特務の任務を終えて、帰宅したのは日が昇って随分経った頃だった。徹夜明けには堪える眩しい日差しを背にして、玄関のドアに鍵を差し込む。ガチャリと音を立てて回すと、部屋の奥からドタドタと足音が聞こえた。
(あいつ、まだいんのか)
思わず緩んだ顔をきゅっと顰めて、ドアをゆっくり開ける。まるで飼い主を迎え入れる飼い犬のように、見えない尻尾を全力で振っている神家がそこにいた。
「麗、おかえり!お疲れ様」
「……タダイマ」
神家と同じ部屋で暮らし始めて、決して短くない時間が過ぎた。それでも、未だに慣れないやり取りがむず痒い。
「良かった間に合って」
オレがまだ靴を脱いでいないというのに、神家はいつもより少し高い目線から抱き締める。頭を抱えられるように包み込まれて、息を吸うと嗅ぎ慣れた神家の匂いが肺を満たす。ふっと身体の力が抜けてそのまま身を委ねると、神家の手が頭をゆっくり撫でた。緊張が解かれて、無理矢理顰めた顔はまた緩んで、勝手に瞼が降りる。
「……もう行かなきゃ。麗はゆっくり休んでて」
訪れた睡魔を追い払うように、口唇にキスを落とされる。直後、身体から離れていく温もり。目を開くと、神家は見えないしっぽを垂れ下げていた。
◇◇
──パパ。雨だよ。うーくんがママを迎えに行かなきゃ。ママ、傘持って行ってないから。うーくんが行かないと。
「……っ!」
いつの記憶か分からない夢を見て飛び起きた。現実にあったのか、幼い頃の妄想なのかも、もう分からない。母親だと思っていた女が帰ってくると思っていた頃の夢。
付けっぱなしだったテレビからは夕方のニュースが流れてくる。少しだけ休んでから、家事をしようとソファに座った所までは覚えている。いつの間にか横になって寝てしまったらしい。うたた寝なんかするから、あんなクソみたいな夢を見たのだ。思わず舌打ちが零れる。
『──雨は今夜遅くまで続くでしょう』
ニュースの気象予報士の声につられて窓の外を見ると、この時間にしては薄暗く、ざあざあと雨が降っているのが見えた。
「あいつ……」
ちらり、と玄関に視線を移せば、神家の黒無地の傘と適当に買ったオレのビニール傘が立て掛けられていた。
これは、夕飯の買い出しだ。誰にする訳でもない言い訳を頭の中に浮かべる。ビニール傘を差しながら、黒い傘を握りしめて雨の中を歩く。夕飯の買い出しの前に、ついでにAporiaに寄るだけ。あくまで『ついで』なのだ。
「あれ?麗」
Aporiaの階でエレベーターを降りると、神家と鉢合わせた。神家だけじゃない。ザワと樋宮もいて、面倒なことになったと思った。握りしめた傘2本を身体に隠すように引く。
「救世主だ」
「傘1本で男3人どないして帰ろか〜って話しとったんよ」
近くにコンビニでもなんでもあるんだから、傘くらい買えばいいだろ。そう口から出かけて、はっとする。そうだ。傘なんかそこらじゅうで買える。別に、オレが迎えに来る必要なんかなかった。
「麗はAporiaに何か用事?」
「別に、夕飯買いに近くまで来ただけだ」
言ってからしまった、と思った。こんなの、迎えに来ましたって言ってるようなものではないか。
「俺も一緒に買って帰るよ」
神家のすっと伸ばされた手の意味が分からずに見つめていると、握りしめていた黒い傘を奪われた。
「二人はこれで帰んなよ。後で事務所にでも返しておいて」
「めっちゃ助かる」
「二人も風邪ひかんようにな」
「うん、ありがと」
二人とも、『かみやんは?』とは聞いてこない。こいつがオレが差してきた傘で帰る気だということを、ザワと樋宮も察しているのだろうと思うと、恥ずかしくて居た堪れなくてここから逃げ出したかった。神家がオレの腕を掴んでいなければ、今すぐにでもこの場から離れたのに。
「お疲れ〜」
そう言って、神家はエレベーターに乗る2人を見送る。どうせオレたちもこのまま降りるのだから、一緒に乗ればいいものを、何を考えてかこいつは乗らなかった。
