クドリャフカ
2026-06-21 17:05:36
9418文字
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寺川がトガシくんのマネージャーになる話⑨

ここから後半

今更ながら、トガシや寺川の家族構成や家庭環境は諸々捏造になります。なんでも許せる人向け。



 ──2月某日。
 サンディエゴ国際空港にて。

「乾いてますよね」

自動ドアの向こうへ出た瞬間、トガシは思わず足を止めて空を見上げ呟いた。太陽の光が強くて、目を細める。季節はまだ冬のはずなのに西海岸に吹く風は思いのほか暖かく、ヤシの葉を風光明媚に揺らしている。

「あ?なにが?」
「空気です」
「あーね、砂漠近いからじゃない?」
「砂漠があるんですか?」
「メキシコにね」

言いながら寺川はダルそうにキャリーケースを引き、サングラス越しにスマホをいじっていた。明らかに機嫌が悪い。長時間のフライトでヤニ切れなのだ。

「てか、どこで吸えんのこれ」
「知りませんよ」
「マジで無理なんだけど」
「我慢してください」

寺川は舌打ちをひとつしてポケットをごそごそ探り、何もないのを思い出してさらに機嫌が悪くなっていた。

「でもなんか、呼吸しやすい気がしませんか?」
「あー……それ、気のせいじゃなくて本当にそうらしいよ。なんか日本よりも湿度低いから」

へぇ、とトガシは呟いて再び空を見る。
アメリカの空はとにかく広大で高く青い。日本の冬空にあるような白い霞がどこにも見当たらなかった。空気は乾いているものの、海が近いせいか風は仄かに潮を孕む。

「じゃあ、日本よりも速く走れますかね」
「それはトガシくんの脚次第でしょ」

ちょっと投げやりな寺川の言葉に、トガシは笑った。もっともだった。どれだけ環境が整っていようが、タイムを削るのは己の脚である──。


 翌年に迫ったオリンピックを見据え、トガシは海外に拠点を移した。アメリカ。カリフォルニア州の南端、サンディエゴである。スポンサーの勧めと厚意により、専属トレーナーとも契約し、トレーニング環境はめでたく引き上げられたのだった。

カリフォルニアでの住まいは、海沿いの古いアパートだ。本来なら、もっと小綺麗なコンドミニアムに住む予定だったのだが、契約寸前になって先方の手違いだか二重契約だかなんだかが発覚し、契約が吹っ飛んだのだ。

「──ほんっと最悪。いやマジでアメリカ適当過ぎん?って思ったよねェ」

と、寺川は度々その話を蒸し返してきては、ネチネチ文句を垂れている。

「また言ってる……
「だってさァ、“Hahaha!Sorry!”で済まそうとしてんだよ?マジふざけんなって感じじゃん」
「向こうの人、ずっと笑ってましたもんね」
「それな!なんでお前ニコニコしてんだよって感じなのよ!絶対悪いと思ってねェじゃん」
「まぁ、そういう文化の違いじゃないですか」
「いやもうこれは文化どうこうとかじゃなくて、コッチが普通に舐められてんだよ」

備え付けのソファの上でごろりと寝返りを打ちながら、寺川はぶつくさ続ける。

「なんかさァ、日本人は文句言わないだろ〜みたいな空気感あんじゃん?」
……いや、寺川さん普通にすげー文句言ってましたよね?」
「そりゃあ言うよ、俺はね? けど、日本人はそもそもが舐められ過ぎなんだよ。だからさァ、トガシくんマジで頼んだよ」
「何をです?」
「オリンピック」
「唐突ですね」
「こうなったらギャフンと言わせてやってよ、世界を!」
「世界を……

