いまさら
2026-06-25 22:52:57
13445文字
Public
 

君への旅

SF風味のカバトガ。

 外での作業に特段の制限や注意のない日だった。視界良好、調査対象群の動きも予測通り。メンバーの体調にも問題なしだ。定刻、持ち場について合図を送るとスピーカーから音声が流れる。
「おはよう。みんな元気そうだな。じゃあ、いつも通り。異常があれば直ちに連絡。必要なら撤退。判断は訓練と相違なく。よろしく頼む。この辺りは特に警報も出ていないが、当然ながら不測の事態は起こりうる。……昨日も言ったが、◆◆区域で作業員が行方不明になっている。あの辺りは環境の変動が激しくて捜索に人員を割けない状況だ。穴に落ちただけならすぐに見つかるはずだ。そう祈ろう。じゃ、今日もご安全に」
 了解。挨拶が終わってまた合図を送る。時間内には持ち場の作業も終わるはずだ。もう少しで休暇だ。家に帰ってもいいし、ここで同僚とツーリングに行くのでもいい。
「ドクターは××と同行願う」「はい」
 追加で音声が流れてきた。××は同郷の作業員なのでよく知っているが、先ほどの指示にぼそぼそと返事を返したドクターとは仕事以外であまり話したことがない。調査士のような役割でもあるし、設計士のような役割でもある。一人何役もこなしているのは知っている。作業員が収集した探査結果を分析し、駅の設計図や建設の工程表を作っているのは彼だという。
「ドクター、こっちに来る道は分かるよな?」
 気さくな声が飛んでくる。××だ。わざわざマイクを通すということは、ドクターをからかっているのかもしれなかった。その後のドクターからの返事がないところをみると個別でやりとりが進んだらしい。そりゃそうだ。ドクターの顔を思い浮かべる。あまりコミュニケーションを好む印象がない。このチームでドクターにあんな態度を取るのは××だけだった。

 宇宙は膨張を続けている。というのが今のところ人類の間では通説らしい。そうであってくれないと困る。こんなに駅を置いて、移動可能距離を伸ばしてもまだ端にたどり着かないのだから。
 駅を設置すればいつでもそこに飛べるのは便利だが、設置だけはいまだに手作業なのが難点だ。これこそ、探査機に任せたいのに。しかし駅を設置する場所は念入りに定めなければならない。磁場や周囲の星との距離は重要で、その場の特性に合った駅を作るのもまた重要だからだ。機械でまかなえない作業があるのは人間の存在意義のひとつでもあり、希望であり、いずれ解決されるべき課題でもある。
 ここで必要となる「作業員」は適性検査で選出される。もっといえば、作業員以外も。子どもたちは各星の学園で寮生活を送り、その中で適正に見合う仕事に振り分けられるのだ。希望すれば仕事を選べるし、途中で別の仕事を選ぶこともできるが、基本的には皆振り分けられた通りに仕事をしている。
 希望を出しても就けないのがこの作業員だった。また、作業員に選ばれた子どもに拒否権もない。そもそも、子どもらが拒否しないように大人たちはさりげなく作業員という仕事をもてはやしていた。作業員に選ばれるのは光栄なことで、これは尊い仕事だ。幼いころからそう刷り込まれて育ち、皆が作業員に憧れた。
 その光栄な職業のなり手に選ばれて、現場に送られてみると、実際、悪い仕事ではない。しかし、どうしてこれがごく僅かな者にしか与えられない仕事なのかは分からなかった。つまり、そんなに難しい仕事ではないということだ。
 作業員以外も、星を出て宇宙空間に滞在する仕事は制約が厳しい。ドクターだって学園での成績が優秀でなければ選ばれない仕事だ。彼らの複雑な仕事──到底自分には成し得ないような複雑な計算や作図──を思えば選出方法にも納得がいく。もしかしたら、ドクターたちも作業員の仕事なんかできないと思っているのかもしれないが。
 あちこち回るには体力がいるんだよ。××はいつかそう話していた。
