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2026-06-28 12:57:59
3210文字
Public レイチュリ
 

【レイチュリ】Lim h→0 Cetus(h) After Story

2026/06新刊の後日談SS。〆切の都合上、ラストが駆け足になってしまって、二人の会話が物足りなかったので書いてみました。




After story



 第一真理大学、ベリタス・レイシオ教授の研究室へ続く廊下は、昼を過ぎても人の流れが途切れなかった。

 研究室が大学構内でもっとも人通りの多い場所に面していること自体が、彼の大学内における地位を示している。
 もっとも、当人がそれを望んでいるかは別の話だ。この廊下を歩くとき、レイシオは決まって石膏面を被っている――と、彼の学術補佐はため息混じりに語っていた。
 外界を遮断し、研究に没頭するため。唯一、授業のときだけは被り物を外すのだという。

 ――となると、いま目の前にいるこれは、いったい何なんだろうな。

 アベンチュリンは研究室の壁際にもたれ、執務卓でレポートを確認する男を眺めた。

 素顔だ。眼鏡はかけているが。

 モニターを見比べ、指先で文章をなぞる横顔は、いつにも増して険しい。廊下に面した窓の外では、通りすがりの研究者たちが何度もこちらへ視線を向けていた。レイシオの傍らに控える補佐たちも、どこか落ち着かない。
 おかげでアベンチュリンも、少々居心地が悪い。ジャケットからサングラスを取り出し、表情を隠すことにする。

 やがてレイシオはレポートから顔を上げ、学術補佐のマルガリータを呼ぶ。

「ヴェイル・セティVIIの追加検証レポートは、これでいい。量子認証を添えて、いつもの回線でカンパニーへ送れ」

「承知しました」

「物理媒体への複写は僕が行う── アベンチュリン、君に直接渡せばいいな」

 向けられた視線に、アベンチュリンは苦笑した。

 普段と変わらない、冷ややかな眼差しに見える。だが、面倒な手順を踏ませるなという苛立ちが、しっかりと表れていた。

「すまないね。うちの法務がうるさくて」

「僕の研究室の量子認証は完璧だ。電子送付の何が不満なんだ」

「そうだね。うちの会社、たまに妙なところで前時代的だと思う。そういうわけで、人払いを頼めるかな」

「受け渡しは当人同士のみ、個室で、だったか。やれやれ──マルガリータ」

「はい。仰せのままに」

 慣れたものなのだろう。学術補佐は嫌な顔ひとつせず、「失礼します」と一礼して退出した。他の助手たちも、静かにその後へ続く。

 二人きりになると、レイシオは窓を遮蔽モードへ切り替えた。これで、研究室の内側は見えなくなった。

「カンパニーの指定した条件は、これで十分か? さらに物理的に遮蔽する必要は?」

「十分だよ。正直、儀礼的なものだと思ってるし」

 アベンチュリンが手のひらを差し出すと、レイシオは小さく息を吐きながら近寄り、その上へ薄い金属片を置いた。

 カンパニーの専用認証機でしか読み取れない、特殊な記録媒体だ。表面には、第一真理大学の紋章が刻まれている。
 手のひらの金属片を眺めると、アベンチュリンはそっと握った。

「これで、僕のヴェイル・セティVII案件は終わりだ。あとは部下たちに任せるよ」

「言っておくが、僕が示したのは鯨を資産に変える方法ではない」

 レイシオは釘を刺すように言った。

「あの星に残った三つの運命の影響を、自然回復の範囲で利用できる可能性だ。ポテンシャルは保証するが、実運用には時間がかかる」

「構わない。うちは長期運用がメインだって知ってるだろ。それまでの繋ぎ資金は、市場開拓部が航路運用でどうにかするさ」

「美玲・フォーンか。昇進したらしいな。この間、律儀に挨拶に来ていた」

「そうそう。市場開拓部にとっても、そこまで悪いオチではなかったんだ。少なくとも、航路は無事に手元に残った。今回は珍しく、こっちの条件も飲んでくれたよ」

 あのプロジェクトは、引き続き美玲が担当するらしい。
 彼女なら、ヴェイル・セティの未来を利益に変えるだろう。ずっと待ち続けた、鯨の死を除いて。

……あの二人は、どうなった?」

 レイシオの表情が、わずかに動いた。
 セヴァンとイオのことだ。
 アベンチュリンは小さく笑う。なんだかんだで、この男は面倒見がいい。石膏面しか知らない連中は、ずいぶん損をしている。
 眼鏡の奥にある、わかりづらい優しさを見つめようと、アベンチュリンは顔を上げた。

