桃井さんのことが大好きでたまらない人が書いています。
青峰さんの結婚式から始まる桃井さんと黒子さんの話です。
こじらせた片思いの行き着く先は?といった風味。
おとなになったつもりでおとなになりきれていなかった二人といった様相。
青峰さんは名前しか出てきません。
ゲストは黄瀬さん。
細心の注意を払いましたが黄黒が好きな自我が出ていたらすみません。
何かあればメッセージか波箱に放り込んでくれたら嬉しくて踊ります。
→
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めでたい日に似合わない雨がしとしとと地面を濡らしている。夜の帷の内側で、わずかな肌寒さが薄いドレス越しに沁みてくる。慣れない靴で踵は擦れて、いまさら痛い。もしかしたらこれを、他人は感傷と呼ぶのかもしれない。そんな安っぽい名前、ごめんだけれど。
タクシーを待つ列は延々と長く、なかなか順番が回りそうにはない。肩にはどっと疲れが乗っていて、気を抜くとため息がこぼれそう。だめだ。まだ、まだ、お祝いの残り香は後ろ髪に触れている。だからもう少し、せめてタクシーに乗り込むまで、ここは、堪えなければならない。
今日は青峰君の結婚式だった。綺麗な式だった。お相手の女性のことはよく知らなかったけれど、なんとなく、やわらかく笑う人だなと思った。お料理もおいしかった。余興は、少しつまらなかった。何はともあれ、いい式だったと思う。あんまり、結婚式に参加する機会がなかったから、比較対象がないのだけれど。とにかくきっと、いい式だったのだ。
だった、のに。どうして私はこんなにも、気が重くてしようがないのか。答えはよく知っていた。そもそも式の以前から、ずっと、私は疲れていたのだ。ずっとずっと疲れていて、今日、その疲労はピークを超えた。そしてようやく、私は解放されたのだ。
ああ、早く帰って眠りたい。化粧を落とすのも忘れて、シャワーを浴びるのも後にして、セットした髪の毛だけなんとか解いて、何も考えずに気を失いたい。願う肩に雨粒が触れる。冷たくて、泣きたくなる。だから、いけない。
別にこれは、青峰君が結婚したことが問題なわけではないのだ。それは素直に喜ばしいし、幸せになってほしいと願っている。その気持ちに偽りはない。断言できる。私は、青峰君を幸せにするのは自分ではないと知っているから。遠い遠い昔から、それだけは確信していたから。
でも、周囲はそう思ってくれてはいなかった。たくさんの友人から、何度も何度も繰り返された「青峰君はさつきと結婚するんだと思ってた」「青峰君がさつき以外を選ぶなんて信じらんない」なんて言葉。それがどれほど私という人間を傷つけるのか知らないままに、どれほど私と青峰君を侮辱するのかわからないままに、無邪気に、無遠慮に吐かれ続けた。
人は、傷つけられすぎると痛みに鈍くなる。自分という存在をどうでもいいものとして扱おうとしてしまう。私には願うことしかできなかった。どうか、青峰君が同じ言葉を受け取っていませんように、と。
列が動く。タクシーが三台きた。三組減って、あと、
「桃井さん、よかったら一緒に乗りませんか?」
不意に、声がした。よく知った声だった。最近は、聞くことも少なくなっていた声だった。声のほうを見ると、記憶より儚さの増したその人とやわらかく目が合う。その人は笑っていた。そして何より、待っていた。
思わず、頬に手が伸びる。最後に化粧を直したのはいつだったか。二次会の前だ。あれからずいぶん時間が経っている。どうしよう、そんなにひどい顔にはなっていないと思うものの、一気に恥ずかしくなって返答する声が上擦った。
「あ、ありがとう」
――テツ君。名前を呼ぶのも、舌がもつれそうになる。
列を抜け、彼の乗ろうとしている三番目のタクシーに近づく。お先にどうぞと勧められ、急いで乗り込む。あたりまえに、隣には彼が乗ってきた。
運転手に向けて、先に彼が行き先を告げる。方面が一緒であることは、私も知っていた。だから彼は、私を見つけて誘ってくれたのだろうことも、よく理解していた。そう、そこに、他意はないのだ。
そして、彼のほうが先に降りることも、私はやっぱり知っていた。
「それから彼女は」
「あ、――の駅の近くまでお願いします」
タクシーが出発する。車内には音の悪いラジオが流れていて、運転手はこちらと会話をしようとはしなかった。居心地が、いいような、悪いような。普段ならぼうっと景色でも見てやり過ごす時間に、隣にいる彼の存在が妙な緊張を呼ぶ。
「疲れましたね」
どきりとした。何やら、見透かされたような気がした。昔から、彼はそういうところがある。
「長かったもんね。でも、いい式だったよ」
当たり障りのない返事に、果たして意味はあるのだろうか。鼓膜を叩くうるさい心臓をなだめたくてこっそりと呼吸を深めてみる。
「三次会には行かないんですか?」
「うん。テツ君も行かなくてよかったの?」
「ボクもちょっと、明日仕事で早くて。行かないことにしました」
「そうなんだ。青峰君、残念がりそう」
どうして、会話が上滑りしている感覚がある。何かお互い、触れられたくないものがあるときみたいな、そんな中身のなさ。タクシーの運転手も聞いているのだから、このくらいのほうがいいのかもしれないけれど、何か、何やら、どうにも、薄ら寒くていけない。
「寒いですか?」
握り締め過ぎていた指先が真っ白になっているのをみかねたのか、彼が上着を脱いで掛けてくれた。黒のジャケットは、あたりまえにあたたかくて指先が解ける。いつの間にか上がっていた肩が下がるのを自覚して、思わず苦笑がもれた。
「気遣わせちゃってごめんね、ありがとう」
「いいえ。あいにくの天候で今日は少し冷えますから」
「本当にね。せっかくなら晴れてほしかったなあ」
心の底から、本心だった。
「そうですね。青峰君の大事な日ですから」
だから、彼の同意に今度は頬が綻んだ。彼も、私と同じだけ、青峰君を大事に思ってくれている。それをよく知っていたから、余計に嬉しかったのかもしれない。
信号にほとんど引っかかることなく、タクシーは順調に進路を進む。上がっていくメーターの音がラジオの声に合わせてカチリ、と耳朶を打った。見やった景色はそろそろ彼の目的地に近づいている。
ああ、何か、何かもっと、話せることはないだろうか。遅すぎる焦りは唇を動かすのに、何の音も紡がない。諦めたような息だけが、彼の掛けてくれたジャケットに落下した。
「桃井さんは」
呼ばれて、視線を合わせる。彼はまっすぐにこちらを見ていた。
「結婚のご予定とかないんですか?」
その瞳の真剣さに見惚れているあいだに、彼は何やらとんでもないことを訊ねてきた。
「え?」
思わず漏れる頓狂な一音。何を聞かれたのかはすぐに理解できたのに、どうして彼がそんなことを聞くのかまったく理解ができなかった。だってそんな必要、彼にはないはずなのだ。私の結婚事情なんて、彼が気にするわけが、ないはず、なのだ。
結婚式の帰り道、友人同士の会話として、それはもしかしたら妥当なのかもしれない。経験が少ないせいで、どうにもわからない。が、やはりどうしても、彼の唇からある種無粋とも言えるそんな問いがこぼれたことが信じられなかった。
「どうなんですか?」
重ねながら、彼が首を傾げてみせる。その仕草の幼さが、まるで彼に恋したあの日を思わせるようで、胸がぎゅうと握りつぶされる感覚に襲われる。
ああ、そうか。やっぱり、私はまだ――考えないようにして、口を開いた。
「よ、予定はないよ」
どうしてそんなこと? なんて訊ねられるはずもなく、ただ正直に返すのが精一杯なまま、発した声はまた、震える。
「そうなんですね」
対する彼の反応は、見事につかみどころが無かった。知っている。彼の感情は、日常の中ではいつだってつかめない。というより、つかませてもらえない。まるでそう、彼の影の薄さとおんなじみたいに。いつの間にか消えていて、いつの間にか現れる。こちらのタイミングなんてお構いなしに、主導権はいつも彼にある。
だから聞いてみたくなった。彼は、どうなのか。言い出したのは彼なのだから、きっと答えてくれるはずだった。
「テツ君こそ、どうな」
「ないですよ。いまはありがたいことに仕事が忙しくて」
言葉尻を奪い去るその仕草は、きっと彼らしくなかった。
「そ、そうなんだ。奇遇だね。そう、そっか」
けれどなぜだろう、それについて触れてしまったらいけないような気がした。違和感を内側にしまい込むように、慌てて手を握り込む。彼のジャケットに、シワをつけてしまったかもしれないが、そんなこと、気にしてもいられない。
「あ、仕事といえば、いまは何してるんだっけ?」