 では、自分たちはフィジカルが要因で選ばれたのか。でも、フィジカルの能力なんてもはや人類の技術でいくらでも操作できるじゃないか。そう言い返すと、それだけじゃ補えないものもあるからさ、と曖昧に返された。

 ××は不思議な人だ。学園での成績は目立つ方ではなかったが、妙に人目を惹いた。皆彼が作業員になると予感していただろう。
 学園に足を踏み入れた時に、最初に目が合ったのが彼だった。その瞬間に全身に走った衝撃を今でも覚えている。どこかの星には雷という現象があるらしい。図鑑に載っていた写真を思い出した。もしそれが自分の体に落ちたらきっとこんな感じだろうと思った。
「新入生? 最初は部屋に行くんだっけ。集合場所のデータは?」
 決して声を張っているわけではないのになぜかはっきりと耳に届く声だった。空気の揺れが脳内に青い景色を呼び起こす。初めての感覚だった。
 彼は広い空間で迷子になっていた(らしい)自分を部屋まで送り届けると申し出た。データの破損を修復して正しい案内状を見せてくれる。データの不備にも気付かず、記されたとおりの道に沿っていたので自分としては迷子の自覚すらなかったのだ。
「ありがとうございます。あの……せ、先輩のお名前は?」
 先輩、という呼びかけもこのとき初めて使った。そのせいで妙にどもってしまう。
「××。ここではね。君は■■っていうんだな。よろしく」
 彼は案内状の文字を指して学園によって新しくつけられた自分の名を呼んだ。この名を呼ばれるのも初めてだった。
 外での彼の名前は何なのだろう。制服の襟元を見上げながらぼんやりと彼の過去を思いやるが、先ほどの青い景色は既に引いて、もう何も見えなかった。
「目がいいんだね」
 ××が言う。彼を透かし見ようとしたのがばれていたようで気まずくなった。
「すみません、つい、癖で」
「いいんだ、ここでは珍しくないよ。ただ、俺を見てもつまらなかっただろう?」
 慌てて首を振る。見えたものに判断を下したことはなかった。
「何が見えた?」
「何も……
 半分は本当で、もう半分は嘘だ。答えを聞いた彼はつまらなそうに肩をすくめた。
「ここは校舎で、生活棟の真反対なんだ。この調子じゃ他の新入生も迷子になってるかもしれないね。不備があったのが君の案内状だけならいいけど、どうだろう」
 彼はすっかり案内人の顔になっていたが、こちらは数刻前の衝撃に痺れたままだ。あの一瞥で全身の細胞が弾けて変質したような錯覚すらある。水の上を歩くような心許なさのままここに立っている。
「荷物は部屋に送られてるみたいだ。俺は編入してきたから、新入生の動きはよく分かんないんだけど」
「編入?」
「そう。あ、悪いことしたとかじゃないぜ。ただ、前の星には住めなくなったんだ」
「悪いことをしていないのに?」
 聞くと、彼はきょとんとした後に、大きく笑った。
「そうだな、悪いことをしたせいで追い出されたのかも」
 揶揄うように言われて、むっとする。思い切り訝しむ目を向けても彼はどこ吹く風だ。長い脚が真っ白な廊下を進んでいく。置いて行かれないように早足で歩きながら、先ほどまでは歩幅を合わせてくれていたのだと気付いて、なぜ、と疑問が浮かぶ。なぜゆっくり歩いてくれていたのか。なぜ今はそうではないのか。
「時間に遅れそうだ」
 ××は前を見たまま言った。思考を読まれたようで驚くが、悔しさもある。……悔しい? どうしてそう思うのだろう。彼がこちらの言葉に笑った理由が分からないことも、歩幅がこんなにも異なることも、初日から迷子になっていることも、なんだか全部悔しかった。とはいえ、ここの道も自分より彼の方が詳しいので黙って着いていくほかない。
 先ほどから長い廊下を歩いているが、構内の景色が変わらないので恐ろしかった。その間に誰ともすれ違わないことも。
「他に誰もいないの?」
「ああ、今は授業中だから。みんな教室にいる」
「××さんは、授業に出なくていいんですか」
「俺はサボり。だから星を追い出される」
 上機嫌だが、どこか含みのある喋り方が引っかかる。見上げると彼は宥めるように言う。
