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guttaru
2026-06-20 23:52:25
22292文字
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【ディオジョナ】エルダーフラワー
ワンドロのタイトルからテーマをお借りしました😊
モブが出ます!
小さく息をのむ音に、ジョナサンはふと、既視感を覚えた。
オムレツを切っていたナイフを止めて、顔を上げる。自分の首の動きが思いがけず鋭さを持っていたことに気付いたのは、向かい側の顔も同じように素早く頭を振ってからだった。
息をのんだ女性、ミッシェルは、二人の視線に刺されたように肩を小さくした。彼女は口元を覆っていた細い指の並ぶ手をそっと下げ、首筋を一気に朱色に染めた。
「失礼いたしました、旦那様」
その場でかるく膝を折ったミッシェルに、ジョナサンは咄嗟に微笑んだ。彼女の謝罪を受け入れるための表情だったが、彼女の肌はついに耳まで赤くなっており、ジョナサンの反応が十分ではないことを示していた──当然だろう、彼女はジョナサンではなく、彼の向かいの人物にだけ意識を向けていた。
その人物は、微笑みもせずにかるく手を振った。ミッシェルが膝を伸ばし、再びしゃんと背筋を伸ばす。それだけで、彼女の痛々しいほどの緊張は薄くなっていたが、その手はまだ細かく震えているのが見えた。女性らしい手が、机の上の、彼女を驚かせた元凶へと伸びる。ジョナサンは思わずその手を目で追った。
つい数秒前までは、いつもと何ら変わりのない朝の光景が展開されていた。壁一面の大きな窓を太い梁で支えている広間は、まだ眠っているように柔らかい白い光を精いっぱい取り込んでおり、そのあわい陽光が真っ白なテーブルクロスに反射して空間を明るくしていた。卓上には香りの弱い花が、ジョナサンの目には奢侈品にしか見えない飾りの多い陶器の花瓶に挿されて、ともすれば無機質に見えるダイニングに色を添えている。
彼が好ましく感じないのは花瓶だけではない。書面上の屋敷の主が代わってからというもの、屋敷には物が増えたように感じている。以前は、客人をもてなす礼儀と、ジョースターの名にふさわしい品格を保つだけの節度を持って飾られていた。だが、今の屋敷は、至る所が質素とは無縁に見える。
屋敷の相続人が代替わりしてからもう五年が経過している。この五年で、まるで少しずつ部品を入れ替えて、最後にはすべての部品が替わったかのように、ジョナサンの生活は何もかもが変わっていた。気付いたときには、新しい習慣がさも昔から続く伝統のように繰り広げられるようになっていた。朝食の習慣もその一つだ。大学生になってからは義兄弟で朝から食卓に並ぶことは稀だったのに、今では必ずと断言していいほどの確率で二人は膝を突き合わせながら朝食をとるようになった。父が健在だったときですら、彼が朝からの外出が少なくなかったことも相まって、家族揃っての食事は夜だけになることも珍しくはなかったというのに。
それが、父の葬儀が終わる頃から、いつの間にか家族で食事を共にするようになったのだ──こんな風にどこか卑屈に考えるたび、ジョナサンは自分を責めた。義兄弟のディオは学校の皆からも慕われる「いい奴」で、実際に父の葬儀の前後で塞ぎこんだジョナサンを親身になって励ましてくれた。共に父さんを「父さん」と呼んで、その早すぎる死に涙を流した唯一の家族なのだ。
それなのに、ジョナサンはディオが『僕らはこれから支え合わないと』と何度も繰り返すたび、却って怖くなった。ディオの言葉に反論の余地など当然なかった。それでも、その言葉を耳にするたび、ジョナサンは胸にしこりのようなものを覚えたのだ。愛犬のダニーのことと、親友のエリナのことが、ジョナサンの胸にいつも重たく圧し掛かっていた。それは、“こんな状況”になり、ディオにより多くを頼っている今でも決して軽くならなかった。
五年の間に新しく定着した朝食の場は、テーブルにつく二人の他に、いつも従業員が二人は居た。そのうちの一人がミッシェルだ。清潔な黒の制服を身につけたハウスメイドの彼女は、毎朝ポストに投げ込まれた新聞を持って来て、主人が読みやすいように新聞を伸ばし、折り畳み直してから主人に渡す。ジョナサンにとって、食器の陶器や金属音以外のほとんどの音が消え失せる朝食の場において、彼女が部屋の隅のテーブルで手際よく新聞を伸ばしたり広げたりする音はささやかな癒しだった。
今日も今日とて、ミッシェルは甲斐甲斐しく挨拶をし、朝露に湿った新聞を拭きつつ伸ばしていた。いつもと違ったのは、ミッシェルが明らかに新聞の内容に動揺したことだった。彼女は文字が読める。だから、ディオが好みの順で紙面をめくれるように新聞を仕立て直せるし、ジョナサンのために書店に行って注文したり書籍を受け取りに行ったりもしてくれる。彼女がジョースター邸で働くようになったのはここ三年のことだが、日常的な交流から、ジョナサンは彼女の思慮深い性格をよく知っていた。
だからこそ、彼女が動揺したことが気になった。何事もなかったかのように取り繕うとしているミッシェルが再び手を新聞に手を伸ばすのを見たとき、ジョナサンは思わずかるく咳ばらいをした。
途端に、部屋の空気が薄くなった。ジョナサンが食事の場で口を開くことが滅多にないためだろう(幼少期に比べれば、彼はまるで声を失ったかのようにいつも静かだった)、彼が口を開こうとしていること自体が異常を知らせるアラートであるかのように響いた。空気の変化にやや尻込みしながらも、ナプキンでさっと口を拭ってから、ジョナサンは口を開いた。
「ミッシェル?どうしたん──」
「見せなさい」
ジョナサンの細い声を、低く太い命令の声が遮った。