何とか軌道修正をはかりたくて、問いを投げてみる。あんまりなほど、つまらない問いだ。しかし失敗したと後悔したところでもう遅い。大丈夫、会話のシミュレーションはいくらでも可能だ。何せおとなという生き物は、嘘がうまいからおとななのだ。
そう、嘘。だって私は、彼の仕事のことを、よく、知っていた。
「フリーでいろいろ書かせてもらっていて……あ、このあいだちょうど新刊が出ました」
うん。その本は書店で注文しておいて発売日に買ってある。残念ながら忙しさを言い訳にまだ読めてはいないのだけれど。
「どんな本なの?」
エッセイ。
「エッセイ、のようなものなんですけど、つらつらと書いていたら出版社からまとめてみないかと声をかけてもらえて。それ以外だと――」
全部全部、よく知っている。別にストーカーのようなことをしているわけではない。シンプルに、純粋に、インターネットの海を泳いでいたら、彼の文章に出会ったのだ。
名前は、本名ではなかったのに。そこに流れる感性が彼のものだと、私は確信していた。だからずっと、追いかけた。追いかけて追いかけて、気づいたら彼はちょっとした人気者。本を出して、あちこちに記事を寄稿して、今度は確か、小説も出すのだったか。
見つからないことを強みにして戦っていた彼は、いま、見つけられて輝いている。あのころ影だった人は、いま、やわらかい光となって表舞台に立っている。それは悲しいことではなく、とても喜ばしいことで、私はずっと、宝物みたいに彼の文章を読んでいた。
「よかったら今度、ボクの本もらってください」
「え、そんな悪いよ。書店で見かけたら買わせてもらうし」
「献本をいくらかもらっていて、よかったらと思ったんですが」
「ありがとう。でもせっかくなら自分で買いたいな」
実はもう持っているだなんて、いまさら言えるはずもない。貼り付けたような笑みは、目尻にたまったアイシャドウの感触を想起させた。不快で、胸が濁る。
「じゃあペンネームだけ、伝えておきますね」
そこでちょうど、タクシーが停まる。そうか、もう、お別れなのか。寂しい、と発露してしまいたくなりながら、窓の外を見やると傘の花がきれいに咲いていた。
運転手が、少しためらうように料金を告げる。隣の彼はシンプルな革の財布を取り出すと、多めの金額を運転手に渡してこちらに一度目配せした。
「お釣りはいりません。彼女の分もこれで」
え、と。束の間の驚愕に私が出遅れた隙に、彼はそのまま車を降りてしまう。どうして、なんて言えないまま顔にだけ出すと、彼は困ったように笑ってみせた。
「少し格好つけさせてください」
なんてことを、言うんだろう。そんなふうに言われたら、それこそもう何も言えなくなってしまう。無情に閉まったドアの向こうで、彼は優しく手を振ってくれていた。一向に止む気配のない雨の中、わざとみたいに街灯の下に立って、見えなくなるまでずっと見送ってくれていた。
目が回る。景色を見ている余裕も、ラジオに耳を傾けてみる気力も、何もかもが遠い。ぎゅうと握り締めたジャケットはきっと、それはもうシワだらけだろう。
――ジャケット?
「あっ……」
視線を落とす。鮮やかな黒のジャケットは、確かに膝の上に鎮座していた。いまさら振り返っても当然に、もう、彼の姿は見えない。
どうしよう、言えば、運転手は引き返してくれるだろう。そんなことはわかっている。けれどそもそもこんなもの、普通そうそう忘れない。彼も言っていた通り、今日は冷えている。だから余計に、忘れようがない。
つまり、いや、でも、しかし、だって――ぐるぐると思考が回転し、どう頑張っても自分に都合のいいようにしかとらえられなくて首を振る。
ひとまず、深呼吸。とにかく、冷静に。一旦考えるべきはこのジャケットをどうするかだ。
クリーニングには出したほうがいいだろう。しっかりとプレスを当ててもらって、きれいな状態で返したい。となると、余裕を持って最短一週間後を目安に彼に時間をとってもらう必要がある。誘うなら、間違いなくランチ。彼の好みが昔と変わっていなければ、いくつか連れて行きたい店の候補もある。
もう一度、深呼吸。連絡先はもちろん知っている。最後に連絡を取ったのは、私の誕生日のお祝いをしてもらったときだった。というか、最近はずっとお互いそれと時節の挨拶しか送りあえていない。
「えっと……」
ジャケット、と入力した瞬間に、タクシーが停まる。慌ててスマホをしまって、運転手には小さく一言礼を伝えた。そうだ、この奢ってもらった分も何か返したい。彼のことだから、クリーニング代でチャラですよ、なんて言いそうだけれど。それでは私の気が済まなかった。
しとしとと静かに落ちる雨粒は緩やかに体温を奪っていく。途中のコンビニに寄るか、悩んだのは一瞬で、そのまま先を急いだ。ジャケットだけ、ありがたく羽織らせてもらう。
そうして家に着くころにはもう、シャワーを浴びないという選択肢は失われていた。
「ただいまー」
誰もいない空っぽの暗闇に向けて呟く。いつものルーティン。帰ってきたという実感を得ることに、きっと少しの価値もないはずだけれど、それでもやめられない習慣だ。
鍵をかけたことを念入りに確認し、靴を脱ぎ捨てる。揃えるのは明日の私でいい。そのまま洗面所に直行、したい気持ちを抑えてまずジャケットを丁寧にハンガーに掛ける。髪にあれこれ付けられているピンやら飾りやらもここで取ってしまう。
ため息、いや、深呼吸。ドレスもきちんと掛けてから、ようやく洗面所に向かった。手のひらにクレンジングオイルを取ったところで、そういえばトリートメントがそろそろ切れそうだったと思い出す。買い置きは、当然ない。今日くらいもってほしい、なんて願いながらオイルの乳化まで済ませて浴室の扉に手をかける。
お湯の温度は少し高めに。蛇口をひねってから、水がぬくまるまでのあいだに、彼への連絡の文面を思案する。もし、こうしているあいだに彼のほうから連絡が来ていたら、そのほうが気楽でいいかもしれない。
「テツ君、断らないでくれたらいいな……」
願いが、口からこぼれ落ちる。さっきは自然とランチに誘うつもりになってけれど、別にジャケットを返すだけならそれこそ適当な駅前なんかでさっと渡すことだってできるのだ。わざわざ二人で食事、なんて、意味深なことをする必要は、どこにもない。
それでも、私は〝せっかくなら〟という気持ちをぬぐえなかった。これは、間違いなく欲だった。本当は、もうすっかり忘れたはずのものだった。整理もきちんとつけた想いだった。初恋は叶わないなんてお決まりのセリフとともに、思い出として自分の中のアルバムに閉じこめていた心だった。
嘘。ウソ。うそ。自分でもわかっていた。何も忘れられていないと、整理なんてできていないと、閉じこめられてなんていないと、私は知っていた。知っていたから私は、いつまでもぐずぐず引きずっていたから私は、見つけられたのだ。偶然出会った文章が、彼のものだと気づけたのだ。これはきっと、怪我の功名と呼んでいいはずだった。
ああ、ああ。愚かしくて笑えてくる。
だって、ずっと、好きなのだ。他人からしたらくだらないきっかけから始まったものだったとしても、私にとっては重要で、大切で、きらめいていて、宝物なのだ。そんなに簡単に忘れられるわけが、整理ができるわけが、閉じこめられるわけが、ないではないか。
それはいっそ執着だった。私は、この恋を抱えていれば、いつでもあのころに戻れると信じていた。そんなわけ、あるはずないのに。鏡に映った顔は、十分に年相応であった。さまざま経験を重ねて、それなりに社会の理不尽にもまれて、自分を偽る表情を作るようになった誰かでしかなかった。空っぽの〝おとな〟になってしまっていた。
悲しい、悲しくない、やっぱり、かなしい。
シャワーに紛れて、泣き出したくなった。どうしても、泣けなかった。
「好きだなんて、いまさら言えるわけないのにね」
あのころなら、いくらでも言えた。冗談みたいに、繰り返せた。たぶん、本当に冗談だったから。でも、いまは、もう、あたりまえに冗談にはできっこない。想いが、返されることを期待せずにはいられない。返されなかったときの自分を、恐れずにはいられない。
だから、だから。十年以上抱え続けて、すっかり大きく膨らんで、膨らみすぎて歪んでしまったこの気持ちは、隠してみせる。隠し通して、みせる。幸いそういうことは、本当にうまくなったのだ。
「大丈夫」
だから、だから。どうか、どうか。
鏡に触れる。置いていかれた幼子のように、迷子の顔をした自分を見つめてから作り直す。
どうか、どうか。少しだけ、欲を見せるのだけは、許されますように。
駅前のチェーンのカフェは朝からよく混んでいる。隅のほうにあるちょっとだけ個室のようになっているボックス席を陣取って数十分。彼に遅刻されることには慣れているから、あまり気にもならなかった。何なら本を読む時間が取れて嬉しいくらいだ。
