溶けかけ。
2026-06-22 22:24:03
3589文字
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海の花嫁~外伝~ サンプル


序章 夏の始まり



 灰色の厚い雲で覆われた冬が終わり、草花を青々と茂らせる初夏の日差しが王都に振り注ぐ頃になると社交と議会を終えた貴族たちは窮屈なタウンハウスを出て、羽を伸ばせる領地へと帰って行く。
 なかにはカントリーハウスには帰らず、王都から避暑地として有名な領地に赴いて長い休暇を楽しむ者もいる。そのため、貴族街は旅の必需品を買い求める貴族で賑わい、そわそわとした雰囲気に包まれていた。

 それはつい先日、想いを確かめあったばかりの大公夫妻も例外ではなく────…………
「避暑?」
「ああ。私が所有する領地は王都より北にあり、こちらに残るよりは快適に過ごせるだろう……。君にとっても……この子たちにとっても良いのではないかと思うのだが、どうだろうか?」
 ヌヴィレットは膝上の愛妻の髪を掻き分けると項にキスを落として薄い腹を擦った。
 どこか情事を思わせる愛撫にフリーナは体をふるりと震わせる。
「──ッ、でも、キミ、仕事は……?」
「新婚ということもあり、二人とも『快く』休暇申請を受理してくれたのだ……
 妻の反応に気を良くさせたヌヴィレットは上機嫌に答える。
 ────絶対、嘘だ。
 フリーナは忙殺されているであろう双子の友人と白いふわふわを脳裏に思い描き、心の中で合掌をした。
(ごめん。空、蛍。僕では彼を止められない……
「────ということなのだが……如何だろうか?」
「うぇっ!? ……あ、ええっといいんじゃないかな!?」
 王城にいるであろう三人に思いを馳せていたフリーナは水を向けられて反射的に頷いた。
(ま、まずい……何一つ聞いてなかった……。仕方ない。会話の中でヒントを探っていこう……
 居住まいを正し、ヌヴィレットを直視すれば、ヌヴィレットが嘆息した。
……その様子だと聞いていなかったようだな」
「ええっと……これは、その、ごめん……
 良い言い訳が見つからず、フリーナは早々に白旗を上げた。
「いや、構わない。だが、少々嫉妬してしまうな」
「嫉妬って……空たちにかい?」
 フリーナは目を丸くする。ヌヴィレットはそんな彼女の様子を見て、「ほう……」と呟くと目を細めた。
「君は私と共にありながら、彼らのことを考えていたのか」
 きゅっとヌヴィレットの細い瞳孔が獲物を見つけた猛禽類のように細くなり、フリーナは勢いよく首を左右に振った。
「ち、違う! ……い、いや、違わないけど! こ、これは浮気とかそういうのではなくてだね……!」
「もういい」
「んむっ……!」
 泡を食ったように言葉を連ねるフリーナの唇にヌヴィレットの唇が重ねられる。ざらりとした舌に乞うように口唇を撫ぜられて、背徳感に背筋がぞくりとするが理性を総動員させて口を固く引き結ぶ。
 しばらくして整った顔が離れ、今度は耳元に薄い唇が寄せられる。
…………フリーナ」
 低く、色香を纏った声で名を呼ばれ、フリーナの身体がじんわりと熱を帯びていき、下腹部がきゅうと切なく疼いた。   
「だめだって……
 言葉とは裏腹に潤んだ瞳が物欲しそうにヌヴィレットを見上げていることをフリーナは知らない。教えるつもりもない。
 それは夫である自身だけが知っていれば良いことだからだ。
「何故かね? 私たちは夫婦だ。ならば親愛の情を交わすのは褒められこそすれ、厭われるものではないはず……」   
 長い指先がフリーナの細い首筋をなぞる。
 大きな手に縋るように火照った頬を押し付けてしまうのも、指を絡めてしまうのも、全部、ぜんぶ、ヌヴィレットが悪いのだ。
「でも、いまは……
「今は?」
 窓の向こうで燦々と降り注ぐ陽光は未だ天高く、青葉を付けた枝の上にいる小鳥たちが室内を覗き込む。
「うん?」
 室外から室内へと視線を戻せば、短くなった髪にヌヴィレットが口づけを落としている最中であった。
 話の先を促しながらもやめるという選択肢はないらしく、髪に口づけられる度に吐息がかかるのがどうしようもなく面映ゆい。顔を背け、抵抗を試みてもヌヴィレットはくすくすと笑うだけだった。
 やがて、ひんやりとした唇はフリーナの露出した肌を掠め、時折強く吸い付いては所有の証しを刻み込んでいく。
「あっ……んんっ……!」
 触れられたところから波紋のように熱が広がっていき、酩酊感が体を包み込む。思考はふわふわとして曖昧で、体も水面のようにゆらゆらと揺らめき、現実から引き離されて、彼の一挙手一投足に呑み込まれてしまいそうだ。
「だ、だめ、だって……まだ昼間、だし……
 見た目よりがっしりとした胸板を押せども、フリーナの細腕ではやはりびくともしなかった。
「彼らは気にしないと思うがね? 寧ろ、君と私の仲を喜ぶことだろう……長年、浮いた話一つなかった私がこんなにも君に恋い焦がれているのだから……
 ヌヴィレットがフリーナの耳元で囁き、視界が反転する。
 背に伝わる滑らかな革とスプリングの軋めきに押し倒されたのだと理解した。
「あっ、こらっ……〜〜っ!」
 唇を奪われ、舌を絡め取られる。
 ワンピースの裾から入り込んだ悪戯な手がしなやかな足を撫で上げ、雪のように白い太腿を暴き出す。
(──ああもうっ!)  
……だ、だめだって言ってるだろう!」
 自由な両手でヌヴィレットの唇を摘み、押し返す。その姿は宛らアヒルのようで笑いを誘った。
「まったく、油断も隙もないんだから……
込み上げてくる笑いを堪え、居住まいを正したフリーナは自らの夫を睨め付ける。
「君も存外乗り気なように見えたのだが……私の気のせいだったのだろうか……?」
 図星を突かれてどきりとする。
 惚れた弱みというべきか彼女はめっぽうヌヴィレットに甘く、求められるとつい体を許してしまうこともあった。
 そもそも、フリーナは大公夫人である前に思春期真っ只中の少女である。年相応にそういった方面に対しての好奇心は人並みに持ち合わせている。
 寧ろ、余すところなく拓かれたせいで単純な戯れにすら大仰な反応を示す程度には心も体も陥落してしまっていると言えた。
 そこまで考えて、フリーナは急に恥ずかしくなった。      ────僕、彼のこと、好きすぎないか?
 頬に熱が集まっていくのを感じながら誤魔化すように咳払いをして、ヌヴィレットに体を向ける。
「仮に、僕が乗り気だったとしてもダメなものはダメだ」
「そうか……
 肩を落とすヌヴィレット。
 他者から見れば、「え? いつもの無表情でしょ?」と言われるその顔がフリーナには捨てられた子犬のように見えていた。
(うぅ……その表情は少しずるくないか……
 子を宿してからというもの、夜伽の回数はめっきりと減った。母子への影響を考えてのことだった。
 しかし、一度教え込まれた快感はなかなか忘れられるものではなく、行き場のない熱をもて余す夜もあった。
 そんなときはヌヴィレットがいち早く察知してベッドへ連行するか、フリーナが恥を忍んで夜のお誘いをすることで成り立っていた。
 
