果南(カナン)
2026-06-22 12:16:52
4691文字
Public さめしし
 

天道虫の楽園

さめしし。2026/06/21【COMIC CITY 福岡64】一賭千金F2606で無料配布したものです。そこそこ長くつき合っている二人の、ある休日のお話。
会場ではA6 8pの折本でした。通販にもお付けする予定です(無くなり次第終了)。




 その日、私を迎えに来た獅子神は、助手席の窓を全開にしていた。

 勤め先ではなく、郊外にあるホールの駐車場だった。学生時代の同期が所属している、市民オーケストラの演奏会。私に声をかけてきたのは、臨床実習でずっと同じ班だった——つまり、比較的気心の知れた——同期の男で、今回はコンチェルトのソリストも務めるのだという。それを聞いて無下に断るわけにもいかず、彼からチケットを買って、私は会場であるホールに赴いていたのだった。
 仕事の会食が重なっていた獅子神は、演奏会が終わる頃に合わせて、私を迎えに来てくれることになっていた。閉会後、ロビーへ現われた同期に挨拶を述べ、他愛ない世間話を適当に切り上げると、私は急ぎ足でホールを出た。スマートフォンに届いていたメッセージに従って、広い駐車場を突っ切っていく。見慣れた獅子神の車を見つけ、いつものように助手席に近づいたところで、窓が全開になっていることに気づいたのだった。
……どうしたのだ」
 礼よりも先に、疑問が口をついて出た。
 今日は朝から蒸し暑く、空気がじっとりと水気を含んでいる。私がこちらへ赴いた際にはそれでも晴れ間が見られたが、演奏会を終えて出てきた今、空はほとんど灰色の雲に覆われている。今にも雨が降り出しそうで、空模様の面からも気温の面からも、獅子神が積極的に窓を開ける理由は無いと思えた。むしろ私を迎える前に冷房を効かせ、車内を快適にしようと努めてくれているはずなのだ。
 仮に換気のためだったとしても、助手席の窓のみを全開にしているのは腑に落ちない。他の窓も開けるはずだし、全開である必要も無いのだ。
 運転席の獅子神は、私に気づくと笑顔を見せた。
「お疲れ、村雨」
 言いながら、指先が助手席の窓枠を差し示す。扉に手をかけようとしていた私は、獅子神の指の向く先を見て、それに気づいた。
……テントウ虫」
「うん」
 頷いて、獅子神が説明を始める。
「車に乗ったらさ、いたんだよ。初めはフロントガラスの内側にとまってて、見失ったと思ったら、今度は助手席の窓にいてさ。で、窓開けたんだけど」
「出て行かなかった、というわけなのだな」
「そーゆーこと」
 獅子神は、ふっと口元を歪めた。
「もちろん安全運転で来たけど、車のスピードって、小さな虫にしてみたらあり得ねぇ速さだろ。受ける風だって、たぶん凄くて……なのに、何でずっと掴まってんだろうな」
 美しい笑顔に、自嘲の翳りが混じる。
 私は黙って、彼の話の行先を見つめた。
「身の丈に合わないモンに、必死でしがみついてさ。さっさと諦めて、何処へでも飛んでいけばいいのに。そのほうが普通に暮らせるだろ」
「獅子神」
 強めに名を呼んで、私は彼を見つめた。
 薄青色の瞳が、若干の怯えを含みながら私を見返してくる。が、すぐにふいと逸らされ、伏せられた。
 私は助手席側の外に立ったまま、開いた窓越しに獅子神を眺めた。逞しい体を運転席に沈め、俯いて唇を閉じた獅子神を。
 時折、自らを卑小な存在として貶めたがるのは、彼の悪い癖だ。幼少時からの来歴や、ギャンブラーとしても弱さに悩み続けた過去を思えば無理からぬことではあるが、それにしても。

 どうすれば、上手く伝えられるのだろう。共に生きると決めた以上、不要な卑屈に益は無い、と。
 私があなた以外の伴侶を見出すことなど、あり得ないのだから。
 あなたのすべてを、この上なく愛しているのだから。

