sponsorisnani
2026-06-26 23:45:52
10755文字
Public
 

【A英】そして半年後、そこにはチャンネルメンバーに加わった謎の金髪の男の姿が

いただいたネタ「頭脳も外見もよく生まれてしまい、モテモテの英二君(応じるかどうかは別)を、必死で落とそうとするアッシュ」より/相当な超解釈が入った結果、こうなりました

1.とあるファン

 電車を降りて、駅から家までは徒歩八分。普段は音楽を聞きながらだらだらと歩くところ、私は小走りで自宅へ向かっていた。
 片手握りしめたスマホに表示された時刻は午後六時五十一分。なんとしても、七時までに家にたどり着きたい。できれば着替えて化粧も落としてリラックスできる状態になっておきたい。そういう一心で、せかせかとアスファルトを蹴った。
 家に着いてからは、もう早業だ。ふき取りシートでメイクを落とし脱いだ服は適当にソファの背もたれへ。1Dayのコンタクトを外してゴミ箱に捨て、そのまま家用の眼鏡を装着。冷蔵庫の中の発泡酒を取り出しソファに腰掛け、テレビを着けてYoutubeへ繋ぐ。「ライブ」の赤い文字が輝くサムネイルを選べば、いわゆる待機画面が表示された。
「間に合った……!」
 達成感と共に息を吐き出し、缶のプルトップを押し上げる。
 テレビから流れるのは、穏やかでポップで可愛らしい曲だ。フリー音源ではあるけれど、私にとってはすっかり「彼」のテーマソングになっている。
 彼……エイジは、私の推しYoutuberだ。
 生まれてから一度も染めたことがないであろう黒髪と真っ黒な大きな瞳、少し太目の眉とつるつるの丸いほっぺたといった母性本能を擽る子ウサギみたいな顔と、案外低く落ち着いた声、それからベビーフェイスとのギャップが光る肉体美が魅力の男の子(二十は超えているらしいけど、どうしても男の子と表現したくなる)だ。Youtuberとしての活動は三年目。
 活動の基本は動画投稿で、週五日ほど。高い身体能力を生かしたパルクールやダンス、クライミング等の肉体系企画が中心だけど、料理を作ったりゲームの実況プレイをしたり他のYoutuberとコラボしたり商品紹介の案件を受けたりと、その内容は幅広い。
 そして、エイジはたまに生配信をする。月に二回やったかと思えば三か月間があいたりと、頻度は様々だ。いつかの生配信で、「配信は余裕がある時にたまにやるくらいかな」と言ったそのままの、不規則な活動。
 つまり、今日がその「たまに」の生配信の日なわけだ。
 スマホでも配信を開くと、コメントを開く。『ギリギリ間に合いました!待機』と、いわゆる待機コメントを書き込んでからなんとなしに他のコメントに目をやって……「げ」思わず声が出た。
 まだ配信が始まってもないのに、スパチャが飛んでる。しかも赤スパで、金額は一度の課金上限である五万円……いや、五万ドルだ。ユーザー名はもちろん「山猫」。
 この異様なスパチャを、コメント欄の人々は気にかけない。見て見ぬふりだ。むしろ少しでも早く話題を流そうとするように、配信開始前に関わらずコメントの流れが早い。
 「山猫」とは、エイジのガチヲタのことだ。エイジの活動初期から彼を熱心に追っている人物で、エイジを応援する人ならなんとなく視界に入ってしまうであろう人。
 エイジの活動初期は熱心にコメントを残していたみたいだけれど、最近はもっぱら生放送での無言スパチャが主だ。それも、配信前の待機時間や配信が終わった後の終了画面のタイミングでなど、エイジが反応しにくい時に投げられることが殆どになっている。SNSなどのアカウントも無い、正体不明の人物。
 実は、私がエイジを知ったのは彼が大いに関係している。
 エイジが初めてバズったのは、とある生配信の切り抜きだった。収益化お祝いの生配信で、ひたすら投げ込まれる高額スパチャに半ばパニックになり、半泣きになって配信を終えたところが三分程度の動画に編集され、SNSで大バズりしたわけだ。
 その慌てっぷりの可愛らしさ、人柄の良さが伝わる言葉選びや呼びかけ、エイジの顔の良さなどなどなど――彼の元からのファンはもちろん、彼を初めて知った人間もエイジに夢中になった。私もそのうちの一人だ。
 そして、その大量スパチャの主こそ「山猫」というわけだ。
 なんでもその生配信の直後、スパチャをオフにした別枠で配信がまた行われたらしい。そこでエイジは、スーパーチャットはありがたいがあまりにも高額を、しかも連続で投げてくるのは心配してしまうし素直に喜べないということ、ハッキリ言って現状では困惑や恐怖が強いこと、活動を応援しての気持ちならどうかエイジのペースや価値観を尊重してほしいこと……を、彼らしい丁寧で優しい言葉で伝えたという。実質山猫に向けての個別配信だ。
 なぜ伝聞調かと言えば、その配信はアーカイブが残らなかった上、エイジが切り抜きもやめてほしいと言ったため、古参ファンのSNSからツギハギした推察でしかないからだ。
 でも、実際そういうことはあったのだろうと思う。以降「山猫」はスパチャ連投はもちろんのこと、普段の動画にコメントを残すこともしなくなったからだ。
 注意されて反省したにしては、毎回五万ドルという大金を投げるのはやめない。しかし、それ以外で存在をアピールすることは一切ない。
 一体彼女もしくは、彼の心境はいかなるものなのか。そして何より、エイジ自身はどう思っているんだろう。
 普段のエイジの活動からは、「山猫」の内心はもちろんのこと、エイジ自身の感情も読めない。だからエイジのファンは、「山猫」にどう反応して良いかわからず、結果腫れものに触れるような対応になっている。
 ――まあ、そんなことどうでも良いといえばどうでもいいんだけどね。
 画面が切り替わり、エイジの姿が映し出される。私はその瞬間、「山猫」のことを綺麗サッパリ忘れた。
『みなさん、こんばんは。エイジです。今日もお疲れ様です。えっと、今日の配信は……
 彼の配信を肴に飲む発泡酒は、極上の味がした。



