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2026-06-27 23:25:13
17322文字
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ぬくもりを君へ

ダリウスの死を伝えられなかったサイラスと、フィニスの門で真実を知ったテリオンの話。アーフェンとハンイット、リンデも登場します。少しだけ朗読劇のネタも含んでます。

フィニスの門に足を踏み入れた一行を待ち受けていたのは、台座に灯された八つの炎。激しい連戦に体力を削られ、残された手記は怨恨にしろ報いにしろ大いに精神を揺さぶってくる。何者かが邪神に立ち向かおうとする一行の強さを測っているのか、あるいは見える前に心を折ろうとしているのか。その疑惑は最後の炎から現れた影の姿形を認めた時、後者の方へと大きく傾いた。それまで戦ってきた七つの影の法則性から嫌でも解ってしまう。理解らされてしまった。
廃教会で激闘を繰り広げ、テリオンの前から走り去った元兄弟分がそこにいた。あの日と同じ動きで、同じ技でテリオンを闇に引きずり込もうと凶刃を振るってくる。自ら前線に進み出たテリオンが、攻撃を掻い潜って影の間合いの内側へ迫る。胸元に飛び込む形で中心を切り裂いたテリオンの手を、崩れかけた影が短剣ごと掴んでぐんと引き寄せる。
「まだ動くか!!テリオンを離せ!!」
末期に捨て身の一撃でも放つ気か、と周りの仲間達に緊張が走り、サイラスは素早く魔法の構えをとった。
「大丈夫だ」
しかし予想したような反撃は起こらず、テリオンは掴まれた側と反対の手をあげて、魔法の構えをとったサイラスを制した。
「大丈夫だ……もう、終わる」
彼の眼前で、影が燃え滓のようになって消えてゆく。洞を通り抜ける風のような音が聞こえ、それがまるで呪詛のようにも聞こえた。
「あいつは……死んだのか」
はらはらと空気に溶けてゆく黒い影の残滓が、その掌から完全に消える。からっぽの掌を握り締めたテリオンは、微かに震えた声で真実を追求した。
……彼は、最後まで誰の事も信じることが出来なかった。君のせいではないよ、テリオン」
「サイラス、……知ってたのか?兄弟の……ダリウスの事を。あの後、何が、」
テリオンがふらりとサイラスに詰め寄った。掴み掛かろうと伸ばされた手を、横からハンイットが制した。
「テリオン、黙っていたのは私も、アーフェンも同じだ。盗賊団の残党を警戒して見回りをしていた時に発見して……その時貴方は怪我を負って寝込んでいただろう。余計な動揺を与えない方が良いと私達で判断したんだ……すまなかった」
傷が癒えた後も、過去の呪縛から解き放たれ柔らかい表情を浮かべるようになったテリオンに、残酷な真実を伝えるのは誰もが躊躇した。それが 仲間達の優しさであると気付けないテリオンでは無かったが、結局最悪な形で伝わる事となってしまった。
(あの男は、死してなおテリオンの心に爪痕を残し続ける)
自分の方に伸ばされたテリオンの手が再び固く握られ降ろされるのを見て、彼の心の中のダリウスの居場所の大きさを思い知らされる。砂漠で、雪国で、あの男がテリオンに投げかけた聞くに堪えない侮辱の数々を思い出し、サイラスは奥歯を噛み締めた。
(いや、これで終わりだ。これから先、未来に向けてあの男を思い出す事がないように、自然と思い出の中に消えていくように、テリオンの心を塗り替えてみせる)
「テリオン、大切な事を伝えずにいた事を詫びさせて欲しい」
杖を置いたサイラスが胸に手を当てて深々と頭を下げる。特徴的な癖毛がテリオンの方を向いている。
「ハンイット君は賛同してくれたが、伝えるべきではないと提案したのは私だ。アーフェン君も君の身体を第一に考えて、薬師として当然の判断をしただけだ。よって責は私にある」
サイラスの声は穏やかでありながら、いつだって他の音よりも優先されて耳に届くような不思議な響きがある。落ち着いた声と真摯な言葉から、これがサイラスにとって望まぬ結末であった事が伝わってくる。
「想定外の事とはいえ、君を酷く傷つける結果となってしまった。申し訳ない」
「せ、先生……俺もだ!!テリオン、悪かった!!」
サイラスの隣に並んだアーフェンががばりと鞄を落としそうな勢いでお辞儀をした。
「言い訳になるけどよ……あの時お前、見た目よりずっと重傷だったし……その癖皆の心配ばっかするもんだから、お前に自分の身体を治す事だけ考えて欲しくて、言えなかったんだ。すまねえ」
「わ、わかった、わかったから……頭を上げてくれ」
三方向から頭を下げられ、居心地が悪くなったテリオンがマフラーに顔を埋めて後退ると、足の後ろにふわんと柔らかい感触が当たる。何かと思えば後ろからリンデが見上げており、アオーン、としおらしい声を上げている。『ごめんね、わかってあげてね』……と、そんな声が聞こえた気がした。
顔を隠す癖は普段からテリオンが困ったり照れたりした時によく見られるもので、顔を上げたサイラスは胸に置いた手をそのまま撫で下ろした。
「そう……だよな。もう居ない奴のことを考えても仕方ないな……この先が大一番だってのに、情け無いツラ見せちまった。俺の方こそ……ありがとよ、あんた達が俺の為を想ってくれてた事はわかってる」
心配を掛けさせてしまったリンデの耳の後ろを掻いてやりながら、テリオンはポンチョの中で人知れず右手を何度も握りなおしていた。先程ダリウスの影に短剣を突き立てた感触が、まだ残っているような気がしたのだ。
「おお、おお……ぐすっ、実はよ、俺達で小せえけど墓、作ってあんだ……いつか言おうと思ってて。全部終わったら一緒に行こうな」
「泣くなこんな事で……肩組むのもやめろ、重い。ここから出たら考えてやる」
じゃれついてくるアーフェンとリンデをあしらう様子はいつも通りのテリオンで、一行は場違いに安心して更なる奥へと歩みを進めた。

