やまだ
2026-06-25 10:14:56
3027文字
Public 無双オリジンズ
 

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惇紫 怪我の話

 戦場を駆けめぐる騎馬や兵たちが弾いた石粒がたまたま紫鸞の立つ方向へ飛び、そしてたまたま紫鸞の片目を傷つけた。
 幸い瞼からこめかみにかけてをするどく切っただけで、目そのものに損傷はないらしい。従軍していた軍医の見立てに、紫鸞の友人で医者でもある元化も太鼓判を押した。しばらく出血しやすいだろうが視力に影響はない、と苦々しげに付け足したのは、多少の流血や怪我に構わず出陣する紫鸞の気性を知り尽くしているからだろう。
「もしこれが命に関わるような怪我であれば、俺も紫鸞殿を鎖で縛ってでも止めるんですが……
 と、心底悔しげに肩を落としたのも本気だからに違いなかった。朝食の準備が始まる宿営地の外れで元化の報告を聞きながら、思わず隻眼を逸らしてしまった夏侯惇である。
……まあ、あいつが俺のようにならぬのであればよかったと言っておこう。貴殿には面倒をかけるがよろしく頼む」
「ええ、もちろん。それが俺の仕事なので」
 はきはきと答えて布包みを持ち直す元化は、紫鸞直属の配下数名に護衛されて付近の集落へ行くところだ。この向学心旺盛な若者は、慣れぬ行軍にも文句を言わずについて来て負傷者の処置をするうえに、営地近隣に暮らす人々の健康状態にまで気を配る。
「気をつけて行け。日没近くにも姿が見えぬようなら迎えを出す」
「いつもすみません。それでは、行ってきます」
 元化はにっこりすると軽やかに紫鸞の愛馬へ跨った。紫鸞の行動範囲を可能な限り狭めようとする意志が徹底している。
 のどかな蹄の音へ背を向け歩きながら、さて、と顎鬚を撫でる夏侯惇だ。戦後の大まかな処理は済んでいる。この先は他方向から合流しようとしている別軍と連携して動かねばならないため、どれだけの遅延があるのか偵騎を走らせたところだ。最低でもあと数日はこのまま滞陣することになるだろう。そのあいだに紫鸞の負傷は癒えるだろうか。
「おい、入るぞ」
 紫鸞は元化と小ぶりの幕舎を共用しているため、内側に足を踏み入れると酒や薬の独特の臭気がある。薄暗い隅で丸めた毛皮に座り、退屈そうに干し肉を噛んでいた紫鸞は、その臭気の揺らぎを追いかけるようにして夏侯惇へ顔を向けた。
……大した傷ではないと聞いていたが」
 白い布が紫鸞の顔面の右半分をぐるぐると覆い隠している。夏侯惇の呟きに対する返事のように、仏頂面の紫鸞は音を立てて干し肉を噛みちぎった。
「元化がわざと大袈裟にしただけだ。この格好でいれば、俺はともかく周りが慎重になるだろうと」
「そうだな。俺も今のおまえをあれこれ使ってやろうという気にはならんようだ」
「まんまと元化の図に当たってしまった……
「まあ、しばし傷を癒やしていろ。今はさほど急務もない」
「馬鹿を言え」
 苦々しく吐き捨てる紫鸞は珍しく苛立っているらしかった。ふてぶてしく見えて案外わきまえた男であるので、平素の彼ならば夏侯惇へここまでの暴言は口にしない。夏侯惇は夏侯惇で、紫鸞のそういった物言いに瞠目することはあれど腹を立てようとも思わないので、他人の目がない限りは黙殺することにしている。
 干し肉を食いきった紫鸞の前へ立ち、無言で待つ。指先の脂かすまで舐め取ってから、紫鸞はぎろりと夏侯惇を睨め上げた。
「別働との連絡役なら俺が適任だったはずだ。馬に乗れないわけでもない。俺であれば二日で往復できた」
「それか。そうへそを曲げるな」
 少し硬い癖毛に手を置き掻き混ぜる。紫鸞は眉間の皺を深くはさせたが、振り払おうとはしなかった。