ジョナサンは驚きで目も口も開いたままディオを見やった。ディオは、今しがたジョナサンに働いた無礼などまるでなかったかのように、まっすぐにミッシェルを見ている。学生時代の彼ならこういう場面があればジョークの一つでも言って場を和ませようとしただろう。だが、最近のディオはジョナサンへの遠慮というものを少しずつ手放しているように見える。屋敷にディオの好みの物が増えるのに合わせて、ジョナサンを所有物のように感じているのではないかと思わないではいられない。この状況になってからは特にそうだ。そして、ジョナサンにとって最も悲しいことは、従業員の誰もがディオの専制的な態度を受け入れていることだった。
案の上、ミッシェルは素早く頷き、ジョナサンに謝罪の一瞥を投げてからディオの元へと急いだ。さっと新聞の向きを変えてディオに差し出し、主人が受け取ると、彼女は急いだことを恥じるようにスカートをそっと払って形を直した。ディオはもったいぶった動きで、受け取った新聞を机の上に置いた。彼の琥珀色の目がさっと紙面を走る。ほんの数秒、彼の目は一箇所に留まり、それから形のきれいな眉を山なりに上げた。
「
……
調べないとならないが
……
ところで、君?」
ディオは周りが聞いていることが分かっている口調で独り言をつぶやいてから、ミッシェルを見上げた。ジョナサンは心の中で『彼女にはミッシェルという素敵な名前がある』と思った。
「はい、ディオ様」ミッシェルの緊張がまた高まる。
「君は最近このジョースター家に奉公に来てくれた。そうだろう?何年目だ?」
「三年目でございます、ディオ様」
「そうか。それなのに、彼女と面識が?」
ディオは長い指で紙面をトン、トン、と叩きながら聞いた。ミッシェルは再び頬まで赤くしながら、無意識に肩に力を入れて小さくなった。
「はい、ディオ様。わたくしの母もこちらのお屋敷に勤めさせていただき、母が彼女と交流があったため、わたくしも子供の頃に何度か会ったことがございます」
ジョナサンは喉元まで怒りが膨らんでいた。一つは、会話に置いていかれている状況に、そしてもう一つはミッシェルが彼女のお母さんの代からジョースター家で働いてくれていることは当然ディオも知っていることだろうと思っていたからだ。社交の場では全員のことを覚えているのに、なぜ自分の屋敷の従業員のことは──
…
ああ、僕は最近、こんなことばかり考えている。
「そうか
……
最近も彼女と会っていたのかい?」
ディオは指を顎に添え、労わるかのように優しいものに変わった口調で聞いた。ミッシェルは首を横に振った。
「いいえ、子供の時分に何度か会っただけでございます。わたくしの母は、ジョージ様の
……
その、六年前にお勤めを終えて、四年前に病気で他界しております」
「そうだったのかい。それは辛かったな
……
彼女とは君も懇意に?」
ディオは思慮深い表情でミッシェルを見つめながら言った。ミッシェルはもう一度首を横に振った。
「恐れ入ります。いいえ、彼女と付き合いがあったのはわたくしの母で、わたくしは本当に顔を合わせたことがある程度でございます。わたくしは、代々お勤めできることを誇りに思っております」
ディオが頷き、合図すると、ミッシェルは再び下がった。そこでようやく、ディオはジョナサンを見やった。
ジョナサンはとっさに眉間から力を抜き、怪訝な顔を柔らかくしようとした。だが、ディオにはその誤魔化しがしっかりと見えたらしい。彼の方はくっと口の端を持ち上げたが、一秒後にはそれをやわらかい表情へ変えた。彼が笑いを噛み殺したことにジョナサンが気付いていることに、ディオは間違いなく気付いている。以前ならもっと上手に誤魔化すために、ここでもジョークの一つや二つ、飛んだだろう。だが、今のディオは堂々と顔を上げ、恥じ入る様子もなくジョナサンと目を合わせている。まるで屋敷の正式な主人であるはずのジョナサンの言葉をあからさまに遮ったことも、ジョナサンに情報を与えずに会話から孤立させたことも、彼にとっては当然のことであり詫びることでも何でもないかのように。
瞬間、ジョナサンは氷を飲んだ心地がした。ディオが完全にジョナサンへの遠慮を手放したとき、いったい何が起こるのだろうか?時おりそのことが頭を過るたび、ジョナサンの身体は竦みあがった。
「ジョジョ、今日の気分はどうだい?」
ディオは新聞をわざとらしく裏返し、いかにも思いやりのある口調で切り出した。どうしようもなく湧いてくる怒りとそのための自己嫌悪で忙しくしていたジョナサンは、返事にふた呼吸分は必要だった。
「え?
……
ああ、いいよ、ありがとう」
一時間前も交わした覚えのある会話に戸惑うジョナサンに、ディオは眉を下げて微笑んだ。この数年で何度も見た、哀れみを含んだ微笑み。ジョナサンはまた胃袋に氷が増えた気がした。
「君はいつも無理をするからね。今日は屋敷で過ごすといい」
ジョナサンは咄嗟に拳を握った。声を荒げたい衝動と、彼は闘わなければならなかった。言葉が喉の奥でつっかえている。ディオ、なぜ、僕のことを何もかも君が決めるんだ?
「そ
……
ゲホ、それは、どうして、また?今日は僕も仕事がある」
思わず“僕も”を強調してしまったことをジョナサンは恥じた。ディオは微笑みを深めた。
「ああ、だけど、君の仕事はスライドできるだろう?私はこのあと出掛けなければならないから、何かあったときに君を支えられない。分かるだろう?」
何も分からない、いい加減にしてくれ、と声を大にしたいのを必死に呑み込み、ジョナサンはなんとか肩をすくめた。ディオは大きなため息を吐いた。
「君の体調のことさ、心配なんだ、ジョジョ
……
実は、残念なお知らせがある」
ディオはちらりと新聞に視線を投げた。
「言うか言うまいか、正直なところ悩んだが
……
君も知っておくべきだろう」
ディオはまた苦し気なため息を吐いた。注目を楽しんでいるように見える彼に、ジョナサンは興味を引かれた表情を保つのに精いっぱいだった。頭の端ではいつもに増して、嫌な考えが渦まいている──
…
どうしてディオは、外ではどこの誰が必要以上に彼を見続けるなどと小言を漏らすことがあるのに、毎日顔を合わせるジョナサンに対して同じようには感じてくれないのだろうか?
