Hnyanko
2026-06-25 23:06:06
5805文字
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君の顔を僕は知らない

春魚さんの許可をいただきまして、盲目兄と悠真の悠アキを書かせていただきました!
春魚さんありがとうございます!


 アキラは、悠真の顔を知らない。

 整っているのだろう、とは思う。彼が部屋に入ってくると、その場の空気がほんの少しだけ変わるからだ。声を潜める者がいる。息を呑む者がいる。視線が一斉に同じ方向へ流れていく気配がある。そういうものは、目が見えなくとも案外分かるものだ。人は美しいものの前で、いつも少しだけ愚かになる。

 けれど、アキラにとっての悠真は、そういうものではなかった。

 朝の光の代わりに落ちてくる、少し低い声。近づくたびに分かる、石鹸と紙と、どこか冷えた夜のような匂い。指先を取る手のひらはいつも丁寧で、けれど丁寧すぎるものだから、そこにある迷いまで伝わってしまうのだ。
 悠真は、アキラに触れるとき、いつも一瞬だけ遅れる。

 その一瞬を、アキラは知っていた。

「アキラくん」

 名前を呼ばれる。
 ただそれだけで、アキラは悠真が笑っているのだと分かった。正しく言えば、笑おうとしているのだと。

「どうしたんだい」

「別に。呼んだだけ」

 短い嘘だった。
 アキラがそれを指摘すると、ほんのわずかに空気が止まった。沈黙。衣擦れ。息を飲む音。それから、困ったように喉の奥で笑う気配。

……目が見えないのに、よく分かるね」

「見えないからだよ」

 アキラは手を伸ばした。悠真のいるはずの場所へ向けて、少し迷いながら宙を探る。するとすぐに、指先へ冷えた手が触れた。掴むのではなく、迎えるような触れ方だった。

 優しい人だ、とアキラは思う。

 優しくあろうとしている人だ、とも思う。

 そういう人間は、いつも自分の傷だけを隠すのが下手だった。

「今、どんな顔をしている?」

「普通の顔」

「悠真の普通は、信用ならないな」

 ひどいな、と笑う声がした。けれど、その笑いは薄かった。柔らかくて、綺麗で、どこにも角がなくて、それでいてどこにも触れられたくないとでも言うように、表面だけをするりと撫でて逃げていく。

 アキラは、その声が少し苦手だった。

 綺麗すぎる声は、悠真自身を遠ざける。

「君は、僕に嘘をつくときだけ、声が綺麗になりすぎる」

 ふ、と悠真の呼吸が浅くなった。

「じゃあ、アキラくんの前では黙っていた方がいいのかもね」

「それは困る。僕は君の声が好きだから」

 言ったあとで、アキラは自分の指先に触れていた手がぴたりと止まったことに気づいた。

 悠真は、こういう言葉に弱い。

 冗談めかした好意なら上手く受け流せるくせに、真正面から差し出されたものの前では、まるで初めて火を見た子どものように立ち尽くしてしまう。熱いのか、眩しいのか、綺麗なのか、怖いのかも分からないまま、それでも目を離せないでいる。

 アキラには見えない。

 悠真がどんな瞳をしているのかも、髪がどんなふうに光を拾うのかも、笑ったときに口元がどう動くのかも知らない。誰かが噂する美しい顔立ちも、すれ違う人の感嘆も、アキラにとっては遠い場所の出来事のようだった。

 その代わりに、知っていることがある。

 悠真は、眠れていない日の朝には足音が少しだけ重くなる。苛立っているときほど、物を置く音が静かになる。笑って誤魔化すとき、ほんのわずかに言葉の終わりが遅れる。そしてアキラの手を引くときだけ、触れていいのか、傷つけてしまわないか、いつもほんの一瞬だけ迷う。

 そんなことを知っているのは、たぶん自分だけだ。

 そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「アキラくんはさ」

 悠真が言った。

 その声は、さっきより近かった。たぶん膝を折って、アキラと目線の高さを合わせている。目が合うわけでもないのに、悠真はいつもそうする。

「僕の顔、見たいと思う?」

 不思議な問いだった。

 けれど、その声の底にあるものがあまりにも静かだったから、アキラはすぐには答えられなかった。指先に触れている悠真の手を、そっと握り返す。

「見たいよ」

 悠真が息を止めた。

「君がどんな顔で笑うのか、怒るのか、困るのか。僕の名前を呼ぶときに、どんな顔をしているのか。そういうのは、知りたい」

 指先の向こうで、悠真の沈黙がわずかに揺れた。

 それは安堵ではなかった。期待でもない。もっと臆病で、もっと傷に近いものだった。

「でも、見えないから好きになったわけじゃない」

 重ねるように言うと、悠真の指が強張った。

 その反応だけで、アキラは分かってしまった。

 悠真はたぶん、そう思っていたのだ。

 アキラが自分の顔を知らないから。人が噂する浅羽悠真という美しい外側を見ないから。だから、そばにいられるのだと。あるいは逆に、顔を知れば、何かが変わってしまうのだと。