書店のカバーが掛けられた単行本。やわらかい文章は、ウェブ上で読んでいたときよりもより一層やさしく感じる。紙の質感がそう思わせるのか、それとも何か、別の魔法か。なんでもいいか。この文章に触れられて、この一冊の本が自分の手元にある。その事実が事実として存在していることが、きっと一番重要なのだから。
「遅くなってごめん」
声に、顔を上げる。目深な帽子、大げさなサングラス、黒いマスクと一見いっそ不審者のような男は上着を椅子にかけながら申し訳なさそうに眉を下げていた。私は静かに本を閉じ、急いで鞄にしまう。何読んでたの? ――聞かれたくなかった。
「いいよ、今日は連絡くれたし」
「いやほんとごめん。予定通りなら約束の十五分前にはついてるはずだったんスけど」
「いいってば。きーちゃんが予定通り動けないのはいつものことでしょ」
彼は、コーヒーのマグカップを持っていた。サイズはレギュラーサイズ。モーニングサービスは受けなかったらしい。彼が座るのを待つ数秒に、私は食べ損ねていたトーストの最後の一口を口に入れた。たっぷりサイズのコーヒーは、ちょうど半分くらい。
「それで、今日は突然どうしたんスか」
「それは……、その、えっと……」
言いよどむ。なんと言ったらいいのだろう。違う。何からどう説明すればいいのだろう。あれこれ考えていたつもりだったが、いざ相談するとなると言葉が濁る。なんだかとても、とても馬鹿げたことを聞かせようとしている気がしてしまう。
私にとっては真剣な悩みであるからこそ、余計にその重さが憎らしい。そもそも、相談相手を間違えたような気にさえなってくる。が、今回の件に関しては彼以上の適任は私の交友関係の中に存在しなかった。かろうじて、火神君が候補に上がるか、上がらないかと言ったところ。すぐに会えるような距離感ではないので、結局やっぱり眼前の彼しかいない。
「桃っちが言いよどむなんてめずらしいね」
「私だって言いづらいことくらいあるよ」
「そんなに大事な話?」
「私にとっては」
彼が、茶化すことはないだろう。むしろ真摯に聞いてくれることを知っているからこそ、私は彼を選んだのだ。だから、あとは、素直に吐いてしまうだけ。
「……えっと、その、テツ君がね」
その名前を口にしたとき、彼の表情が色を変えた。眉が上がったわけでも下がったわけでもない。口角が歪んだわけでもない。頬が緩んだわけでもない。それでも、まとう空気がまるっと入れ替わって、そのまなざしがいやに真剣にこちらを射ぬいた。
「黒子っちが?」
聞き返される。どうして、心臓が痛い。
「テツ君がこのあいだ、ジャケットを忘れていって」
詳しい経緯をぜんぶ飛ばして、結局思いついたところから話し始めてしまって思わずため息がもれた。いや、ため息をこぼしたいのはきっとこちらではないはずなのに、彼はしばらく悩んだのち的確な言葉を吐く。
「そりゃ――、わざとでしょ」
「やっぱり!?」
それは、私がうぬぼれだと思っていた答えだった。それを、彼は何でもないことのように肯定してみせた。
「ジャケットって、結婚式のあれでしょ。あの日寒かったし、いや寒くなかったとしてもそうそう忘れるようなもんでもないっスよ」
「いや、でも、テツ君だし」
「まあ言いたいことはわかるけど……。でも百歩譲ってわざとじゃなかったとして、いいじゃないスか。都合よく受け取って、浮かれてみたって。罰当たんないっスよ」
何がダメなの? 彼はそこでコーヒーを含んだ。私もつられるようにマグカップに手を伸ばして、くるくると遊ばせる。
「罰とか、そういうのじゃないよ」
ぐっと、マグをあおる。苦味の強さに眉根が寄って、甘いものが恋しくなった。
「じゃあ脈ありだったらいいなあとかそういう話?」
「もっと違う!」
「えー、それは桃っち嘘じゃん」
「う、嘘ではないもん。別にいまさらテツ君とどうこうなんてそんな大それたこと別に……」
テーブルに置いたマグカップが、高い音を立てた。跳ねた滴が無音のうちにひたりと落ちる。
私は、彼から目をそらしていた。彼の視線から逃れたくなっていた。ため息が聞こえる。呆れられていることは明白で、それがさらに逃げ出したい気持ちを加速させた。逃げるなんて、できやしないのに。この場をセッティングしたのは間違いなく私で、彼に話を聞いてもらいたかったのもやっぱり私で。私は、こうなることをちゃんとわかっていたのだ。
「素直じゃないっスねえ」
「きーちゃんに言われたくない」
「オレはいいんスよ。でも、桃っちはもっと……、欲張りになったらどうっスか?」
欲張りとは、どういうことだろう。欲張りとは、なんだろう。もうそんなもの、忘れてしまった。私は、我慢を覚えた。手の届かないものを、あきらめることを覚えた。そう、私は、テツ君という人を、とうの昔にあきらめている。好きだという気持ちだけ、大事にして、あとのすべてを望まないようにしている。その、はずなのだ。
「桃っちの覚悟はすごいとは思うっスよ?」
彼は首をかしげてみせた。表情は笑んでいる。世の女性たちが虜にされている魅惑の笑み。私には、何も魅力的には映らないきれいなだけの表情だった。
「でもそれは逃げでしょ」
頭に血が上った。カッと首の後ろまで一気に染まり上がる。目の前がチカチカとして、視界が悪い。彼が次に選んだ表情がなんであるかすら、判別がつかない。これは怒りではなかった。これは明確な羞恥だった。顔から火が出る。よく言ったものだとどこか冷静な隅っこで思考しながら、大きく息を吸い、吐き出す。
コーヒーをもう一度、あおった。空っぽになる。苦くて苦くて、のどまで苦い。胃の腑まで苦い。卓上の角砂糖を、そのままがりがりと噛み潰したい気分だった。
「わかるっスよ。関係性が壊れるのは怖いもんね。うぬぼれて、前に進もうとして万が一にも引かれてしまったらもう取り返しがつかないって知ってるから。喪失は、取り戻せないから」
やめての短い音を、発することもできない。衝動的に水でもぶっかけられたらいっそよかったのかもしれない。もちろんそれも、できっこない。できっこないまま、彼の紡ぐ言葉を耳から取り入れ、脳は淡々と処理をする。
「あのころは冗談で済んでも、おとなになったら冗談では済まない」
首を振る。精いっぱいの抵抗はむなしく、彼は口を閉じない。
「オレは桃っちにも、黒子っちにも幸せになってほしいんスよ」
「……、幸せって、何」
泣きはらしたみたいに目尻が熱い。あんなにコーヒーを飲んだのにカラカラののどに水を流し込む。
彼は、黄瀬涼太は、大仰に肩をすくめた。
「さあ? それを決めるのはオレじゃないから」
「そういうのずるいと思う」
「知らなかったんスか。オレってめちゃくちゃずるいんスよ」
「知ってる。知ってるから余計にむかつくの」
意味もなく、地団駄を踏んでみた。眼前の人はけらけらと笑ってみせる。うん、こっちの表情のほうが私は好きだ。彼らしくなくて、彼らしい。作られていないから、落ち着く。彼がこういう表情を見せて構わないと思ってくれていることに、安心すらする。
「てなわけでとりあえず、わざとだったとして考えてみないっスか?」
「な、え、は?」
「わざとってことはさ、何かしら意味があるってことでしょ。つまり、その意味が何かを考えてみようって話」
こちらの動揺を放ったまま、彼は流れるようにコーヒーに砂糖を入れた。角砂糖を三つ、ぐるぐるとかき回す。
「まあ普通に考えたら、次に会う口実っスよね。都合よく約束が取り付けられる」
ぐるぐる、ぐるぐる。スプーンは止まらない。そもそも、すでに半分ほどしか残っていなかったコーヒーに砂糖三つは多すぎることだろう。幻聴かもしれないざりざりとした音が、なぜか鼓膜の奥で響く。
「それだけ黒子っちは、桃っちと会う機会がほしかった。うーん、これだけ見ると脈ありどころの騒ぎじゃないな」
ああ、つられて目が回ってきた。視線をそらさなければいけない。違う、そらすべきはもっと別のことだ。
「試しに好きだって言ったらうまくいっちゃうんじゃないっスか?」
「馬鹿なの!?」
「いやいや割と真剣っスよ。状況証拠だけ見れば、十分いけ」
「ない! ないの!」
場所も考えず、大きな声が出る。ここに少しの壁があってよかった。おかげで誰とも、目が合うことなく冷静になれる。
「それは、ないほうが嬉しいってこと?」
なのにこの男は、お構いなしに問いを投げる。甘ったるくて仕方がないだろうコーヒーを含みながら、何でもないことのように聞いてくる。
じくじくと、胸の辺りに痛みが広がる。水を飲もうとする指先が震える。どうしようもなくてうつむいて、首を振る。ただひたすら、左右に頭を動かす。だってそれしかできない。肯定することも、否定することも、しては、いけない。
それは決定することだ。それは確定することだ。知っている。理解している。だから口を閉ざすことしかできない。口を閉ざして、逃げることを選択するしかできない。