「気を悪くしないで。いつか君も歴史を習うよ。そのときにさっきのジョークの意味が分かるかもな。そろそろ新入生の生活棟に着く。部屋はここかな」
 彼の指先が案内状を示す。空中に浮かぶ平面はいつの間にか地図を表示していた。一点が赤く光っている。それが自分の部屋らしい。
「ありがとう、ございます」
 たどたどしく礼を伝える。ぎこちなさをまた笑われるかと身構えたが、それは杞憂で、代わりに与えられたのは祝福の言葉だった。
「入学おめでとう。樺木くん」
 どうして名前を知っているのだろう。聞き返そうとした瞬間にベルが鳴り、声が遮られた。
「またね」
 彼はそれだけ言い残して来た道を戻っていく。樺木は呆然とその背中を見つめていた。
 新しい生活への緊張は、彼との出会いの衝撃によってすべてかき消されてしまった。そのおかげで妙に落ち着いて学園の廊下を歩くことができている。
 部屋に荷物が届いているといっても、必要最低限だった。特別に準備するものもないので、集合場所に向かうことにする。殺風景な廊下を歩きながら改めて彼とのやりとりを思い返す。
 不思議なひとだった。故郷の星にも学園はあったが、まだ子どもだった樺木が生徒と関わることはなかった。子どもは子どもだけで暮らすのがこの宇宙では一般的だ。子どもたちの保護をするのは大人の仕事で、仕事とは学園で割り振られるものだと習った覚えがある。
 あのひとは何の仕事をするのだろう。作業員に選ばれるのはきっと彼のようなひとだ。他の誰とも違う特別な輝きを持つひと。他の人と何が違ったのかを考える。何もかもが違った。目が合った瞬間にそれまでの全てが吹き飛ぶような、このためだけに生まれてきたと思えてしまうような、こんな経験は初めてだった。
 案内状が樺木に時間を知らせる。もうすぐ集合の時間だという。空に浮かぶ名前の文字が黒く光っている。ここではこの名で生きていかなければならない。
 故郷での名はデータのどこにも記されていないのに、彼は何故か樺木の名を知っていた。そういう能力の持ち主なのだろうか。透視の能力について聞いたことはあるが、出会ったことはなかった。樺木の目とも違うようだ。
 星から星へと渡れば新たなことを知る。それまでの常識が覆される出会いもある。学園での生活は単調なようでいて、小さな破壊と創造の繰り返しだった。樺木はそこでこの世に常識なんかないという常識を身につけた。

「樺木くん、そっちはどう?」
 不意に通信が入って作業の手を止める。××の声だ。
「それは業務連絡ですか、それとも私語ですか」
「私語だよ、分かるだろ」
「だるいです」
 そっけなく返すと××は笑った。
「休暇の予定は?」
「特には」
「じゃあ、ドライブしようよ。車を借りたんだ」
「車? どこかの星に降りるんですか」
「うん。海、見たことないって言ってたろ。良い星を見つけた。もう許可も取ったし」
「そういうのって、ふつうは先に俺の予定を聞いてから進めませんか?」
「でも樺木くん、誘ったらいつも来てくれるから」
「暇だと思われてます?」
「俺たちみんな暇だろ。じゃあ、休暇は空けといて」
 樺木の常識を構築したと言っても過言ではない張本人は、好き勝手に喋って仕事に戻っていった。
 海を見たことがない。いつか××と喋るうちにそんなことを言ったが、だからといって見たいと思ったこともない。どういう存在かは学園の授業で習って知っている。宇宙空間で仕事をする中で海洋惑星を目にすることもあるので、見たことがないというのは厳密には間違いだろうか。
 ××の故郷には海があったらしい。子どもの頃はよく遊びに行ったと言っていた。彼の故郷は樺木の故郷とは大きく環境が異なっていたようで、樺木にはそれが羨ましく思えることもあった。

  ◇

 今でもあのときの謎は解明されないままだ。
 学園内で次に××に会ったのは、入学式から一週間──地球標準時間での一週間だ──ほど経ってからだった。
「××さん」
 教室を移動する際に彼を見かけて、思わず呼び止めていた。級友と思わしき数人と並んで歩いていた彼は、樺木の呼びかけに立ち止まった。