2.「山猫」

『それじゃあ、また動画でお会いしましょう。ばいばい~』
 画面の向こうで男が手を振っている。
 少し癖があるけれど艶やかな黒髪。大きな瞳はこの世の素晴らしいものを詰め込んだ宝石箱のようにキラキラと光り、小さな銀河系を誕生させていた。丸く傷一つ無い頬は画面越しにも柔らかそうで、その肌ときたら世の女の嫉妬を買わないか心配になるほどにきめ細かい。ぷりんとした唇は健康的に赤く、見つめているとどういうわけか咥内に唾液が溜まってくる。その唇の奥にちらりと除く歯の白と舌の赤の蠱惑的なことといったらない。いかにも少年めいたベビーフェイスと比較して、身体のつくりは殊の外しっかりとしている。身体を動かすためについたしなやかで健康的な筋肉は、そのまま彼の健全さの象徴にも見えた。声も話し方も心を穏やかに丸くしてくれるのにどこかそわそわと落ち着かなくもさせて、「腹の中で蝶が飛び交う」とはこのことかと理解させられる。
 エイジ。それが、彼の名前だ。
 アスランはほうと溜息を吐くと、己の頬に手をやった。触れたそこは、涙でしとどに濡れていた。
 今日の配信で、エイジが何か感動的な話をしたわけではない。ただ、アスランはエイジを見るといつだってこうなってしまうのだ。