「……まだなんか用あんのかよ」
「ないよ?俺たちも帰ろ」
神家はさっき降りていったばかりのエレベーターの下るボタンを押す。程なくして1階から折り返したエレベーターのドアが開く。腕を掴んでいた神家の手が、オレの手を握り直して、空っぽの箱の中へと引っ張った。
右手に持ったビニール袋が歩く度に小さくガサガサと音を立てる。何も持たない左手は、ズボンのポケットの中に突っ込んだ。神家とオレの腕が時々触れ合う僅かな衝撃で、傘から雫がボタボタと垂れる。
「濡れるだろ……」
「ごめん、麗濡れてる?」
「オレじゃなくて、てめえが濡れてんだろ」
オレの方に傘を傾けるから、神家の左半身はずぶ濡れだった。
「てめえが濡れてたら、オレが迎えに来た意味ねーだろ」
「あるよ」
食い気味に言われた言葉が、傘の中で反響して大きく聞こえる。
「麗といられる時間が増えて嬉しい」
「……そうかよ」
どうして神家を迎えに行こうと思ったのか、と問われたら、オレもきっと同じ答えになることを認めたくなくて、少し濡れたズボンの裾を眺める。
「じゃあ、俺が濡れないように、もう少し近付ける?」
左手に傘を持ち直した神家は、空いた右手でオレの腰を引き寄せた。
「……な゛っ」
ビニール袋がガサッと大きな音を立てて、袋の中で惣菜のパックが傾いた気がしたが、確かめる余裕などない。
「麗の傘大きいから、こうすればすっぽり入れちゃうね」
ちらりと神家の左肩を見れば、確かにさっきよりはマシだった。ただ、あまりにも恥ずかしい。今すぐ神家を突き飛ばして、雨の中一人で走って帰る方がマシだ。腰に回された神家の右手は、それを許さないとでも言うようにしっかりと力が込められていた。
「あと少しだから」
そう、あと少し。あと5分も歩けば家に着く。住宅街で人通りも少ない。せめて、透明のビニール傘でなければほんの少しはマシだったのではないか。
途中すれ違うやつらはみんな、どうせオレたちの事なんか塵ほども気にしていないと思いながらも、傘がひとつしかないので仕方なく、という雰囲気を装いながら歩いた。
「タオル持ってくるからてめえはまだ上がんな」
「はあい」
半身ずぶ濡れの神家はオレの『待て』を聞き入れて、玄関から動かずにいた。バスタオルを渡すと、しまりのない顔で見つめてくる。
「……? 早く拭け。風邪ひくぞ」
「麗」
「なんだよ」
「ただいま」
「……」
別に特別な言葉じゃない。返す言葉も分かっている。なのに、すぐに反応できずに立ち尽くした。
「麗、ただいま」
「…………オカエリ」
絞り出すように言った言葉は、上手く言えなかったような気がする。『ただいま』も『おかえり』も、いつか慣れる時がくるのだろうか。いつもより少し早い心臓を落ち着かせとようと、息を吸いこんだ。今はまだ、言い慣れない言葉をもう一度。
「……おかえり、神家」
「うん、ただいま。麗」
まだ靴を脱いでいない神家が、いつもより少し低いところから抱きしめてくる。
「まだ濡れてんだろ、ボケ」
軽く脚を蹴って、神家の濡れた上着を掴んだ。ちぐはぐな行動に気付いているのは、きっとオレだけじゃない。
「うん。もう少しだけ」
神家の濡れた服から水分がじわじわと移ってくるが、どうせもう着替えるのだから気にする必要もなかった。
「麗、ありがと。迎えに来てくれて」
「……今度はちゃんと傘持っとけ」
「麗が迎えに来てくれるなら、わざと忘れちゃうかも」
「次はないからな」
「ずぶ濡れで帰っても、麗がタオル用意してくれるもんな」
「……アホか。傘持ってけっつってんだよ」
「傘があってもなくても、帰ってくるよ」
昼間に見た夢を思い出して顔を上げると、目の前には優しく微笑む神家の顔があった。
「ただいま、麗」
おかえり、と返したかったが、すぐに神家の口唇に口を塞がれたから、黙って目を閉じた。
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