オルベリクの剣戟とサイラスの魔法で打ち破られた邪神が、断末魔と共に闇の底へ沈んでゆく。強大な力と底知れぬ呪いの圧力が消え、息をする度に闇を吸い込んでいるようだった空気が薄まったような気がした。
「終わった……の?」
「信じられん……これほどまで、とは……
クリスの無事を確認し安堵しながらも、人知を超えた存在との激闘の余韻で切り替えがままならない。緊張と放心状態の狭間にいる一行を我に戻したのは強烈な地響きだった。
「きゃああぁっ!?今度はなにっ!?」
「なんだ、地震……!?これはいけない、早くここから脱出しなければ!!」
剥き出しの岩壁からは剥がれ落ちた石が奈落に向かって落ちてゆく。自分たちが立っている壇上も揺れが収まるまで保つとは限らず、揺れに翻弄されながらも出口に向かって走り出した。助け出したばかりのクリスをオルベリクが抱え上げ、女性たちに先に行くよう指示をする。
「テリオン、私たちも行こう」
「ああ」
仲間たちが走り出すなか、最後まで崖下を警戒していたテリオンと共に、サイラスも駆け出した。警戒心の強いテリオンはいつも殿を守る。単独であれば誰よりも速く駆け抜けられる彼が、仲間と過ごすうちに自ら勤めるようになった。誰も見落とさないように、皆の無事を確認出来る位置。
「急いで下さい!!門が閉まりかけてます!!」
先行するオフィーリアが細くなりつつある光を認め、警告を悲鳴混じりに叫んだ。
ゆっくりと、だが確実に閉じてゆく門を目指して階段を駆け下り、台座の合間を抜ける。元の世界まで、あと少し。この調子ならば大丈夫だ、これなら全員間に合う――
「サイラス」
背後からテリオンから声が掛かった。余裕のない状況だというのに、いつも通りの、何の焦燥も感じさせない声。
「ずっと、考えていた」
くい、と手を引かれて振り向くと、テリオンは門を前に足を止めていた。俯いた彼の顔は長い前髪に覆われて表情が読めない。
先行していた女性陣は既に門の外だ。アーフェンとオルベリクも、狭くなった隙間をクリスと共にどうにか潜り抜けた。
「テリオン、どうしたんだい?話なら後で、早く外へ出よう」
状況にそぐわない様子が気にかかるが、後ろから聞こえる仲間たちの呼び声と差し迫った時間がサイラスの焦燥感を煽る。我慢強い彼の事だ、もしかしたらどこか怪我でもしていたのだろうか。それならば肩を貸して連れ出そうと顔を覗き込んだ瞬間、サイラスの視界が急に奪われた。
「うわっ!?て、テリオン!?なにをっ」
「これをずっと、返さなくてはと……いつ返そうかと考えてたんだ。長いこと、世話になった」
ふかふかとした何かに頭部を覆われて狼狽えるサイラスに、小さくてもはっきりした声で告げた。ぐいと肩を掴まれて身体を反転させられる。背中に添えられる手。
「共にいてくれって、言われたんだ。俺は兄弟を置いて行けない」

ドンッ

「テリオン!?」
「わ、っと!!なんだ先生!?どうした!?」
思い切り突き飛ばされた。視界を奪われている上に不意をつかれたサイラスは体勢を保てず、門の外へ倒れ出てしまった。クリスの容態を診ようと屈んでいたアーフェンを巻き込んでしまったようで、人にぶつかる感覚と固い地面の感触が混ざり合う。混乱する中なんとか顔にからみついた何かを取り払ってみれば、それはテリオンが常に身に着けていた紫のストールだった。
門の中には、一人テリオンが取り残されている。依然としてその表情は見えず、それは彼が痛みに耐えているように見えてサイラスの胸をざわつかせた。まさか、彼は、
その間も門はゆっくりと閉まり続け、細くなった隙間は最早人一人通るのがやっとだ。
「テリオン!!どうしたんだい、早くこちらへ!!」
手を差し伸べようとした時、テリオンの顔が上がった。その表情は場違いな程に穏やかに、だけど申し訳なさそうに微笑んでいた。
「すまない。俺は……ここまでだ」
「何を、何を言うんだテリオン!!あの黒い魂に何か言われたのかもしれないが、亡者の嘆きに惑わされてはいけない!!君の帰る場所はこちらだ!!」
「先生!!ダメだ危ねえ!!何してんだテリオン!!早くこっちに来い!!今ならまだっ……
テリオンの元に駆け出そうとするサイラスをアーフェンが抱えて引き留める。僅かな門の隙間からは、テリオンの背後に真っ黒な渦のような影が迫っているのが見えた。
「テリオン!!駄目だ、私は君がっ……!!テリオン!!」
ゴウン、と轟きと共に門が閉まった。最後にサイラスに見えたのは、黒い影に飲み込まれようとしているテリオンの姿だった。

