引き戸を開けた途端、むっとした空気が肌を撫でる。ただでさえアルコールの火照りが籠った身体には、その感触がなおのこと不快で、この先に進むことに躊躇を感じた。しかし、室内と屋外の境目でぴたりと立ち止まった盧笙の背中を、店員の「ありがとうございました~」という間延びした声と、盧笙に続いて店を出ようとする連れの手のひらが、精神的、物理的に押す。転がるように二、三歩前に出ると、冷房の効いた室内の快適な空気が自分の身体から引き剥がされ、初夏の夜の蒸し暑さに包まれるのをまざまざと感じた。
湿度の高さに、一瞬だけ息が詰まる。その瞬間、盧笙は簓が自宅の泊まっていった夜を思い出した。正確には、簓に先に使わせた後の、浴室の空気を。湯気が水の粒になって、そこかしこから滴り落ちてくるような湿度と、先客のシャンプーやらボディソープやらの香りで満たされた、あの狭い部屋。目の前が曇って、全てのものの輪郭が曖昧になる場所。
ほうっと零れた自分の吐息が、記憶のある浴室の空気と同じくらい湿って熱い、ような気がした。
「お前ら、こっからどうすんだ?」
わずかに酔いの滲む零の声で、茹だりかけた意識が現実に引き戻される。いつの間にか落としていた視線の先では、暗い色のアスファルトに居酒屋の入り口から漏れた光が広がっている。連れ立って店を出た三人の近くを行きかう人通りは疎らだが、大通りの方からは喧騒とクラクションが聞こえてくる。週末を目前に控えた、オオサカの街の夜だ。
屋外だというのに、ごくプライベートなことを思い出してしまった気恥ずかしさに襲われる盧笙の隣で、簓が聞き返している。
「零は?」
「俺はタクシー呼んだ。あと五分もしねぇで着くってよ」
そう言って零はスマホを揺らした。手配の画面をこちらに向けているようだが、周囲の暗さとスマホの画面の明るさのコントラストがきつくてよく見えない。目を細めながら盧笙は、先の零の質問が帰宅する方法のことを尋ねていたのだと、遅れて理解する。
「俺らはどないする?」
くるりと振り返った簓に聞かれ、盧笙は細めていた目を吊り上げて視線を険しくした。
「俺らて、何やねん」
「そんなん、俺と盧笙に決まっとるやろ!」
「決まってへんわ。帰る方向、真逆やろ」
「俺んちは確かに真逆やけど、盧笙送ってくから盧笙んちまでは一緒やん?」
「はぁ? 何言うとんねん。そんなんいらんから、まっすぐ自分ち帰れ」
「おいおい、仲良くしろよ~。おっ、来たか」
声を荒げかけた盧笙を零が宥めようとするが、零はすぐにスマホに意識を向けた。どうやら、タクシーが到着したらしい。
「そんじゃお二人さん、またな~」
仲裁を投げ出した零はひらりと手を振って、悠然と身体を揺らしながら立ち去った。後に残された簓と盧笙はしばらく無言で見合っていたが、居酒屋から別のグループが出てきたのをきっかけに、無用な睨み合いをやめた。
「ほんで? 結局、どないするん」
「……歩いて帰る」
答える盧笙の声には、拗ねたような響きが滲んでいる。しかし簓は、盧笙の声色に気づかなかった振りをして「ほな、俺もそうしよ」と歌うように言った。再び盧笙が目を剥く。
「何でや。お前はタクシー乗っとけや。今日は暑いやろ、それ」
それ、と盧笙は、変装用のキャップとマスクで半分以上が隠れている簓の顔を指差す。すると、大判のマスクの下で簓がにんまりと笑みを浮かべたのが、隠れていてもわかった。
「なんや、俺を心配してくれとんの?」
「そういう訳やない」
「おおきにな、けどええねん。俺も歩きたい気分やから」