トガシは笑った。いつも大抵のことはヘラヘラ笑って受け流す寺川が、ここまで根に持つのもなんだか面白い。けれども実際、寺川は年末のバカ忙しい時期に、何度も現地の不動産屋と深夜からリモート打ち合わせをしていたのである。そんな苦労の果ての契約が吹っ飛んだのが、ちょうど大分にいたタイミングである。小宮温泉では温泉そっちのけでノートパソコンを開き、「クソがよォ〜〜」と呻きながら代わりのアパート探しに延々と時間を費やしていたわけで。そりゃあもう本当に気の毒な状態であったのだ。ちなみに、その時トガシは普通に暇だったので限界の寺川にちょっかいをかけて遊んでいたりしていた。そして見かねた小宮から普通に嗜められた。

 そんなこんなで急遽押さえたのが、現在のアパートである。白と水色の陶タイルが貼られた外壁はどこか可愛いレトロな趣きで、ミントグリーンの屋根は強烈な西海岸の日差しに焼かれすっかり色褪せている。昔のホームドラマにでも出てきそうな外観と言えばちょっぴり素敵に思えるけれど、ありていに言えば見事なボロアパートだ。壁は薄く、床は微妙に傾いており、水道の蛇口からは茶色い水が最初に出てくる。備え付けの冷蔵庫は食品を冷やす気概がまるでないし、コンセントは片方を使うともう片方が死ぬ。そんなクソ物件である。

「──しかもさァ、こんなクソ物件で家賃だけは普通にバカ高ぇんだよ? マジなんなの、あの大家のクソババア」
「仕方ないですよ」
「てかあのババア、鰯高の購買のおばちゃんにすげー似てない?」
「それは……ちょっと、わかります……
「だよね。ババアの顔見るとイワコロパン食べたくなってくるもん」
「そういえば俺、こないだ大家さんにパン貰いましたよ」
「ハァ〜〜、トガシくんってほんとババアに好かれる才能あるよね」
「なんですかそれ」

年季の入った皮のソファに寝転がったままだらだら足を揺らす寺川を横目に、トガシが笑いながらテラスの窓を開ける。夕暮れの潮風が、部屋の中へ流れ込む。リビングの先にある広いバルコニーからは、海が見えた。夕方になると水平線がオレンジに溶け、大きな海鳥が飛んでいるのが見える。ボロっちいアパートのくせに、そこだけはちょっと洒落た洋画みたいな趣きだった。

……でも、眺めもいいですし、俺は別にここ嫌いじゃないですよ?」
「えぇ〜嘘だろ〜?ボロ過ぎじゃん、こんなんほぼパトリックの家だよ? 安上がりな男だねェ、トガシくんは」
「うるさい」




 さて、そんなわけでカリフォルニアくんだりまで、当然のようについてきたマネージャーの寺川である。実際のところ、マネージャーとしてはとんでもなく頼もしい男なのだ。仕事もできるし、要領もいい。トレーニング施設の手配もアパートの契約もほとんど一人で片付けてしまったし、ダブルブッキングをやらかした例の不動産屋には、普段のヘラヘラした態度からは想像もつかない勢いでブチ切れてくれた。正直、今のトガシが走る以外のことを一切考えなくて済むのは、わりと本気で寺川のおかげだと言ってよろしい。そこは素直に認める。ちょっぴり癪ではあるけれど。

……だのに、最近はその有能な男はまるきり不在であった。


 カリフォルニアへ来てしばらく経った頃から、寺川は明らかに部屋を空けることが増えていた。日本にいた時のようなメディア対応に追われることもないし、四六時中トガシに付き添う必要もないのは理解している。

理解は、している。
しているが……!である。

朝いない。夜いない。なんなら連日の外泊はもう当たり前。たまに帰ってきたと思えばソファで気絶したみたいに寝て、いつの間にかまたふらっと何処かへ消えている。流石にこれはいかがなものかとトガシは思う。いや別に寂しいとかそういうんじゃない。絶対違う!断じて違う!違うのだけれど……なんかこう、なんかこうムカつくのである。