……獅子神」
 呼びかけながら、私は開いた窓に手を伸ばした。
 窓枠にはまだ、テントウ虫がいた。赤い半球状の体に七つの星を背負い、小さな体で懸命に、金属の縁の上を這っている。
 私はその行く先に指を置き、そっとテントウ虫を手に乗せた。
「村雨」
 獅子神が驚いたように顔を上げる。
 彼に微笑みを返して、手を広げた。テントウ虫の動きを見ながら、ゆっくりと指を立てていく。
 テントウ虫は少し迷った素振りを見せていたが、手のひらから指の方へ向かうと、中指を登り始めた。あとは迷わず、一心に上へと向かっていく。
 そうして指先に達すると、ぱっ、と翅を広げて飛び立った。
「あ……
 獅子神が、小さく声を漏らした。
 小さな赤い体は、あっという間に周囲の緑に溶けて見えなくなる。飛び去った方向をしばらく眺めてから、私は助手席のドアを開けた。
 座席に腰を下ろし、ドアを閉める。獅子神が窓を動かさなかったので、自分で窓も閉めてから、彼に向き直った。
 獅子神は困惑と謝罪、それに羞恥と自己嫌悪をまぶした顔で私を見ていた。何から言おうか迷って、決めきれない。それがありありと浮かんでいた。
……悪ィ」
 結局口にしたのは、小さな謝罪だった。
「何がだ」
「つい卑屈なコト言っちまった。オレも強いお前には釣り合わないのに、必死でしがみついてる、みたいな」
……そう、その卑屈は不要なものだ」
「うん」
 小さくため息をついて、獅子神は窓の外に目を向けた。
「たぶん……すまねぇって気持ちがあって。それでウジウジと、あれこれ考えちまったんだよな。悪かった」
「すまない、とは」
「あんな小さな虫なのに、ずいぶん遠くまで連れてきちまった。帰りたくても帰れないだろ」
「あなたの車に乗ったのは、あのテントウ虫自身の行動だ。あなたが捕まえて乗せたわけではあるまい」
「そうだけどさ」
 獅子神が、瞳の蒼を深くする。本気で胸を痛めているようだったので、私は次に口にすべき言葉を考えた。
 窓の外には、まばらに止められた駐車場の車が数台、そしてたくさんの木々が見える。郊外の広い緑地の一画に、多目的に使えるホールや体育館、プールなどを備えた総合公園なのだ。奥の方には野鳥が集う大きな池もある、とホールの前の案内板には書かれていた。
 空はいっそう厚く雲が垂れこめて、幾層もの濃い灰色になっている。間もなく雨が降り始めるだろう。
 豊かな緑。水の恵み。
……獅子神」
 私は腕を伸ばし、彼の左手を引き寄せた。
 自分の大腿の上に乗せて、包むように手を重ねる。
「ここは緑が多い。向こうには大きな池もある。これから酷暑になる都会に比べて、気温もおそらくマシだろう。テントウ虫が生きていくには悪くない環境のはずだ」
「村雨……
「それに遠くへ運ばれることは、種の繁栄の可能性も広げる。だから、もう気に病むな。小さな体でも、彼らは成虫だ。辿り着いた環境でちゃんと生きていく」
……っ」
 手の下で、獅子神の手が震えた。
 そっと力をこめて、大きな手を握る。少しそのままでいたが、次第にしっかりと握り返してくれた。
「慰めてくれてんの、センセ?」
「あなたが落ち込んでいれば、何とかしたいと思うのは当然だ」
「ははっ……
 力強い腕が、私の背に回る。
 ぐいと抱き寄せられて、胸に埋もれた。
「ししがみ」
 私も腕を回して、彼を抱きしめた。頬を擦り寄せ、唇を重ねる。視界の隅で、窓ガラスに細かな雨粒が落ち始めたのが見えた。
「っ……ぁふっ
 舌を絡め、吐息と共に喘ぎながら、むらさめ、むらさめ、と獅子神が繰り返し私を呼ぶ。その度に応えながら、より深く彼に埋もれ、掻き回して、長いキスを続けた。獅子神の不安が消え、充分に満ち足りるまで。
 私も随分遠くまで来たのだ、と思った。
 彼に出逢わなければ、私がこのような情況に至ることは無かっただろう。日も沈まぬうちから、公共の駐車場に止めた車内で、人目を恐れず口づけ、温もりを分かちあうなど。理性的な所業とはとても言えない。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
 獅子神が、愛おしい。
 今は、それが全てだった。
「ぁ、は……っ」
 やがて獅子神が唇を離した。唾液が細く糸を引き、すぐに落ちて消える。
 仄かに上気した頬を歪め、すまなさそうに微笑んで、私を見つめた。
……村雨」
「謝らなくていい、獅子神」
 先手を打って言うと、獅子神は笑った。
「ほんっと、お前……そーゆートコさぁ」
「呆れているか」
「いや、好き」
 わかってんだろ、と呟いて、獅子神は私の頭を撫でた。
 大きな手が、くしゃくしゃと髪をかき回す。
「ありがとな、村雨」
「こちらこそ。獅子神」
 あからさまに疑問に満ちた顔で、獅子神が眉をひそめる。私は微笑みながらシートに座り直し、シートベルトを締めた。
「んだよ。何が『こちらこそ』なのか、教えてくれねえのかよ」
「後でゆっくり教えてやる。そうだな、今夜ベッドの中で」
「ソッチの意味かよ⁉」
「それだけではないが、そうとも言える」