 綺麗なものは、誰かに見られるために存在している。けれど悠真はきっと、見られることに慣れすぎて、誰にも見られたくなくなってしまった人だった。

 アキラは、握った手をゆっくりと引き寄せた。

「悠真。顔に触ってもいいかい」

 返事は、すぐにはなかった。

 部屋の外で、誰かが遠くを歩いていく音がする。窓の方から、かすかに風が入ってきて、カーテンが揺れる気配がした。光の量は分からない。けれど、空気の温度で、まだ昼なのだろうと思った。

 やがて悠真は、小さく笑った。

「アキラくんは、時々ひどいことを言うね」

 嫌ならやめる、と伝える前に、悠真がアキラの手を取った。逃げるためではない。拒むためでもない。ただ、ひどく慎重に、まるで自分の方が壊れ物に触れているみたいに、アキラの指を自分の頬へ導いた。

「嫌じゃないよ」

 その声は、少し震えていた。

 最初に触れたのは、滑らかな肌だった。思っていたよりも冷たい。けれど、指先を置いた場所の奥で、かすかに脈が打っている。生きている音だ、と思った。

 アキラはゆっくりと指を動かした。頬の線をなぞり、こめかみのあたりへ触れ、そこから眉の形を確かめる。悠真は動かなかった。ただ呼吸だけが、近くで静かに揺れている。

 綺麗なのだろう、と思った。

 けれど、それよりも先に、寂しい顔なのだろうと思った。

 目元に触れると、悠真がほんの少しだけ身じろいだ。逃げるほどではない。けれど、そこを知られるのが怖いみたいに、触れられた場所から小さく熱が引いていく。

「目を閉じている?」

 悠真は、ごく小さく肯定した。

 どうして、と問えば、分からないと返ってくる。けれどそれが嘘だということも、その嘘を責めてはいけないことも、アキラには分かっていた。悠真自身にも分からないふりをしなければ、立っていられないものなのだろう。

 アキラは目元から鼻筋へ、そこから唇へと指を滑らせた。唇に触れた瞬間、悠真の息が止まる。言葉の多い人なのに、肝心なところで何も言えなくなる。その沈黙があまりにも悠真らしくて、アキラは少し笑った。

「君の顔は、やっぱり綺麗なんだろうね」

……分かるの?」

「分かるよ。声が綺麗で、手が優しくて、嘘をつくのが下手で、僕に触れるときだけ臆病になる。そういう人の顔が、綺麗じゃないはずがないだろう」

 悠真は何も言わなかった。

 ただ、アキラの手首を掴む指に力がこもった。痛くはない。むしろ、縋るような力だった。

「アキラくんは、ずるい」

 吐き出された声は、すぐ近くで頼りなく揺れた。

「目が見えないのに、見すぎる」

 その言葉が、あまりにも寂しかった。

 見られたくないのに、見つけてほしい。触れられたら壊れてしまいそうなのに、触れられなければ息もできない。悠真の中には、たぶんそういう矛盾がずっとあって、けれど誰にも言えないまま、綺麗な顔と綺麗な声で覆い隠してきたのだろう。

 アキラは、悠真の頬に手を添えたまま、少しだけ身を乗り出した。

「僕は、君を見たいよ」

……見えないのに?」

「見えないから、君が隠そうとするものを知りたい」

 君が笑っていないときの声も、泣きたいときの沈黙も、優しくする前に怖がる手も。

 言葉にしていくたび、悠真の呼吸が乱れていく。

「そんなの、知ってどうするの」

「好きになる」

 その瞬間、悠真の指が震えた。

「もう好きだよ。でも、もっと好きになる」

 言ってしまえば、それはひどく単純なことだった。

 アキラは悠真の顔を知らない。これからも、もしかしたら知ることはないのかもしれない。けれど、知らないことが愛せない理由にはならなかった。目が見えないことと、何も分からないことは違う。見えないからこそ、悠真が隠してきた震えも、飲み込んだ言葉も、綺麗な声の裏側にある傷も、ひとつずつ拾ってしまう。