「こちらが不利であればおまえの腹に穴が空いていようが走らせたが、勝って終わったのだ。急ぐ理由がどこにある」
「だが」
 今の紫鸞は左目を射られた直後の夏侯惇の姿に似ている。布の下に押さえつけられている怒りは夏侯惇も理解できた。だから紫鸞の礼儀知らずな物言いも聞き流せるのだ。
「紫鸞」
 布は怒りを押さえている。怒りのさらにその下に潜む、傷口よりも鈍く痛みつづけるものの正体も、夏侯惇は知っていた。
「これしきの負傷でおまえの価値は下がらん。そう怯えるな」
 まなじりが切れるのではと疑うほど左目を見開いた紫鸞の、青ざめた唇がわなないた。墓地で幽鬼に出くわしたとて今の紫鸞ほどには狼狽すまい。頭へ置いたままにしていた手を再び左右へ動かした。
「何をそれほどおそれる。単なる擦り傷ではないか」
「だが……だが、俺は、損なうところだった」
「うん?」
「あなたたちに必要なのは、俺のこの眼だろう」
 夏侯惇は無言で片眉を上げた。紫鸞が何やら頓狂なことを言っている。
「もし失明でもしていたら? それでも俺の価値は下がらないと、あなたはそう言えるのか?」
 溜息が出る。そのついでに紫鸞の前に胡坐で座りこんだ。ぎくりと緊張する男の頬を軽く張りつつ、夏侯惇はしみじみと口をひらいた。
「ではおまえは、まんまと敵に射抜かれ片目を失った俺に存在価値はないと、そう言いたいわけだな?」
「そん……そんなことは言っていない」
「言っておろうが。それとも何か、俺の左目ごときと同じにするなと?」
「違う。やめてくれ、その言いかたは」
 紫鸞の相手をしていると、ときたま、いとけない幼児をあやしているような気分になる。それが愉快かつ新鮮でもあるのだが、今日ばかりは徒労感が強い。
 片目であっても露骨に不機嫌な紫瞳を覗きこんだ。先ほどまでよりも今のほうがよほど剣呑なのだから、この男の本質を見せつけられて夏侯惇は力が抜けてしまう。背を丸め、再び嘆息しながら紫鸞を呼んだ。
「あまりのぼせるな。おまえのその眼は確かに稀有な異能ではあるが、俺たちはそれだけでおまえを必要としているわけではないのだ。……紫鸞よ、俺の言っていることがわかるか?」
……惇兄」
 もう一度紫鸞の頬を張る。べちり、と、なんとも間の抜けた音が、間の抜けた顔でいる男を飾りたてた。
「元化殿も俺も、おまえの無事に安堵しているのだぞ。あまり水を差すな」
 片側だけの暁天の瞳がうろっとする。上下左右にせわしなくさまよったあげく、最後に地べたを睨んで落ちついた。
「俺は……あなたの役に立ちたい」
「だから静養してさっさと傷を癒せと言っている。それからでならば嫌と言うほど使ってやるぞ」
「惇兄、俺は」
「まだあるのか」
 さすがに呆れ声を放つ夏侯惇を射抜く紫鸞の瞳は澄んでいる。異能云々は真実優先すべき問題ではないが、この色が失われずに済んだことは僥倖であった、と思う。
……俺は、あなたが左目を失ったとき、ろくな言葉もかけなかった」
 夏侯惇は鼻を鳴らした。何年前の話をしているのだ。
「だが俺の耳目手足よという言に、おまえは頷いたではないか」
 約定は今も続いている。紫鸞は夏侯惇の随行として各地を巡る機会が多く、その都度戦場で結果を出した。
「なぐさめの言葉などかけられずとも構わん。おまえは俺の傍で、俺の足らぬ部分を埋めればよいのだ」
……それでいいのか」
「今まで俺が不足と言うことがあったか」
「ない……
「であれば今は元化殿の言いつけをよく守り、腐らず体を休めるのだ。将と側近が揃って隻眼では格好もつかん。いいか、わかったな、紫鸞」
 うん、と頷く紫鸞ときたら、まるで五歳かそこらの幼児のようで、夏侯惇の手はつい埃っぽい癖毛を撫でつけるために動いてしまうのだ。