…………はぁ」
どんよりと曇った空模様にぴったりな溜息を吐いたアーフェンは、作業の手を止めた。手元の乳鉢の中身はこれ以上ない程細かく擦り潰された上で、湿気を吸って少し固まってしまっている。薬瓶に移してラベルを貼り、しっかりと封をして棚に仕舞う。そのまま視線を下にずらすと、テーブルの上には小さな筒に入った手紙がある。今朝がた遣い鴉が運んできたもので、差出人は、サイラス・オルブライト。
テリオン一人を残したまま無情にも門が閉まったあの後、力の限りを尽くしても門をこじ開ける事は叶わず、またガルデラを沈めた時に匹敵する魔法を打ち込んでも傷ひとつつかなかった。
――やはり力尽くでは駄目か。皆もう限界だろう。待っている人達もいるんだ。一度解散としようじゃないか。
――もちろん、諦めてはいないよ。私はこれから全力で辺獄の書の解析に取り掛かる。進捗があったら連絡するので、その時は協力して欲しい。
サイラスがテリオンを見つめる目線に熱がこもっているのに気付いてない仲間はいなかった。何なら気付くのが一番遅かったのが本人というくらい、皆の間では周知の事実だったのだ。テリオンもサイラスを憎からず思っている事は明白であったから、告白を今か今かと見守っていたのに、あんな別れを告げられてしまうなんて。
想い人に別れを告げられ、しかも手の届かない場所へと隔絶されてしまった。並の精神であれば絶望に沈んでも無理はない状況だが、サイラスは不気味なほど冷静そのものだった。いつも通り的確な提案をし、泣きながら異を唱えるトレサやプリムロゼに対しても意見を曲げる事はなく、当然のように彼女達を帰る場所まで送り届けた。懐には大切そうに、あのストールを抱いたままで。
そんなサイラスから届いた手紙。時期からしてもおそらく内容はあの門に関する研究結果なのだろうが、あの日のサイラスの様子を思い返すとアーフェンの脳裏には嫌な予感が浮かび、手紙を開くのが恐ろしくて現実逃避に薬を練っていたのだった。
テリオンもサイラスも、アーフェンにとって苦楽を共にした大切な旅の仲間である。門の向こうから彼を取り戻したいと思わない日はないが、あの門の強固さと中の状況、そして経過した日数を考えると芳しい内容だとは思えない。
……読むかぁ」
しかし貰った手紙を無視するなどという薄情な事がアーフェンに出来るはずもなく、そろりそろりと丸まった紙を解き……
「はぁ!?なんっだこれ!?」
その内容に目を疑って思わず大声をあげ、次の瞬間には駆け出していた。
差出人が居るという、ホルンブルグ合戦跡へ。

「先生!!手紙受け取ったぜ」
ホルンブルグ合戦場、フィニスの門の前にはテントと野営用の机と椅子が並べられ、簡素な拠点のようなものが作られていた。机上には件の辺獄の書と論文が積み上げられ、アーフェンが到着するまでサイラスがここで研究を行っていたであろうことが見てとれた。
「やあアーフェン君。良かった、来てくれると思っていたよ」
「良かったじゃねえよ先生!!何考えてんだよあんな……あんな劇薬を依頼してくるなんて!!」
愛する人との別れに耐えかねてあらぬことを考えているのでは、と思ったアーフェンがサイラスの胸倉を掴む。大切な仲間を更に失う事を想像してしまったアーフェンの視界が勝手に滲んだ時、もう一つの冷静な声がかけられた。
「落ち着けアーフェン。サイラスなりに考えがあるらしい。……全く、貴方はいつも話が長いくせに肝心な時に言葉が足りない」
「す、すまない、アーフェン君、ハンイット君。実行を急ぐあまり誤解を招いてしまったね」
「ガウ」
呆れた顔をしたハンイットに忠告を刺され、リンデからも尻尾でぺしりと叩かれるサイラス。その表情に追い詰められた様子は無く、アーフェンの懸念はどうやら杞憂であったと物語っていた。
「え、じゃ、じゃあなんで……あんな強力な薬を何に使う気だ」
「もちろん、テリオンを取り戻す為だよ」
……どういうことだ?」
「今し方見て来たが……やはり門の様子は前回と変わりないぞ」
「ああ、その為に二人にはここまで来て貰ったんだ。きちんと説明するよ」
二人を椅子に座らせ、まるで授業を行うかのように語り出したサイラスは、何でもない事のようにとんでもない爆弾を投下した。

曰く、元来フィニスの門の中は死者の魂が行き着く場所である。現世からはリブラックが行ったような特例でない限り侵入不可であるため、サイラスは仮死状態となるよう配合した毒薬を使用して自分の魂を門の中に送り込む。そしてテリオンを説得して共に現世へと戻って来る。生者であるテリオンは門の中では異物である為、中から外に出る事に制限はかからないであろう……

