やがて付き合う話

平和軸
ナンパする男と利用しようとする男
たまにレスバでまつだが勝ってほしい

 指先を少し曲げ、松田という男は餌の話をした。
「こう、やってなぁ」
 酔った男の横顔は精悍さをやや欠いているが、この年のわりにつるりとしていて見やすいので、山田はつい見てしまった。
「餌をつけるんやけど」
「へえ、生き餌を?」
「そっちの方がよく釣れるからな」
 松田は体格のいい肩と胸を揺らし、木製のカウンターに肘をついた。すぐ目の前にマスターが来て、ジョッキを下げる。よく来る飲み屋で、たまたま会った隣の男が、最近見つけたいい釣り場の話はまだ続く。
「餌をまいたら、あそこは待ちが長くてな」
「そうなんですか」
 膝の上には手を乗せて、指先を握られている。自分も大概酔っているし、いい気持ちだった。その指先同士に爪を立てて、甘皮を軽く引っ掻いてやる。
 顔が好みで、さっきから話す内容もぽろぽろと単純だ。個人情報もだだ漏れ。最悪の場合、ホテルの後でハプニングがあったとしてシラを切られても、松田の所在を簡単に割り出して弱みを握ることができる。時々奢ってもらい、欲求を満たすくらいには動いてくれるだろう。好みの男がいいようにされていくのは、優越感がある。山田はそうしてナンパに乗って、いいように相手を適当にあしらい、飽きれば次へと移るのが気ままに過ごせていいと思っていた。特定の男女を作る気もない若いうちは、そうして自由にしていたい。できれば今回のは、長くってくれたら嬉しいんだけど、と松田の酔いに負けた赤い目尻を見つめる。
 ただ──肝心の、松田の職場がわからない。よく釣りに行くスポットを聞けはしたが、そこからこれまでの話を結びつけようとしても、住んでいる場所がどのあたりで、職場の駅がどこで、どう通っているのかなど、会話の糸がもつれてほどけなくなる。ストレートに職業は? と聞いても「会社員」とだけ。こちらとしては企業名も、役職も、できれば人間関係も洗っておきたいのに。そうすればライター業でなにかあったとき、コネクションにもなるかもしれない。
 酔っているせいもあるが、単純な男のようでどうもなにか一つ、溝を感じた。
「武田くん、やっけ」
「はい」
「広告の仕事、えらい大変やな」
 不意に向けられる優しさ。引っ掻いた爪を逆に弄ばれ、カウンターの上に揃えて置かれる。その上から松田が改めて山田の手を握る。松田の酒を持って来たマスターは、ああ、と得心した顔になる。
 指の股の間をやけに器用な指が通って、撫でて持ち上げ、そっと遊ぶ。山田は尾骶のあたりがもどかしくざわつき、その痺れが頭まで伝いそうなのを懸命に堪えた。今日はついているなぁ、などと思いながら。

……あくまで、今後のためだろ、山田ガスマスク)
 ノートパソコンの前、気づけばすっかり薄暗くなっている部屋の真ん中で、山田は唸っていた。
 ──朝帰りをした後、シャワーをもう一度浴びて帰宅し、そのままパソコンに向かった。朝の鳥の声すら聞こえて爽やかだったはずなのに、二日酔いの頭はぼやけて視界も悪くする。二時間ほど仮眠を取った後にふたたび画面に向かってキーボードを打ち込んだ。とにかく松田についてを調べた。
 しかし、調べれば調べるほど指が止まる。ソファに腰をつけた途端、尻から胸にかけて余韻が走った。特に服が擦れるだけで胸は敏感になっていて、自宅のリビングだというのに変な声が出そうになった。襟足のあたりをそっと手で覆えば、指の腹にわずかな引っかかりを感じて、そこの皮膚が犬歯の尖りのせいでえぐれている。朝食はもはやいらないし、腹の奥はずっとぽっかりと寂しい。
(ちくしょう)
 爪を噛んだ。そこも昨晩、男に泣かされ、自分で踏みとどまるために噛んでいた箇所だ。パソコンのブルーライトが暗くなっては山田によってつけられ、また暗くなり、何度も打ち込もうとして手が止まっていることを自覚させられた。
 気を引き締めるために頬を叩き、キーボードを押し込む。
 ──やがて山田が見つけたのは、あの酔った表情ではなく、睨むように前を見ている証明写真のような写りの松田だった。彼の釣り仲間らしきSNSから、ようやくここまで辿ることができたころには、もう夕暮れを過ぎていた。論文が数年前に提出されていて、それがシンポジウムで発表、という記事の中に松田の名が刻まれている。これだ、これだ! と山田は笑った。
 厄介なのは松田に彼女や妻子がいるかどうかだが、そこも追々調べていくか、直接会って聞けばわかる。上野古代史博物館──休日の予定が珍しくずいぶんアカデミックだ。取材やネタ探しでも、久しくこういった場所は行っていない。泥臭いゴシップや揚げ足取りの記事に、こういった場所にてんで縁がない。
 さてどんなことを言って弱らせようか。人脈はこの業種で限りなく大事で、できることなら途切れさせたくないものだ。ちょうど、堅い職業の人のつながりが、今後のためにも欲しかったところだ。
 そう思っていた矢先、ようやく落ち着きかけていた余韻と熱が背筋を走る──仕事のため、と言い聞かせ、山田はスケジュールを書き込んだ。