 しかも、この状況を更にややこしくしているのが、くだんのボロアパートの大家である。このババア、なぜだかトガシと寺川をカップルだと誤解している節があるのだ。故に、ここ最近の寺川の不在ぶりは、そのまま浮気という形でババアの頭の中で脳内変換されていたわけである。

とある日のこと。
トレーニングを終え、一人でアパートへ戻ったトガシは、待ち構えていた大家のババアに呼び止められた。

「Oh honey you deserve better……

そう言って、ババアはやたら憐れんだ顔でトガシにしみじみ話しかけてきた。トガシは英語がわからなかったが、なにやらめちゃくちゃに同情されている雰囲気だけは伝わってくる。

「He’s not good for you. Okay……?」
……?」

ちんぷんかんぷんだった。
とりあえず、ヘラッと笑って頷いておく。
ヘラシである。

「You need a man who respects you. And if he cheats on you? Leave him. Promise me.」
……?」
「Okay?」
……い、イエース? オーケーいやオーライ?」
「Stay strong. You’re a good baby……!」
「???」

そうして、なぜだか最後には涙ながらにぎゅむっと抱き締められた。理由はさっぱりわからないが、どうやら自分は可哀想なベイビーとして扱われているらしいということだけは理解したのだった。

 そうしてこの日以降、トガシは大家のババアと顔を合わせる度に、『貴方のダーリン、また帰ってこなかったのね』だの『ワタシの可愛い坊や、貴方にはもっと他に良い人がいるわよ』みたいなことを言われるようになった。もう地獄である。いったい何がどうなっているのか。空気の読めるトガシは、もちろん察しがついている。察しているが、それを認めるのはとんでもない屈辱の極みである。まったくもって本当に最悪だった。それもこれも全部、全部、全部、寺川が悪いのだ。

そんな不満は日に日に募り……


「──さては女かッッ!?!?」

とうとう爆発したトガシは、ほとんどヒステリーの勢いで寺川を問い詰めていた。 

「うわダル。なんなの急に」
「最近ずっと帰ってこないじゃないですか!!」
「あーね。てかやだァ〜、トガシくんメンヘラ彼女みたいじゃん〜〜」
「ぶん殴りますよ」
「こわ」

仁王立ちで怒るトガシとは対照的に、寺川はソファに寝転がったままタコスをモサモサ食っていた。そんな態度に、こいつ絶対反省してねぇなとトガシはますますブチ切れていた。

「あーもぅ無理!!最悪!!不潔!! このヌケサク!!」
「ちょっ、なんか誤解してない?そういうのと全然違うからね?」
「はぁ?!この期に及んでまだシラ切る気ですか!!アパートの住人全員噂してますよ!!このヤリチン野郎がっ!!」
「だから違うって……てか、え?なに?アパートの人らになんか言われてんの?」
「何が違うってんだこのスットコドッコイのズンドコベロンチョがっ!!アンタの女漁りのためにカリフォルニアくんだりまで来てんじゃねぇぞ!!」
「ねぇ聞いてよ」
「もういい!!アンタなんかクビだ!!このままカリフォルニアでのたれ死んで野良犬にチンコ喰われちまえバカタレ!!!!」
「ちょっ聞けって。てか、さすがに言い過ぎじゃない?」
「うるさい!!このスポンジボブがッ!!!!で?!相手はどこのブロンド美人ですか?!さっさと写真出せよ!!今すぐ!!逃げんなオラ!!!!」
「だから違うってェ〜〜」

トガシも大概しつこいが、寺川も大概信用のない男である。寺川は残りのタコスを咀嚼しながら「ん〜」と面倒臭そうに身体を起こし、それからようやく観念したみたいに口を開いた。