 アスラン・J・カーレンリース。彼を一言で表すのなら、「あらゆる意味で恵まれた人物」だ。
 実業家の父と女優の母、後に絵本作家になる心優しい兄という誰もがうらやむような成功者の家庭の久々の子ども。それが、アスランだった。
 広々とした家と惜しむことなく使われる金、何より両親と兄の愛情を受けすくすくと育ったアスランは、その恵まれた環境の中で才能を遺憾なく発揮し続けた。
 五歳の時にギフテッド認定され、十五歳のころには大学院に入る傍ら国の研究チームにも参加するようになった。母に頼まれ気まぐれにカメラの前に立てば、アスランと契約したいエージェントが長蛇の列を作った。アスランの秀でた容姿がトラブルをも惹きつけると思った母の手により入れられた格闘ジムでは次々と好成績をあげ、相棒と呼べるような友にも出会えた。
 二十を超えた今、アスランはいくつもの顔を持っていた。三つの会社を経営する傍らで投資も行い、更には遺伝子研究の最前線にも立つ傍らで貧困や格差に関する社会的なコラムを不定期で雑誌に掲載することもある。常人であれば三秒で精神がイカれるような濃密で多忙な人生を、アスランは涼しい顔して生きていた。
 父も母も兄も、そしてアスランと心通わせた友たちも、決して愚鈍な人間ではない。だからこそ彼らは皆思った。「アスランは特別だ。アスランこそ持つ者だ」と。
 けれど一方、アスランの自認は異なっていた。
 もちろん、自身の環境が類を見ない恵まれたものであることをアスランは自覚していた。父も母も兄も愛していたし、友を大切に思う気持ちだってあった。
 それでも、アスランは日々思っていた。――オレは空虚だ、と。
 そこに根拠はなかった。何しろアスランの人生をどの角度から見たって、満たされていない場所を探すほうが難しいくらいだ。わかってる、そんなことわかりきっている。なんて強欲で恥知らずな人間なんだと己を詰っても、勘違いに決まっていると思い込もうとしてもダメだった。理論も理屈も通り抜け、ただ足りないと、そう思っていた。
 あるいは、アスランがあらゆることに手を出したのはこの空虚が原因かもしれなかった。刹那の忙しさに身を投じていれば、己の空虚に向き合わなくて済むから。
 それでも、日々空虚はアスランの心を蝕む。そうしてアスランがいよいよそれに耐えられなくなりそうになった頃だった。
 エイジと出会った。運命的な出会いだった。
 Youtubeのアルゴリズムがいかなる奇跡的な数値を叩きだしたのか、TOPページに表示された動画。それが、エイジの動画だったのだ。
 そもそもYoutubeで再生するものといえばニュースや作業に適したlo-fi音楽ばかりのアスランのアカウントに表示されたそれは、見るからに異質だった。でも、だからこそ興味を惹かれた。
 サムネイルに書かれた文字は日本語で、翻訳にかければ「パルクールに挑戦!」という内容らしい。中学生くらいの男の子がこちらに向けてサムズアップをしている。彼が、パルクールを行うのだろうか。
 動画の時間はほんの十分程度。丁度休憩をしようと思っていたところだ、と己に言い訳しながら動画を開き――結果、アスランはそのたった十分の動画をその日だけで三十回は繰り返しで見ることになる。
 その動画だけじゃない、エイジが既に投稿している動画(その時点で投稿数は三十四本だった)を全て観て、生配信アーカイブも観て、エイジのチャンネルのあらゆるコンテンツをDLしてクラウドとローカル上に保存した。SNSアカウントを作って彼をフォローし、彼が使う言葉を翻訳ソフトを通さずに自分の頭で理解したいという欲求から、何冊もの日本語教材の本を注文した。
 こんな感情、生まれて初めてだった。そして同時に、ずっと求めていたものはこれなのだと強く確信した。

