【松日】海に沈むカルテ

アルターエゴ松田と、強制シャットダウンから目覚めたばかりの日向の話
ぼちぼち書いていく松日シリーズ

隔離区画の一室。
電子端末の画面越し、ノイズを孕んだ青白い光の中に、一人の青年が投影されていた。

白衣のポケットへ両手を突っ込み、ひどく目つきの悪い、不機嫌そうな顔をしている。画面の隅では、新世界プログラムの根幹システムへ直接接続していることを示す認証ログが、厳重な警告表示とともに明滅していた。

……一応、初めまして。先生」
日向が硬い声で呼びかけると、画面の向こうの青年は「ああ」と気のない声を返した。
続いて、あからさまに面倒くさそうな溜息を、こちらへ叩きつけてくる。

「先生だのカウンセリングだの、反吐が出るからやめろ。俺はお前の傷口を診るためにいる。慰めるためじゃない」
「なんだよ、最初からずいぶんな物言いだな。こっちは苗木が『新しい相談相手を送る』って言うから、わざわざ時間を作って端末を開いたんだぞ」
「相談相手?」

青年が露骨に眉を顰める。

「あいつ、そんな気色悪い説明をしやがったのか」
「本人を前にして言うことか、それ」
「本人じゃねぇ。本人の記録を基に構築された複製品だ」

こちらの抗議を一息で切り捨て、青年は日向の精神状態を示す波形グラフを呼び出した。
視界を埋め尽くすほどの膨大な数値を、細い指先で冷淡にスクロールしていく。

「新世界プログラムの開発記録に残された、元・超高校級の神経学者。その人格と知識を再構築し、お前の脳を監視するために最適化したアルターエゴ。それが俺だ」
「監視って……また随分と嫌な言い方をするな」
「事実だろ。脳の構造を維持する。異常を観測する。必要と判断すれば、お前の権限を奪ってでも処置を止める。俺に積まれてるのは、そのための機能だけだ」

そこで青年は、画面越しに日向の顔を冷たく一瞥した。

「勘違いするな。お前を慰める機能は、最初からプログラムされてない」
「それはもう、嫌っていうほど伝わったよ」
「理解が早くて助かる。少なくとも会話機能は正常らしいな」
「確認するまでもないだろ!」

反射的に声を荒らげる。
その瞬間、画面の端で波形の一部が変化した。細かく乱れていた脳波が、一拍だけ滑らかな曲線を描く。

青年の視線が、波形へ落ちる。
だが、変化はすぐに消えた。一度きりの反応では、情動による揺らぎか、偶発的なノイズかも判別できない。
日向がその動きに気づくより先に、青年は波形を片隅へ追いやり、別の検査項目を画面へ割り込ませた。

「まず、直近三日間の平均睡眠時間を答えろ」
……ずいぶん急だな。自己紹介が終わったと思ったら、いきなり睡眠時間か?」
「問診に心の準備は必要ない。答えろ」
「三時間くらいだよ。日によって多少は違うけど」
「次。食事の回数と内容」
「一応、ちゃんと食べてるぞ」
「聞かれてもいねぇ言葉を足すな。『一応』も『ちゃんと』も、具体的な数値を誤魔化すための常套句だ」

早くも逃げ道を塞がれ、日向は気まずそうに視線を逸らした。

……一日一回。時間がある日は二回くらい」
「栄養補給用のゼリーも一回に数えてるな?」
「栄養は入ってるんだから、食事でいいだろ」
「それを食事と認めるかどうかは俺が判断する。次、鎮痛剤。過去二十四時間で何錠飲んだ?」
「規定の範囲内だ」
「範囲を聞いてるんじゃねぇ。錠数を答えろ」
……細かいな、お前!」
「お前の脳を診るために呼ばれた。大雑把でいいなら、そこらの占い師にでも任せろ」

矢継ぎ早に投げかけられる質問に、日向は渋々答えていった。
睡眠時間。食事の回数。鎮痛剤の服用量。新世界プログラムへ接続していた時間。頭痛や耳鳴りの有無。意識が途切れたことはあるか。自分ではない誰かの記憶が、唐突に浮かび上がったことはあるか。
問いはどれも簡潔で、容赦がなかった。
日向が曖昧に答えれば、即座にその矛盾を突き、誤魔化そうとすれば、記録された生体データを目の前へ突きつけてくる。

「昨夜二時十三分、意識レベルが急激に低下してるな」
「少し眠くなっただけだ」
「その六分後には脳圧が上昇。視覚野にも異常な刺激が記録されてる。これで『眠くなっただけ』か?」
……疲れてたんだよ」
「便利な言葉だな。お前の脳みそが破裂しても、『疲れてた』の一言で済ませるつもりか?」
「人の頭を勝手に破裂させるな!」

