春からは、西海岸を中心に各地の大会を巡った。州規模の大きな大会ともなれば、勝つよりも負けることの方が多くなった。コンディションは悪くない。タイムもそれなり。人生右肩下がりだったあの日々を思えば、十分胸を張れる数字だ。それでもなお結果が伸び悩むのは、ひとえに世界の広さである。負ける度、トガシは“日本記録保持者”という肩書きの扱いづらさを思い知らされる。アジア大会メダリストだろうが、日本最速だろうが、スタートラインに立てばただの一選手であり、横に並ぶのは世界トップ基準のスプリンターたちだ。9秒台なんてもう当たり前ってくらいの、人類の上限値をバグらせる怪物ばかりである。その差は明確に可視化される。
そんな怒涛の春を駆け抜け、夏になれば日本へ一時帰国した。今年の世界陸上に向けた、リレーの代表合宿に参加するためである。リレーメンバーは海棠、森川、小宮、そしてトガシである。このリレー競技において、日本の強みはやはりバトンパスにある。これはもはや揺るがない方針だろう。このバトンパスのために、助走の歩幅を調整し、受け渡しのタイミングを幾度となく4人で擦り合わせる。たったコンマ1秒にも満たない差を削るために、何度も、何度も、何度も、ただひたすらに練習を繰り返すのだ。地味だが確実。実に日本らしいやり方だった。
○
そんな灼けるような代表合宿を終え、トガシは久しぶりに寺川のタワマンへと戻ってきていた。世界陸上までは、またここが生活の拠点になる。つい先日までのボロアパート暮らしを思い出すと、このホテルみたいにピカピカなエントランスも、高層階から見下ろす夜景も、どこか現実味がなかった。
「──戻りました」
鍵を開け、玄関から声を投げる。
返事はなかった。
しかし寺川の靴はあった。
寺川が家にいる時は、大抵うるさい。動画だったり、音楽だったり、誰かとの通話だったり。はたまた謎の鼻歌だったりと、何かしら物音が聞こえてくる。なのに今日はどういうわけか、妙に静かすぎた。なんとなく嫌な感じがして、トガシは靴を脱ぎ散らかしたまま足早にリビングへと向かった。部屋の灯りはついている。そのことに少し安心しかけて、次の瞬間、びくりと立ち止まった。リビングの床には寺川が転がっていたのである。ラグの上に仰向けで。眠っているみたいだった。
「寺川、先輩……?」
呼んでみる。けれども反応がなかった。
見渡せばリビングは荒れ放題で、ひどい有様だ。ローテーブルには開きっぱなしのノートPCに、エナドリの缶が何本も転がっている。ソファには大量の資料。床には使いかけのガジェット類と、絡まり合った充電ケーブル。もうめちゃくちゃだ。そして、そんな渦中に横たわる寺川。その光景に、トガシはさぁーっと全身から血の気が引いて、ひゅっと喉が引き攣った。
「てらっ、寺川先輩……っ!」
咄嗟に、もう一度強く呼んでいた。
そんなわけない。そんなわけないだろう、と。頭のどこかで、ちゃんとわかってる。けれども、もしも……という嫌な想像が膨らんで止まらなかった。だって寺川はいつだって自分のことを雑に扱う。ろくに寝ないし、食べないし、煙草や酒ばかりだし、限界まで働こうとする。面倒なことは全部引き受けて、そのくせ何でもないみたいに笑うのだ。
だから。
だからもしも。
もしも本当に──、
「寺川先輩ッ!!」
気付けば叫んでいた。
自分でも驚くくらい大きな声だった。心臓はドクドクと嫌な音を立てて、それがやけに耳につく。トガシは持っていた荷物を放り投げ、ほとんどすっ転びそうになりながら寺川の側へ駆け寄り膝をついた。
寺川の肩を強く掴む。
もう一度呼びかけようとした。
その時だった──
「……んん、とがし、くん……?」