「この間はどうもありがとうございました」
 樺木が頭を下げると、彼は困ったように視線を泳がせた。友人らに目配せをして「先に行って」と伝えると、彼らは好奇の目で自分たちを眺めて去っていった。何かまずいことをしただろうかと不安になる。
「新入生? ……ごめん。多分、どこかで会ったんだよね。俺、人の顔を覚えるのが苦手で」
「一週間前に、生活棟まで案内してもらいました」
 樺木が答えると××は不審そうに首をかしげる。
「君、俺の名前も知ってるし、嘘をついているようでもないし……
 廊下の白さが眩しい。樺木は心許ない気分だった。自分のすべてが露わにされる気がして、手を固く握りしめる。
 あの出来事が自分の勘違い? そんなはずはない。確かに名前を聞いたし、彼はなぜかこちらの名前を知っていた。それに、あの衝撃が嘘だというなら、きっとこの世の何もかもが嘘だ。
「あの……!」
 樺木が口を開いた瞬間に学園のベルが鳴った。
「新入生がサボるのはまずいよな。生活棟の談話室は分かる? 夕食が終わったらそこに来て」
 ××はそう言い残して廊下を進んでいく。その後、樺木は少し遅れて教室に入り、遅刻の理由を「迷ったから」と述べて級友らに笑われた。前の授業の教室から次の授業の教室までは一直線で、迷いようのない道のりだったからだ。けれど、そんなことは××の前に立つ恐ろしさよりもはるかに些細な出来事だ。それまでなら気恥ずかしさで俯いていたはずの樺木は、今やクラスの嘲笑をものともせずに座っている。教師の声を聞きながら夕刻を待ち望むばかりだった。

 夕食を終えて談話室に行くと、××が先にソファに座っていた。彼は樺木に気が付くと手を振って招いた。
「こんばんは、名前を聞いてなかったね」
「かばき……じゃなくて、■■です」
「■■くん。入学式の日に俺に会ったんだって?」
「でも、勘違いかも」
「どうかな。本当に俺が覚えていない可能性もある。夢遊病って知ってる?」
「眠っている間に、動き回ること?」
「そう。そんな感じで、無意識に歩き回っているうちに君と出会ったのかも」
「授業はサボってたんですか」
「いや、実は授業をサボったことはないんだ」
……
「変なこともあるもんだね」
「驚かないんですか?」
 動揺してばかりの自分とは対照的に××は落ち着き払っている。
「驚くにはちょっと実感がなくて。誰かが俺になりすましていたのかな。でも、そんなことをする意味も分からない」
 ××は脱力してソファの背もたれに寄りかかった。樺木はその姿をまじまじと見る。見間違えるはずもない。それに、今日も彼と話す中であの日の青い景色が垣間見える瞬間があったのだ。同一人物に違いない。
「まあ、これも何かの縁だ。よろしくね、■■くん」
 涼やかな声がそう述べて、今度は樺木の頬を風が撫でていく。数日前の雷とは違う穏やかさだ。しかし風は止まずに今でも樺木の心を小さく揺らし続けている。
 地球標準時刻にして四年の歳の差のせいで、学園生活において樺木と××が接する機会は本来であればほとんどなかったが、樺木は積極的に××の元へ足を運んだ。
 ××本人はどこか冷めているような印象がある割に、彼の周りは常に賑やかだった。いつも先輩や同級生に囲まれていて、そのおかげで樺木はすぐに××の友人らに覚えられた。××を慕う変わった下級生として。
 宇宙では地球標準時刻で数えて十歳になった子どもに学園の案内状が届く。それを機に星を出る子どももいるし、そのまま居住地の学園に入学する子どももいる。
 樺木がいる学園は別の星から来た生徒が多く、樺木もまたそのひとりだった。
「××さんは雷を見たことある?」
 その日の星は雨だったので、何の気なしに聞いたのだ。星によっては住環境を保つために天候管理の装置を用いて天気がコントロールされている。装置で環境が管理されている星では雷を見たことがなかった。雷は不要なのか、再現不可能なのかは分からない。
「ある」