 幸いなことにフリーナの経過は良好で、シグウィンによれば体調に気をつければ多少の行為は悪いことではないらしい。
(だけど、こんな顔の見える昼間からなんて……!)
 薄暗がりに浮かび上がる均整のとれた身体に薄らと滲む汗。
 瞳は爛々と輝き、吐息混じりに呼ばれる声はどこまでも甘く──
 フリーナは疼き出した下腹部にそっと手を当てて煩悩を振り払う。夜のことを思い出しただけでこれなのだ。明るい部屋でなんて、とてもではないが、色香やら何やらに耐えられる気がしない。
 ただでさえ、こちらから誘うなんて淑女らしからぬ行いに手を染めているというに。
 横目でこっそりとヌヴィレットを盗み見る。
 彼はまだジメジメと落ち込んでいた。
「ヌヴィレット……
「何か……?」
 顔を上げたヌヴィレットの唇をフリーナが奪う。
 深いものではなく、啄むかのような軽いものだ。
「えっと……その……
 フリーナからの口づけにヌヴィレットは驚愕し、呆然としていた。
「今はこれくらいで……ええっと……続きは、夜、に……
 消え入りそうなほど小さな声でフリーナはヌヴィレットに囁いた。羞恥と不安に押し潰されそうになりながら堪えるように唇を噛み締めて真っ直ぐにヌヴィレットを見据える姿は酷くいじらしい。
 ふ、とヌヴィレットは口元を緩めるとフリーナの髪を梳いて耳輪にかける。
 季節外れの紅葉のように色づいた耳に唇を寄せて、ふぅ、と息を吹きかければ細い肩が大袈裟に跳ねた。
「楽しみにしている……
 銀糸に指を絡め、キスを落とせばフリーナは顔を真っ赤にさせて恥ずかしがるのだった。