 エイジの配信の余韻に浸った後、アスランは再びエイジのチャンネルを開く。目的はもちろん、今しがた終了した生配信だ。
 いくらアスランのIQが200以上あるといわれても、エイジの愛らしさ素晴らしさ尊さは到底処理しきれるものではない。しかも今日は生配信だ。地球のどこかで、今まさにこの瞬間、エイジがカメラに向かって喋りかけている――それを思うと、頭は簡単にパンクした。
 だからアスランは、すぐさまエイジの配信をリピートする。エイジの一言一言、一挙手一投足に至るまでを全て脳に刻みつけるために。
『それで……あ、スパチャ、みるみるさんありがとうございます!』
 配信中に投げられた投げ銭に、エイジは丁寧に頭を下げている。アスランはつ、と目を細めてチャット欄に視線を向けた。千円――ガキの小遣いにもなりゃしない。こんなはした金でエイジに名前を呼ばれ頭を下げられる視聴者が憎くそして羨ましくて、アスランはギリリと奥歯を噛み締めた。たった千円ぽっちでエイジの気を惹こうとするなんて、一体どんなアバズレなんだか……
 ――ちがう、いけない!
 アスランはハッとすると、慌てて手元の段ボールから缶ジュースを取り飲んだ。ストレスと疲労感の軽減を謳ったこのドリンクは、二ヶ月ほど前にエイジが案件を受けて紹介したドリンクだ。アスランはその紹介コードから段ボール二箱分のジュースを購入していたので、日々こうして消費している最中なのだ。
 味自体は取り立てて特徴のないフルーツジュースとしか思えなかったが、紹介の際のエイジのコメント「甘くて、でもさわやかで、ふわ~って肩から力が抜ける感じです。確かに、リラックスできちゃいそう」という言葉を思い出すと自然と見知らぬ視聴者に対する怒りがほどけてゆくような気がしたのだ。
 ……いや、見知らぬというのは嘘だ。アスランはあのユーザーを覚えている。アレは度々エイジの動画や配信にコメントを残すが、スーパーチャットを送ったのは二度目だ。しかも前回は二千円だったのに、今回は千円。くそ、許せねえ。
 「チルく」なったはずの感情が再び怒りに染まろうとしたことを自覚し、アスランははぁと息を吐いた。一旦切り替えたほうがいいだろう。
 アスランは配信を止めると立ち上がり、冷凍庫から宅配弁当を取り出し開封してレンジに放り込んだ。これも、エイジが半年ほど前に案件で紹介した宅配弁当だ。決して美味いとは思えないが楽だし栄養面でバランスが取れていることは確からしいし何よりエイジが紹介していたので、半年ほど前からアスランの家での食事はほぼコレだ。
 気付けば時刻は深夜〇時を回ろうとしている。夕食には随分遅い時間だ。だが、アスランが最後に食事を摂ったのは昼の三時頃で、どうせこの後もエイジの配信を見返して明け方頃まで過ごすのだから良いだろうと判断した。空腹は集中力を削ぎ、苛立ちを加速させる。腹を満たしてエイジに集中し、雑音に囚われないようにすべきだ。
 レンジに額を押し付け、そっと瞼を閉じる。ぶうんという電子音に耳を傾けながら、アスランは息を吐く。
 わかっている。異常なのは自分のほうだ。
 エイジに執着し、赤の他人に本気で腹を立て、彼の一挙手一投足を脳細胞に刻もうとする。初めは必死になるあまりやり方を間違えて、けれどそれを咎めた言葉さえ心地よくて、だからどうにかギリギリ許されるであろう範囲でエイジを支えたかった。自分の持っているものならエイジのために何だって差し出したくて、金を注ぎ時間を注ぎ、ついには日本にまで移住してしまった。
 こんなの、どう考えたって普通じゃない。異常だ。
 それでもアスランは、エイジから離れられなかった。離れなくては、と思えば、想像だけで身を引き裂かれるような気になってしまう。心が痛んで目には涙が浮かび、呼吸さえまともにできなくなる。大げさで非科学的な言い方をするのならば、魂がエイジを求めているのだ。
「エイジ……
 名前を呼ぶだけで、心臓が甘く疼く。アスランはまた溜息を吐いた。
 いつか自分の異常性がエイジを害する日が来るんじゃないか。そう思うと、アスランは恐ろしくて仕方がない。
 それでもエイジからは離れられないから、せめてそんな日が来ないようにと、アスランはただ祈ることしかできなかった。