「二人とも、ヴェイル・セティの現地当局には引き渡さないことになった。セヴァンは身分詐称で退職扱いだ。でも、関連会社の復興案件への推薦は通ったよ」

……犯罪者扱いになるかと思ったが、ずいぶんな高待遇だな」

「そりゃあ、僕っていう前例がいるしね」

 サングラスの蓋を持ち上げ、アベンチュリンは悪戯めいた笑みを浮かべた。エイジハゾ・アベンチュリン事件。その死刑囚は、いまや高級幹部だ。
 カンパニーは、実力さえあれば、前歴にはこだわらない。
 
「大丈夫。うちの中では、悪くない待遇だよ。二人くらいなら、しばらくは暮らせる」

「そうか。ならいい」

 そっけない物言いが、かえって彼の情を伝えてくる。
 その温度は心地よかった。だからこそ、ほんのひと匙ぶん、落ち着かなかった。

「じゃ、僕はこれで」

……帰るのか」

「? まだ何かある?」

 首を傾げると、レイシオは呆れたように息を吐いた。

「早々に忘れるとはな── 僕がヴェイル・セティVIIで君に何を言ったのか、クジャクの脳には記憶されなかったらしい。仙舟に行く予定はあるか? あそこには、賢者の爪の垢を煎じて飲むと効果があるという言い伝えがある」

「いや、さすがに、覚えているけど」

「なら、帰る理由はないだろう」

 ひゅ、と喉が鳴った。
 アベンチュリンは焦った。いったい自分は、何を言われているんだ。

「ちょっと待って。あれって、そういう意味?」

「逆に、どういう意味だと思った?」

「君が、そういう意味で僕を見ているとは思えないんだけど」

 たじろいでも、レイシオの表情は変わらない。出来の悪い生徒を諭すように、淡々と告げる。

「君を見届けると言った。それを実現するなら、この距離で関係を固定するのが最も手っ取り早い」

「待て待て。話が飛躍しすぎる」

「なぜだ。不満か?」

「そうは言ってないけど!」

 思わずこぼれた言葉に、アベンチュリンは口を押さえた。

 しまった。
 レイシオは得意そうに鼻を鳴らす。なんだ、その少年みたいな顔は。
 悔しくて、あとこのまま押し切られるわけにはいかなくて、アベンチュリンはサングラス越しにレイシオを睨んだ。
 これは伏せるべきカードだ。最後まで、捲られるわけにいかない。

「君、恋愛で失敗したことは?」

……

「ははっ、あるんだ!」

……恋は人を愚鈍にする。僕も例外ではない」

「じゃあ、優先度を下げることを勧めるよ。特に僕はね。これまでどおりのパートナーでいたとしても、君に見届けてもらう価値くらい、十分に提供できると思う」

 鼓動の速さを忘れたふりをして、滑らかに言葉を紡ぐ。
 多少、気まずくなるかもしれない。だが、かまうものか。
 アベンチュリンの動揺を見透かしたように、レイシオは眼鏡の奥で目を細めた。

「最適解を選び続けることが人生ではない。そんなものは天才に任せておけばいい」

 骨ばった指が伸びる。
 それは、アベンチュリンが身を引くより早く、彼の瞳を隠すサングラスを奪い取った。
 壁の横に手をつかれる。そうして逃げ場を失った鮮やかな虹彩を味わうように、レイシオは背を丸めた。

「君の答えを、僕は待つ── もし僕が恋に狂って、君の答えを急かすような愚鈍をさらしたら、その辺に転がっている石膏面で殴り飛ばせ」

……それは、ずるいだろ」

 降参だった。
 悪あがきのように絞り出した声へ、レイシオは満足そうに笑う。

「諦めろ。これが僕の愛だ」