 本当は、伝えたかった。私もあなたによって、遠くまで運ばれたのだ、と。
 自分ひとりでは、知ることも夢見ることもなかった未来に、あなたと共に立っている。
 そしてこれからも立ち続ける。生きている限り、あなたと二人で。

 だが、今ここで、言葉だけで伝えるのでは足りない。
 肌を重ね、直に熱を伝え、あふれる愛を注いで、知らしめなければ。
 決して誤解など生まないように。生まれても即座に打ち消せるように。

 ——獅子神。
 私はあなたのすべてを、この上なく愛している。

 私が答える気がないのを察したらしく、獅子神は肩をすくめる。自分もシートベルトを締め、車のエンジンを始動させた。
 ワイパーが動き、フロントガラスを覆っていた雨粒を拭う。
 車がゆっくりと動き出した。
「夕食、どうする?」
 駐車場を出て、車を幹線道路に乗せながら獅子神が尋ねてきた。
 少し思案して、言葉を返す。
「何処かの店に寄ろう。これから帰って作るのでは、あなたも大変だろう」
「時間、早くね?」
「腹は減っている。問題ない」
「りょーかい。んじゃ、店選び任せていいか」
「わかった」
 運転に意識を戻す獅子神を横目に、スマートフォンを取り出す。そうしながらふと、テントウ虫のことを思い出した。
 テントウ虫には、とにかく高い所へ上りたがる習性がある。枝に乗せればひたすら先端へと進み、それ以上進めなくなるところまで来ると、翅を広げて飛び立つ。その様子がまるで太陽を目指しているように見えることから「天道虫」という名前がついたらしい。

 どこまでも上を目指し、輝く光へ飛ぼうとする、小さな星の持ち主。たとえ目指すものに届かなかったとしても、諦めることはできない。
 獅子神は、この習性を知っていただろうか。
 知っていたから、ことさら心を寄せたのだろうか。

「それでも……変わらないが、な」
 私達は、共に生きることを選んだのだから。

 たとえ互いに小さな天道虫だったとしても。
 緑と水の楽園は、携えた手の内にこそ在る。

 私は視線だけを動かして、獅子神を眺めた。まっすぐに前を見つめ、愛車を操る彼は、凜として美しい。しばらくその横顔を堪能してから、窓の外に目を向けた。
 夕刻と呼ぶにはまだ早い頃合いだが、雨の幹線道路は徐々に渋滞の様相を見せている。周囲の車がブレーキランプを不規則に灯し、絶え間なく水滴の流れ落ちる窓に歪んだ赤が閃いた。
 なるべくこの近くで、肉の美味い店を探そう。ゆっくり食事をすれば、帰る頃には道も空いているだろう。
 そのほうが、獅子神の運転の負担も減るはずだ。
 私はスマートフォンを持ち直し、ブラウザを開いて検索を始める。考えが伝わったのか、獅子神の口元がふっと優しげに綻んだ。