再び、日向が声を荒らげる。
ほとんど同時に、先ほどと同じ変化が現れた。警告域で細かく乱れていた波形が、わずかな時間だけ正常域へ引き戻されている。
松田は目を細めた。
一度なら偶然で済ませられる。
二度目も、同じ感情の直後に同じ領域で反応が出た。
松田は無言のまま指先を動かし、二つの測定結果を並列表示させた。差分の抽出を開始すると、そのまま比較用の解析領域へ固定する。

「それにしても、大した役者だな、日向創」
……今度はなんだよ」
「目覚めた仲間の前じゃ、さぞ立派に振る舞ってるらしいじゃねぇか。リハビリの進行管理に、未来機関への報告。眠ったままの連中を起こすためのプログラム改修。その合間に笑顔まで振りまいてるとは、随分と立派に振る舞ってるらしいな」
「悪かったな。俺が笑ってなきゃ、あいつらが不安になるだろ」
「そうやって、自分の負担だけは計算から外すわけか」

青年が、波形の一点を拡大する。
警告音が鳴り響き、異常を示す数値が赤く明滅しながら画面を横切った。

「数値を見ろ。表面を取り繕っても、精神深層の測定値は正常にならない。表面だけ取り繕ったところで、脳まで一緒に笑ってくれるわけじゃねぇぞ」

日向は答えず、奥歯を強く噛み締めた。握り締めた拳の中で、爪が手のひらへ深く食い込む。

「本島の連中に、異常を知られるわけにはいかないんだ」
「理由は?」
……あんたなら、もう知ってるだろ」
「ああ。知ってる」

青年はあっさりと、傲慢なほど平然と認めた。

「未来機関は、お前の中にカムクライズルが残ってると疑ってる。そいつが再び表へ出たと判断されれば、処分されるのはお前一人じゃ済まねぇ。――だから、誰にも言わずに壊れるのが最善だとでも言うつもりか?」

胸の内を先回りして遮られ、日向は眉を寄せた。

「まだ、そこまでは言ってないだろ」
「言ってなくても分かる。お前はそうやって、自分が壊れる選択だけを合理的に見せる」
「会ったばかりの人間を、勝手に分かったように言うなよ」

苛立ちを押し殺しながら睨みつける。
しかし青年は視線を逸らさなかった。冷徹な瞳が、わずかに張り詰めた光を宿したまま、真っ直ぐに日向を射抜いている。

「やっぱり馬鹿じゃねぇか」
「なんだと?」
「お前が壊れたら、誰がそいつらを起こす。その程度の計算もできねぇ脳で、よく他人を救おうなんて思えたな」
「だからって、何もしないで見てろっていうのか!」
「誰が何もするなと言った? 俺の管理下でやれと言ってる」
「それが気に入らないんだよ!」

ほとんど間を置かず、互いに言葉を応酬する。
まだ名前も知らない相手なのに、奇妙なほど会話が途切れない。日向が反発すれば、青年は初めからその言葉を待ち構えていたかのように、すかさず次の皮肉を返してくる。
胸の内側へ溜め込んでいた苛立ちが、次々と声になって吐き出されていく。
未来機関の査問官を相手にしているときのような、胸が詰まるほどの窒息感もなかった。
この男の前では、無理に「更生した絶望」として振る舞う必要も、未来機関が望む「希望」として笑う必要もない。
なにしろ、少しでも取り繕えば、即座に見抜かれたうえで馬鹿にされるのだ。

……初対面の相手に、よくそこまで言えるな」
「お前の脳に気を遣ったところで、検査結果が改善するわけじゃねぇ」
「最低限の礼儀ってものがあるだろ」
「それでお前の症状が治るなら、明日から敬語で話してやるよ」
「絶対に似合わないからやめろ」
「初めて意見が合ったな」
「そういう意味じゃない!」

日向の声が室内へ響く。
それと同時に、警告域まで上昇していた数値が、ゆっくりと正常値へ近づいていった。
青年はその推移を目で追い、僅かに眉を動かした。
精神的な負荷は高い。睡眠も栄養も足りていない。外部から受けている圧力も、到底無視できるものではなかった。
それでも、日向がこちらへ反発している間だけ、脳の緊張がわずかに緩んでいる。