瞼がゆっくり持ち上がる。
まだ焦点の合ってない目で、寺川がぼんやりこちらを見上げていた。
「どしたの……おなかすいた?」
言いながらこてんと首を傾げる。
それから、のんびりと手が伸びてきて、わしゃっとトガシの黒髪を撫でた。寝起きでちょっと汗ばんだ、ぬるい手のひら。
「あ……」
その温度に触れた瞬間、どっと全身から力が抜けた。
「す、すみませ…ん……起こして………」
「んん〜……?」
声がうまく出なかった。寺川は聞こえてるのかいないのか、寝ぼけた顔のままゆっくり寝返りを打った。それから、少しして目を瞬かせた。
「ん?……て、あれ? トガシくん? 帰ってたの?」
「……」
「びっくりした〜、連絡くれたら迎え行ったのに」
「……びっ、びっくりしたのはこっちですよ」
「ん?」
「し、死んでるかと……思った…………」
へたり込んだまま、ぽつりと呟く。
そんなわけないのに。寺川があまりにも静かに眠っていたから。だから一瞬、本当にそう思ってしまったのだ。情けない。恥ずかしい。けれども、それ以上に、寺川がちゃんと生きていたことに安心してしまって。トガシはなんだかもう泣きそうだった。
「えっ、ちょ、泣いてる?なんで!?」
「泣いてませんっ」
グズっと鼻を啜るトガシに、寺川は珍しく目を丸くして慌てたように身体を起こす。
「いや絶対ちょっと泣いてるじゃん」
「泣いてませんって」
「あーもぅ、ごめんごめん、ほんと寝落ちしてただけだから……!」
寺川は苦笑いしながらトガシを抱き寄せた。
「ほら、生きてる」
「わかってます」
「ちゃんと生きてるよ」
「紛らわしいんですよ……!」
「うんうん、びっくりしたねぇ」
ぽん、ぽん、と子どもみたいに背中を撫でられる。こういう時、いつもならふざけて茶化してきそうなのに、寺川はそうしなかった。それが余計に優しくて。悔しい。
「アンタ、働き過ぎなんですよ……。ついに過労死したかと……」
「んふふ、大丈夫だよ。俺のこと心配してくれたんだ?」
「うるさい」
まだ少し眠そうな、掠れた声で寺川が笑う。
トガシはそのまま黙って、寺川の肩に額を押しつける。寺川は何も言わなかった。ただ、猫でも撫でるみたいにトガシの後頭部をぐしゃぐしゃに撫でていた。
二人はしばらくそうしていたが、やがてどちらともなく身体を離す。トガシは立ち上がり、改めてリビングの惨状を見まわした。荒れ放題である。開いたままのノートPC、タブレット、大量のエナドリの空き缶。ソファに散らかった資料の束。散乱するゴミ。かなり雑然としているが、しかし、そこにはまともな食事をした形跡だけが見当たらなかった。
「先輩、食事は?」
「適当に食べたよ」
「どうせ煙草とエナドリだけでしょう」
再びラグの上に寝転がった寺川が「バレた?」と、だらしなく笑う。髪はぼさぼさで、頬にはラグの跡がついていた。その顔を見ていると、数分前に本気で死んだと勘違いした自分が馬鹿みたいだった。
「……腹減ってんなら、なんか作りますよ」
「マジ? やった」
「冷蔵庫にあるもので、ですけど」
「なんかあったっけ?」
「知りませんよ」
言いながら冷蔵庫を開ける。炭酸とエナドリしかなかった。冷凍庫に至っては氷だけである。トガシは無言でパタンと扉を閉めた。
「…………」
「アメリカ行く時、冷蔵庫空にしてそのまんまだったからね〜」
悪びれもせず寺川が言う。
「だからって……俺が合宿に行ってる間、アンタはずっと家に居ましたよね?」
「ハハハ」
「…………」
トガシは深々と溜息を吐いた。
「はぁ……買い物、行きますよ」
「えぇ〜、今から?トガシくん帰ってきたばっかじゃん」
「食材何もないじゃないですか」