盧笙と一緒に。ほろりと零れるように付け加えられた一言に、盧笙はそれ以上の抵抗を続けられなくなった。そこを見計らったように、簓は盧笙の背中に手を添えた。
「ほな、帰ろか」
促されるままに、半ば操られるように足を前へと運びながら、盧笙はさっき居酒屋を出た時に自分の背中を押したのが簓だったことに気づいた。
散歩を楽しむように夜を歩き、盧笙のアパートにたどり着く。
簓は当然のような顔で盧笙の先に立って外階段を上った。目当ての扉の前に立ち、盧笙が鞄を探るよりも早く、簓のポケットから鍵が取り出される。
家主の目の前で、不正な手段で作られた鍵が堂々と使われるのはこれが初めてではない。しかし道中は背中を押され、つい今しがた手を引かれて階段を上った盧笙は、今はそれを看過できない気分だった。
「おい、簓、お前」
「まあまあ、ええやん。俺のが早いし」
鋭い声で咎めてみても、返ってくるのは帰りの道中でも何度も聞いた「まあまあ」と「ええやん」だった。ええわけあるか、と言い返す間に、玄関ドアの隙間に引きずり込まれた。
日中、不在にしていた室内は空気が籠もっていて、湿度ばかりでない息苦しさに襲われる。じわり、と肌の内側から汗が滲む感覚。瞼の裏に、居酒屋を出た瞬間に蘇った浴室のイメージがまたちらつく。
幻に怯んだ盧笙が靴を脱ぐのにもたついている間に、招かれざる客の方はすいすいと上がりこんで、行く先々の電気をつけてまわる。果ては、リビングのエアコンを勝手につける始末だった。ピッ、という電子音を聞き咎め、盧笙はすかさず文句をつけた。
「やりたい放題しおって。まだエアコンいらんやろ」
「いやいや、つけた方がええって! 今朝の天気予報でそろそろエアコン使えって言うてたで。今日なんか、夜でも気温下がらんねんて」
簓がローテーブルの上に置いたリモコンを取り上げ、エアコンに向けて掲げる盧笙の手を、簓は上から自分の手を重ねて押し留めた。手が触れた瞬間に肩がわずかに震えてしまったのを誤魔化したくて、苛立ちを隠さない仕草で簓の手を振り払う。しかし、そんなことでめげない男はすぐさまもう一度手を重ねてきた。
「窓開けたって外暑いやん、ついさっきまで外おったからわかるやろ。見てや、これ! キャップん中、汗でビショビショなってもうとる!」
そう言って、簓は空いている手でキャップの鍔を掴んで脱ぐと、ひっくり返して盧笙に内側を見せつける。ビショビショというほどではないが、キャップからは確かに湿った気配が漂った。
それと同時に、かすかに簓の香りもした。柔軟剤や香水の匂いなのか、簓自身の体臭なのかは実ははっきりしない。家で一人でいる時に思い出そうとしても、花みたいに甘かった気もすれば、果物みたいに爽やかだった気もしてうまく思い出せないのに、目の前に簓がいる時は「ああ、これだ」とすぐに判別できる不思議な香りを、ほのかに知覚した。
盧笙が香りに気を取られた隙に、簓は盧笙の手からエアコンのリモコンをもぎとってローテーブルの上に置く。それから、空になった盧笙の手に再び自分の手を重ねて引き寄せ、軽いキスを一つ。
「……簓」
「ん~?」
名前を呼ぶ盧笙の声が硬いのに気づいている癖に、簓は素知らぬ振りで何度も唇を重ねてくる。盧笙が身を捩ると、簓はあっさりと盧笙を解放した。呼吸の自由を取り戻した口で、盧笙は棘を吐く。
「やめろや、いきなり」
「なんで? ええやん」
また、「ええやん」だ。盧笙が不満げに引き結んだ口にもう一度吸いついてから、簓は上機嫌に宣った。
「俺ら、付き合うとんのやから、したい時になんぼでもキスしたらええやん」