 ××は窓の外を眺めて、短く答えた。
「いいなあ」
 樺木も短く感想を返す。
「そう? うるさいし、危険だし、あまり良いものじゃなかったけど」
 樺木は教室の椅子で彼が課題をするのを眺めていた。どれだけ技術が発達しても、人間は学習というものを避けられなかった。脳内に直接データを送れたらいいのに、と誰もが思うことを樺木も考えた。しかしそれは様々な要因から現代では禁止されている。
 では初めからデータセットされたものを作ってはどうか。それも今は一般的ではない。かつてはアンドロイドと共存した時代もあったそうだが、材料の確保が不安定という理由が主でやがて廃れたらしい。アンドロイドの人権保障について、いつか××たちが話していた。歴史上の話だ。もはやアンドロイドには滅多にお目にかかれない。
「××さんの星に行ってみたい」
「何もないよ」
 ××は何の感慨もなくただそう答えた。自分の星に何があったか、というのは新入生の間でもよく話題に上がる。皆が各々の故郷を誇らしげに語るのが当然だったので、××の答えに樺木は肩透かしを食らった気分になった。
 そういえば、樺木と初めて会った日の××はここに編入してきたと言っていたが、それは今目の前にいる彼とも同じだろうか。聞きそびれていたことを思い出し、樺木は素直に疑問を投げかける。
「××さんはどうして編入してきたんですか?」
 すると、××は手を止めて、樺木を見た。
「君にそのことを言ったことがあったかな」
 感情の見えない問いだった。素朴にも思えるし、怒っているようにも見えた。樺木は後悔しながら補足する。
「入学の日に会った××さんが言ってたんです」
「ああ、例の」
 ××はまた無感情に答えた。きっと怒ってはいないが、あまり前向きな話題でもないようだ。焦る気持ちが消えず、どうにか取り繕おうと言葉を探す。
「××さんは、俺の名前も知ってました」
「名前?」
「生徒名じゃなくて、故郷での名前……
「へえ? そいつ、透視能力でもあるのかな」
「××さんは?」
「そんなのあったらここでこんな課題してないよー」
 ××はペンを放り出して机に突っ伏した。突出した能力がある者は在学中から授業を免除されて作業員になる訓練を積むことができる。透視の力があるものが作業員に就くのかは疑問だが、確かに珍しい能力ではある。××にはそういった能力はなさそうだった。
 あの日会った彼と今目の前にいる彼とはやはり別人なのだろうか。目が合った瞬間の衝撃と、次に会ったときの騒めき。それらは同質のものだ。それなのに、××は記憶がないというので、こちらとしてはもどかしい。あの鮮烈さを自分だけが覚えているのが腹立たしかった。

  ◇

「星がひとつ死んだらしい」
「それで◆◆区域の行方不明が出たんですかね」
「関連する失踪だろうね」

 ようやく迎えた休暇をなぜか××と過ごしている。星へ降りてのドライブということだったので、空路を使うのかと思っていたが、地上を走る車に乗せられたので樺木は驚いた。
「この星、ちょうど今の現場と近かったからさ。たまには四輪車も運転したくて」
「初めて乗りました。こんな旧型車」
「整備がされていて乗れそうなのがこれだけだったんだ。地上で海を見よう。そのために借りてきた」
 車は宇宙空間で乗るものよりも随分と操作が複雑そうだった。××はガチャガチャとレバーを動かしながら道を走っていく。エンジン音も、燃料の匂いも新鮮だった。今時オイルで走行する乗り物なんてない。
「ここはもうすぐ移住先になる。貸切状態も今だけだよ」
「だからか。小綺麗だなと思いました」
「ああ、気味が悪いよね。どこも同じような景色で」
「トガシさんでもそんなことを思うんですね」
 古い名を呼ぶと、彼はにやりと目を細めて「知ってるくせに」と返してきた。
 宇宙空間とは異なり、各星の重力圏内での建設はほとんど機械化されている。作業員も少数動員されるが、駅の建設ほど神経を使わなくてもいい。
 今走っている道もそうして作られたものだ。草木も無造作に生えているのではなく、すべて人類の管理下で生育されている。