これは私の望みだ。私の、願いだ。何も決定しないこと、何も確定しないこと、それがどれだけ愚かでも、どれだけ矛盾をはらんでいても、私は乞わずにはいられない。
本当なら、本当にあきらめているのなら、そんな必要、どこにもないのに、私はきっと、ずっと、愚かしいのだ。
「許して――」
やっと口にできたのは、そんな情けなさだった。
「嫌って言ったら?」
だのにこの男と来たら、少しのやさしさの持ち合わせもないのだからタチが悪かった。
「サイッテー!」
「えー? だって言ったでしょ。オレは、桃っちにも黒子っちにもどっちにも幸せになってほしいんだって」
だからなんだ。私は不幸ではない。たとえこの想いを一生抱え続けることになっても、この苦しみと永遠に付き合い続けることになっても、私は決して不幸せではない。
だって、どうせ、涙なんて、とっくの昔に涸れている。
「桃っち」
彼はコーヒーを飲み干した。のぞいたカップの底は、砂糖がざらりと澱になっていた。
「何」
「うわー冷たい。冷たいっスよ」
「怒らせたのはそっち」
「オレは純粋に願ってるだけなのに?」
その願いが、あまりにもまぶしいから、だから私は怒るしかできない。怒る以外の感情の発露はあまりに醜くてとてもじゃないが表に出せない。どろどろとしてぐちゃぐちゃで、なんとも形容しがたい醜悪なそれを、私はぜんぶ無視をする。
「桃っちだってわかってるでしょ。不幸じゃないは幸せじゃないことくらい。オレよりずっと頭いいんだから」
「何? 嫌味?」
「わーもう、怖いっスねえ。――ちょっと甘いものでも買ってくるから待ってて」
そう言って、彼は席を立った。きっちりマスクとサングラスをして、帽子は置いていって、その背はすぐに見えなくなる。なんでいきなり? どうしてスイーツ? そもそも私の好きなものわかるの? いろんな疑問が浮かんで消えて、刹那に孤独が浮き上がる。
彼は、すぐに戻ってくるだろうか。妙な寂しさを振り払うように首を振る。そもそも私は怒っていたのだから、このまま彼を置いて店を出たって許されるはずだ。けれど当然、そんな気にはなれない。おとなしく待って、また話の続きを私は、しなければ、ならない。
だって、そもそも、まだ、本題に入れていないのだ。
本を取り出すにはきっと短い待ち時間。周囲の音は心地よく耳朶を打ち、ああ、この中であんなに大きな声を出してしまったのかといまさらながらに反省する。朝の穏やかな時間を邪魔された誰かに向けて、心の中で謝罪を打って、背もたれに身を預けた。
どうせなら、チョコレートケーキが食べたい。こってり甘くて、ずっしり重くて、クリームで胃もたれするくらいのやつがいい。それを苦いコーヒーで一気に流し込んだら、きっと何かが満たされる。ああやっぱり、追いかければよかっただろうか。追いかけて、これがいいと言って彼に買ってもらったらよかっただろうか。いまから行って、間に合うだろうか。
思いながら、動く気は一ミリもなかった。与えられたものをただただ甘受するつもりでいっぱいだった。それを、彼は許していたし、私も私に許していた。
足音がした。全然知らないくせに、それが彼のものだとすぐにわかった。
「おかえり」
彼の持っているトレーの上には、ケーキとコーヒーが律儀に二つずつ並んでいた。片方はきらきらのフルーツケーキ、そしてもう片方は、
「ミルクレープ……」
「あ、桃っちそっちにする?」
望んだチョコレートケーキはなかった。
「うん」
でも、ミルクレープはそれはそれで魅力的だった。素直にうなずいて、そっと受け取る。見つめれば見つめるほど、そのシンプルさがいとおしい。黄色い層と白い層が重なり合って形になっている様は、いっそやさしさすら感じられた。
「ありがとう」
言いながらフォークを手にする。ゆっくりと慎重に一番上の層を巻き付けて口に運ぶ。生地は軽い触感で、クリームは重たい。そのコントラストが口の中で楽しくて、すぐに二層目をめくっていた。
「ミルクレープってそうやって食べるものなの?」
フルーツケーキに手を付ける様子のない彼が、めずらしそうに聞いてきた。
「今日は剥がしたい気分だったの。見栄えを気にするなら倒して食べたほうがいいと思う」
「なるほど?」
「別にマナーに厳しい店でもないし、好きに食べたらいいんだよ」
「それもそうっスね」
コーヒーの味は、先ほどまで飲んでいたものと違っていた。ブレンドが違うらしい。こちらのほうがすっきりしていて口内がさっぱりする。彼のこういうセンスは、本当に尊敬した。
「それで、いつなんスか?」
彼はフォークを握り、中央に飾られたイチゴを転がしながら問うてきた。その主語のない問いの意図を、私は正確に把握しながら答えた。
「……、……あ、明日」
目をそらす。反応は予想できていた。
「明日? まじ?」
「こんなことで嘘つかない」
「いやそうだけど、明日かあ……」
そう、今日の本題はこれだった。私は彼に、明日のことを相談したかったのだ。だから今日この場に多忙な彼を呼んだのだ。いや、本当はもっと早く場をセッティングする予定だったのだけれど、お互いの都合がうまくつけられなかった。だから、今日になった。決戦を明日に控え、もう本当はいっぱいいっぱいのまま、今日まで過ごしてきたのだ、私は。
くるり、と巻いたミルクレープは四層目。彼はフルーツケーキの主役のイチゴをあっさりと口に放り込んでから頬杖をついた。
「明日の何時?」
「ランチに行くの。駅前の――」
「へえ、そんな店あるんスね。今度行ってみようかな」
「そういう話がしたいんじゃないんだけど」
そんなことはわかっているとばかりに彼はコーヒーを含んでみせた。砂糖を入れていない、おそらく私と同じもの。フルーツケーキにも、きっとよく合うことだろう。なのに、肝心のケーキはまだたいして進んでいない。王冠みたいなイチゴだけ、ぽっかりなくなってなんとも寂しい。
彼のフォークは、次にオレンジをとらえていた。まだ、スポンジと生クリームには届かない。
「ただジャケット返して、それからちょっとランチするだけでしょ」
冷たくはない。突き放すような薄情さもない。ただ事実を淡々と告げるだけの声は、そう、たぶん、やさしい。
「緊張する?」
うなずく。彼はオレンジを食んだ。
「たぶん黒子っちは、そのままの黒子っちで来るよ」
「…………知ってる」
「なら桃っちも、そのままの桃っちで行ったらいいじゃん」
だって、何も、望まないんでしょ。――彼は言わないでくれた。その残酷を、はっきりと口にしないでくれた。そのやさしさが、逆に私には痛かった。
ミルクレープを剥がして、フォークに巻き付けて、大げさに口を開けて、含む。咀嚼はそこそこに、舌にまとわりつく甘さはコーヒーで流して、一呼吸。
「そのままの私って、何?」
答えは現在だった。そんなこと、私も知っていた。けれどじゃあ、これを明日の彼の前で出せるかと言ったら、そんなはずもなかった。それは、眼前の彼もよくわかっていた。だから彼は少しだけ悩むそぶりをみせて、やっぱり笑う。
「たとえば〝テツ君〟が好きなあのころの素直さとか?」
「――っ! 私が口より手が先に出るタイプじゃなかったことに感謝して」
テーブルの下の脚くらい、蹴ってもよかったかもしれない。そんなこと、しない。したってこの気持ちは晴れてくれない。
実際〝あのころ〟を持ち出せたらどれほどに楽だろう。ただ顔を合わせているだけでドキドキして、でもそれが何より幸せで、素直に好きだと言ってみて。それができたら苦労しない。悩まない。相談なんて、当然ありえない。
「欲出すから」
「うるさい」
「オレは桃っちのそういうところ可愛いと思うよ」
彼は、女性に対して軽薄にそういうことを言う人ではない。それは、彼の危機管理の一つであり、同時に、彼の誠実さのあらわれだった。
「きーちゃんに言われても嬉しくない……」
けれど私は、その誠実さを素のまま受け取れるほど、可愛らしくはなかった。
「知ってる」
そして彼は、それを笑って許すのだ。
「まあ現実問題明日は何もできないでしょ」
彼のフォークが、ついにスポンジを貫いた。けれど、まだ、口に運ばれることはない。
「桃っちが黒子っちとどうこうなりたいならアドバイスの一つや二つや三つ考えるけど、そういうわけでもない。なら、もう、できることは〝おとな〟ぶってるしかないでしょ」
ガッツーン。何やら脳内で音がした。こっけいな音だ。ゆかいな音だ。なのに傷に沁みるような音だ。わかりきっていた答えを、ただ、突きつけられただけなのに。ちゃんと私は、それを覚悟していたはずなのに。どうしてどうして、衝撃で揺さぶられる。
ああ、ああ、結局私はどうしたいのだろう。彼に、何をどう言ってほしかったのだろう。背中を押してほしかった? 違う。では、では、何を求めていた?