今夜の簓は、いや、今夜も簓は浮かれている。盧笙は自分の両肩に、急にずしりと重量がかかったように感じた。動作し始めたエアコンのおかげで、室内はどんどんと快適な環境に近づいていっているはずなのに、外から持ち込んだ湿った空気が盧笙の周りを取り巻いて、離れてくれない。
水の中で喘ぐように、ようやく口にする。
「俺は別に、したない」
「ええ~? そうなん?」
精一杯の拒絶は、簓には薄笑いで流されてしまった。ゆるみきった簓の顔は、盧笙の反抗が口先だけに過ぎないことを確信している。そしてそれは事実だったから、余計に性質が悪かった。浮ついているのは簓だけではなく、盧笙も同じだ。
一ヶ月半ほど前から、盧笙は簓と付き合っている。
一ヶ月半前。すまん、俺の勘違いやったらしこたまブン殴ってくれ、という唐突な前置きの後、簓にキスされた。いきなりすぎて、触れた感覚はあまり覚えていない。それよりもむしろ、遠ざかっていく簓の唇から零れた熱い吐息が肌を撫でた感触の方を、よく覚えている。嫌かと問われて、嫌ではなかったから、そう答えた。もう一度していいかと乞われて、それにはさすがに躊躇いを覚えて黙ると、簓に強く手を握りしめられた。
ずっと好きやった、ずっとこうしたかった、俺をお前の恋人にしてくれ。火傷しそうな言葉が盧笙の耳に流れ込んでくる。ちょうど、盧笙もキスの直後の簓が初めて見る表情をしているのに気づいて、飛び出しそうなほどに心臓を高鳴らせているところだった。盧笙がぎこちなく頷くと、すぐに簓が飛びついてきた。合わさったまま、食むように簓の唇が蠢くのを感じて、脳細胞が焦げるんじゃないかと不安になるほど、頭に血が上った。そんな経緯で、盧笙は簓と恋人になった。
付き合い始めて最初の週末には、簓に押し倒されていた。ずっと抱きたいと思ってた、そんな言葉と一緒に身体中をまさぐられ、あちこち舐められて、簓の本気を存分に思い知らされた。あれよあれよという間に盧笙は準備のやり方を覚えさせられ、一ヶ月経つよりも前に本懐を遂げていた。それから、たった一ヶ月半の間に既に何度か身体を重ねている。
無理を強いられてはいない。それは断言できる。盧笙は簓のことが好きだ。自覚したのはキスされた瞬間だったが、それは、自分はずっと簓とこうしたかったんだ、という沁みるような気づきだった。肌を合わせることにだって、嫌悪感など全くない。簓に求められる度に、幸福だとも思う。
ただ一つ、ここに至るまでの展開の早さだけが、妙に心に引っかかる。具体的には、簓の振る舞いがやけに手慣れて見えることが。
簓はいつだって盧笙の気持ちを尊重してくれるが、口先だけの「嫌」は決して聞いてくれない。本気とまではいかない拒絶は、いつも「ええやん」の一言で丸め込まれ、押し流されてしまう。そのスマートな強引さ、盧笙がギリギリで耐えられる羞恥のラインを見定めるバランス感覚、そういうものを目の当たりにする度に、盧笙の中にもやもやしたものが蓄積する。
そして積み上がった先で、一つの結論を見つけてしまった。簓にとって、盧笙を恋人にするのは、同性という最大のハードルを乗り越えられるのなら、あまりにも都合のいいことが多かった。
まず、芸能人という身分である以上は多少なりプライベートを詮索されるものだが、その点においてこそこそ隠れる必要がなくなる。盧笙は一般人の身分だがD.R.B.の参加者でもあり、簓とチームメイトであることは周知の事実だ。簓がプライベートで盧笙と一緒にいるところを見られても、ラップバトルのチームの活動か、友人付き合いとしか思われない。その上、簓は盧笙の家に足繁く通っていることをメディア等で公言すらしているので、どれほど他人に目撃されても全く問題ない。