「でも、どうして急に海なんですか」
「口実だよ。別に海じゃなくてもいい」
「口実?」
「そう。君と出かけるのに行き先が欲しかっただけ」
 悪くないが、もう一声ほしい。
「でも、わざわざ面倒な申請を出して、車まで借りて星に降りて、っていうのは……
「あー、はいはい。君に海を見せてあげたかったんだよ。後輩をかわいがりたかったの。これでいい?」
 トガシは投げやりにそう言って前髪をかきあげた。大人になってからするようになった仕草だ。少なくとも学園にいる頃には見たことがなかった。似合わない気もするし、さまになっているようにも見える。樺木は彼との年の差を恨んだ。自分の知らない数年があることがもどかしい。彼と同じチームになれたというのに、己の欲望には際限がない。
 星を出て久しぶりに再会した彼はどこか雰囲気が変わっていた。トガシからは「樺木くんは変わってないね」とへらりと言われて、樺木はあなたのその笑い方も俺は知らないです、と思ったのだった。変わりましたね、なんて口が裂けても言ってやらない。認めたくない。
「まあ、よしとしましょう」
 本当は全然よくないけど。これも言ってやらない。俺が欲張りなのも悪い。
 窓の外の景色は単調なままだ。天には青色が投影され──これは浮遊惑星の共通点だ。人類が地球にいた頃の名残らしい──車はその下の長い道を走っていく。
「海も人工ですか」
「海は元からある。陸の方が人工だね。埋め立てて陸地を増やした」
「たまに、怒られないんだろうかって考えます」
 トガシは前を向いたまま無言で頷いた。それも悔しかった。トガシは樺木の視線を許している。肯定も否定もしない、受容だけがあった。とはいえ、嫌なら嫌って言うだろ。言われない時点で肯定と同じでは? 果たしてそうだろうか。トガシのことをずっと見ているが、分からない。
「相手から聞き返されるのを想定した話題の切り出し方だったんですけど」
 正直に手の内を明かすとトガシが吹き出した。がたんと車が揺れる。道路の浅い凹みを通過したせいだった。
「ごめん、続けて。怒られるっていうのは、誰が、何に対して?」
 段々と道が悪くなっている。もうじき移住先になるはずなのに、問題ないのだろうか。
「勝手に星を開拓して、環境を作り変えることを、誰かが怒るんじゃないかって」
「誰か……
「まだ駅を設置できていない地点にも星はあります。そこに生物がいる可能性だってある」
「生物は今でもたまに見かけるね」
「ええ、人間は地球で進化してきましたよね。他の星だって今は自我を持たない生命しかいなくても、これから進化する可能性は十分にある」
「人間はその観察、管理もしてるね」
「それも、傲慢じゃないですか。管理なんて」
 トガシは一瞬だけ樺木に視線を遣って、すぐに前を見た。
「大昔、隕石が落ちてきて地球は死んだ。歴史ではそういうことになっている。同時に、かつて地球上にあった物質を見るに、それらははるか昔に宇宙からもたらされたものだと推測されている。そこから生命が誕生したと。そして今、俺たちはここにいる。星に人間の手が入るのと、星に隕石が落ちることとの違いは?」
 樺木は答えを持っていなかった。ただいつも可住星が増えることに対して漠然とした不安だけがある。
……どうして、活動範囲を広げるんでしょう。人類が暮らすためならひとつの星でも事足りるはずなのに」
「人類全体のトラウマなんじゃない? 故郷の星を失ったのが」
「いくつもあればひとつくらい失ってもいいと? でも、今はもう隕石くらいなら回避する技術を持っている」
「安心ってできないね、生きている限り」
 また車ががたんと揺れる。ゆるい坂道を下っていくと、前方に青い壁が見えた。正確には、壁のような青色の景色。それが空の下方に平行にそびえ立っている。
「あれが……
 樺木は呆然とそれを眺める。写真では見たことがあるし、あれがどういうものなのかも情報としては知っている。生命はあの水の中から生まれたと考えられている。今、樺木が見ている景色はかつて地球にあったものの模倣だが、樺木にとってはこれが本当の海だった。