「本当に違うんだって。アメフト観戦に行ってんの」

そう言って、こともなさげに白状した。

…………は? 」
「アメフト」
……アメフト???」
「そうそう。今ちょうどスーパーボウルっていうデカい大会のシーズン真っ最中でさァ、スポーツバー行ったり、ちょくちょく現地のシリコンバレーまで観戦行ってたの」
「帰って来なかったのも……?」
「いや、同じカリフォルニア州っつっても普通にクソデカだからね? シリコンバレーとか全然遠いし、帰りの便取れなきゃ泊まるしかないじゃん」
「いや、でも、だからって……
「いや〜しっかしやっぱ本場は違うねェ〜、ガチのスポーツ興行ってマジすげーの」
…………
「ていうかトガシくん知ってる?こっちのテールゲート文化。試合前から駐車場で肉焼いて酒飲んで騒いでんの。ほんとバカだよねェ〜最高〜〜!」
…………

どうやら元フットボーラー寺川は、本場アメリカのアメフト観戦にすっかり夢中らしかった。なんとも楽しそうに語る寺川に、トガシはこれ以上怒るタイミングを見失った。というより、呆れるしかなかったのだった。

 ──そうして、別の朝。

「今日もいないんですか」

トガシが早朝のランニングを終えてアパートに戻ると、今日も今日とて寺川はウキウキと出かける準備をしていた。

「アハハ、ごめんごめん。けど、せっかくのアメリカだぜ?」
……仕事、どうすんですか」
「俺のタスクは終わってるよ。あとはトガシくんが走るだけじゃん」
…………
「You’ll be fine, bro!」

うわ、ダル。そう声に出さずに吐き捨て、トガシはそのままバスルームに直行した。服を脱ぎ捨て、シャワーカーテンを乱暴に引いて蛇口を捻る。古い水栓がガコンッと唸ると、茶色の汚ねぇ水が飛び出してきた。最悪である。向こうからは「Aww, don’t be salty〜」とかなんとか軽薄な声が飛んできていたが、無視した。そもそもトガシは、英語がわからぬ。

 アメリカかぶれの寺川は、英語がそれなりに堪能だった。なので現地でのややこしい手続きや、日常生活のちょっとしたやり取りに至るまで全部まとめて通訳を引き受けてくれていた。右も左もわからない異国の生活でも、トガシはただ走ることだけに集中すればよかったのだ。そもそも最終的にカリフォルニア行きを決めたのだって、寺川の『俺居るし、大丈夫っしょ』という後押しがあったからに他ならない。

──それなのに、である。


「ちゃんと見てろって、言ったのに……

そう口から溢れた瞬間、トガシはさぁーっと血の気が引いた。愕然とする。思っているよりずっと、自分は寺川という男に依存しているのではないかと気付いてしまったからである。

腹が立つのは、寺川がいないことじゃない。いないと困る自分の方だ。その事実に気付いた瞬間、トガシは水栓をバン!!とぶっ叩いた。するとシャワーからようやく透明な水が出てきた。だが、お湯にはならない。ボロい給湯器のせいでお湯になるまでとんでもなく時間がかかるのだ。その冷水を、トガシは躊躇なく頭からぶっ被った。冷たい。はずなのに、体の奥はそれよりもっと冷えたままで。水音に紛れながら、小さく舌打ちを落とす。寺川がいなくても。英語がわからなくても。知らない国でも。結局、走るのは自分自身なのだ。

「やるしかないか……

排水口へ流れていく水を見下ろしながら、短く呟く。濡れた髪を乱暴にかき上げ、トガシは静かに覚悟を決めた。鏡の中の自分と目が合う。視線はぶれない。ガンギマリの男がそこにいた。



 かくして、高校英語止まりだったトガシも必死で言葉を覚え始めたわけである。トレーナーとのやり取り、トレーニング施設の利用、買い物、大家のババアへの挨拶、生活に必要な語彙から少しずつ拾っていく。どちらにせよ、寺川の不在が続けば自分でやるしかないのだ。幸いにして耳が良いので聞き取りに苦労はなかったし、発音も笑われるほどではない。文法などのややこしいことは後回しだ。通じればそれでいいし、通じなければ言い直せばいい。案外ノリで返せばなんとかなるということにも最近気付いた。もともとの社交性の高さも手伝い、数日もすれば日常会話で困ることはほぼなくなっていた。トガシは追い詰められるほどめっぽう力を発揮する男である。
 