まだ因果関係を断定するには早い。
少なくとも、もう一度条件を揃えて確かめる価値はあった。

……本当、面倒くせぇ脳みそだな」
「今、何か言ったか?」
「別に」

松田は比較用の記録を隠し、何事もなかったように検査画面を閉じた。
予定されていた問診時間は、いつの間にか大幅に過ぎている。

「今日はここまでだ」
「ああ。俺もそろそろ戻らないと――
「戻る?」

低い声が、日向の言葉を容赦なく遮る。

「作業に戻るつもりか」
……少し確認するだけだ」
「その『少し』が何時間になるか分からねぇ奴の台詞だな。やめとけ。今夜は飯を食って寝ろ」
「あんたにそこまで言われる筋合いはないだろ」
「だったら明日のログで証明しろ。俺の指示を無視して作業に戻ったかどうか、数値を見ればすぐに分かる」
……最初から疑ってるじゃないか」
「疑うだけの材料を、お前が今日一日で山ほど提出したからな」

日向は言い返しかけた言葉を飲み込み、苦々しく黙り込んだ。
松田の言うとおり、いまさら「信用しろ」と胸を張れるような問診結果ではなかった。

青年の指先が、通信終了の項目へ触れる。
その寸前、日向はふと、まだ相手の名前すら知らないことを思い出した。

「待て」
「今度は何だ」
「あんた、元・超高校級の神経学者だって言ったよな。俺の中に残ってる希望ヶ峰の記録には、あんたの情報がなかった。苗木も名前までは教えてくれなかったし……

一度、言葉を切る。
日向は、青白い画面の中に立つ青年を真っ直ぐに見据えた。

「名前くらい教えろよ。これからも顔を合わせるんだろ」

その問いに、画面の向こうのアルターエゴは一瞬だけ動きを止めた。
短い空白だった。
日向には、名前を尋ねただけで、なぜ相手が黙り込んだのか分からない。

その沈黙の裏で、松田の内部システムには、「日向創」という名前に紐づけられた膨大な量の古い記録が呼び出されていた。
希望ヶ峰学園予備学科所属。
カムクライズルプロジェクト被験者候補。
才能への執着、慢性的な自己否定、手術への同意。
そして、最終処置を前に作成された、古い神経学的検査記録の数々――

現在の目の前にいる男と、記録の中に残された予備学科生は、まだ松田の中で完全には重ならなかった。
カルテに並ぶ無機質な文字列と、実際に怒り、言い返し、誰かを救うために足掻いている一人の人間。
その二つが、同じ人物を示しているとは思えなかったからだ。

……俺のことを、知ってるのか?」

日向が重ねて問うと、松田は呼び出していた記録を一瞬で閉じた。

「さあな」
「なんだよ、それ」
「お前が知りたがってる答えが何なのか、俺には分からねぇ」
「俺はただ――
「松田夜助だ」

不意に名前を告げられ、日向は口を閉ざした。
青年――松田は、白衣の襟元を無造作に整えた。

「俺は松田夜助。それ以上でも、それ以下でもない」
……松田夜助」
「覚えたなら、明日も同じ時間に端末を開け。今度は食事と睡眠の記録も提出しろ」
「嫌だって言ったら?」
「明日の問診項目が一つ増えるだけだ。患者が指示を理解できないほど馬鹿なのか、それとも理解したうえで逆らう大馬鹿なのかを判定する」
「どっちにしても馬鹿じゃないか!」
「理解が早くて助かる」

松田は鼻で笑った。
最後に一度だけ、日向の脳波が正常域まで戻っていることを確認する。

「勝手に壊れるなよ、大馬鹿野郎」

それだけ言い残し、今度こそ通信は乱暴に切断された。

光を失ったモニターが、鏡のように日向の姿を映し返す。
頬には血の気がなく、目元には隠しきれない疲労が滲んでいた。

……本当に、なんなんだよ。あいつ」

悪態をつきながらも、先ほどまで頭蓋の内側へ張りついていた重苦しさは、なぜか薄らいでいた。
日向はその理由を深く考えることなく、暗い画面へ向かって、記憶に刻まれたばかりの名前をもう一度だけ小さく呟いた。

「松田夜助……



松田は、日向との通信を切ったあとも、プログラムコードの裏側で検査結果の解析を続けていた。

過労。睡眠不足。慢性的な緊張状態。
どれも深刻ではあるが、現在の日向に現れている神経系の悪化を、完全に説明できるものではない。
本人が申告した才能の使用量に対して、実際に脳へ蓄積されている負荷が、不自然なほど釣り合っていない。
さらに、異常な神経活動が記録された時刻を照合すると、一つの共通点が浮かび上がった。

新世界プログラムへの接続。

日向があの仮想世界へ回線を繋いでいた時間だけ、神経系の数値が不自然な跳ね上がりを見せている。単なる過労なら、これほど規則的な変化にはならない。

誰にも聞かれることのない、真っ暗なデータ領域。
松田は異常値を示す記録だけを隔離し、低く呟いた。

……計算が合わねぇな」

解析画面の上では、日向が新世界プログラムへ接続していた時刻だけを正確になぞるように、異常値を示す赤いシグナルが不気味に明滅していた。