3.エイジ

 誰に言ったって信じてもらえないだろうが、エイジには前世がある。
 そこでエイジは「奥村英二」という人間だった。昔からスポーツが得意で高校の時にはIHや国体にまで出るような選手で、でも最終的にはカメラマンとして大成した。大学時代にアメリカに飛び、その後グリーンカードを取得し生涯をNYで過ごした。アメリカで、一生を変えるような経験を――生涯の友と出会った。
 そういう人間として過ごした記憶が、ある。
 幼い頃のエイジは、これが一体何なのかをあまり理解していなかった。よくわからないテレビドラマがリビングでつけっぱなしになっているのと同じような状態、とでも言えば良いだろうか。そこに確かに存在するけれど、自分にとって意味を持たない「何か」。
 記憶の意味が理解できるようになった頃には、エイジはこれがあまり一般的でないことを理解していた。だからそれを誰かに言いふらしたりもしなかったし、過剰に取り乱したりもしなかった。
 幸いにというべきか、前世を理解できるようになってからも相変わらずそれはテレビドラマのような存在感だった。つまり、そこに在ることは間違いないけれど、ガラスを隔て違う次元の物語だ。自分の感情を揺さぶることはあっても、身体にまでは影響しない。まして、前世と今世を取り違えるようなこともない。
 それでも、影響は確かにあった。
 Youtuberとして活動を始めるとき、その名前を「エイジ」にするくらいには。
 そうしてエイジとしての活動を初めて暫く。登録者数が千人を上回り、収益化に関する様々な機能が解禁になった。それまでは動画投稿ばかりだったけれど、折角だからと生配信というやつをやってみることにした。スーパーチャット機能もオンだ。
 果たしてエイジの記念すべき生配信は、開始三分ほどで終了することになる。開始早々に次々投げ込まれた、巨額のスーパーチャットによって。
「ひいいいい」
 配信を停止してなお、エイジは戸惑っていた。手から脇から背中から、とにかく身体のいろんなところからかいたことのないタイプの汗が出ている。手は震え、寒いんだか暑いんだかわけがわからなくなっている。
 一体、どうして? そりゃ、エイジだってスパチャに期待をしなかったわけじゃない。ちょっとお祝いなんていって、誰かからもらえたりしたら嬉しいかも。そんな下心があった。
 でも間違っても五万ドル(円じゃなくて、ドル!)もの大金を、何度も何度も投げられるなんて想像はしていなかった。夢にみようったって難しい状況だ。
 先ほどの配信の収益がとんでもない額になっているのを見て、エイジはもう泣きそうだった。これって、新手の荒らし?
 そうしてひとしきり戸惑って、取り乱して……ようやく、エイジはスーパーチャットットを寄越してきたユーザーの名前を見た。
「山猫」
 ドクン、と心臓が跳ねる。山猫――つまり、リンクス。それは、奥村英二が何よりも大切にしていた彼を示すような言葉だった。
 どうして、と咄嗟に思った。これまでの動画やSNSで、山猫が好き、なんて発言をしただろうか? いや、違う、もしかしたら――……
 気付けばエイジは、もう一度配信画面を立ち上げていた。心臓はうるさいくらいに鳴っていて、喉はからからに乾いている。手どころか全身が、先ほどまでとは異なる理由で震えている。
「アッシュ、君なの?」
 たまらない気持ちになり、SNSでの報告もそこそこにエイジは再び配信開始ボタンを押した。
……えっと、さっきは、変な感じで終わっちゃってごめんなさい。ちょっと、びっくりしすぎて……
 再会したものの、ノープランもいいところだ。頭もまっしろで、エイジはたどたどしくカメラに向けて語り掛ける。
 視界の隅で、コメントが流れる。大丈夫、とか、さっき何だったの? とか、そういう視聴者の声がエイジに届けられる。――「山猫」のコメントはない。
……あの、さっきの……間違いだと思うので、えっと、Youtubeに報告して取り下げとかできないかとか、聞いておきます。でも、さっきの……山猫さんからも、聞いてみて欲しいかなって」
 配信では、どうしても数秒から数十秒のラグが生じる。エイジが今投げかけた、山猫に行動を促すような言葉――それへのリアクションが届くのは、あと何秒後だろう。落ち着きなくモニターを見て、画面上に表示された秒数を数えてしまう。あと何秒? それとも、もう届いているけれど反応に困っている? あるいは――……
『間違えてない』
 短く、一言。山猫のものだった。エイジは思わず目を見開く。記憶の中で聞いた彼の声が聞こえた気がした。
「間違えてないって……そんな、えっと……
『エイジのために送ったんだ』
『エイジに喜んでほしい』
『エイジ、受け取って』
 積み重なった言葉が、彼の声でエイジの中に響いてくる。エイジはどうしていいかわからずゆるく頭を振ると、「だめだよ、そんなの」震える声で言った。
「だって……だって、そもそも、その、山猫さんは、どうしてそんなに沢山スーパーチャットを送ろうと思ったの?」
 声は微かに震えていた。英二としては、これ以上無い問いかけだった。
 もしこれで、彼もまた前世の記憶があることがわかったら。そして、彼が自分が思うアッシュ・リンクスの生まれ変わりその人だったのなら――……
 英二は祈るような気持ちでチャットを見つめた。そして、
『わからない』
 その文字が表示され、「あ」と小さく声をあげた。
 わからない。……そうか、わからないんだ。
 膨らんでいた期待だか希望だかそういう類のものが、しゅるしゅるとしぼんでいく気がした。そして同時に、そんなことに希望を抱いていた自分が恐ろしくも思えた。
 エイジは「奥村英二」と自分を混同したことはない。そのはずなのに、彼の存在を臭わされただけで簡単に乱された。それは、二十年近く生きてきた人間としての本能的な恐怖だった。
……そっか。じゃあ、なおさら、良くないと思う」
 そして、エイジは選んだ。奥村英二じゃない自分。配信者としての「エイジ」の言葉。
「その……応援しようという気持ちはすごく伝わったけれど、流石に……うん、びっくりしちゃうっていうか……。あんな大金を受け取って、僕が目の色変えて山猫さんが応援したいような僕じゃなくなる可能性もあるし……。うん。そうなったら、お互い不幸かなって……
 「山猫」からの反応はない。反応に困っているのか、今正にコメントを打ち込んでいる最中なのか、あるいは既に放送を離れた後か、エイジにはわからない。わからないから、エイジは精一杯の笑顔で、必死に画面の向こうに語り掛けた。
「応援したいって思ってくれる気持ちは、受け取りました。ありがとう。だから、僕のペースを崩さずこれからも活動できるように、少しだけ応援の仕方を変えてもらえると嬉しいかなって思います。ごめんなさい、こんなこと言って。すごく贅沢でわがままなことを言っているって思います。山猫さんが僕に喜んで欲しいって思ってくれてるんだって思ったから、僕も、正直な気持ちを伝えました」
 配信画面には、今必死で喋っている自分の姿が映っている。これが、視聴者たちに見えている「エイジ」の姿だ。
 黒髪黒目、少し日に焼けた肌や童顔。そういう特徴は、「奥村英二」と同じだろう。でも、違う。エイジの姿かたちは奥村英二とは異なっている。奥村英二はこんなに鼻筋が通っていなかったし、同じ癖のある毛でも今のエイジのほうがずっと小洒落ている。あの頃の奥村英二を知る誰に見せたって、今の「エイジ」と彼が同一人物だとは言わないだろう。
 エイジは奥村英二じゃない。だから、「山猫」は過去のことを思い出せない。
 エイジは喋る片隅でそんなことを考えていた。そう考えたらそれが真実にしか思えなくなって、エイジの心はじわじわと痛んだ。でもこれが何を由来にする痛みかは、なかなかわかりそうになかった。
『わかった』
『悪かった』
 やがて、山猫が寄越したコメントはこうだった。エイジはにこりと笑って頷いた。
「うん。わかってくれてありがとう。皆も、なんだか色々、ごめんね。また配信は改めて挑戦しようかなって思います。その時は、タイミングがあったら遊びに来てくれると嬉しいです。あ、もちろん、動画はこれからも投稿していくから、そちらもよろしくおねがいします。それじゃあ……。あ、この配信は、ちょっと個別のやりとりが過ぎるから、アーカイブは消しておこうかな。切り抜きとかそういうのも、しないでもらえたら嬉しいです。すいません、よろしくお願いします。……それじゃあ、またね」
 カメラに向かってひらひらと手を振る。マウスを操作し画面を切り替えると、十秒待ってから配信を停止した。
 そして配信が間違いなく止まったのを確認すると、エイジはそのままべしゃりと崩れ落ちた。
……ああ、そうか。僕らもう、違う生き物なんだ…………
 声は震えている。瞳からは、気付けばとめどなく涙が溢れていた。それをぬぐうこともせず、エイジはそのままパソコンの前でしくしくと泣き続けた。