「一体なんだい?」
意に反して、ジョナサンは少し身を乗り出して聞いた。義兄弟はジョナサンを“必要以上”と言えるほどにじっと見た後、またため息を吐いてからようやく口を開いた。
「どうやら、ブルー夫人が、亡くなったかもしれない」
「え?」
ジョナサンの思考はパタッと止まった。予想だにしていなかったことだった。目を丸くしたジョナサンを前に、ディオは首を横に振った。
「あとで真偽は確かめるが
……
新聞に書かれた名前と住所が、彼女の家に重なって見える。強盗のようだ」
「なんで
……
え?本当かい?」
ディオはそっとテーブルに肘をついて、両の手を顔の前で組み、口元を手の後ろに重ねた姿勢で続けた。
「私が言わなくてもきっと君の耳に入るだろうから
……
強盗目的で殺害されるなんて、本当に残念だよ。この旬日の間に会ったばかりだというのにな」
指の影に、えくぼがほの浮かんで見えたように感じた。
ジョナサンは人生で三度目の──一度目はダニーの、二度目は父の墓の前で──呑み込んだ言葉を、また呑み込んだ。
ディオ、君じゃないよね?
***
背の高い人影が二つ、アプローチの先に見えた時、ドナレア・ブルーは相好を崩した。胸にドッと、懐かしい気持ちが甦ってくる。ここであの輝かしい日々をこんなにも鮮明に思い出すことができるとは。
空はまばらに灰色を濃くしており、昼下がりにも拘らず太陽の光は相も変わらず控えめだった。それでも近づいてくる二つの人物は輝いて見えた。ドナレアが丹精込めてつくった花の溢れる小道を進みながら、手前の黒髪の人物、ジョナサンは笑みを深めていった。彼が両腕を広げるのを見て、ドナレアは目の奥に痛みを覚えた。一瞬、目の前の男性が、彼女が長年仕えたジョージに見えたのだ。ジョナサンはあのハンサムで心優しいジョージに瓜二つだ。
「ドナレア」
ジョナサンは溌溂とした声で名前を呼び、ドナレアを優しく抱きしめた。
「ああ、坊ちゃま」
腰が曲がってきた身体では、頭はせいぜいジョナサンの腹部の高さであった。ジョナサンの抱擁は気遣いがあったがしっかりとしており、それがドナレアを今にも倒れそうな老人ではなくちゃんとした大人として見られているように感じ、とても嬉しかった。まだジョナサンの中では、あの美しいジョースター邸の庭を管理していたしっかり者のドナレアの姿が残っているに違いない。彼の大きな腕をつうじてかつての自分に再会した心地がした。
「すっかり大きくなられて
……
」
十秒もの抱擁の後、ドナレアは身体を起こし、ジョナサンの顔をまじまじと見た。手は彼の肩を擦り、母親のような仕草でジョナサンを労わる。
近くで見ると、ジョナサンはジョージ様よりお母様に似て目が大きく、上背もあることが分かる。だが、ドナレアがジョースター邸を後にする前に比べれば、ジョナサン坊ちゃまは悲しいほどに肉が落ちたことに気付かずには居られなかった。ジョージ様が旅立たれてからドナレアはお役御免と思い屋敷の仕事から身を引いたが、あの頃は、ジョナサン坊ちゃまはあの危険なスポーツであるラグビーで鍛えられた立派な体躯をお持ちだった。噂には聞いていたが、ああ、こんなにも痩せて──
…
胸にこみ上げてきた哀しみを呑み込み、ドナレアは小さくて慎ましい我が家を振り返った。
「さあ、坊ちゃま、こんな老人の小さなおうちですが、どうぞ
……
まあ、ディオ坊ちゃま!」
ドナレアはジョナサンから完全に身体を離すと、そこでようやくあのディオ・ブランドーをすっかり無視してしまっていたことに気が付いた。ジョナサンの肩越しに見えたディオの顔は、相も変わらず完璧な微笑みを湛えており、見事なブロンドを輝かせていた。 ドナレアは自分が自然とディオを無視しようとしていたことに気が付き、顔を真っ赤にした。
歳を取ると角が取れるなどと人は言うが、むしろ最近は昔ほど我慢強くなくなっていると感じている。ドナレアは急にジョースター邸に転がり込んできたディオ・ブランドーを快く思ったことがなかった。それがこんな風に露見してしまうとは、彼女自身驚きだった。
たしかに、ディオは素晴らしい男性だ。田舎町に居ることが信じられないくらいハンサムなことはもちろん、学校でもいつも好成績を収め、スポーツでも何度も脚光を浴びている。身分によらず、誰もがあの若者を知っていた。あんなに立派な若者に仕えられることが誇らしいと口にする使用人は後を絶たず、ドナレアの周りの者たちは口を揃えて“ジョージ様は御目が高い”と言っていた。
庭師の父と、その父の後を継いで庭師になった夫を持つドナレアは、父と夫の二代にわたってジョースター邸に勤めていた。夫が冬の流行り病で亡くなってからはジョージ様のご厚意に助けられ、夫と共に庭造りをしていたドナレアはそのまま働かせてもらえたのだ。二人の娘が嫁いで出ていってしまってからは、その愛情を庭の花々に注ぎ続けてきたドナレアのことをジョージ様は理解し、信頼してくださった。彼女が望む限り、庭の花を任せたいと言ってくれたのだ。
屋敷の庭は職場だったが、ドナレアには宝物だった。夫の死後は、他の複数人の庭師らから鼻つまみ者として扱われることもあったが、それでも彼女は庭の花々に対し真摯であり続けた。彼女は誰にも負けないくらい花に詳しく、例え素直に聞いてもらえなくても、他の男性の庭師にその知識を伝えていた。娘たちが遠くに行き、夫が今生ではもう会えないほど遠くに行ってしまってからというもの、彼女が愛を注げるのは花々だけだった。
だが、彼女は秘かに花以外も愛でていた。それが、ジョージの一人息子のジョナサン・ジョースターだ。ジョナサンの母であるメアリーには一度だけご挨拶をしたことがある。とても聡明で美しい女性だった。ドナレアは一目で彼女のことを好きになり、『ジョージ様は御目が高い』と思っていたので、彼女があまりにも早く子供のために亡くなったと聞いたときにはひどいショックを受けたものだ。それ以降、わきまえて距離は置いていたものの、ドナレアはジョナサンをずっと気に掛けていた。
もしジョナサンを気に掛けていなければ、他の庭師に影で『花以外を愛さない氷みたいな老女』と言われているドナレアは(何度か自分の耳で聞いたことがあった)、庭に糞をして回る犬を飼うジョナサンを快く思わなかったかもしれない。実際、あのダニーがトイレの場所を固定するまでは、ドナレアは慎重に庭の状態を確認して回らなければならなかった。