 拾って、抱きしめたいと思ってしまう。

「アキラくん」

 悠真の声は、もう綺麗ではなかった。

 少し掠れて、頼りなくて、情けないほど柔らかかった。たぶん、これが本当の声なのだと思った。

「僕は、君に見せられるようなものなんて、何もないよ」

 否定は、ほとんど反射だった。

 そんなはずがない、とアキラは思う。悠真自身がどれほど自分を空っぽだと思い込んでいたとしても、アキラの手の中には、さっきからずっと、震えるほど確かなものがある。

 優しさも、臆病さも、寂しさも、誰にも見せずに抱えてきた傷も。

 何もない人が、こんなふうに震えるはずがない。

……強情だね」

「君ほどじゃない」

 悠真が少しだけ笑った。今度の笑いは、薄くなかった。

 それから、アキラの手のひらに、悠真の頬がそっと寄せられた。

 まるで犬か猫が懐くような仕草だった。けれど、それを指摘したらきっと離れてしまうから、アキラは何も言わなかった。ただその温度を受け止める。頬はまだ少し冷たい。けれど、さっきよりも確かに熱を持っていた。

「アキラくんは、僕の顔を知らないのに」

 悠真の声は、まだどこか信じきれないままだった。

 それでも縋るように、確かめるように、アキラの手のひらへ頬を寄せてくる。

「それでも、僕だって分かるんだね」

 分かるに決まっている。

 声より先に、その寂しさが触れてくるのだから。

 アキラは頬から手を滑らせ、悠真の髪に触れた。柔らかい。指の間をするりと抜ける感触がして、その人の姿を少しだけもらえたような気がした。

「君が部屋に入ってくる音を知っている。僕の名前を呼ぶ声を知っている。嘘をついたときの息も、寂しいときの沈黙も、手の温度も知っている。それで足りないなら、これからもっと知ればいい」

……欲張りだ」

「そうだよ。君のことだからね」

 悠真は黙った。

 その沈黙は、もう逃げるためのものではなかった。言葉が喉まで来ているのに、形にするのが怖くて、けれど飲み込むこともできない。そんな沈黙だった。

 やがて、悠真はアキラの手を取ったまま、額をその手のひらに押し当てた。

「怖いんだ」

 ぽつり、と落ちた声は小さかった。

「アキラくんに見られるのが、怖い。見えていないのに、怖い」

 アキラは何も言わず、悠真の髪を撫でた。

 怖いのだろうと思った。見られることも、見つけられることも、そのうえで離されることも。悠真はいつも、失う前から、失ったあとのことを考えている。差し出された手を取る前に、離されたときの痛みを想像している。

 だから優しい。

 だから臆病で、時々どうしようもなく遠い。

「君に嫌われたら、僕はたぶん、どうしたらいいか分からなくなる」

 その言葉だけが、どうしようもなく幼かった。

「嫌わないよ」

 即答すると、悠真が短く息を吐いた。信じられない、と言う代わりみたいな呼吸だった。

「信じられなくてもいい。君が信じられるまで、何度でも言うから」

 笑ったのかもしれない。泣きそうになったのかもしれない。アキラにはその顔は見えなかったけれど、手のひらに触れる額の熱が、さっきより少しだけ高くなっていた。

「アキラくん」

「うん」

「僕も、君が好きだよ」

 その声は不格好だった。

 綺麗に整えられていなくて、いつもの余裕もなくて、言い慣れていないせいで少し硬い。けれどアキラが今まで聞いたどの声よりも、まっすぐだった。

 だから、アキラは笑った。

 知っているよ、と言いかけて、やめる。

 今の悠真には、見透かされることより、受け取られることの方がきっと必要だった。

「ありがとう」

 悠真が、困ったように息を揺らした。

……本当に、ひどい」

「そうかな」

「そうだよ」

 今度こそ、悠真が笑った。近くで空気が柔らかく揺れる。アキラはその音を聞きながら、悠真の顔を知らないまま、きっと今この人はひどく優しい顔をしているのだろうと思った。

 見えないことは、欠けていることではない。

 少なくとも、この瞬間だけはそう思えた。

 アキラは悠真の顔を知らない。けれど、悠真が自分の手のひらに額を預けて、子どものように呼吸をしていることを知っている。美しいと言われる顔よりも、誰もが振り返る姿よりも、今ここにある弱さの方がずっと、アキラには眩しかった。

「悠真」

「なに」

「今度は、君から触れて」

 悠真が息を止めた。

 けれど今度は、迷う時間は短かった。

 おずおずと伸ばされた手が、アキラの頬に触れる。壊れ物に触れるような、祈るような手つきだった。アキラは目を閉じる必要もないまま、その手の温度を受け入れた。

 見えない世界の中で、悠真の手だけが確かだった。

 そしてきっと悠真にとっても、アキラの頬に触れるこの指先だけが、今はたったひとつの逃げなくていい場所だった。

 だからアキラは、もう一度だけ言った。

「僕は、君をちゃんと見ているよ」

 悠真の手が震える。

 それから、頬に触れていた指先が、ゆっくりとアキラの輪郭をなぞった。

 まるで、暗闇の中で光を探すように。

 あるいは、ずっと見られることを恐れていた人が、初めて誰かを見ることを覚えるように。