「もうUberでよくない?」
「却下です。アンタどうせ絶対またハンバーガーとか頼むだろ」
「え〜ダメ?」
「ダメですよ。ちゃんとしたご飯食べてください」
「ハァ〜〜、ちゃんとしたねェ〜〜」
寺川はぶつくさ文句を垂れながら、ようやく観念したように身体を起こした。寝癖のついた髪をガシガシ掻き回して適当にセットし、ソファに落ちていた油麻地果欄のTシャツに着替え、それから財布とサングラスを引っ掴む。その拍子に、ソファに山積みされていた資料がバサバサ雪崩落ちていた。スポンサー企業からの資料に、北京大会の資料、遠征スケジュール表、航空券の控え、パスポートのコピー、なんかの請求書、領収書、未開封の郵便物。もうぐちゃぐちゃである。トガシはそれらを見下ろして、ちょっと黙った。普段はあまり意識しない。というより、意識する前に寺川が全部一人で片付けてしまう。だからいつも意識の外だった。けれども、こうして目の前に積み上がっていれば、嫌でも意識させられる。自分が走るために必要なことは、自分が思っている以上にたくさんあるのだということを。
今年の世界陸上北京大会までは、もうあと僅かだった。この大会で、トガシは日本代表に選ばれている。それも完全無所属の状態で、である。とどのつまり、何をするにも全部自分たちでどうにかしなければならないのだ。実業団みたいな手厚いサポートもなければ、帯同するスタッフもいない。スポンサーこそ付いてはいるものの、実務は全て寺川が捌いている。協会との調整、スポンサー対応、メディア対応、SNS管理、飛行機の予約、保険の手続きや細々とした面倒くせぇ雑務に至るまで。トガシ関連のことは寺川がほぼ一人でこなしているのだ。普通なら何人ものスタッフで分担するような仕事量である。
「……寺川さん、ちゃんと寝てるんですか」
「寝てる寝てる」
「さっき死んでたじゃないですか」
「ハハハ」
「……」
笑って誤魔化された。絶対寝てない顔である。サングラスをかけても顔の疲労は隠しきれてない。なのに、本人はいつも通りヘラヘラしているのだから尚のことタチが悪い。
「まぁでも、今年は大事だからね」
「北京ですか」
「うん、オリンピック前年の国際大会だしね。日陸もあるけど、結局みんな見るのはこの大会だよ。スポンサーもメディアも。ここでトガシくんの足引っ張るのだけは嫌なんだよなぁ」
そんなことをあまりにもさらりと口にするので、トガシは上手く返事ができなかった。
「俺の段取りが悪くてトガシくんのコンディション崩しました、とかさ。そういうの一番ダサいじゃん」
「……」
「だからまぁ、オリンピック終わるまでは頑張ってみるよ」
こういう時、寺川は恩着せがましいことを言わない。だから余計に厄介なのだ。こちらが感謝する隙を与えてくれない。
「……寺川先輩」
「んー?」
「何か……食べたいものとか、ありますか?」
珍しくトガシが殊勝にそう尋ねると、寺川は一瞬だけ目を丸くした。それから、なんだか嬉しそうに笑った。
「なになに? リクエストしたらトガシくん作ってくれてんの?」
「別に、簡単なものであれば……」
「素直じゃないなァ」
「アンタにだけは言われたくないです。で? 何食べたいですか?」
「んー、ハンバーガーとか?」
「あ。却下で」
「なんでっ!?」
○
夜のタワマン街は、巨大な水槽がいくつも並んでるみたいだった。ガラス張りのエレベーターがゆっくりと高層階を降りていく。縦スクロールみたいに流れる東京の夜景。ビルの灯りが夜の空気に滲み、街は水のなかに沈んでいるみたいだった。エントランスを出ると、生ぬるい夜風がべたりと肌に纏わりつく。東京の夏の湿気である。カリフォルニアの乾いた空気に慣れた身体には、少し重い。