「──トガシくん、なんか最近英語いけてるくない?」

 トガシはバスタブに身体を沈め、ぬるめのお湯に浸かっていた。窮屈なので片足をバスタブの縁に乗せて伸ばし、頭を後ろに預けたまま天井をぼんやり見ている。バスルームの白いタイルはところどころ欠けていて、やる気のない換気扇のせいで湿った空気は一向に抜けきらない。そのうえ、今はどぎついブリーチ剤の匂いまで漂っている。その元凶たる寺川は、洗面台で頭を流しているところだった。シャワーの水が流れ落ち、脱色されたばかりの髪が濡れてテラテラ光っている。

「トガシくんの知ってる英語なんて、せいぜいパンとナイキとオンユアマークスくらいなもんだとばかり思ってたけどさァ」
…………
「日常会話もだんだんサマになってきたよね」
「あー……、Don’t gas me up」
「いやほんとほんと、普通に通じてるし」
「I’m built different」
「No way、そんなスラングどこで覚えてくんの?」

シャワーの音に掻き消されながら寺川がくぐもった声で笑う。トガシはちゃぷんと音を立て、さらに深くバスタブに沈んだ。

「いやぁ〜でもなんかちょっと寂しいね、俺の存在意義なくなるじゃん」
「そうですね」
「トガシくんのいけず。そこは否定してよ」
……寺川さん」
「うん?」
「クビです」

数秒遅れて、寺川がぴたりと手を止める。
シャワーだけが流れ続け、排水口へ音を立てて無常に吸い込まれてゆく。

………………は?」

頭をびちゃびちゃに濡らしたまま、寺川がバカの顔をしていた。

「前にも言いましたけど、クビです。もうお役御免ということで」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ、トガシくんガチで言ってる?」
「ガチです。通訳の必要もないですし、これからは一人でやっていくつもりです」
「え」
「なので寺川さんも一人で頑張ってください」
「え」
「じゃ」
「え」

トガシはそこで口元を歪めた。
ほんの少しだけ、意地の悪い笑い方をする。

「──あとは、“You’ll be fine, bro”……でしたっけ?」

そう言った次の瞬間、寺川は声を上げてドカッと笑った。狭いバスルームに笑い声が響く。この男の笑いのツボを、トガシもようやく掴めてきたところである。

「ダッハハハ!!まさかトガシくん、それずっと根に持ってたの?!」
「別にそういうわけじゃ……、ただ……
「ただ?」
……見てるって言ったのに、見てなかったから……

言ってから、トガシはちょっと後悔する。
なんだか子どもみたいな拗ね方だ。けれど寺川は、笑うのをやめて、ほんの僅かに目を細めた。

「そっか……、ごめんね」

その声音は思いのほか優しい。いつもみたいな茶化すでもない寺川の様子に、トガシは逆にどう反応していいかわからなくなる。その時、ふいに浴槽のぎしっと軋んだ。トガシが顔を上げれば、服を脱いだ寺川が当然のようにバスタブへ足をかけていた。