「桃っち、やっぱりオレは選ぶしかないと思うっスよ」
「選ぶって、……」
「わかるでしょ。黒子っちと、これからどうなりたいか」
――変わらないままを受け入れられるのか、どうなのか。
恐ろしいことを、考えさせないでほしい。現実を、直視させないでほしい。
肌がひりついた。衝動的に、フォークをケーキに突き刺していた。ぐちゃりと、崩れる感触がある。それは不快に胸を濁らせて、眉根を寄せさせた。唇を噛む。いっそ血が出てほしいと思うくらいきつく、きつく、噛んでみる。
何も、晴れない。
「選ばないなら、できることはない。選ぶなら、オレはいくらでも協力するよ」
「なんで――」
もう知っている。何度も聞かされている。それでももう一度、聞きたかった。
「オレは、黒子っちにも桃っちにも、幸せになってほしいの」
「選んだ結果が、幸せにつながるとは限らないよ……」
「少なくとも、前には進めるっスよ」
それは、そうだ。それはたぶん、いいことだ。停滞は、退化と変わらない。人はたえず前に進む。前に進もうとする。そんな中で足を止める行為が、結果としてどうなるかなんてわかりきっている。だから、前進とは、よいこと、なのだ。
「なーんにも考えず、好きって言えたら楽?」
「たぶん、そうでもないよ」
苦笑う。うまく笑えない。どうせ泣けやしない。
ぐしゃぐしゃになったミルクレープが、何となく悲しかった。フォークはそっと、引き抜いて脇に置いてしまう。コーヒーを一口。ほんのり、酸っぱい。
「まあ――」
彼はケーキを口にしながら、一秒たっぷり思考して、告げる。
「本当に黒子っちだって、なんにもないわけじゃないと思うっスよ」
私はもう一口、コーヒーを含んでいた。
「あのね、桃っち。いいこと教えてあげる」
「……なに、改まって」
「言うかずっと迷ってたんスよ。変に意識させるのもどうかと思って」
「だから何? なんなの?」
なんだと、言うのだろう。彼の言ういいことが、本当に〝いいこと〟なのかも疑わしく思いながら、待つ時間のもどかしさが居心地悪くて前にのめり込む。
「あのね、黒子っちがわざわざ誕生日に連絡してるの、たぶん、桃っちにだけだよ」
ガッツーン。デジャビュ。でも今回は困ったことに頭が割れるように痛い。何を言われたのか理解できるのに、理解を拒絶するように思考がほどけてまとまらない。そんなはずはない。そんなことはない。きっと彼の勘違いだ。そう思いたいのに、彼の目は、嘘をついていなかった。だから余計に、怖かった。
どうしたらいい、どうすればいい、このままでは、このままではいけない。何とか逃げ道を探したくてぐるぐるとほどけた糸を引っ張って、引きちぎって、考える。考えて考えて、一つ、見つける。
「き、きーちゃんだって送ってくれるじゃん」
それはあまりに幼稚な逃げ方だった。
「そりゃオレはそこそこマメっスから。でも黒子っち、そうじゃないでしょ」
文字通り、頭を抱える。そうじゃない、と言われれば、否定できない材料は確かにそろっていた。でもでもだって、言い返したいのに言葉がつっかえる。
「まあ、あの人も何考えてるかよくわかんないところあるから、一概には言えないけど……ただ少なくとも今回のジャケットが、何もないわけはないとオレは思ってるよ」
何かに、すがりたい気分だった。
「いいからさ、当たって砕けてみたら?」
「それはいやだって言ってる」
フォークを握る。ぐしゃぐしゃのケーキを一口にわけて、豪快に頬張る。クリームが、唇の端に触れていた。指摘される前に、拭う。コーヒーは、一旦保留。
「じゃあオレがいまからあの人に探りいれてみようか? 大丈夫、そういうのうまいっスよ」
「もっとやめて。余計なお世話。やったら絶交してやる」
「絶交って……んな子どもみたいな」
「うるさいな。いいでしょ別に」
彼はすでにスマートフォンを取り出していた。しまって、と短く言うとおとなしく従ってくれたから、一旦は大丈夫だろう。このあとはどうなるかはわかったものではないが。
私だってそう、気にならないわけではない。本当に、本当に希望があるのなら、すがってみたい気持ちがまったくないわけでもない。けれど、やっぱり怖いのだ。知ってしまうのが、たまらなく恐ろしい。
だって知ってしまったら、戻れない。戻せない。向き合うには、やはり勇気が必要だ。
「じゃあ桃っち」
彼は頬杖をついて、行儀悪くフォークでこちらを指した。
「明日、黒子っち側から何かしらのアクションがあったら、どうするの?」
そんなもの、あるはずないじゃないか。とっさに、言い返せなかった。
「それは――」
「受け入れる? 突き放す? どっちを選んでも、桃っちの望む〝変わらない〟は叶わないよ」
残酷だ。現実だ。のどが渇く。コーヒーではいけない。だのに水はもう残っていない。
「そ、れは……」
「水、もらってくるっスね」
彼はやっぱり、律儀にサングラスとマスクをして席を立った。置いていかれた帽子を、意味もなく見つめてみる。何でも似合う彼に、たぶん一番に合わない真っ黒。ワンポイントの装飾すら見当たらない。飾らない、そっけない。でも、ぜんぶ受け入れてくれるような気がしてしまう。
もし、彼みたいな人を好きになっていたら。ありえないことだ。たらればでも、想像がつかない。まだ青峰君のほうが現実的だった。彼とは、どこまでいっても友人でしかなくて、それがとても幸せなのだ。ここに、恋だの愛だの不純物が混ざっていたらなんて、考えるべきではない。
差し出された水を、そっと受け取る。ありがとう、が妙にのどに張り付いた。
「きーちゃん」
渇きの癒えたのどから、けれど絞り出すように私は発する。
「私、やっぱり――」
今日の天気は晴れ。気温は少し肌寒い程度。空気は乾燥していて、待ち合わせ場所に向かう前にリップだけ確認した。完璧、とは言いがたいが、化粧ノリはまあまあだったし、きっと上出来だろう。
右手にハンドバッグ、左手に紙袋。引っ張り出したお気に入りのワンピースに、少々履き慣れない可愛いばかりのパンプスは、調子に乗りすぎたかもしれない。けれど気合いは入れておきたかったから、たぶんちょうどいいと信じてみる。
時刻は午前十一時四十分。待ち合わせの二十分前。よかった。想定していた通り、まだ彼は来ていなかった。深呼吸する。行き交う人は、土曜日らしくごった返していて、ああここから彼を見つけるのは不可能だなと諦めが先に走っていた。
大丈夫。きっと彼から声を掛けてくれる。だから何も、心配いらない。時間通りか、少し遅れるか、どちらだろうか。考えながら待つ時間に、妙に気持ちが浮き足立ってしまうのは、しようがなかった。
スマホを取り出す気にもなれず、ぼうっと人の波を眺め続ける。みんなそれなりに早足で、みんなそれなりに表情は明るい。土曜日なんて、多くの人にとっては休日だから、きっとこのあと楽しいことが待っているのだろう。私みたいに。――本当に?