 ◇

 この後は芸能事務所のマネージャーと打ち合わせの予定だった。それから退屈な会食が一つ。それをいい感じに切り抜けて、どこかのカフェでパソコンを開こうと。そして夜には友人のきのこ辺りに連絡をして、今日の話を面白おかしくするんだと決めていた。
 ──あのさ、山田。心霊関係をやってるとね、生き霊ってのも聞くわけよ。
 ──なにそれ。信じてんのきのこが。
 ──生き霊はさ、どこまでもついてくんの。生きながらにすでに霊を帯びるほど、相手に取り憑いて離れたくないとか、そういう思いの強さがあるんだよ。
 ──ふうん。
 ──あ、信じてない⁈ きのこさんはさ、心配してるんだよ。そういう恨み、山田は買いまくりそうだしさ〜。
 ──だからって助けてくれないんだから、口先だけでしょ。
 ──いやだって怖いし! きのこさんも同じ目に遭いたくないし!
 いつかそう言っていた友人の声が、耳の奥辺りで蘇る。応接室で紙カップのコーヒーの湯気が立ち、二人の間を穏やかに流れ、換気口の音がして、高い天井にはステンドグラスがついている。「えらい豪華やろ、お客さんにお偉いさん多いからなァ」そう言って男──松田は笑ってソファに座っている。
 ──でもさ、怨恨より怖いのは愛憎だよ。
 きのこの声を思い出しながら、冷めていくコーヒーと同じくらい、体温が下がっていく。
「ここまでよく辿りついたな、ま、当たり前か。今どきの広告業界はエゴサもお手のもんやんな」
 営業と制作の窓際言うてたわりに、やるやん? と松田はコーヒーを一口啜る。
「ああ、ちゃうか。会社やのうて──フリーランスのウェブライターやからか、調べんのも時間かけてじっくりできるわな」
 松田のことを調べ上げるあの時間すら見透かされているようで、山田は唇を噛む。
「いろんな記事で揚げ足取りしながら、業界人の痛いとこ突いてったりしてるそうやんか」
 松田はそう言ってカップを置き、目を伏せて飲み干した底を見つめる。
「もういっぺん言うけど……武田くん。山田ガスマスク、って名前、なんでガスマスクって付けたん?」
 それは──ここに入って来たときと同じ質問だった。山田の方が先手を打とうと口を開きかけたとき、その口を手で塞がれ、見下ろしながら体を寄せられて。山田の体が熱を覚え過ぎているせいで、咄嗟の判断が鈍った。期待してしまった。松田とのたった一夜のことだけで、不覚にも踊らされてしまった。
「今度のデート、どこ行こか」
 あんたになんて、誰が。そう言いかけて、言い淀む。脳裏に焼き付いているのはいつかの夜のことだ。性欲に支配されるなど笑えてくる。「仕事終わりなら、明日空いとるけど」といつの間にかイエスとしか答えられない空気の中、ホテルのベッド、枕に押し付けられた自分の頭が、呼吸を忘れるほど善がったあの日を思い出す。
……松田さん、僕のこと好きなの?」
 陳腐で臆病な答えを求めたがることくらい、いいだろう。この答えの如何で、山田は少しでも優位に立ちたかった。
 それくらい、主導権を譲ってくれよ。そういう山田の願いはこの後の松田の言葉によりわずかながら叶えられる。できれば、そして。
「そうやなぁ、ガキの遊びに付きうたろ、思うくらいには燃えたかな」
 ──絶対にこれから先、振り向かせてやると思いながら。