だが、ドナレアは庭を駆けまわるジョナサンとダニーの姿が好きだった。例えまだ子供だった二人がやんちゃをして花を踏み倒しても、整えた道に足跡を残しても、自分でも驚くほど微笑ましく感じられた。あの頃のジョナサンは、息子を育てたことはないドナレアからすると驚くほど元気いっぱいで、どこまでも輝いて見えた。まるですくすくと茎を太くする植物みたいにエネルギーの塊だった。ジョナサンは声が大きくて、いつも笑い声を響かせていた。あのかわいい声。小さい頃に二人の娘がずっと喋り続けていたころの、あのうっとおしくも柔しい気持ちを思い出させられた。広い庭を駆ける最中、ときおり近くを通り過ぎるたびにドナレアに向かって元気に挨拶をしてくるあのかわいい笑顔の坊ちゃんを、嫌いになれるはずがなかった。太陽みたいに明るい子供だった。
そんなジョナサンの声やお顔から明るさが消えたのは、間違いない、ディオ・ブランドーという汚らしい子供が屋敷の敷居を図々しくも跨いでからだ──
…
「やあ、お変わりないようですね」
ディオはジョナサンと全く同じようにドナレアを抱擁したが、その時間はほんの一秒にも満たなかった。ドナレアは冷や水を浴びたような心地になったが、顔を背けて家を振り返ることで感じたことを隠した。
「まさかお二人にお越しいただけるなんて、ご老体には嬉しすぎて心臓が止まりそうです」
「ハハハ、またまた
……
」ディオが後ろで笑っている。
ドナレアはジョナサンを見上げ、彼に微笑んだ。ジョナサンは少し奇妙な笑顔を浮かべていた。ダニーが居た頃は絶対に見なかった類の、慎重に筋肉を動かしている微笑みだ。ドナレアは胸を突かれたように感じた。もし今日が自分の最期の日ならば、今この場で振り返って、どこの馬の骨とも知らない後ろの男に「出ていけ!」と怒鳴っていたかもしれない──
…
いや、とてもそんなことは許されない。ジョージ様はディオ・ブランドーを息子のジョナサンと同じように扱ってくれとおっしゃったのだ。心の中はまったく違っていても、ジョージ様の言いつけだ、守らなければならない。
「それにしても、どうしてこの小さな家にお越しに?」
狭い木造のこの小さな家は、父が遺した家だ。ドナレアは幼い頃ここで兄弟と共に育ったが、より稼げる仕事を求めて兄弟が散り散りになってからは、父と母と末っ子のドナレアだけが長らく住んでいた。父のもとに庭師になるためにやってきた数人の男たちのうちの一人がドナレアを見初め、父が許したために彼女は彼を受け入れ、夫婦となった。
女は夫となる男の所有物のひとつに過ぎないと母からは何度も聞いていたが、夫は彼と同じように植物を愛するドナレアを本当に愛してくれたように思う。彼はドナレアが庭仕事で働くことを歓迎してくれたのだ。多くの男が、女は慎ましくするべきだという理由で、あの異臭を放つ工場などに妻を押しこんで空の下を歩かせることを嫌がるのに。そのような理由でドナレアも次第に夫を愛するようになった。
自分も幼少期を、そして娘たちも多くの時間を過ごしたこの家にジョージ様の一人息子がお越しになるなんて、父が聞いたらきっとひどく喜んだことだろう。
小さな木の机が二つ並ぶダイニングの、決して座り心地がよくない椅子に腰かけた二人を見やりながら、ドナレアは話を振った。暖炉の炭を掘り起こして火を大きくし、あらかじめ温めておいたお湯をさらに温め直す。家を含めて家具も何もかも古いが、丁寧に使われており、家の中は肌にも目にもそれなりに温かかった。
たいていの客人は、厭世的なドナレアが生み出すこの温度ある空間に驚く。そして、『如才ないあなたの性格を表しているのね』と妙に納得して言う。きっとそれは、空間の半分が正確な均等で置かれたドライフラワーで埋め尽くされているゆえだろう。一見、彼女の性格と大きく離れて見えるほど室内は花に溢れて華やかだが、細部を見ればその正体が彼女らしい精緻な仕事によるものだと分かる。彼女は今、ドライフラワーでちょっとした収入を得て暮らしていた。部屋はその作業場を兼ねているために、人が使うはずの机の上まで乾燥中の花で満ちている。
「実はね、ドナレア
……
あなたがどこにお住まいなのか、つい先月まで僕は知らなかったんだ」
返事をしたのはジョナサンの方だった。花のほころぶような遠慮がちな笑顔は、やはり彼が子供の頃にはついぞ見なかったものだ。彼の笑顔には一種類しかなかったはずなのに、あれからいったい何種類の笑顔を纏うようになったのだろうか?きっと、いや絶対に、貧民街から来た子供の影響に違いない。今やその子供は、いかにも生まれついての貴族のように立派な青年の姿をして堂々とジョナサンの横に腰掛けている。
ダニーと走っていた頃のジョナサンを知らなければ、そして会う前から貧民街の出自を嫌悪して常に奸計を巡らせているに違いないと決めつけていなければ、ドナレアはこの完璧な姿の若い男の魅力に微笑まずには居られなかっただろう。それほどに、ディオ・ブランドーは美しかった。どんなにジョナサンを贔屓目で見ても──贔屓しなくとも、ジョナサンがハンサムであることは事実だとドナレアは確信している。人の容貌をあれこれ言わない夫ですら、ジョージ様とジョナサン坊ちゃまのことはお仕えできて幸運に思うほど美しいと褒めていたことがあるからだ──、だからといって、ディオを醜いということは決してできないだろう。彼が美しいかどうかを決めるのに、他人の意見は必要ないからだ。美しいものだと教わらずとも薔薇を見れば美しいと思うのと同じだ。
もし彼がジョースター家に転がり込んだのでなければ、ドナレアはこんなにも爽やかで美しい若者に感じよくしようと思ったに違いない。だが、残念ながらディオ・ブランドーはジョージ様の、そしてジョナサン様のところにやってきた異質な存在だった。彼女は当然、屋敷で働く間にディオを何度も見かけたが、自分から声を掛けることは決してなかった。ディオの方も、ジョナサンとは違って、ドナレアのことなど目に入ってすらいないかのように振る舞っていた。今さら顔を合わせたところでディオ・ブランドーとの思い出など何もない。ただただ、この青年はまだジョースター家に居座っているのかと呆れるだけだ。
「ええ、そうでしょう、坊ちゃま。わたくしめは告げずに、お暇しましたからね」
ハキハキと答えるドナレアに、ジョナサン様はふっと微笑んだ。昔に繋がって見えたその笑顔に、ドナレアも笑みを返した。ジョナサンが物怖じしないドナレアを懐かしんでいることが伝わってきて、嬉しく思った。
「今回はディオの、えー
……