残るリスクは、交際相手からの暴露だが、これもその相手が盧笙であれば心配無用になる。盧笙が簓の足を引っ張ることを、特に仕事面においてそうなることを良しとしないのは、簓も十分以上に承知しているはずだ。ラップの実力はともかく、この面では信頼されているに違いない。
それに思い至った時、盧笙はちょうど風呂に入っていた。あれは簓がオオサカにいない日で、つまり確実にセックスをしない夜で、シャワーを浴びながらぼんやりと、風呂を短い時間で済ませられるから楽だと考えた。そこから、思考がよくない方へ流れていってしまった。
簓にとってこの関係は、主に性欲解消を目的にしたものなのかもしれない。湧き上がった疑念を、振り払うことはできなかった。
身体目当てだったとしても、それそのものは悪いことではない、と盧笙は思っている。盧笙も簓も、お互いにいい大人だ。実際にするかどうかはともかくとして、気持ちが伴わなくてもキスもセックスもできることは理解している。むしろその点において、簓は最初に盧笙の感情を確認した上で、きちんと交際という形を取ってから関係を進めたのだから、誠実すぎるくらいだ。そもそも盧笙を相手に選ぶところからしてリスク管理も万全だし、さすがの抜かりの無さだといえる。盧笙も合意をしているから、そういうものだと割り切って簓の手管を愉しんでしまえば、Win-Winのよい関係になれると思う。
しかし残念なことに、そうやって割り切れるほどには、盧笙はまだ大人になれなかった。下手に恋愛感情の自覚などをしてしまったせいだ。
初めて簓と唇を重ねた時、脳の回路に強烈な電流が迸った。バチン、と回路が焼き切れる音が聞こえそうなほど鮮烈だった。溶けた銅線からパチパチと火花が散る、それが盧笙の恋の発露だった。開かれてみれば、複雑に脳内を走っている回路のあちこちに簓への恋慕が潜んでいた。たぶん、盧笙が気づかないだけでずっと前からそこにあった。出口を見つけたその感情は、ちぎれた箇所から滴り落ちて消えない染みになった。
かすかにきな臭くすらある恋心を、盧笙はもう以前のように無視することができない。簓と目が合えばどきりと心臓が跳ね、簓に触れられれば胸が高鳴ってどうしようもない。
そうなってしまったから、簓の物慣れた様子が余計に胸に刺さってしまう。
「なぁ、汗かいてもうたからシャワー貸してくれへん?」
戯れのような、深みに入ろうとはしない軽いキスを繰り返しながらの囁きに、心が疼く。その後に来るであろう展開に期待が募る一方で、盧笙が抱くのと同じ揺らぎが簓の態度に見当たらないことが憎らしい。今夜はなぜか、特にそれが強い。不快な蒸し暑さのせいかもしれない。これまで簓が触れてきたであろう、得体の知れない人影の幻がちらつくように思えるのは。
「今シャワー浴びてどないすんねん。いっぺんさっぱりしても、その後に汗まみれの服着るんやったら意味ないやろ」
「あるやん、着替え。こないだ部屋着の一式置いてったし、それ以外にもちょろちょろ置いとったやん」
「……お前が部屋着着て、今着てる服抱えて自分ち帰るっちゅうなら、別にええけどな」
いつまでも簓が自宅に帰る前提で話し続ける盧笙に簓も何かを察したようで、にやにやと頬から崩れそうな笑みを消し、キスを止めて口を閉ざした。それから、そっと壊れ物に手を伸ばすように尋ねる。
「嫌?」
何の話や、ととぼけようとしたが、盧笙に注がれる簓の視線が思いのほか真剣で、はぐらかすことができなくなった。盧笙が答えられないでいるうちに、簓が質問を重ねた。
「したない?」
「む……」