「ちょ、なにして──」

止める間もなく、寺川がそのまま体をねじ込む。バスタブから溢れたお湯が、タイルの床へざぶりと大量に流れ落ちた。

「うわ狭っ」
「当たり前じゃないですか」

膝と膝がぶつかる。もともと一人でも窮屈な浴槽である。大の男二人ともなれば尚更だ。距離が近くなったせいで、ブリーチ剤の匂いがさらに鼻につく。

……くさい。早く出てけよ」
「人が髪染めてる時に風呂入ってきたのは、トガシくんの方でしょ」

抗議するもあっさりいなされ、なんなら距離を詰められわしゃと頭を撫でられる。

「わ、ちょ、やめてくださいよ」
「いいじゃん、機嫌直してよトガシくん」
「子ども扱いすんな」
「拗ねてたのは事実でしょ」
「拗ねてないです」
「はいはい」
……

抵抗するのも面倒になって、トガシは力を抜く。どうせやめない。寺川は時々、こうしてトガシを幼子か猫のように甘やかして機嫌を取ろうとすることがあるのだ。

「寂しい思いさせてごめんね、トガシくん」
「してません」
「うん。でも、ごめんね」

そう謝る声に、いつもの冗談っぽさがない。
トガシはなんだか返事に困って、視線を彷徨わせた。

「俺ね、ガキの頃、家で一人だったこと多くてさ。だから、なんかそういう……置いてけぼりみたいなの、嫌だったはずなのにな……
……神社の家で?」
「いや、神社は爺ちゃんがやってんの。そっちで暮らすようになるまでは、クズの親父と二人暮らし」
「自分の父親のこと、クズって……
「マジでクズだよ。借金で首が回らなくなって、爺ちゃんの土地勝手に売りに出したりしてんだよ」
「えっ、マジでクズじゃないですか」
「ダハハッ!!だろ!?トガシくんのそういうはっきり言うとこほんと好き〜〜」

寺川が笑いながらバスタブの湯をぱしゃぱしゃ掻く。

「まぁ、そんなクズでもなんだかんだ憎めない人ではあるんだけど……父親としてはやっぱり最低でさ。だから俺も、あの時の親父みたいなことしてたかなって……

寺川が少しだけ視線を落とす。水面が揺れる。トガシは黙ってそれを見つめていた。

「別に、そこまでは……俺だって、もういい年ですよ」
「子どもじゃなくても、寂しいもんは寂しいだろ」

あっけらかんと笑いながら、そんなことを気負わず口にする。この男のそういうところが、少しずるいと思う。トガシは、少し迷ってから口を開いた。

……うちも、父も母も仕事が不規則で、家を空けることも多かったので。家に帰っても誰もいないの、わりと普通でした」
「へぇ、そうだったの」
「はい。でも、祖父がいたので。小さい頃は、一緒に住んでて……
「うん」

祖父は静かな人だった。
たくさん話すわけでもないし、たくさん構ってくれるわけでもなかった。座敷で本を読んでいたり、何か書き物をしていたり。たまに縁側に出て、空を眺めていたりして。家の中にいるのに、いつもどこか遠くにいる人みたいだった。でも、家に帰ると祖父はいた。それがずっと当たり前だった。

……祖父がいなくなってからは、ずっと家で一人でした」

言いながら、トガシはあの頃を思い出していた。玄関を開けた時の、冷たい空気。誰もいない家の中。ひとりで食べる夜ごはん。冷蔵庫の音。祖父がいなくなって初めて、自分はあの人がいることで安心していたのだとわかった。それに気付いた時、なんだかすごく寂しくなって、堪らなくて、泣きたくなった。だけど、その頃にはもうとっくに自分は平気な顔をするのが上手くなってしまっていた。

「誰もいないのって、静かなんだって思いました」

言いながら、トガシは自分でも少し驚いた。こんなこと、今まで誰にも話したことがなかったから。

「そっか」

そう言って、寺川はやわらかく頷いた。ちゃぷんとお湯が揺蕩う。

「じゃあ、やっぱトガシくんには俺がいた方がいいじゃん」
「なんですか、それ」
「帰ったら誰かいるってやつ」
…………まぁ、いないよりは」
「素直じゃないなぁ」
「アンタには言われたくないです」

トガシはわざと呆れた顔をした。けど、本当はちょっと嬉しかった。

「安心してください。正式なクビは、オリンピックが終わってからにしますから」
「ハハッ、優しいね。まだ猶予あるの?」
「はい。先輩にはまだ“使い道”がありますし……
「理由がクソじゃん」
「でも、嘘はついてませんよ?」
「そうだね。そこは信頼してるよ」