦めて、僕も彼に合わせて少し歩幅を広くした。その足取りは軽く、吐き出した息は弾むようだった。天道はすぐ触れられるほどの距離にいて、僕と目が合ったのに気づくと屈託のない笑みを浮かべる。
ぽつり。空から最初の雨粒が頬に落ちた。気のせいかと疑っていると、次いで頭の上にもう一つ。薄らとした感触に、思わず空を見上げる。この程度なら、まだ傘を差さなくとも平気だろう。
駅の建物はもう見えている。ふと、今朝何気なく流していた天気予報を思い出した。今夜の雨は、夜更けにかけて雨足を強くするらしい。 きっとあまり長居をしていると、帰りは足元が濡れてしまう。
早く帰ろう。先程も思い浮かべたことをもう一度頭に唱えた。天道は雨粒に気づかないのか、「降ってきたか?」と空に手のひらを上向けている。
「急ぐぞ」
「おう!」
大きく足を踏み出した天道を追って足を早める。心拍数が上がる。雨雲は、もうすぐ僕の頭上まで広がっていた。
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