 と、これが今世の二人の別れになったのなら、ある意味で美しかったのかもしれない。
 しかしどういうわけか、「山猫」はその後もたびたびエイジの配信に現れては高額のスーパーチャットを残していった。しかも、エイジが反応しない配信後や配信前の待機時間のタイミングを狙ってだ。
 ――これはつまり、どういうことだろう。
 多分、おそらくきっと、「山猫」がアッシュ・リンクスの記憶を取り戻した(そもそも前世の記憶を取り戻すという表現は正しいのかはさておき)わけではないだろう。もしそうなら、きっとアッシュはもっと直接的な方法で連絡をとってくるか、さもなくば徹底的にエイジを避けようとするはずだ。
 多分、思い出していない。それでも気になっている。……ってところ?
 エイジは半ばあきれるような気持ちで山猫からの投げ銭を見つめる。僕も大概だけれど、君も大概こじらせてんな。まるで第三者のような気持ちでエイジは思った。
 もしも彼が今後配信にあらわれなくなったら、それはそれでショックを受けるだろう。自分が「奥村英二」じゃないからなんて詮無い事で落ち込んで、頭の中の記憶を恨めしく思うのかもしれない。いや、あるいは、もっとふっきれてもう二度と前世や過去のことなんて思い出さなくなるかも。「エイジ」としての活動は殊の外大きくなってしまったから、今更改名はできないにしても、もう二度とあの頃の二人のことなんて考えなくなるのかも……
 その想像はどれもありえるようにも思えたし、全く的外れにも思えた。
 とにかく今確かなのは、エイジは今日もエイジとして活動を続けていて、「山猫」は律儀に配信に投げ銭を寄越したということくらいだ。
 奇妙な関係は続いている。少なくとも、今しばらくのところは。