難しい問いだった。したいと言えばしたいし、したくないと言えばしたくない、そのどちらも本心だ。簓に求められるのは嬉しいし、盧笙だって欲しい。しかし今の心境を抱えたまま、身体だけ与えられるのは寂しいと思ってしまう。
沈黙を、みたび簓が破った。先の二つの問いよりもさらに声を潜めて、簓自身が壊れ物になってしまったかのような、おそるおそるといった声だった。
「ひょっとして、これまでも嫌やった、とか?」
「それはちゃう!」
想定外の問いを受けて、盧笙は慌てて否定した。あれほど盧笙を尊重してくれていたこれまでの簓の振る舞いを、今さらちゃぶ台を返すように本当は嫌だったなんて言えるはずもない。
盧笙の答えに、簓は強ばりかけていた頬を緩めた。
「ほな、今日は気が乗らんってだけ?」
「まぁ……そういうことや」
「せやったら、どこまでならしてもええ?」
「どこまで、て……」
簓の質問攻めに、盧笙はいよいよ閉口した。矢継ぎ早に問いかけてくる様子は子どものようでもあるのに、その内容には子どものような可愛げはない。しかし、大人同士の駆け引きというほど気取ってもいなくて、正直に言うと少し助かった。普段のように雰囲気を作られてしまうと、たちまち盧笙はどぎまぎしてしまって、あまりものが言えなくなってしまう。それよりは、今のように「ちゅーは? ぎゅーってすんのは!?」などと聞かれる方が、まだ相手をしやすい。内容はどうかと思うが。
「キスはしたやろ」
「あれで終わり!? もうしたあかんの!?」
悲痛な簓の叫びに、鼻白む。これは馬脚を現した、と見ていいのだろうか。
「必死すぎや。どんだけヤりたいねん」
落胆した気分のままで吐き捨てると、簓がぐっと詰め寄ってきた。距離が近くなった分、簓の香りが一段と強くなる。
「そんなん、なんぼでもヤりたいに決まっとるやん」
しれっとした顔でそんなことを宣うのに、呆れすら通り過ぎてしまった。詰められた距離を戻そうとしたが、いつの間にか腰に簓の手が回っていて離れられなかった。じとりと簓を見下ろして苦言を零す。
「とうとう本性出しよったな」
「……本性? 何の話?」
「お前が遊び慣れとるっちゅう話」
「はぁ?」
簓が眉を寄せた。懇願ばかりだった簓の顔に、困惑とともにほんの少し不愉快そうな色が載る。
「図星やろ? いくら俺相手や言うても、さすがに手ぇ出すの早すぎやて」
「……確かに、急ぎすぎた自覚はある。せやから、それ言われてもうたら言い訳はでけへんけど……、そんなん、しゃあないやん」
拗ねたような声を出す癖に、簓は盧笙の腰を抱く手に力を籠めてくる。軽く身を捩った程度では逃れられず、ぴたりと身体が密着する。夏を控えた時期に合わせて薄手の服を着ているせいで、簓の手と身体の熱さがじんわりと伝わってきて、盧笙は焦った。
「おいっ、簓……」
「最初に言うたやん、ずっと好きやった、て」
簓の言葉が耳に入って、盧笙はぎくりと硬直した。最初にキスをされた時と同じ、どろどろに溶けた金属のような熱を持つ声だった。蜂蜜のようにとろりと黄金に輝いて、触れたところを焦げつかせながら盧笙の奥深くまで染み込んでくる。
「ずっと、ずーっと我慢しとったんやで。もう我慢せんでええてなったら、そらそうなって当然やろ」
「我慢せんでええとか、言うてへんけど」
「言われへんくてもそれくらいはわかる……、て、あぁ!」
前触れなく簓が短く叫ぶ。ぎょっとして身体を引こうとしたが、簓がそれを阻止するように両手でぎゅうっと抱きついてきたので、未遂未満で終わった。
「ちゅうか、そないなこと言うんやったら答え合わせさしてや!」
「答え合わせ? 何の?」
