バケツをひっくり返したような、とはこのことだろう。そう言えるほどの突然で、大量の雨が降り注いでいる。俺たちはその雨の中を必死に走って、なんとかマンションのエントランスに駆け込んだ。
はぁはぁと息を吐きながら、エレベーターが下りてくるのを待つ。ちらりと見た恋雪さんはやっぱりずぶ濡れで、その艶やかな黒髪から雫を溢している。かくいう俺の髪からもぽたぽたと雨が滴ってしょうがない。煩わしくて、腕で拭ったけれどその腕も濡れているのだからあまり意味がない。
ようやく来たエレベーターに乗り込んで、二人顔を見合わせて微笑み合う。
「雨、びっくりしましたね」
そう言うと、恋雪さんは頷いた後に「荷物持たせちゃってごめんね」と謝り、ぎゅっと手元の布を握り込んだ。それは随分水を含んでいて、鮮やかな濃紺になっている。雨が降り出した直後に持っていたビニール袋を奪い取り、自分の着ていた薄手のデニムの上着を少しでも傘代わりに渡していたのだが、あまり雨除けにはなってくれなかったようだ。
エレベーターが到着して、もう雨に打たれることはないのに心持ち早く家へ急ぐ。両手が塞がっている自分に代わって、恋雪さんが少し慌てたようにしながら肩にかけていた小さな鞄から鍵を取り出し玄関扉を開けてくれた。
外が湿っていたからなのか、慣れて愛おしい家の匂いをいつも以上に感じてちょっとほっとする。
「恋雪さん、すみません。俺、ずぶ濡れなんでタオル持ってきてもらっていいですか」
持っているビニールもしとどに濡れている。ズボンも、Tシャツも、全部まんべんなくだ。このままじゃどう足掻いても床を水溜まりにしてしまうことを考えると被害は少ないほうが良い。
恋雪さんはサンダルを脱ぎながら頷き、スリッパを履かずにパタパタと廊下を走って行った。そしてすぐに真っ白なバスタオルを持って戻ってくる。1枚だけを持って。たぶん自分の分のことを忘れていたんだろうなと思うとくすぐったい気持ちになった。
「恋雪さんもはやく拭いてください」
「あ、うん!」
そう言って恋雪さんは俺の手からビニール袋をとってバスタオルを渡すとそのまま走って行ってしまった。たぶん雨の中で慌てて走った混乱からまだ抜け出せていないのだろう。
とりあえずその姿を見送ってからバスタオルで頭を乱暴に拭く。軽く服の上からバスタオルで全身の水気をとってみたが、さすがにこんなに濡れていてはどうにもならないか。途中で水溜まりに突っ込んだせいで靴の中まで濡れていたから靴下も濡れている。その場で靴下を脱いで、しょうがないかと廊下を進む。
洗面所で濡れているTシャツとズボンを脱いで靴下と一緒にかごに入れておく。丁度洗濯機の中に乾燥が終わっている短パンを見つけてそれを履きつつ、タオルをもう一枚とって、頭を拭いながら廊下を出た。
ふ、と。廊下に残された濡れた足跡を見つけた。きっとサンダルを脱いだら裸足だったから、水がそのままくっきり残ってしまったのだろう。
それは自分からすると小さな小さな、足だった。こじんまりしていて、まるくって、恋雪さんの形をしていた。あの人は、こんなところまで可愛くってしょうがないのか。なんだかそう感じると無性に愛おしくなって、このまま残しておきたいような気持になった。そんなこと、できはしないのだけれど。
自分の足をちらりと見たが、それは恋雪さん足跡の2倍はある気がする。かわいげなんてぜんぜんない足になんだかおかしくなって、思わず笑ってしまった。
リビングからキッチンの方へ行ってみると、恋雪さんが丁度買って来たものを冷蔵庫に詰め終わったようだった。濡れたビニール袋が2枚、シンク脇に置かれている。そして、恋雪さんはやっぱりタオルを持っていなかった。
「拭いてくださいって言ったでしょう、風邪ひきますよ」
洗面所から持って来たタオルを後ろからふんわりとその頭に被せると、恋雪さんは驚いたように飛び上がった。けれどそんな反応を無視して、わしわしと、けれど自分を拭うときよりも慎重に優しくタオルで拭ってやる。
「は、はくじさん! 自分で出来ます!」
そう言っている声も無視して、まるい頭を拭う。そう、まるい。ちいさい。そして温い。タオル越しにその頭のまるさに触れていると、さっき足跡を見たときと同じような気持ちになった。これもまた、恋雪さんの形。恋雪さんのまるみ。どうしてこんなにもこのまるみに惹かれるのだろう。分からないが、たぶん俺にとってのこの完璧なまるみは、恋雪さんだけにしか生み出せなくて、きっと他の何かでは足りない。
あらかた拭い終わって手を離すと、恋雪さんが振り返った。タオルで額あたりまで隠れていたが、見上げるまるい目と目が合った。
この目も、完璧な恋雪さんの形をしている。そう、足も、頭も、目も、耳も、鼻も、口も、爪の形も、何もかも。恋雪さんは、恋雪さんらしい形をしている。その全てが、可愛らしくて、愛おしい。
手を伸ばして、そっと頭のてっぺんに手を翳す。ほんの数ミリ、その身体に触れないように手を浮かせて、頭からこめかみ、頬、首筋、肩口まで。その形をなぞってみる。触れていないのだからそこに温度はないし、確かな質感があるわけではない。それでも、その形をなぞっているだけで鼻の奥がつんとするほど、感動してしまった。
これが。俺が、愛するものの形。
「どうしたんですか?」
そう言われると自分の行動の意味をちっとも上手く説明できる気がしない。ただ、恋雪さんの形を、なぞってみただけなのだと言ってもぽかんとするだけだろうと思う。
曖昧に微笑んで、それからもう一度そのタオルの上から頭をわしわしと拭ってやる。途端に恋雪さんはまた飛び上がるように驚きながら、それでも全然怖くない怒った声を出す。
「も、もう! 自分でできるってば!」
そんな声さえ、まるみを帯びているような気がして俺は少しだけやっぱり笑ってしまった。
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