……何考えてんだよ、先生」
とんでもない計画を聞かされ、アーフェンは本日二度目の呟きと共に頭を抱えた。
「正気の沙汰じゃねえぞ。命懸けな上に何の保障もねえじゃねえか!!」
アーフェンの言う事は最もであった。仮死状態で魂を門の中に送り込めるのかどうか、テリオンと再会出来るのかどうか、共に脱出可能なのか。その全てが賭けであり余りにも無謀と言わざるを得ない。
「それに……それに一緒に見てきたんだからわかるだろ先生、門の中は人が普通に過ごせるような環境じゃなかった。考えたくねえけどよ……もしかしたら、もう……
「わかっているよ、アーフェン君。辛い事を言わせてしまってすまない。でもだからこそ、今すぐに実行したいんだ」
この世で一番見たくないものを見る事になるかもしれない。その覚悟を、サイラスは辺獄の書の研究に手をつけた時から済ませていた。
「私も当然反対だ。失礼を承知の上で言うが……サイラス、貴方こそ何かに取り憑かれているのではないか?」
ハンイットの目線は机に置かれた辺獄の書に注がれている。一見普通の本に見えるそれが、生と死の深淵を覗く窓口であることをハンイットは知っている。
「そうだね。確かに今の私は正気とは言えないかもしれない。冷静ではあるつもりだけれどね」
サイラス自身、仲間達の反応は予想していた。人間だけではない、全ての生き物にとって己の生命維持は最優先事項だ。勝算が低い勝負に命を賭けて迷いなく飛び込む個体は、一般的に狂っていると見られても文句は言えない。
「だけど狂っているのは辺獄の書や門についてではないよ。それはあくまで目的に到達する為の手段に過ぎない。私が求めているのはテリオンの心だから」
顔色ひとつ変わらないが、サイラスの目には確かな炎が灯っていた。
「あの時、彼は恐らく亡者からの……彼の兄弟分からの呼び掛けに応えて門の中に残った。私の呼び掛けは、あの男の執着からテリオンを振り向かせる事が出来なかったんだ。これはもう私の意地なんだよ。テリオンの過去に居座り続けるあの男から、テリオンを振り向かせたい。何も上手くいかなかったとしても、例え物言わぬ彼の姿を見る事になっても……今行動しなかったら私は一生後悔するだろうし、自分を許すことが出来なくなる」
はー、とアーフェンは長い息を吐き、ハンイットは過去の過ちを思い出したように頭を抱え、リンデはその膝に顎を乗せた。
言い出したら梃子でも動かない。そんなサイラスの性格はアーフェンもハンイットも良く知るところだった。例え自分たちが付き合いきれないと踵を返しても、例え縛り上げて閉じ込めようとも、サイラスを止めることは出来ないだろう。それほどの決意と覚悟を抱いた彼は、学者である以前に恋に狂った一人の男であった。
「成功率が低い上に失うものが大き過ぎる、仲間としては止めるべきだと思う。だけどな……薬師として診断すると、もう病気だ。今の先生は患者なんだ。病気は治さなきゃなんねえ……しかも厄介なことに、恋の病ってのは薬がねえ。本人が行動して治すしかねえんだ」
病の治療は必ずしも成功するとは限らない。時には患者を信じて危ない橋を渡る手助けをする事もある。
「私もそんな無謀は力尽くでも止めるつもりでいた……しかし困ったことに私も同類である事に気付いてしまった。私も……命懸けの無謀な提案を押し切った事がある……な」
かつて、凶行に走った元同輩を救う為無茶をした時。魔物の弱点を見抜くサイラスの慧眼が無ければあの場を切り抜けられなかっただろう。
「だから私にサイラスの無謀を止める権利は無い……。仕方がない。あの時の礼も兼ねて協力させて貰う」
「ありがとう二人とも。恩に着るよ」
眩しい笑顔で謝礼し、準備を初めるサイラスはいっそウキウキしているようにさえ見えた。まるでピクニック前日の子供のように。