「どう?」
 運転席を振り向けば彼と視線が合って、にやりと笑われる。どうもこうもない。やっぱり自惚れてもいいですか。だって、俺にこの景色を見せるためにわざわざ休暇を使ってくれてるんですよね。あなたが、自分の意思で。
 樺木は舞い上がる気持ちだが、それを言葉にはしない。ただ、再び前を向いたトガシの横顔を見つめるだけだ。海なんかどうでもいいと言ったら怒るだろうか。
「浜に降りよう」
 トガシが車を止めて、さっさとドアを開けて出ていくので、樺木は後を追うほかなかった。いつもそうだ。こちらが置いていかれないように必死でも構わずさっさと先に行ってしまう。そのたびに腹が立つし、そのたびに彼を追いたい自分を思い知る。
 外は暖かい。暑いといってもいいかもしれない。風はぬるくて、どこかで嗅いだことのある匂いがした。砂浜には弱い波が打ち寄せては引いていく。
「懐かしいな」
「俺にとっては新鮮です」
 トガシが感慨深げに言うのに対して、樺木がそっけなく返す。それを聞いてトガシはくしゃりと笑った。久しぶりに見たような気がする。仕事のときには見せない笑い方だ。
 ブーツで砂浜に降りると足がずぶずぶと柔らかな地面に埋まって歩きづらい。トガシは靴を脱ぎ捨てて裸足で砂を歩いていく。変なところで思い切りがいい。樺木も靴を脱いだ。
 砂は柔らかく、温かかった。環境を保つために星に注がれる光が地面を照らしているせいだった。波や風が絶え間なく空気を振動させて、ふたりに静寂を与えない。
 トガシは波の打つ方へ進んでいき、やがてその足に波が重なった。樺木は不思議な思いでそれに見惚れる。パンツの裾が濡れるのも構わず、彼は水を蹴った。水しぶきが樺木の腕に触れる。樺木も波に近づいて水を踏んだ。ぬるい波が足を撫でて去っていく。波の来る方に進むと緩やかに地面が下がって水が深くなっていくようだった。しばらくそこに佇んで波の動きを眺める。水面が絶え間なく動くせいで静止している方の自分が海の方へ進んでいるような錯覚を覚えた。
「泳いでみる?」
 泳ぐという動作と目の前の景色が即座に結びつかなかった。トガシは樺木の答えを待たずに服を着たまま深い方へ向かっていき、腰のあたりまで水に浸かるところで立ち止まって樺木を振り返る。
「帰りはどうするんですか」
 波風の音に遮られないよう、やや叫ぶように樺木が問うと「なんだ、そんな心配」と鼻で笑われ、トガシはその場でぱしゃりと海に体を倒して、樺木から遠ざかるように泳いでいく。樺木はたまらなくなって水に駆けこんだ。シャツが肌にまとわりついて腕の動きを阻む。波が跳ねて唇に水が
「トガシさん!」
 八つ当たりか、正当なものかは分からないが、ともかく微かな怒りをもって彼の名を呼ぶと、トガシは樺木のもとに泳いで向かってくる。足の着く深さになると水をかき分けながら歩いてきた。
……泳ぐの、上手いですね」
 誤魔化すようにそれだけ言う。海風で目が乾いて、水面の反射が眩しくて、視界が滲む。
「無重力よりは動きやすい」
 樺木はトガシの戯言に「まさか」と短く返し、肌に張り付いた布を剥がすように袖をまくった。
「ラッコって見たことある?」
「ラッコ?」
「そう、どこの星だったかな。そんな動物がいて。海に生息してる哺乳類なんだけどね。仲間と手をつないだり、海藻につかまったりして浮いて寝るんだよ」
「はあ」
 つまり、どういうことだ。この人の何もかもが分からない。樺木が混乱する一方で、トガシは神妙な顔をして樺木の両手を取った。マジでどういう意味なんだろう。
「寝る気ですか? 手をつないで」
「ラッコの赤ちゃんは、浮いている間に泳ぎを覚えるらしい。まずは浮いてみるところからかなと思って」
「俺、泳げますよ。今はあんまり乗り気じゃないだけで」
「そうだっけ」
 じゃなきゃ作業員なんかやってないだろ。選抜の際には水泳のテストもあったんだから。