楽しみなことに嘘はない。楽しくなるかは、別の話だ。この場合、楽しくできるか、かもしれないけれど。できるだろうか。できれば、そうしたい。彼との時間が楽しいものであるというだけで、何か満たされるものがあるはずだった。
腕時計を気にして、たいして時間が経っていないことに苦笑い。妙に、落ち着かない。やっぱりスマホを取り出すべきだろうか。現代の時間潰しに、あれ以上のツールは存在しないことだろう。誰も彼もが片手に握りしめて、煌々とした画面から顔を上げない電車内など、いっそ不気味なくらいだ。
ハンドバッグを開けて、目立つサイズのそれを取り出す。通知が数件あった。そのうちの一件が彼からのもので、慌てて開く。遅れる、だとか、そういったものだろうか。予想は外れた。
「あ、え……」
意味のない音が、唇からこぼれる。首の後ろあたりが熱くなるのを感じて慌てて手を添えていた。ひんやりとした感触に、わずかに脳が冷える。が、冷静さは取り戻せない。
なんだろうこれは、現実だろうか。いっそ頬をつねってみようか。あまりに不審なのでやめておいた。息を吐く。息を吸う。もう一度、吐く。唾を飲んで、もう一度画面を見やる。やっぱり何度読んでも、信じられないような文言がそのまま並んでいた。
「今日、会えるの、嬉しいって……」
小さく、声に出して読む。いよいよ現実味をもってくる。震えが走った。熱を逃がしたくて大仰に首を振る。どうにもならないまま、うつむいて一度きつく目を閉じる。心臓が、痛いくらいに脈打っていた。
「大丈夫ですか?」
不意に、声がした。顔を上げると、思わぬ距離に待ち人の顔があった。ざっくり感覚十五センチ、本当はもう少し距離があるかもしれない。わからない、何もわからない。かあっと頬に熱が上るのだけはよくわかる。逃げ出そうにも、せめて身を反らそうにも、背後は壁。逃げ場もないまま、あわあわと唇だけが震えていた。
「桃井さん?」
「あ、あのテツ君、ちょっとち、ちかっ――」
頑張って絞り出す。以前だったら、もしかしたら何でもなかったはずの距離なのに、いまはどうして、こんなに、こんなに、
「すみません。具合が悪いのかと思って」
彼が、離れていく。よかった、と反射的に思って息を吐いた。
「ううん、こっちこそ誤解させてごめんね。ちょっとびっくりしちゃって」
「いえ、誤解ならいいんです。無理してないですか?」
「大丈夫。ありがとう」
やさしいな、素直に思った。うれしいな、ぼんやり考えた。もう一度、深呼吸。時計を確認する。集合時間の十分前。けれど、合流するにはちょうどいい頃合いなのかもしれなかった。
「テツ君、早いね」
「桃井さんこそ」
私も楽しみだったから、なんて、言えるはずもなかった。
「そ、そうかな? そうかも」
「もう少し早く来たらよかったです。お待たせしてすみません」
どうしてそんなことを言うのだろう。彼だって全然遅くない。ただ私が早すぎただけなのに。
「全然。私が早かっただけだよ」
「そうですか?」
「うん」
ずいぶんと、丁寧な確認だ。思わず笑ってしまうと、彼もつられたように笑ってくれた。行きましょうか。先に促したのは彼。素直にうなずいたのは私。隣り合って十五センチの距離を作って歩き出す。
店まではすぐだった。十二時を少し過ぎた頃に着くと予約を入れていたから、予定より早く着いてしまう。もしかしたらすぐには入れないかもしれないなどと心配しながらの道中は、もはや何を話しているのかすらよくわからなかった。二、三、これから行く店の話をしたとは思うのだけれど。どうして、どうしたって、ぐるぐると思考は落ち着かない。
思えばこうして、彼と二人きりで出かけるというのははじめてのことだった。これまでは必ず誰かが一緒にいた。たいていは、キセキのみんな――と火神君――が、いつも、一緒だった。そうか、いま、二人なのか。意識すると途端に指先に震えが走る。なさけない、とは少し違うのかもしれないが、なんとなくそんな気持ちになる。ごまかすようにこぶしを握りしめて見やると店の前に着いていた。
「ここですか?」
問いかけにうなずく。扉を開けてくれるやさしさにくすぐったさを覚えながら店に入るとさっそく店員に声を掛けられた。予約している旨を伝えると、心配に反してまもなく案内される。窓際の、ゆったりめの席。周囲の視線がインテリアでほどよく遮られていて、よくくつろげる。何よりソファがやわらかすぎないのがいい。沈み込みすぎるのは、ランチには向かない。
メニューを開く彼にならって、自分もメニューを眺めてみる。ランチコースは二名様から。予約制ではないけれど、今日選ぶのは得策ではないだろう。無難にパスタか、ピザは、上手に食べられる自信がない。ラザニア、ハンバーグ、ちょっと外してチキン南蛮、いろいろあるが、彼は何を選ぶのだろう。
「何にするの?」
少し、落ち着いてきた。メニューから目を上げて問いかけると、彼も同じように顔を上げてわずかに首をかしげる。
「どれもおいしそうで、迷ってます」
「今日のパスタはきのこのクリームパスタだって」
「それもいいですね……」
自然と笑みが作れていた。よかった、と素直に思う。せっかく彼と二人なのに、いつまでも緊張してばかりでは、何も始まらない。いや、始めるつもりはあまり、ない、の、だけど。それはいい。
しばらく二人で悩んで、女友達と一緒のときのようにシェアの提案はせず、彼は日替わりのパスタを、私はハンバーグプレートを注文した。トマトパスタに惹かれたけれど、ソースが跳ねるのを気にしてしまった。
だって、今日は、少しでも、綺麗でいたい。完璧でありたい。彼の前に、綻びはいらない。
ランチのスープとサラダはすぐに運ばれてきて、二人揃っていただきます。スープはコーンクリーム、サラダのドレッシングはちょっぴり酸味がきいていた。
「おいしいですね」
「よかった。メインもね、どれもおいしいんだ」
会話が、上っ面をこねたように滑っていることは、一旦無視をしたい。なのに、どうしても座りが悪くて意味もなく身じろぐ。どうしてだろう。昔はもっと、もっと、いや、昔から、彼との会話は難しかったようにも思う。どちらが悪いというわけではなくて、どちらかといえば私が悪くて、それがおとなになったことで露呈しただけだ。
おとなというのは、厄介だ。まるでこれでは始めてのお見合いみたいじゃないか。せめて仲のいい友人くらいの会話がしたいのに。どうにも、こうにも、うまくいきそうにない。
メインが運ばれてくるまでしばらくを、どうやり過ごすか。思考は嫌なほうにシフトする。やり過ごすなんてそんなこと、嫌いな取引先の担当者相手じゃあるまいし。
「すみません、桃井さん」
突然、謝られて面食らう。彼は暗い顔をしていた。そんな顔をさせたくて、今日を迎えたはずもないのに、なぜ謝られたのかもわからないまま、困惑はそのまま目尻ににじむ。
「ボク、どうしても緊張してしまって。楽しくないですよね」
緊張? 緊張と言ったか。言った。聞こえた。間違いようもない。でも、どうして? どうして彼が、緊張する必要があるのだろう。わからない、何も、わかるべくもない。だって彼は、そういうものとは無縁のような人だと思っていたのだ。それが私にとっての、彼という人の印象なのだ。
ぐるぐると目が回っているような気がして、慌てて水を飲む。本当は早く言葉を返さなければならないはずなのに、何も出てきてくれない。取り繕うのは、人より得意なはずなのにそれもできない。ただ混乱し、ただ動揺し、ただ、ただ――
「その、白状するとわざとだったんです。ジャケット忘れたの」
しん、と。周囲の音が消える。隣の席の話し声も、陽気に流れるBGMも、何もかもが鼓膜を揺らさない。耳鳴りがする直前のような閉塞感もないままに、ただ、何も、聞こえなくなる。なぜってそんなこと、考えるまでもない。
「ずるいことをしたのに、楽しませることもできなくて、本当にすみません」
また、謝られた。音はいつまでたっても返らないのに、彼の声だけやたら鮮明に、響く。心臓が痛い。血液が沸騰しているように全身が熱い。何を言われたのか、ちゃんと理解しているのにその理解がはまりこむ場所がないまま、ぶらぶらと揺らされている。
生唾を飲んでいた。汗が、首筋を伝う感触があった。滴って、落ちる。瞬間に、わっと雑多な音が返ってくる。
うるさい。うるさい。うるさい。
邪魔をしないで。
私の、思考を、阻害しないで。
「……桃井さん?」