「あっつ、しんど……」
「東京の夏って、こんなでしたっけ……」
「年々暑くなってるよね〜」
Tシャツの裾をパタパタさせながら寺川が言う。その片手にはスマートフォン。画面にはメールアプリが開かれたままだ。
「また連絡ですか」
「ん、協会から。あー……現地の練習時間、なんかまた変更になったぽいよ」
「え? またですか?」
「ねェ」
ゲンナリした顔でトガシと寺川が顔を見合わせる。国際大会ともなれば珍しくない話だ。各国の選手たちの練習時間は厳密に区切られ、指定された時間でしかサブトラックは使用できない。ましてや今回は世界陸上。アップ場所ひとつ確保するにも神経を擦り減らす。この北京大会で、トガシは100メートルと4×100メートルリレーの代表入りが決まっていた。翌年にはオリンピックも控えている。必然、この大会の結果次第でスポンサーの評価も変わってくる。翌年の扱いそのものが変わる。走るのはトガシであるが、寺川もまた同じくらい必死だった。
「スポンサーの人とも話さなきゃだね。ああ、あとホテル探して、それから現地の通訳決めて……会場までの移動ルート考えて……」
「寺川さん一人でやってるんですか、それ」
「まぁね。普通ならちゃんとしたサポートチームとかあるらしいけど」
「ですよね……任せっきりですみません……」
「ま、それが仕事だからねェ〜」
寺川が肩をすくめて軽く笑う。
「とりあえず現地の通訳とホテルだけは早いとこどうにかしないとなんだけど、トガシくんワンチャン北京に知り合いとかいたりしない?」
「いませんよ」
「ハハ、だよねェ〜」
「あ。でもサンディエゴのアパートにいた張さんは? 中国の人でしたよね?」
「……張さん? え?待って。どの張さん?? 廊下で爆竹鳴らして大家のババアに叱られてた張さん???」
「違いますよ。ほら、あのいつも朝ビーチで太極拳してる張さんですよ」
「あ〜〜、いや。待って待って。あの部屋マジで中国人が5人くらい住んでんじゃん?しかも全員名前が同じ“帳さん”だし、ぶっちゃけもう誰が誰かわかんねェの」
「それは、まぁ……俺もそうですけど……」
「だよねェ。てか全員従兄弟とか言ってたけど絶対嘘だろアレ」
「いつも賭け麻雀してますよね」
「してたしてた!夜中の2時にジャラッジャラッうるせェんだよね、壁薄いからさァ〜」
サンディエゴのボロアパートを思い出し、寺川とトガシはケラケラ笑いながら夜道を歩いた。
「あーでも、張さん一派の誰かがワンチャン北京出身の可能性あるし。とりま大家のババアに連絡してみよっかァ……」
そう言いながら、寺川は慣れた手つきでスマホの画面を叩き始めた。
「いや待ってください」
トガシは思わず立ち止まった。
「なんで張さんじゃなく、サンディエゴのバ……大家さんから、北京の現地通訳とホテル探そうとしてるんですか」
「え?人脈ってそういうもんじゃん?それにたぶん俺らが直接張さんと交渉するより、大家のババア噛ませた方が絶対良いよ。あのババア、謎に顔広いから」
寺川の理屈は無茶苦茶に思えるが、本当にそうなので困る。
──実際、彼らはサンディエゴで何度も大家のババアの顔の広さに助けられているのだ。例えば、寺川が車を探していた時のことである。どこからともなくしゃしゃり出てきたババアから『甥っ子の親友が店をやってるから』と、ロサンゼルス近郊にある謎の日系中古ディーラーを紹介されたことがあったのだ。なんとも胡散臭い話だなと二人で顔を見合わせたものだが、行ってみれば普通に超優良店だったので寺川はそこでまんまと車を買わされていた。またある時は、トガシが利用している練習施設で少々面倒な揉め事が起きたことがあった。どうしたものかと二人で頭を抱えていたところ、やはり例によってしゃしゃり出てきたババアが『昔の教え子がいるから』と、どこかへ電話を掛けていた。そして翌日には、何故だか問題が綺麗さっぱり片付いていたのだ。誰に何をどう頼んだのかは最後まで謎である。