 じとりとトガシを見やると、何、と問うような表情が返ってくる。樺木はわざとらしく肩をすくめてやった。直後、トガシの背後からやや高い波が寄ってきて、彼はバランスを崩す。樺木は咄嗟にトガシの背に手を回して支え、トガシはそのまま甘えるように樺木の肩に頭を乗せた。
「ごめん」
「いえ……波が強くなってきましたね」
「もうじき潮が満ち始める、戻ろうか」
 トガシが頭を上げるが、樺木は彼の体を離したくなかった。大人になってから初めてトガシに触れた気がする。いつも見ているはずなのに、こうして間近で触れたことはほとんどなかった。そのことに気づいた途端に寂しさや悔しさでたまらなくなる。
「好きです」
 言えた、言ってしまった。達成感と後悔が同時に訪れる。どちらにせよ言ったという事実は消えないのだから、今はその先を続けるべきだった。水中でトガシの手を取ると、彼は「うん」とだけ言って、樺木の手に指を絡める。それを答えとして受け取ってしまいたかった。
「トガシさんは?」
 懇願する思いで彼の顔を覗き込む。トガシは目を細めて樺木の額に自身のそれをこつんと当てると、秘密を打ち明けるような小声で囁く。
「俺は、俺のことを好きな子が好きだよ」
「ずるい」
 泣きたくなって顔が歪むのを自覚しながらも、この男を前にして何かを取り繕うことができなかった。きっとその必要もないのだろう。
「ごめんね」珍しく本当に申し訳なさそうな謝罪が返ってくる。樺木は小さく鼻を啜った。
「パートナーは作らない派ですか」
「うん」
「付き合うのと、手をつなぐのは別ですか」
「そうだね」
「手をつなぐのと、好きなのは?」
「嫌いな奴とは繋ぎたくないな」
「キスは?」
「付き合ってなくてもできる」
「好きじゃなくても、ですか」
「どうだろう」
「俺のこと好きって言って」
 請うと、トガシは樺木の唇に自分のそれを軽く押し付けた。
「しょっぱい」
 そう言って小さく笑うのに腹が立って、今度は樺木が彼の唇を奪う。本当は歯を立ててやりたかった。必死に衝動を抑えて鼻先や頬にもキスを落とす。海水のせいでどこもかしこもべたべたに濡れて塩の味がする。海ってしょっぱいんだな。改めて実感した。人間がここから生まれたと言われているのもどうしてか理解できる気がする。海は涙と同じ味だった。
 薄く開いた唇の奥まで舐めるとようやく塩味が消えた。ぬるくて柔らかな口内に触れながら、これがトガシさんの味なんだ、と思う。脳の奥がちかちかと光るような興奮を覚えて、樺木は自分のことが恐ろしくなった。トガシがこんな無体を許してくれている理由も理解できない。幸せとは安寧ではなく恐怖なのかもしれなかった。
「トガシさん……
 嬉しいのに、どうしようもなく不安だ。だから、確証が欲しかった。
「好きなのと、こういうことをするのとは、別じゃない、ですよね」
 縋るようにトガシを抱きしめる。初めて出会った日とは違う、大人の肉体だった。背も高く、体も厚い。少年の柔さは面影もない。
「ラッコは海の上で交尾をするんだって」
 いつも斜め上の答えを返してくる声だって学園にいた頃よりも低くなった。けれど、それが樺木に見せる景色だけはずっと変わらず美しいままだ。トガシの指が含みのある動きで樺木の腰に触れる。
「俺たちは人間です」
「人間のやり方で確かめようか」
「何を?」
「君が、俺をどこまで許せるか」
「俺が知りたいのは、あなたが俺をどこまで許してくれるか、です」
「何もかも許せるのは、何も許せないのと同じだと思う?」
……分かりません、教えてください」
「うん、俺も知りたい。君をどこまで許せるか、君がどこまで許してくれるか」
 トガシは樺木の額に手を伸ばし、濡れて額に張り付いた前髪に指を差し入れた。視界が広くなって、青い海を背にしたトガシの姿がよく見える。何よりも美しいこの人に許されたら、きっと宇宙で一番幸せだろうと本気で思う。
 自分が彼と出会ったときに見た青い景色は、きっと今この瞬間を予感してのことだったのだ。樺木は幼き日を振り返ってそう確信した。