仕事の用事で、僕も同席していたんだ。そこで、家の飾りを君に頼んでいるという話が聞こえてきて。すごく懐かしく感じて
……
」
「ありがたいことに、今もいくつかお仕事を頂いております。きっとダッカー様ですね?」
「よく分かるんだね」
ジョナサンは驚いたように目を大きくし、すぐに『彼女は昔から鋭かった』と言わんばかりの笑みを広げた。ドナレアはますます懐かしい気持ちになった。
「わたくしめに仕事を下さる方で、ジョナサン坊ちゃまがお会いになりそうな方といえば、と思いまして」
「正確には、私が会いに行ったんですがね」
横から、いかにもジョークだと言わんばかりの口調でディオが口を出してきた。白い頬にえくぼを浮かべて肩をかるく広げた彼は、まるで『話に置いていかないでくれよ』と主張しているかのようだ。ドナレアはやっぱり出ていけ、と言いたくなったが、呑み込んだ。
「ええ。さて、よろしければ、紅茶を召し上がりますか?」
ドナレアは暖炉からヤカンを取り出して、ジョナサンに微笑んで尋ねた。
それからの小一時間は、あっという間に過ぎた。ドナレアはジョナサンと昔話で大いに盛り上がった。最初の頃は、ジョナサン様は貧民街出身の兄弟の方にもよく話を振っていたが、ドナレアがダニーの賢さに触れると、坊ちゃまはかつての愛犬が今見えているかのように目を輝かせて話しだした。
「そうですね、あの子は本当に賢かった
……
」
「うん、覚えてる?ドナレア。ダニーはあなたから教えてもらう前から、毒のある実は自然と避けていたんだ。僕が口に含んだときなんて、手を噛まれたよ」
思い出して左手を見やるジョナサンに、ドナレアは笑みを深くした。
「そうでしたね。お庭には安全な植物ばかりがありましたが、坊ちゃまはなんせ、どこまでも駆けていかれていましたから」
もうずっと昔に見たことなのに、あの白いシャツを輝かせた小さな背中が駆けていく様子が鮮明に思い起こされる。こんなにずっと微笑みが自然と浮かぶことが久しぶりで、頬がもう痛みを訴えている。
話しているうちに、ドナレアは自分が思っていたよりもジョナサンとダニーとの思い出が沢山あることに気付き、内心驚いていた。ドナレアにとってはとても些細な短い会話もジョナサンの方がよく覚えていて、そのことがドナレアには何よりもうれしかった。正直、ジョージ様にこっそり昇給させてもらえた時よりもずっと嬉しい。数日前にジョナサンからお邪魔したいと伝言を受け取った時は『なぜ?』と嬉しさよりも驚きが勝ったが、今ではジョナサンが会いたがった理由が分かる。ジョナサン様は、きっと寂しかったのだ。なぜご結婚されていないのだろう?噂で一時ひどいご病気をなさったと聞いたが、ジョナサン様なら多くの縁談が舞い込んでいるはずなのに。
カチャリと静かな陶器の音が響き、ドナレアは少し思考に沈みはじめていた意識をハッと前に戻した。ディオ・ブランドーが、白くて長い指の並んだ手で、静かに茶器を受け皿に戻した。二人の会話の合間を縫うようにして発せられた音に──故意に違いない、とドナレアは思った──、ジョナサンはしばらくディオを不在にさせたことに気が付いたようだった。彼は顔を一瞬硬くした。ドナレアからすると、それは“ギョッとした”顔だった。ジョナサン坊ちゃまにまったく相応しくない表情だった。
「ああ、すっかり、もうこんな時間だ」
思った通り、ジョナサン坊ちゃまは突然時計の存在に気が付き、慌ただしそうに腰を浮かした。途端に、彼は噎せた。ケホ、という吐息のような小さな咳が出たと思ったら、突然彼は口を覆い、椅子に腰を落として大きく咳き込み始めた。
ゲホ、ゲホ、と肺が傷んでいる音に虚を突かれ、反射的に立ち上がったものの凍りついたままのドナレアを前に、ディオ・ブランドーがさっと割り込んだ。しっかりとした手がジョナサンの肩を掴み、もう一方の手が背中へと回る。
「人肌くらいの温度のお湯を」
ディオはジョナサンを覗き込むようにしながら言い放った。咳き込んで丸まった背中をディオの白い手が熱心に擦りだす。
ドナレアはディオに命じられたことに気付くのに三秒は要した。いつもの沈着な彼女らしからぬことだった。それほどに、もはや両手に顔を埋めて咳き込むジョナサンの声が痛々しかったのだ。
「早くしろ」
ディオの声が大きくなった瞬間、ドナレアは火がついたように動きだした。この厚かましい男に命令されることは横面を殴られる痛みを伴ったが、それよりも、ドナレアはジョナサン坊ちゃまの苦しそうな呼吸音に動揺していた。ヤカンを傾ける手が震えた。
ジョナサン様の咳が落ち着いたのは、それからおよそ三分後のことだった。ドナレアには何時間も経っているかのように感じられた。
「見苦しい、ところを、見せたね
……
」
ジョナサンはゆったりとした呼吸の合間に言った。
ドナレアは手の震えが止まらなかった。ジョナサン様がジョージ様と同じような症状で倒れられたことは聞いていたし、まだその病から完全に逃れられてはいないと聞いていたが、こうして目の前でその症状を見ると心が張り裂けそうだった。ドナレアの身分では、ジョージ様が棺に入られてから最期のご挨拶をするしかなかったため、主人が病床でどんなご様子だったかは知る由もなかった。あの棺の美しさから、勝手に、ジョージ様は心やすいまま従容として最期を迎えられたのだと想像していたのだ。今、ジョージ様の苦しみを目の前に突きつけられたように思った。
何も言えなくなったドナレアに、ジョナサン様は泰然とした動きで顔を上げ、目を大きくした後に微笑んだ。
「ドナレア、大丈夫だよ」
眇められると、ジョナサンの瞳はジョージ様に似ている点が際立った。ドナレアはさっと顔を逸らし、潤んだ目元をこっそり拭った。苦しみを替わって引き受ければジョナサン様がすっかり元気になるなら、ドナレアは喜んで受けた。もう先の見えている人生だ、ジョージ様に恩返しができるならしたい。死の直前まで仕事に行こうとした父の気持ちが今なら分かる。人は生きているうちに、大切なものの役に立ちたいのだ。
「ええ、大丈夫でないと困ります。坊ちゃまはまだまだお若いのですから」
「彼女の言う通りだぞ、ジョジョ。無茶をするなといつも言っているだろう?」
ディオがドナレアの言葉に被せるように言った途端、ドナレアの涙腺は引き締まった。ディオはまだジョナサンの横に立ち、彼の肩に手を置いたままの姿勢だ。腰掛けているジョナサンを威圧するような姿勢に見えるが、それは無意識なのだろうか?