「今日、どのタイミングでヤりたなくなったん!?」
あまりに明け透けな物言いに盧笙は目を吊り上げた。
「はぁ!? 何やその、俺がヤりたがっとったみたいな言い草は!?」
「いや、盧笙もヤりたがっとったやろ!? 少なくとも店出た時はその気やった!! そういう顔しとった!!」
「してへんわそんな顔!!」
「帰り、歩いとる間もずっとええ雰囲気やった!! 家入ってからも悪ない感じやったのに、なんでここで急に嫌がるん!?」
「せやから必死過ぎやって!」
じりじりと迫ってくる簓から逃れようと、簓の顔を片手で覆った。ふぎゃ、と短く悲鳴をあげた簓は、盧笙の手の下で機嫌を損ねた犬のような声で唸る。
「どんだけ性欲強いんや……。まぁでも納得したわ。お前なら相手なんか選び放題やろうに、俺んとこ来るなんてどんだけトチ狂っとんねんて思とったけど」
「はぁ~!? 何言うてんねん」
小動物のようなやり方で不満を訴えていた男が、急に流暢に喋りだした。自分の手で顔を覆う盧笙の手を払いのけ、真っ直ぐに盧笙を見上げてくる。
「他の人間とかどうでもええ。盧笙が欲しくて盧笙んとこ来とんねん。それをトチ狂っとるっちゅうんやったら、別にそれでええけど」
「んな……っ」
簓の言葉の意味を理解するよりも早く、全身から汗が噴き出す感触があった。体温が上がり、脈が早くなる。ごうごうとエアコンの稼働する音が聞こえているのに、盧笙と簓を取り巻く空気はむしろ温度を上げたように思える。
「答え合わせしたいんも、これからのチャンスを逃したないって理由ももちろんあるけど、盧笙の気が乗らん時に無理に誘いたないから知っときたいんや。我慢したないのと同じくらい、盧笙に我慢させたない。これまでは顔見たらわかると思とったけど、どうもそうでもないらしいしな」
簓は口角をぐいと上げ、下から覗き込むようにすり寄ってきた。ただでさえ密着していたのが、身動ぎする隙すらないほどぴたりと引っ付く。思わず顔を背けた盧笙の頬に、簓がほとんど唇が触れそうなくらいに顔を寄せ、湯気の立ちそうな言葉を吹き込んでくる。ちらり、と眼鏡のレンズが簓の吐息で曇った。
「俺の見立てやと、あと何分かこうしてぎゅーっとしとったら乗り気になってくれるんちゃうかと思うんやけど、どない?」
「……アホ言うな」
つれなく返して、盧笙は簓の腕を押す。しかし、その手にはほとんど力が入っていなかった。その気になれば簡単に簓を引き剥がせる腕力のある盧笙がそれを実行しないせいで、簓はにんまりと笑みを深くし、盧笙の身体に回した腕にさらに力を籠めてきた。
自分の言動が簓を調子に乗らせていることに気づきつつ、盧笙はどうしても簓の顔を直視できる気分になれずに顔を背け続けている。もし振り返れば、今の盧笙の顔を見た簓がさらに調子に乗ることは必定だからだ。迫ってくる簓と同じくらい、盧笙もにやけてしまっている。
他でもないあの白膠木簓から、いつだって盧笙が心の中で見上げている男から、直接的に「欲しい」だなどと言われて盧笙も調子に乗ってしまっている。芸能界に身を置く麗しい女性たちよりも盧笙がいいなんて、大概簓の目も曇っていると思いながらも、素直に嬉しいと感じてしまうのはやめられない。
「なぁ、盧笙、なぁなぁ」
笑みを噛み殺そうとする間も、簓は耐えず盧笙の本心を訊き続ける。この分では、さっき披露された簓の見立ては外れそうだ。簓はあと数分と言ったが、盧笙はおそらくあと数十秒もしないうちに、頷くことになるだろう。
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