仲間たちを見送り、重たい音を立てて門が完全に閉まった。外界とすっかり隔絶された空間は、予想外に静かなものだった。てっきり自分を飲み込んで焼き尽くすかと思った闇の波は閉ざされたと同時に勢いを失い、どこへとも無く退いていった。今は耳鳴りがうるさい程の静寂が辺りを支配している。死者の国とはもっと強烈に禍々しく痛々しい物を想像していたが、ここは亡者の呻き声も聞こえず、薄暗く、空気も流れない。まるで全てが停滞したかのような、底冷えが忍び寄ってくるような死の世界。
「兄弟。ほら、お望み通り戻って来たぞ」
ダリウスの黒い影が灯っていた台座に戻り、おどけた様に両手を広げて見せる。台座に触れてみても何の気配もなく、やはり都合よく現れるような物ではないようだ。消えていく残滓を見たときから予想はしていたが、まあ邪神のする事なんてこんなもんか、倒しちまったしなと首をすくめた。
「はあ……
ぎゅう、と自分を抱き締めるように膝を抱えて冷たい台座に座り込む。
――なあ兄弟、俺と共に死んでくれよ。
テリオン自身の手で切り裂いたダリウスの影が、最後に眼前で囁いた言葉。風の音のように虚ろだったが、間違いなくテリオンを誘いこむ言葉だった。
(踏み台とか言って殺しておいて、本当に勝手な奴だな)
それでも、あの黒い影は邪神の力が生み出した紛い物かも知れないとわかっていても、振り払うことが出来なかった。あの声を聞いてから、ここを去って皆と共に光の世界に戻ることにどうしても違和感が消えず、閉まりゆく門を見た時にここに残ろうという考えが生まれた。それはまるで失くした欠片のようにすとんと胸におちて、決めた途端に息をするのが楽になったのだ。自分を信じて殿を任せてくれた仲間達には悪いことをしてしまったけれど。
(信頼には応えるとか言っておいてこのザマだ。最後の最後で後味を悪くして、さすがのあいつらも愛想を尽かせているか……
仲間の顔を一人ひとり思い出す。どいつもこいつもお人好しで、盗賊なんぞに躊躇いなく背中を任せていた。旅の最中に彼らが見せた怒りや悲しみの表情を、今回は自分がさせたと思うと胸の奥の方がちくちくと痛んだ。胸に積もる罪悪感のせいか寒気を感じて、マフラーを口元まで上げようとして気付く。そういえばサイラスに渡してしまったのだった。
(サイラスにも酷い顔をさせちまった。最悪のタイミングだっただろうな)
サイラスが自分に対して仲間意識以上の想いを抱いている事にテリオンは気付いていた。きっとこの戦いが終わったら何か告げられるのだろうな、とも。それを知った上で突き放したのだ。門の隙間から見たサイラスの悲痛な表情は、まるで大きな氷の塊のようにテリオンの喉に詰まって抜けない。
どうかこんなろくでなしの事はさっさと忘れてくれますように。辺獄の書を取り戻し、学園の汚染を暴くとともに自らの無実も証明してみせたサイラスには輝かしい未来が待っているのだ。その記念すべき1ページ目を、俺などという染みで汚す必要はないのだから。
吐き出す息が白い。気持ちのせいではなく確実に気温が下がり続けている。あの日のノースリーチも、これくらい寒かったように思う。このままここにいたら……寒さで凍り付くのと、飢えで干乾びるのとどちらが先だろうか。出来たら前者でお願いしたいものだ、と思う。寒いのも辛いが、耐えるのは慣れたものだ。だが幼い頃、初めて盗みを働く前に味わった空腹の限界は本当に辛く、栄養不足で自分の身体が壊れていく恐怖と苦痛はテリオンの記憶に深く刻みつけられていた。
(……そういえば、あのマフラーを借りたのもあの頃だったな。サイラスの事だ、気付いてはいただろうが……結局話す機会が無かったな)
こうしているとやけに昔の事ばかり思い出してしまう。死に近づくと精神が子供に戻る、なんて世迷言だと思っていたが、案外的を得ているのかもしれない。
いっそ眠る様に終わりを迎えられたら、と目を閉じようとした時、暗い視界にゆらりと何かが映り込んだ。目線をやると、台座の合間を青い光が彷徨っている。あっちへゆらゆら、こっちへふらふらと、まるで何かを探しているような光。その穏やかな青色には、眺めているテリオンの心を不思議と慰める優しさがあった。
……なにか、探してるのか?」
物思いに耽る以外にする事もない。暇つぶしに小さく呼び掛けると、声に誘われるようにこちらに近付いてきた。思わず片手を差し出すと、青い光はテリオンの手のひらに寄り添うように収まった。近くで見るとその青さに既視感を覚え、テリオンは首を傾げた。
「この光の色は……どこかで……
まるで明け始めた夜空のような深い青色。これを見たことがある。ずっと昔から知っている。これは……
――これを使うといいよ。まだ長すぎるけど、君の髪色によく似合う――
……サイラス?」
記憶の中の瞳の色と重なった瞬間、自然と口からその名がこぼれ落ちていた。それに応えるように光が強く、広がり、それは今一番会いたくない人の形をとった。
「え……な、なんで」
「ああ、テリオン……テリオン!!やはり君の声だったんだね!!良かった……また会えて」
「なんであんたがここに居るんだ、サイラス!!」

「仮死状態を保てるように調合した薬だ。解毒剤で覚めるようにはなってるけど、長時間は危険過ぎる。五分経ったら強制的に飲ませるからな。それが最低条件だ」
解毒剤を摂取したところで魂が門の中から戻って来ていなければどうなるかわからない。未知の感覚に恐れがない訳ではないが、何度も救われてきたアーフェンの調合だ。彼がそうと言ったならきっとそうなのだ。渡された薬をひと思いに呷ると、途端に頭に靄がかかり、強烈な眠気のようなものが襲って来た。
普段眠りに入る時に感じる睡魔よりも暗く冷たく感じるそれを、サイラスは目を閉じて受け入れた。
次に目が覚める時は、君と共にあれますように。