「ごめん、もう大丈夫だ
……
」
「今日はあちこち連れまわし過ぎたな」
細い声で応えるジョナサンに、ディオはため息まじりに言った。自分の管理不足だと言わんばかりのその言葉はドナレアが男の口からよく聞くものだった。違和感があるのは、その言葉が向けられる先がその男の子供や妻ではなく、義兄弟だということだ。ドナレアは突然、ディオ・ブランドーも婚姻したという話を聞かないことを思い出した。
「調子はいいんだ」
ジョナサンが弱々しく皮肉を言った。
「ああ、そう見えたよ。さあ、もう帰ろう
……
ドナレア、どうもありがとうございました」
ディオはジョナサンを支えて立たせながら、ドナレアに一揖した。ドナレアは曖昧に「ええ、いえ」と言いながら、急いでキッチンに回り込んだ。
「すこしお待ちください。ジョナサン様、喉に優しいハーブティーがあるんです」
大急ぎで引き出しを開けて材料を瓶に詰め始める。ジョナサンは立ち上がり、首を横に振った。
「ドナレア、気を遣わないでいいんだよ」
「いいえ、駄目です、あんなに美味しいお茶菓子を頂いたのになにもお渡ししないなんて、あってはなりませんから」
もう半分はドナレアのお腹の中に入ったが、ジョナサンはバターが香る焼き菓子を持ってきてくれていたのだ。本当は、ジョナサンには他の紅茶をお渡しする予定だったが、先ほどの咳を見るにもっと喉に優しいお茶の方がいいとドナレアは思い直していた。
ドナレアが瓶を持っていく頃には、ディオに促されて、ジョナサンはすでに玄関の前まで居た。彼はドナレアから瓶を受け取ると、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。そう言えば、ドナレアはうちの庭でもお茶を煎じてくれていたよね。あなたの影響かな?うちではよくハーブティーが出るんだよ」
ジョナサンの後ろでディオがドアを開けた。夕陽のぼんやりとしたオレンジ色がさっと射しこみ、壁に光の区画をつくり、空間を橙色に染めた。ジョナサンの黒髪の先が明るくなる。咳き込んでからすこし青くなっていた顔が明るく見え、彼の高い鼻梁と大きな目を際立たせた。
「ジョジョ、おしゃべりはその辺に
……
また咳き込む前に」
逆光で、ディオ・ブランドーの顔はハッキリしなかった。ただ、その眼球の白い部分に歪んだ光が走っているように見え、ドナレアはらしくもなく答えに窮した。ディオの声が、穏やかでいながらにして反論を許さない響きがあったせいかもしれない。
「そうだね
……
長居してごめんね、ドナレア」
「い、いいえ、こちらこそお引き留めして
……
申し訳なく思います、坊ちゃま。さあ、わたくしめに送らせてください」
ここでいいのに、というジョナサンに首を振り、ドナレアは二人について家を出て、またアプローチを今度は逆向きに歩きだした。
ジョナサンはここに来たときとはまるで正反対で、いまや肩を落とし、名残惜しそうに歩いている。その彼の肩に肩が付かんばかりの距離でディオ・ブランドーが並んでいる。まるで勝ち誇って見える、と、ドナレアは茫洋と思った。
ディオには立派な“理由”があった。ジョナサン様の先ほどの症状を見た後では、ディオがこうしてジョナサンに並んで歩くことも、ジョナサンに対し『あちこち連れまわし過ぎた』などとのたまうことも──面の皮の厚さだけならジョナサン様より間違いなく“上”だとドナレアは思った──、諦念を覚えつつも受け入れざるを得ないと感じる。むしろ、一時間前のドナレアならあり得ないことに、ジョナサン様にはディオが居てくれてよかったとさえ思い始めていた。どこの血が入っているのかは知らないが、やはり力強い男性がジョナサンを支えているのは心強い。この男が居なければ、父親のジョージ様を失くしたジョナサン様には仕事を任せられる相手がおらず、養生する時間などちっともなかったかもしれないのだ。
ジョナサン坊ちゃまは、どんな心地なのだろうか?ディオ・ブランドーの存在を頼もしく思い、心から喜んでいらっしゃるのだろうか?それとも、この厚かましい義兄弟に、感謝という見えない鎖で縛られたような心地になっていらっしゃるのだろうか?