そんなわけで、あのババアはとにかく顔が広い。どこにでも知り合いがいて、とにかく顔が利く。サンディエゴのゴッドババアなのである。
──そうして寺川の読み通り、後日ゴッドババア経由で張さん(どの張さんかは不明である)の従兄弟という人物を紹介された。北京在住。日本のアニメと漫画が大好きで日本語ペラペラ。英語も堪能。しかも元陸上競技経験者で、現在はスポーツマーケティング企業勤務。さらにはオリンピックのボランティア経験まであるという、とんでもないSSR人材である。おまけに競技場へのアクセスが良い穴場のホテルまで教えてもらい、さらには『ワタシの可愛い坊やたち、もし現地で困ったことがあったら連絡するのよ』と言って北京在住の知人リストまで送られてきた。スポーツ用品店のオーナー、火鍋屋の店主、救急病院の事務長、謎の老人。ババアの人脈の広さに、さすがの陽キャ寺川も「こわ」と呟いてとりあえず連絡先だけはありがたく保存していた。得体の知れない謎の老人に至っては、たぶん一生使わないだろうが。
まぁ何はともあれ、現地で動いてくれる通訳と滞在するホテルの目処が立ったわけである。寺川とトガシの抱えていた問題の半分が、カリフォルニアのババアひとりで片付いてしまった計算になる。
やはり持つべきものは、大家のババアである。
──閑話休題。
○
最寄りのスーパーは、駅ビル直結のちょっとお高めな高級スーパーだ。もうすぐ閉店間際だというのに、改札階と繋がっているせいか人の流れは絶えない。高そうなスーツのサラリーマン。ブランドの紙袋を提げた美人。品の良い老夫婦。ワイン棚の前で「ナチュールってさぁ〜」などと語り合う意識高そうなカップル。そんな都会の洗練された人々の合間を縫って、ジャージ姿のトガシと夏フェス帰りみたいな格好をした寺川がふらふら歩いていた。
「寺川さん」
「なんだい? トガシくん」
「“ナチュール”? ってなんですか?」
「うーん……ごめん、チャオちゅ〜るしかわかんないや」
「ですよね。俺もです」
「ね」
「ところで」
「うん」
「肉と魚だったらどっち食いたいですか?」
「肉」
「了解です」
トガシは買い物カゴを片手にぶら下げたまま、値引きシールの貼られた鶏肉を真剣な顔で見比べた。十円でも安い方を探す顔である。寺川はそんなトガシの横顔をしばらくぼんやり眺めていた。
「──トガシくんさァ」
「なんです?」
「なんか昔より、随分丸くなったよね」
「……は?」
トガシが思わず顔を上げた。
「なんですかそれ」
「いやぁ、なんか優しいなぁ〜って。前はもっとこう、クソバカアンポンタンの暴君だったじゃん」
「ブン殴りますよ」
「ホラそれそれ〜〜」
寺川は嬉しそうにケラケラ笑いながら、目についた菓子パンを無造作にカゴへ放り込む。
「アンタ、またそんな糖質の塊みたいなの食う気ですか」
「脳が疲れてるからいーの。トガシくんだってパン好きでしょ?」
「……イワコロは特別なんですよ」
「何その“初恋の人は特別”みたいなテンション」
「でも実際、イワコロさんは俺にとっての初恋みたいなものですから」
「アハハ、キショ」
「む。じゃあ、寺川先輩の初恋は?」
「うーん?しいて言うならハンバーガーだね」
「あ。却下で」
「ハハ、ひどくない……?」