肉体から離れた意識は、暗闇の中を彷徨っていた。
……ここ、は、どこだ?私は、何かを……
暗いのは灯りがないせいなのか、それとも自身が何も知覚出来ていないのか。わからないままただ闇の中を揺蕩っている。確か、そうだ、何かを探さなくてはいけない。何かを……
自分が誰でなぜここに居るのか、何を探しているのか……確かに目的があったはずなのに思考に厚い靄がかかって思い出せない。僅かな目的意識を保つだけで全力を消費してしまう。感覚がない手足は果たして付いているのかどうかも怪しい。自分はどちらへ向かっているのだろうか。私は何で、どこへ行けばいい?なんでも良い、何か手掛かりはないだろうか……
……何か、探してるのか?」
その時、声が聞こえた。この静寂でなければ掻き消えてしまいそうな、弱った様子の小さな声。誰かがいる。この暗闇の貴重な手掛かりだ。声がした方に向けて身体が勝手に近付いてゆくと、やがて優しい何かに触れた。その儚い優しさは心地よく、消耗しきった身体に力を分け与えてくれるかのよう……
……サイラス?」
名を、呼ばれた。
一気に自意識が流れ込み、己の形を思い出す。周囲を知覚する目が、意のままに動く手足が形作たれる。そう、そうだ、私はこの人に会いに来た!!出来たばかりの腕で目の前の寒さに縮こまった身体を抱き締めたかったが、彼を温める肉体が無い事がひどく悔やまれた。
「ああ、テリオン……テリオン!!やはり君の声だったんだね!!良かった……また会えて」
「え……な、なんで、なんであんたがここに居るんだ、サイラス!!」
腕の中では真っ白な顔をしたテリオンがこちらを見上げている。寒さのせいだけではなく血相を変えて問い詰めてくる彼は、恐らく最悪の一線をサイラスが越えてしまったと勘違いしている。
「大丈夫。君が考えているような事態ではないよ。私は君に伝えなくてはならない事があってここに来たんだ。安心してくれ」
この場所でどう安心しろというのだろうか、サイラスの性格からしてもとんでもない無茶をしていることは想像に難くない。
「なんでそんな……そんな危険な事までしてなんで俺なんか気にするんだ。解ってるだろ?俺はダリウスの呼び声に応えてここに残った。最後の最後であんたらを裏切ったんだ!!」
「違うよ。君は何も、誰の事も裏切ってなどいない」
罪悪感から自分を卑下するテリオンの言葉をサイラスはきっぱりと遮った。
「君に不適切な態度をとって傷つけたのは私の方だよ。私は君と君の兄弟分との絆の強さを見誤って、君が現世に戻る理由になれなかった」
それは、サイラスの後悔の告白であった。
「テリオン、私はノースリーチの地下で君の兄弟分の遺体を見つけた時……全く浅はかで恥ずかしい事だが、これで君の中の彼を超えられると思ってしまったんだ。もう君の心から彼の席はなくなったのだと、軽薄な勘違いで君の兄弟分への情を侮った」
知己の死は生きた心に消えない爪痕を残す。テリオンの体調を慮ったなどと建前を述べておいて、その実、サイラスはテリオンの心の中でダリウスが永遠になるのが許せなかった。
「私の、利己的で思いやりのない考えが態度や言動に滲み出ていたのだと思う。それが君を傷つけ、結果的にここに残る選択をさせてしまった。悔やんでも悔やみきれない。申し訳ない事をした」
サイラスは舞い上がっていたのだ。旅を続けるうちに少しずつ打ち解け、隣で眠ってくれるようになり、笑顔も時折見せてくれるようになった。テリオンとの距離が縮まるたびに嬉しくて、それと同時にテリオンの心のより深い部分に突き刺さった存在が忌々しく思えてならなかった。子供の様な独占欲は、対象への敵意に昇華していた。
「もし許されるのならば、償いの機会を与えて欲しい……が、その前にこれは伝えておかなくては」
青い光で形作られたサイラスがまっすぐテリオンを見つめる。手を取ろうとしてもすり抜けてしまい、やむを得ず傅くように身を屈めてまっすぐテリオンの目を見つめた。
「テリオン、私は君に対して、共に過ごしたいと……特別でありたいと、今までの生涯で初めての感情を抱いている」
美しい景色も花束もない。それどころかお互い死の淵にいる、こんな状況でもサイラスの目はテリオンと共に在る未来を見つめていた。
「共に仲間達の待つ世界に帰ってくれるのならば……償いの形は君の望むように。このまま此処で過ごす事を選ぶのなら、最期まで共に居させて欲しい。勝手ですまないが、君がこんな寂しい場所で孤独に震えて居るなんて私には耐えられない……どうか」
なんて馬鹿な男だ。俺の我儘の原因が自分にあるなどととんでもない勘違いをしている。その上こんなろくでなしの為に危険を冒してこんなところまで来て、することが謝罪と請願だなんて。
「サイラス、俺は……俺は、気付いていたんだ。あんたが俺を好いていてくれる事に。何か言いたそうにしていた事にも。気付いてる事に気付いていただろう?」
特段驚くこともなくサイラスは首肯した。特に隠そうともしていなかったし、仲間達の中には敏感に察して気を回してくれる者もいた。
「その上で俺は手を振り払ったんだ。俺はあんたに傷付けられた覚えはないが、仮に今の話の通りあんたが思いやりをを欠いていたとしても、酷さはおあいこだろう。そう割り切って、忘れてくれればよかったのに。そうすれば……あんたの顔を見なければ、帰りたいなんて思わずに済んだのに」
テリオンの喉に詰まっていた氷が、胸の奥に刺さった棘が溶けて視界を滲ませる。会いたく無かったはずのサイラスの微笑みと紡がれる言葉をこんなに嬉しく思ってしまうなんて。
……何せ私は君が初恋だからね。感情の整理が下手でも大目に見て欲しいな」
「は、盗賊が凄腕過ぎるのも考えモンだな。あんたの気持ちに気付いているつもりだったが……どうやら、程度を全く読み違えていたらしい。それこそおあいこだ」
魂だけにもなってみるものだ。自分が青く淡い光を放っているお陰で、テリオンの笑顔を見逃さずに済んだのだから。
……俺は、あんたに元の世界に帰って欲しい。だけどどうせ俺が何を言ったところであんたは俺を置いて帰る気はないんだろう?」
「ああ。正直なところを言うとね、君の優しさも君が私の諦めの悪さをよく理解している事も踏まえたうえで此処に来たよ」
はあ、と吐き出した息は震えていた。手足の先の感覚はほとんどないが、立ち上がる以外の選択肢はもはやなかった。
「全く……勝手な奴だな」