「ああ、あれは──」
前を行くジョナサン坊ちゃまの声に、ドナレアは顔を上げた。ジョナサン様がアプローチの右側、小さな庭の奥を見ている。背の低い、真っ白でかわいい花の咲いた木が他の木々に挟まれて並んでいる。
「あの花、うちにもなかったかな?」
ジョナサン様が嬉しそうにドナレアを振り返った。ドナレアは眉を上げて、ジョナサンに対しやれやれと首を横に振った。病人ではなく元気な英国人に対する態度を貫くことが、ドナレアにとってできる精一杯の気遣いだった。
「坊ちゃま、まったくもう、この年寄りより記憶力がないのは困りますよ。お忘れですか?あの花はエルダーフラワーといって、あのようにとてもかわいい花が咲きますが、毒があるのですよ」
「あれ、そうだったかい?」
ジョナサンが焦ったように、だが楽し気に言った。ドナレアはどうしても口がほころぶのを止められなかったが、言葉ではきちんと警告できた。
「ええ、ええ、しっかりと言いましたよ。厄介な植物で、よう抜いて回りましたわ。昔はジョースター家でもよくベリーからジャムを作っていたそうですが、ちゃあんと加熱せんと毒があるんです。ジョージ様の使用人では、当然ありませんでしたが
……
ちゃんと教育がされていましたからね
……
他所の使用人の子供が実を食べてしまって、亡くなったという話が出てから、それで抜いて回るようになりました。坊ちゃまがまだ産まれてもない頃のお話ですよ」
大きなため息とともに言うと、ジョナサンはまるで叱られた子供みたいに肩をすくめた。ドナレアはくすくすと笑った。
「口に入れなければ、たいして毒にはならんのです。本当はあのようにかわいい花を咲かせる植物ですよ。あそこのは、もうこのご老体じゃあ抜くのも大変で
……
あの位置なら簡単には人の手が触れませんからね。勝手に生えてしまったのでそのままにしとるんです」
「抜きたいなら手を貸そうかい?でも、かわいい花だね」
アプローチは後半に入っている。通りの、待たせている専従の馬車が見えてくると、業者が慌てて佇まいを直したのが遠くに見えた。
「坊ちゃま、毒があると、いま申し上げたでしょう?それに、しっかり煎じれば薬にもなる植物です。甘くていい香りなので、リラックスと、お腹の具合を整えてくれるのですよ」
ふと、既視感を覚え、ドナレアは小さく息をのんだ。
あら?この話は、前にもどこかで──
…
ジョナサンが振り返った。ドナレアは雑駁とした思考を止めて、ジョナサンを見上げた。
「どうかしたかい?」
坊ちゃまが不思議そうな顔を傾げた。ドナレアは顔を横に振った。
「いいえ、なんだか懐かしい気がしたのですよ。もうこの歳ですからね、色々忘れるんです」
「僕より記憶力がいいんじゃあなかったの?」ジョナサンが冗談めかして笑った。大人の面貌の、それでも頑是ない笑顔が奥に見え隠れする坊ちゃまに、ドナレアは微笑んだ。
「ええ、それはもちろんでございます、坊ちゃま」
「ひどいなあ。じゃあ、それを確かめに、また来るよ」
ジョナサンの言葉に、ドナレアはまた涙腺が緩みそうになった。先ほどの涙とはまるで違う、喜びが理由のものがこみ上げてきそうだった。年長者としてありったけのプライドをかき集めてそれを止め、ドナレアは首を横に振った。
「こんな年寄りのところに何度も来るものじゃあありません。それとも何ですか、わたくしからへそくりでもぶん取ろうと思っていらっしゃるのですか?」
ジョナサンは小さく口を開けてポカンとした後、ドナレアの冗談に声を上げて笑った。
「バレバレだったかい?」
「ええ、バレバレです」
二人の笑い声が重なった時間は短かったが、声が消えても、あたたかなものは胸から消えなかった。
庭の端の小さな柵の外に立ち、ジョナサンはドナレアを見下ろした。眩しそうにこちらを見る彼に、ドナレアはまた、彼女の人生で最も長くお仕えしたジョージ様を思い出した。佇まいが本当にそっくりだ。
「じゃあ、ドナレア。お茶をありがとう」
「ええ、坊ちゃま。どうぞお気をつけて」
ドナレアは微笑みを返した後、ふと横に視線をスライドさせた。何の気なしに目を動かした彼女は、ジョナサンの肩越しに見えた鋭い瞳にまた息をのみそうになった。ディオ・ブランドーは彼女と目が合うと、途端にその美しい唇を撓ませて、非の打ちどころのない微笑を浮かべた。ドナレアはまた、既視感を覚えた。いったい、なぜ──
…
キイ、と、馬車のドアが開く音がする。ジョナサンもついにこちらに背を向け、ディオに肩を支えられながら乗り込んだ。ドナレアは既に曲がっている腰をさらに曲げ、深々とお辞儀をした。扉の音がしてすこし顔を上げると、馬車の窓を開けて、二人がこちらを見ていた。
「ドナレア、おやすみなさい」
ジョナサン様がディオの向こうで微笑んでいる。ドナレアも挨拶を返した。手前のディオは、左腕を窓から出しながら、ドナレアをまっすぐに見て微笑んだ。
「では、またお会いしましょう」
なぜか──ドナレアは、薔薇のように美しい男の微笑みに、どうしてだか凍りついた。ディオ・ブランドーは窓から出した左腕で馬車のドアをかるく叩き、業者に合図をした。掛け声と鞭を揺らす音が響き、タイヤが回りだす。轍に沿って車が進んでいく。
夕陽がさらに沈み、色が朱色に変わるまで、ドナレアはその場から動けなかった。何かがひどく気にかかる。今日はこんなことばかりだ。そもそも、ジョナサンを目の前にするまで、幼い頃の彼と自分が記憶にあるよりもずっと多くの会話を交わしていたことに気付いてすらいなかった。歳のせいなのだろうか?ドナレアからするとジョナサン坊ちゃまは身分が高すぎて、こちらが一方的に彼を知っている気分になっていた。
遠くで犬が吠える声がした。その声に、ドナレアはようやく踵を返した。いつまでもただ立って考えに耽るわけにはいかない。両隣の家々から好奇の目線を浴びていることを自覚している。決して貧困層には属さないが下流から中流の多いこのエリアでジョースター家クラスの馬車が停まることは稀なのだ。良くも悪くも、注目は集める。
玄関に戻りながら、ふと、ドナレアは左を振り返った。暗くなり始めた空の下、目を閉じていてもシルエットの分かるほど見慣れた植物たちが黒く染まっている。その中で、ジョナサンが注目したエルダーフラワーの白が目立って光を吸い込んでいるように見えた。あの花の白は美しい。だが、ジョナサン様に伝えた通り、毒性のある植物だ。実も葉も茎も根も、加工しない限りは口にしてはならない。