スーパーで食材調達を済ませると、帰宅してさっそく晩ごはんの準備に取り掛かる。無駄に広いデザイナーズキッチンには、トガシがまとめ買いしたBCAAの袋やプロテインシェイカー、寺川が飲みっぱなしにしたビールの空き缶が雑然と転がっている。いかにも男二人暮らしの趣である。そんなキッチンに立ちながら、トガシは黙々と調理に取り掛かる。鍋の湯気。米を炊く炊飯器の蒸気。皮目を焼かれる鶏肉からじゅうじゅう油が弾け、フライパンから香ばしい匂いが広がる。寺川はというと、最初こそ「手伝う手伝う」とキッチンをうろうろしていたくせに、いざ包丁を握らされそうになった途端「あ、メールの返事しないと」とちゃっかり逃げていた。
そんなやり取りを挟みながら、遅めの晩ごはんがキッチンのカウンターに並ぶ。鶏肉の塩麹焼き。卵焼き。小松菜のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁。それに炊きたての白飯。アスリート飯なので映えはしないが、しかしちゃんとしている。
「すご、ビジュ爆発してんじゃん」
「そうですか」
「いただきまーす」
「どうぞ」
二人で箸を取る。
寺川は一口食べるなり、「うっま」と素直に漏らした。
「トガシくんって、何気に料理上手だよね〜」
「普通だと思いますけど」
「ふぅん……こういうのって、お母さんに習うの?」
「いえ。俺は栄養士さんの講習です」
「講習?」
「クサシノにいた頃、食事管理の講習会が何度かあったので。制限も多いですし、自分で作れた方が結局ラクなんですよ」
「へぇ」
寺川は感心したように頷き、卵焼きを口へ運ぶ。それをぼんやり見ながら、トガシはふと手を止めた。
「……先輩って」
「ん?」
「箸、めちゃくちゃ綺麗ですね」
寺川の手がぴたりと止まる。
「は?」
「持ち方」
「え、なに急に」
「いや……なんか……ちゃんとしてるなって」
「……」
トガシの言葉に寺川は少し黙って、それからふいっと露骨に視線を逸らした。
「……別に。普通じゃない?」
「いや、綺麗ですよ」
「マジやめて」
「褒めてますよ?」
「褒めんなって。キモいから」
そう言って味噌汁を啜る横顔が、ほんの少し赤い。こんな顔をする人だったのか、とトガシは少し意外に思った。
ほんの数時間前までは、この人はもう二度と目を開けないんじゃないかと、本気で怖かった。それが今は、一緒に飯を食い、箸の持ち方ひとつで照れている。そんな何気ない光景のひとつひとつが、トガシにはどうしようもなく愛おしかった。
トガシは先に食事を終えると、黙って席を立った。冷蔵庫から残っていた食材を取り出し、米びつの蓋を開ける。
「なに?」
「明日の分、なんか作り置きしときます」
「え、優し」
「寺川さんが倒れると、俺が困るんで」
「ホラホラ、それ。そういうとこ優しいよね」
「うるさいです」
ぶっきらぼうに返しながら、米を研ぐ。カウンターの向かいでは寺川が笑っていた。
「やっぱさァ、トガシくん丸くなったよね」
「何がですか」
「いや昔はさぁ。絶対もっと人間嫌いだと思ってたから」
「はぁ? 嫌いじゃないですよ?」
「いやでも、好きでもなかったでしょ? それに前はもっと、“一人で走って、一人で死ぬ”みたいな顔してた」
トガシは少しだけ黙った。米を研ぐ手を止めないまま、小さく息を吐いた。
「……今は、違って見えますか?」
「うん」
「それは、先輩といるからじゃないですか」
言ってから、自分でも何を言ってるんだと一瞬手が止まる。寺川もきょとんと目を丸くしていた。
「……なにそれ、愛の告白かい?」
「ちっ、違います!」
「えぇ〜〜、残念」
続
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