薬草の匂い。川のせせらぎ。暖かく湿潤な空気は休息を必要とする身体を優しく包み込んでくれる。
「ああ、手足の痺れも随分良くなってね。頭痛も時折あるが、今日は気分がいいし今回の出来事を一度まとめて書き記そうと思っているんだ」
「先生らしいな。一時はどうなる事かと思ったけどその様子なら安心したぜ。歩行訓練もみたとこ問題無さそうだし、アトラスダムに戻れる日も近そうだ」
膝の上に置いたサイラスの脚を揉みほぐしながら、アーフェンは診察を進める。仮死状態から覚めたばかりの時はろくに身動きもとれなかったサイラスだが、適切な環境でのきめ細やかな治療と訓練によって日に日に回復することが出来ていた。
「それは助かる。ここは療養には最高の環境だが、論文を纏めるにはどうしても資料が必要だからね。それにしても仮死状態からこんなに早く回復できるとは、適切な処方の賜物だ。本当にいくら感謝しても足りないよ。足を向けて眠れないね」
「いや、俺はまた旅するから好きに寝てくれよ……でも異常があったらすぐに言えよ。前例がないんだから慎重にならないと。テリオンもだぜ」
部屋の隅の椅子には白い毛玉……もとい、リンデに纏わりつかれたテリオンが腰掛けていた。紫のポンチョはリンデの毛で白くなり、まるで毛皮を羽織っているようにも見える。
「わかった、わかった。今回も、おたくには世話を掛けたな」
「いーってことよ。頼りになる付き添いが指示をちゃーんと守らせてくれたお陰で順調に済んだしな」
テリオンは治療中に無茶をする常習犯だ。安静指示を破られた事は一度や二度ではない不良患者を諫めるようににやりと指摘すると、テリオンはばつが悪そうに目線をそむけた。
「ああ、彼女が付いてくれていて安心だ」
「もう回復したのになんで俺から離れないんだ?ハンイットも相棒不在じゃ不便だろう」
長い尻尾を巻きつけるようにしてテリオンに寄り添うリンデの喉を撫でると気持ちよさそうに顎をテリオンの手の上に乗せてくる。ぐるると鳴る低い音は聞いていると不思議と眠気を誘発してくるので、ここに来てからテリオンはすっかり早寝遅起きになってしまった。
「リンデも心配してるんだろ、ほら、毛色も似てて親子みたいだし」
「勘弁してくれ……

サイラスが仮死状態になって数分後、重く固く外からはびくともしなかった門が変化を見せた。蝶番が軋む物々しい音で駆け付けたハンイットが見たのは、わずかに開いた隙間に自らの身体をねじ込もうとしているテリオンの姿だった。ハンイットとリンデの協力によって引っ張り出されたものの、凍えた身体は意識を失う寸前であった。そんなテリオンを救ったのがリンデだった。サイラスへの投薬で手が離せないアーフェンに代わり、彼女は絶えずテリオンに寄り添って暖め、時には顔を舐めて意識を保たせて峠を乗り切らせた。
「あれはユキヒョウが生まれた子供にする世話と同じだった。無理に引き離しても狩りに集中出来ないだろう、本人の気のすむまでテリオンの付き添わせてやってくれ」
とハンイットは語る。
その後もリンデはすっかりテリオンを庇護対象と見ているようで、療養の為にクリアブルックに来てからも甲斐甲斐しく世話を焼き続けているのだった。
あの門の中でテリオンがどう生き延びたのか謎であったが、回復したテリオンの報告から推察するとなんと門の中と外では時間の流れる早さが全く違うという事が判明した。
テリオンからすれば、閉まる門で仲間たちを見送ってから数時間の体感でサイラスと再会していたとのことだった。それを聞いたサイラスは目を輝かせたが、二の句を発する前に二人と一匹から二度と変な気を起こすなよと釘を刺されたのだった。