やさしい疑問符。あいまいに笑う彼の輪郭がぼやけてみえて、自分が泣きそうになっていることに気がついた。泣きたいわけじゃないはずなのに。洟をすする。慌てて目を逸らしてから、深呼吸を一つ、二つ。
「謝ることなんて、何もないよ」
やっと言えたのは、そんなつまらない言葉だった。間髪入れず、続ける。
「むしろ謝らないといけないのは、私のほうだもん」
そろそろ、メインが運ばれてくるのではないだろうか。周囲を見回す余裕はない。雑然とした音は相変わらずがんがんと鼓膜を揺らして考えをまとめさせてくれないままに、言葉を続けるしか、私にはできなかった。
「それは――」
「私だって、私だってね、ずるいんだよ。ずっとずっと、ずるいの。だから」
ごめんなさいは、言えなかった。言葉尻を奪うようにパスタとハンバーグが運ばれてきた。湯気の立つそれらがどちらもおそらく絶品であろうことを、私はちゃんと知っていた。けれど私たちの手は、一向にカトラリーに伸びないまま数秒をかぞえ、数十秒を待ち、一分を感じさせる。
「食べよっか」
どうしたものかと、続きを話そうかとも考えた。やめにしたのは、不毛だと気づいたからだ。
「そうしましょうか」
彼も、同意してくれた。彼はフォークを、私はナイフとフォークをそれぞれ手に取って、黙々と食べる。会話は、うまくできない。いやきっと、文字通り適当な話をすることはいくらでもできた。が、そうしなかった。そうしてしまったら、壊れると思った。何が? 何かが。たぶん大事なものが。
話をしないと、食べるのも早く進む。正直に言って、味がしない。本当においしいから、今日彼をここに誘ったのに、これでは笑えない。無理やり引いた口元の笑みは、不気味に歪んだ気がしてすぐに引っ込めた。
デザートは、注文しなかった。食後のコーヒーだけ、一緒に飲んだ。彼は、変わらず甘党らしく、砂糖とミルクをたっぷり入れていた。甘そうで、胸焼けしそうで、彼らしくて、ああ、苦々しい。
会計では、少し揉めた。予想していたことだった。押し切って、私が払った。格好つけさせてなんてあげない。私にも意地がある。くだらないとしても、そこは貫き通したい。彼には、困った顔をさせてしまったけれど。
「頑固ですね」
「テツ君には負けるよ」
店を出て、これからどうしよう。うやむやになったさっきの話の続きをするにしても、どこかへ場所を移さなければならない。なんとなく、ここで別れてしまってはいけないことは自覚していた。
さっきの店ではいけなかったのか。だめなのだ。一度場所を変えることで、気持ちを切り替える必要があった。ぎゅっと、紙袋の持ち手を握りしめる。紙製の、固い感触。
近くで休日のこの時間でも入りやすいカフェは、どこかあっただろうか。考える。考える。
「桃井さん」
あーでもない、こーでもない。ぐるぐると回る思考をぷつりと遮られ、振り返る。彼はずいぶんと身軽に見えた。いつでも消えてしまいそうなはかなさを持っていた。途端に、怖くなる。ここで別れを切り出されたら、立ち直れないかもしれない。
手のひらに、爪が食い込む気配がした。
「近くに穴場のカフェがあるんです。ちょっと仕切り直させてください」
肩の力が抜けた。同時にこぶしまで弛緩して、思わず紙袋を取り落としそうになる。
「ああ、ずっと持たせてましたね。それ、ジャケットでしょう。もらいます」
「え、あ、うん。――はい」
気持ちだけ、渡すのをためらった。これを渡してしまったら、彼にもう帰る口実を与えてしまう。なんて、彼のほうからこのあとのカフェに誘ってくれているのに、そんなことを考える自分の浅ましさが苛立たしい。
「行きましょう」
彼の案内で、裏道に入っていく。普段は、通らないような狭い道。慣れないパンプスの不安定さにもたついていると、先行く彼が振り返ってくれた。
差し出された右手の意味を、しばらくつかみかねる。彼の顔と右手を交互に見やると、耳のあたりが赤くなっていることに気づいた。
これは、そう、手を取っていいと言われているのだ。
「すみません、慣れないことをしたのでなんて声をかけたらいいかわからなくて」
「ううん。ありがとう。気を遣わせちゃったね」
「いいんです。いくらでも」
恐る恐る左手を重ねる。想像していたよりもずっと熱くて、こちらまでつられて熱くなる。おそらくこれが、はじめて手をつないだ瞬間だった。それもそうだ。青峰君みたいに小さい頃から一緒だったわけでもあるまいし、男女で手をつなぐなんて学校行事のフォークダンスか、それかそう、そう、――なんでもない。
彼は終始やさしかった。引く手も、歩く速度も、時折振り返る表情も、何もかもがずっとやさしかった。こんな経験、もう一生できないんじゃないかと錯覚させられるくらい、自分を大事にしてくれているのが、ひしひしと伝わってきた。
だから、怖くなった。本当は全部夢なんじゃないかと。だってこんなこと、ありえるはずがない。どうしたって、どう転んだって、私の都合のいいようにしか解釈できないこんな扱い、受ける理由が、だって、だって、
「つきました」
十分ほど、歩いただろうか。足を止めた彼の指さす先にはおよそただの民家にしか見えない建物があった。申し訳程度に玄関、入口にかけられたOPENの看板だけが、そこが開かれている場所であるという証明になっている。
「ちょっと隠れ家みたいで、好きなんです。ここ」
いたずらっぽく、彼が笑う。反射で、好きだなと思って慌てて押し込める。
離れた手のぬくもりを惜しみながら、彼が開けてくれた扉をくぐると、そこは外観からは想像もつかない空間が広がっていた。
「本当にカフェだ」
「そう思いますよね」
馥郁としたコーヒーの香りが室内を満たしている。湯の沸く音がこぽこぽと穏やかで、やわらかいジャズの音色が優しく響く。壁面の本棚には洒落た洋書がずらりと並び、観葉植物は心なしか元気がない。
客は自分たちの他に二組。店主と思われる男性は、カウンターの中でゆっくりとコーヒーを落としていた。
「こっちに座りましょう」
彼に誘われるまま、窓際のソファ席に腰掛ける。先ほどの店とは異なり、ここのソファはずっしりと沈んだ。ずぶずぶと体が吸い込まれる。あまりにもくつろげ過ぎてしまう空間だ。
「ここのケーキが絶品なんです」
メニューを差し出しながら、彼が言う。それならと、私もメニューとよくにらめっこ。チョコレートケーキがあった。こってり甘いかはわからないけれど、心はすぐに決まる。しばらく待っていると水を持った店主がやってきて注文を聞いてくれた。
「ボクは季節のタルトとコーヒーを。彼女は」
「チョコレートケーキとコーヒーをお願いします」
静寂。一人で、本を持ってきていたらきっといくらでも過ごせてしまうような静謐。心地よくて、落ち着く。彼が選ぶ店らしい。自分という存在が、すっとはまり込むような感じがする。それはきっと、安心と呼べるのだ。
踵を少しだけ気にしてから、そっと彼に向き直る。彼の目線は、洋書の並ぶ本棚のほうに向けられていた。
「洋書読んだりするの?」
目が合う。まっすぐな、意思の強い瞳だ。
「たまに。火神君がいろいろ教えてくれたおかげで原著が読めるようになりました」
「すごいね。私なんて全然」
「桃井さんなら、ボクよりすぐ読めるようになると思いますよ」
どうしよう、また、だ。またこの、上滑る感覚。お互い確信に触れたがらずに、なんとなくおとなの会話をする時間。苦痛ではない。むしろ、楽しい部分もある。けれどどうにも、それではいけないことがわかっているから、胸が濁る。
私から、投げかけたほうがいいのだろうか。それができたら悩まない。とはいえ彼からのアクションを待つのも傲慢だろう。せめて、コーヒーとケーキが運ばれてくるまでは、この臆病を許してほしい。
願いは、聞き届けられなかった。
「すみません」
また、彼が謝る。そんなこと、してほしいわけでも、させたいわけでもないのに。でも、彼がそうする理由もよくわかる気がするから、やめてとも言いづらい。だって、私も、謝りたい。
「私もごめんね」
だから素直にそうした。指先が震える。ごまかすようにグラスを手に取って水を含む。そういえば、のどが渇いていた。
彼は、言葉を選ぶように何度か口を開閉し、一度ため息をついて見せた。それは、私に向けられたものではなく、彼自身に向けられていた。彼も、私と同じようにグラスを取って、くらくらと遊ばせる。まるで飲んでしまったら、言葉も一緒にのみ込まれてしまうみたいなためらいだった。勝手な、想像だけど。
「ボク、あんまりこういう機会がなくて」
知っている。というよりも、そうであってほしいという私の願望込みだ。彼が、女性と二人きりの場面に慣れているなんて、考えただけで悔しさでいっぱいになってしまう。私じゃない誰かとの思い出を、積み上げているなんて、そんなこと、考えたくもない。
パートナーでも、あるまいし。そんな資格どこにもないのに。私ってどうしてこうなのか。一丁前に嫉妬だなんて、そんなこと、表に出さないからぎりぎり許されているだけの不要な感情でしかない。そんなこと、わかっている。
「本当はもっとスマートにできたらよかったんですが、そもそも始めから卑怯な手を使ってよくなかったですね」
卑怯、とは、ジャケットのことだろうか。それしかないのに、いまだにうまくのみ込めない。
「楽しく、なかったですよね」
「そんなことない!」
思わず、大きな声が出ていた。はっとして口元に手をやって小さく身を畳む。この静かな店でずいぶんな声を出してしまった。許してほしい。だって、これだけは絶対に、なんとしても、否定しなければいけないことなのだ。
「そんなこと、ないよ。ほんとに、本当だよ」
今度は小さくで、けれどはっきりとした意思を伝えるようにゆっくりと声にする。彼に、誤解してほしくなかった。楽しくできていないのは事実かもしれないが、私はそれでも、十分、楽しいのだと、知っておいてほしかった。
私は、彼といられるだけで、十分、幸せなのだ。
「本当に?」
聞き返される。ちゃんと目を見て、うなずく。
「テツ君は、楽しくなかった?」
そうなのかもしれない。だから、こんなに確認してくるのかもしれない。寂しいことだけれど仕方がない。人の気持ちはその人のもので、その人が感じたことを他者がどうこうすることはできやしないのだ。
「いえ、ボクも、楽しかったです」
けれど、返ってきたのは否定だった。困ったようの頬をかき、彼は続ける。
「なんというかその、ボクだけ楽しくて、うまくあなたを楽しませられていないんじゃないかって不安で……」
コーヒーとケーキが、運ばれてきた。店主の腕越しに、彼の顔が見える。耳元が赤い。視線は合わない。さっきも見た顔だ。あまり、彼がしない顔だ。
彼は、グラスの結露でびしゃびしゃになった手を丁寧に拭いてから、マグを手に取った。コーヒーは、すぐさま口に運ばれる。砂糖もミルクも入れていないのに、大丈夫なのだろうか。ごくごくごく、案の定、眉根が寄る。
なんだろう、これは、なんだろう。おそらく端的に言えば動揺というやつではないか。まさかそんな、彼が? 彼のような人が? バスケットが絡まなければ、基本的にいつも冷静に見える彼が、どうして、動揺する必要がある?
「ボク、こう見えて結構浮かれてるんです」
彼はフォークを手にしながら言う。私はいまだ、コーヒーにも手を付けられていない。
「今日こうしてあなたと過ごせて、嬉しくて、昨日も眠れなかったくらいで」
まばたき、三回。そのまま首をかしげる。マグを取ろうとした指先がぴたりと止まった。
「だから楽しんでもらえていたのならよかったです。ボクばっかり楽しいんじゃ、フェアじゃないですから」
フェアとか、そういう話はどうでもいい。いや、彼の話がどうでもいいわけではないのだけれど。それどころではない。さっきからこの人は、一体何を言っている。私はやはり、都合のいい夢を見ているのではないか。本当はまだ今日は来ていないのではないか。
だって、そうでもないとこんなこと、彼が言うはずがないじゃないか。
浮かれている? ――私と一緒で?
嬉しい? ――私と過ごせて?
眠れなかった? ――私と会うから?
そんな馬鹿な、そんなことありえない。ありえてはいけない。そんな私にばかり都合がいいことが、起こっていいはずがない。
「桃井さん?」
呼ばれる。ぎぎぎと首がおかしな音を立てるみたいにぎこちなく動く。私は、彼のほうをもう見られなかった。落とした視線の先には、綺麗なチョコレートケーキがまあるく鎮座していた。
「桃井さん、どうしました? もしかしてやっぱり具合でも」
「ち、違うの。そうじゃなくて、その」
なんと言えばいい。何を言えばいい。わからない。何もわからない。どうしていいかわからない。とりあえずコーヒーを飲んだ。苦味がやわらかく、酸味の少ない飲みやすいコーヒーだ。次にチョコレートケーキにフォークを刺した。口に運ぶ。甘い。求めていた甘ったるさが口内を支配して多幸が訪れる、はずなのに、ぐるぐると目が回るような錯覚。
顔から、火が出そうだった。もうどう取り繕っても真っ赤になっているのが自分でわかる。呼吸を意識的に深めても、ばくばくとうるさい心臓は一向に静まる気配もなく、指先の震えは止まらなかった。
「桃井さん……?」
もう一度、呼ばれる。これは現実で、当然に彼は嘘をついていなくて、そこに果たして他意は含まれているのだろうか。含まれていなかったとしたら、とんだ人たらしだ。でも彼にはそういうところがないとも言いきれない。どうしたらいい。どう、判断したらいい。わからない、わかるはずもない。こんなこと、想定してきていない。
――あのね、黒子っちがわざわざ誕生日に連絡してるの、たぶん、桃っちにだけだよ。
どうしていま、それを思い出すのか。意味がわからない。脈略がなさ過ぎる。そのはずなのにぐるぐると反芻してしまう。
「テツ君は」
ノープランで、口を開いた。どうするかも、わからないまま。
「私のことどう思ってるの……?」
そして、とんでもないことを、吐いていた。
沈黙が流れる。互いのあいだを、BGMが通り抜けていく。他の客は、気づいたらどちらももういなかった。店主だけが、カウンターの中で暇そうに新聞をめくっていた。
「ご、ごめん、やっぱりいまのなし。なんでもない、なんでもな」
「可愛らしい人だなって、ずっと、思ってますよ」
これは、聞きたかった答えだろうか。少しずれているような気がした。それでも素直に嬉しいと思ってしまうのだから私って意外と単純だったのかもしれない。
「それからいまは、誰にも渡したくないなって思ってます」
「え――?」
「ふふ。ほらコーヒー、冷めちゃいますよ」
コーヒーが、なんだって。それこそ本当にどうでもいいじゃないか。たぶんこのコーヒーは冷めてもおいしい。ケーキだって溶けてしまうようなアイスクリームじゃない。だからここには何も、私と彼の会話を邪魔するものはない。それなのに、あからさまに話をそらすのは、あんまりじゃないかと思う。
「ずるいよ」
顔を上げた。彼はもう、なんでもないような顔をしていた。それが妙に悔しくて、思わず身を乗り出す。
「テツ君はずるい」
彼が笑う。綺麗に笑う。好きな笑みだ。けれどいまは、無性に腹立たしい。
「すみません。せっかくきいてもらえたのでついもれちゃいました」
まるでいたずらっ子みたいに彼は謝って、そのままなんでもないようにケーキを口に運ぶ。きらきらのぶどうが、カスタードとタルト生地と一緒にのまれ、咀嚼され、のどを落ちていく。
「私のほうがずっと」
「そうですね」
「どうしてなんでもないことみたいな顔ができるの」
「あなたが、かわりに真っ赤になってくれてるからですかね」
何か言い返したかった。何も出てこなかった。仕方なく、勢いつけてソファに身を預け、そばのクッションを抱きしめる。化粧がつかないように、顔には触れさせない。
「食べないんですか?」
彼のケーキはもう半分になっていた。対する私のケーキはまだ一口しか欠けていない。
「食べる」
いまはもう、おとなしく食べるしかないのだろう。フォークをつかみ、存分な甘さを堪能しながら時折コーヒーに手を伸ばす。
黙々とした時間。彼はずっと笑っていた。私は頬袋を膨らませてしまいたい衝動に駆られていた。端的に言えば拗ねていた。拗ねられるくらいの、余裕があった。それもそうだ。だってもう開き直るしかない。彼があっさりと、私が踏み越えられずにいた境界線を踏み越えてきたのだから。私にできることなんてもう、何もない。
「ねえ、桃井さん」
彼はそっとフォークを置いた。もう、タルトもコーヒーも残っていなかった。
「ボクとお付き合いしてくれませんか?」
私はぎゅっとフォークを握りしめた。まだ、ケーキもコーヒーも半分ほど残っていた。
「す――」
ぐっと、フォークを突き立てる。ケーキは崩れ、無残な姿。
「好きって言ってくれたら、考える」
精一杯の意地を、彼は笑って受け入れた。
「はい。――好きです、桃井さん」
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