「それじゃー、また来るぜ。先生はちゃんと薬飲めよ。テリオンもまたゼフんとこに顔出してやってくれ。ニナもリンデと遊びたいだろうし」
「ああ」
「毎日ありがとう、またよろしく頼むよ」
アーフェンが部屋を後にし、二人と一匹だけが残された。まだ昼食にも早い時間だ。逗留の礼に獲物でも獲りにいきたいところだが、アーフェンにまだ止められている。
「アーフェン君に言われたんだ。もうすぐアトラスダムに戻れると」
「俺も聞いていた。良かったじゃないか……論文とやらも進められるんだろう」
「そうだね……あ、アーフェン君が仲間達に君の帰還と私の研究結果を伝える手紙を出してくれたそうだよ。皆きっとすぐに会いにくるだろうね」
「は、学者先生は来客のたびにこってり絞られる事になりそうだな」
「女性達を泣かせた君ほどじゃないだろう……オルベリクの涙の抱擁で骨折しないよう今から栄養を付けておくといい」
ぽつりぽつりと交わされる会話がぎこちない。目と目で会話が出来る二人だ。お互い、相手が一番話したい事をわかっているが、直球を投げるほどの素直さも勇気もない。
「なあ」
「あの、テリオン」
息が合うのか合わないのか。同時に切り出した話題が打ち消しあって霧散していった。
(いつもひとりでに話しだす癖に、なんでこういう時だけ調子が狂うんだ……
テリオンは心の中で八つ当たりをしつつ、顎で続きを促した。
……門の中でした話を、君は覚えているかい?」
「ああ……その様子だと、おたくも覚えてるんだな」
「目覚めた時は朧げだったんだけどね。回復するにつれちゃんと思い出せたんだ」
門の中でサイラスに想いを告げられ、テリオンは現世に戻ることを選んだが、告白に対する返答はまだ保留の状態だった。
「君への償いをしたい気持ちは変わらないよ。ただ……その、方法については……何かを教えたいとか見せてあげたいとか、どうしても私から君にしてあげたい事を考えてしまうんだ。それは私がやりたいことであって償いの意味をはき違えていると自分でもわかっているいるんだが、ど、どうしたものか……
はは、と照れながら、歯切れの悪い口調。こいつのこんな姿は珍しいな、と思わずじっと見つめてしまう。
「考えるのが楽しくて仕方がないんだ。君の望むままになんて言っておきながら、これでは呆れられてしまうね」
するりと音もなく、開け放たれた窓を通ってリンデが部屋を出て行った。彼女の気遣いに感謝しながら、サイラスはテリオンに改めて向き直る。
「もし、君さえ良ければ……一緒にアトラスダムに来てくれないか?君を縛るつもりはない。寝床が一つ増えたと思ってくれればそれでいい。そうして、いつか君にしたい事が出来たら私を役立てて欲しい。どうだろうか?」
まっすぐサイラスを見つめる翡翠の眼。いつも伏し目がちなうえ前髪で隠れがちだが、彼の目は見開かれると存外に大きく印象的な輝きを秘めている。
「俺の気持ちもあの時話した事と変わっていない。おあいこだと思ってるし、だから償ってほしいなんて思っちゃいない。ただ……
そこまで言って、テリオンは黙り込んでしまう。膝の上に組んだ両手の中に顔を隠してしまっているから、サイラスはひたすら次の言葉を待つしかなかった。
「ただ……今回の事で、あんたは俺が思っている以上に思い切りのいい奴だという事がよく分かった。生きていて欲しいと言った事も変わってない。だから、」
その時サイラスは、髪の隙間から見えるテリオンの小さな耳が、真っ赤に染まっていることに気付いた。
「だから……あんたが危険なことをしなくてもいいように、いつでも俺が居る事を確認して結び付けてろ。……これから、先も」
風が静かな日でよかった。テリオンからの告白を、これからも繋がり続ける許可を、心に刻みつけられた。居てもたってもいられず、サイラスはテリオンを思い切り抱き締めていた。今度はすり抜ける事もなく、熱すぎるほどの熱を伝えて。
「ああ、ああ……!!今度こそ約束しよう、この世界のどこでも構わない、必ず君を確かめ続けよう、テリオン!!」
喜びのあまり涙混じりで震えたサイラスの声を聞いて、テリオンは暖かい腕の中で身じろぎをした。顔が熱い。この熱さを冷ますには、ちょっとした冷気が必要だ。
「それじゃあ付き合って貰おうか……先に行きたいところがある。アトラスダムは、その後だ」

凍てついた風が雪原を走り抜ける。北の果ての教会はかつて過酷な環境を生き抜く人々の拠り所となっていたのだろうが、侵略者によって蹂躙され廃墟と化して久しい。その傍らから伸びた獣道の先にそれはあった。
「弔いなんてろくでなしには贅沢過ぎる話だ」
懐から取り出した林檎をささやかな墓石の前に供える。こんな所に供えたところで、すぐに獣の餌になるだけだろうが。
「他人から奪って生きて来た奴が、死んで尚生者の時間を奪おうなんて、図々しいにも程がある」
手は合わせずに立ち上がる。祈りの言葉は白々しく届いてしまうだろうから。
急ごしらえの墓石は、降り積もる雪のせいもあって言われなければ気が付かないようなささやかなものだった。何度か季節が巡れば風化し、森と一体化してしまうことだろう。
「私は宗教学には明るくないし、聖火教会にも様々な教義があるだろうが……私は、墓や弔いは死者のためのものではないのだと思うよ」
テリオンと入れ替わりに、サイラスが墓前に跪き手を組んだ。
「人を憎み続けるよりも、許してしまう方が楽なんだよ。どうせ手も声も届かない場所に行ってしまったなら、許した事にしてしまえばいい。そうやって心に整理をつけた事の象徴としての意味もあるのではないかな」
もちろん、弔われる人と弔う人によっては変わってくるけれどね、と続けたサイラスは目を閉じたままだ。
少し陽が傾き、また雪がちらつき始めた。ここの寒さはやはりあの場所と少し似ている、とテリオンは白い毛皮付きの襟巻に顔を埋めた。
「あんたもそうなのか?」
「そうだね、彼が君に物理的にも精神的にも働いた数々の暴力や侮辱を未だ許せてはいないけれど」
顔を上げ、墓石を正面から見据える。かつて対峙した時、あの男と自分の目線はほぼ同じ高さだったな、と思い出した。
墓石の隣に積もった雪を掻き分けるとやがて地面が現れる。ある程度の深さになった穴に、感謝とささやかな皮肉を込める。かつて自分とテリオンを繋いでくれた物が、彼を少しでも温めてくれるだろう。
「それでも、彼が居なければ私は大人になった君と再会する事は出来なかっただろうからね。君を傷付けた事を許せない気持ちと同じくらい、君を守ってくれた事に感謝もしている。だから、ね。」
……そうか」
共に旅を始めたばかりの頃、テリオンはサイラスに盗賊をやめるよう説教された事があった。あの頃のサイラスなら決して言わないであろう言葉に、共に旅路を乗り越えた今、テリオンは居心地の良さを感じている。
「君の隣は私のものだと、牽制の意識も無いと言ったら嘘になるがね。さて、戻ろうか。このままここに居たら凍りついてしまう」
「ふ、あんた、兄弟とはひたすら相容れようがないんだな」
雪を踏む足音が並んで遠ざかってゆく。紫のマフラーが埋められた地面の跡を、新雪が覆い隠し始めていた。