玄関の中に入ると、ドナレアはしっかりと扉を施錠した。なんだかどっと疲労を覚えた。
『私も、ハーブティーを飲もうかね
……
』
ヤカンの中にはまだお湯が残っている。
暖炉の灰を再び掘り返し、薪を二本くべた。火が育ちやすい薪の角度を見つけることはすっかり手慣れたもので、彼女はほとんど感性だけでそれを行った。
ヤカンを再び暖炉の中に入れてから、彼女はしばらく物思いに耽った。今日は本当に色んな感情を味わった。ジョージ様の庭で働く父のこと、泥と汗を拭う夫のこと、ジョナサン様の幼い頃の顔や今日見たばかりのあの大人の顔──
…
シューっとヤカンから湯気が立った。その音が、彼女の中でさまざまな記憶と結びついた。ジョースター邸の黒く染まった外壁
……
抜いて集め、乾かした有毒な植物や枯葉を燃やしたあの焼却炉
……
腕いっぱいに抱えて何度も往復して集めたエルダーフラワーの白い花、細い茎
……
お茶になる植物を集めて干していたあの宿舎のひさし
……
裏庭に突如できたダニーの墓──
…
瞬間、ドナレアは大きく息をのんだ。気付けば、彼女は両手で口を覆っていた。
『思い出した
……
思い出した!』
手が震える。先ほどの会合ではついぞ思い出さなかったことが甦る。ディオ・ブランドーとはなんらの思い出もないと思っていたが、たった一つだけ、思い出があった。ほんの些細な短い会話だったので、ドナレアはすっかり忘れていたのだ。
あの日は日曜日の昼間で、ディオ・ブランドーが屋敷にやってきてからまだ一週間も経っていない頃だった。日曜日はお休みをいただいていたが、予定がさしてなかったので、ドナレアは花の様子を見に屋敷に来ていた。ついでに宿舎の一角で干している植物たちの様子を見に行くと、そこに幼いディオ・ブランドーが立っていた。彼女は「泥棒でもしようってのかい?」という言葉を呑み込んで、義務感だけで挨拶をした。ディオは振り返らず、挨拶もしなかった。やっぱりね、とドナレアは思った。
しばらくドナレアが吊るした植物の状態を見て回っていると、ディオはだしぬけに聞いてきた。
「植物に詳しいのか?」
その既に偉そうな口調に、ドナレアはこっそりと目を回した。
「ええ、父も夫も庭師として働いていたのです」
「そうか。僕は詳しくない」
「それには驚きませんね」
ドナレアは一瞬、言ってしまった、と思った。気まずい沈黙が訪れる前に、彼女は言葉をサッと紡いだ。
「うちの、もう嫁いでいった娘ですら花の名前をそう知りませんから。手の指の数だけで足りるでしょう。ましてや男の子となると、知らないで当然と思います」
ドナレアの言葉は埋め合わせには適当であったらしい。ディオ・ブランドーはしばらく何も言わなかった。ドナレアが壁の端から端まで移動したところで、彼はまた口を開いてきた。
「そこに積まれているのは?」
彼の幼い指が指す先には、来週に焼却炉で燃やす予定の植物たちが地面にうずたかく積まれている山があった。水分が抜けないと燃やせないので乾燥させているのだ。夏であったため、植物の力は旺盛で、燃やすものに毎週事欠かない時期だった。
「不要な植物を燃やしているんです。邪魔なところに生えたものや、毒があるもの
……
」
「毒?」
ディオの声が鋭くなった。ドナレアはこの生意気そのものの子供も怯える心があるのだと思い、意地の悪いような、同情するような気持ちで話しを続けた。
「ええ、毒です。例えばこのエルダーフラワー
……
こうして見ると、細くて一見なにも悪いところがないようにですが、これには毒があります。上手く調合すればお腹の調子を整えてくれるなど、お薬にもなるんです」
「
……
触ると危険な植物?」
ディオの声は途端に幼くなった。ドナレアは子供が怖がっていることを確信し、あんなに嫌悪していたにもかかわらず、優しい口調で話してやった。
「いいえ、触るだけで危険なことはありませんが、口に入れると大事です。実ができますし、それをジャムにしたりもできますが、生で食べてはいけません。熟していないものは、煎じたとしても危険なくらいですから、空腹だからと言って口にされませぬよう」
「ああ、うん
……
」
子ども扱いされたことに少し腹を立てたような顔をディオはした。
会話はその程度だった。エルダーフラワーをはじめとする様々な植物の危険性を伝えていくことはドナレアにはあまりにも日常的なことだったため、ディオ・ブランドーとそんな会話をしていたことなどすっかり忘れていた。エルダーフラワーの毒性についてはジョナサンに言ったのではない(いや、言わないはずがないが、坊ちゃまには『食べてはダメ』程度にしか言わなかったに違いない)、ディオに言ったのだ。
そして今、なぜだろうか、まるで点と点が線になったかのようにドナレアは恐ろしい考えに憑かれていた。
『なぜ
……
いや、なぜってことはない。私はずっと前から気付いていたんだ、あの目、あの表情
……
』
今日ずっと感じた違和感の正体に辿り着いた心地がした。ジョナサン様を管理する態度のあの男の、ドナレアを見るあの目、あの威圧感──
…
『ああ、ジョージ様、申し訳ありません、あなた様は間違っていた。あのディオ・ブランドーは性根の捻じれた子供、貴族に入れてはならぬ血だったのです。ジョナサン様はハーブティーをよくお飲みになると言った。ああ、坊ちゃまが危ない!きっとあの汚い小僧は、坊ちゃまに毒を盛ったんだ。そうだ、エルダーフラワーは呼吸困難を引き起こす。坊ちゃまのあの苦し気な咳
……
待ちなさい、だとしたら、まさか、まさかジョージ様も
……
?』
底無しの穴に突き落とされた気分だった。恐怖が胸を刺し、ドナレアは震えが止まらなくなった。
『
……
けい、警察に
……
いや、駄目よ、まずは証拠を
……
でもどうやって?エルダーフラワーが毒として用いられているとしても、あの植物はそもそもハーブティーの材料として当たり前に使われている。どうしよう、坊ちゃまが危険だ
……
』
ドナレアは熱が出そうなほどに考え込んだ。ヤカンをひっくり返しそうになり、指先を火傷したが、まったく痛みを感じないほど頭が痛かった。
半刻も考えてから、ようやっと、ドナレアは一つの考えに至った。すぐには証拠は掴めない。ただ、ジョナサン様に『ハーブティーはお飲みにならないで』と警告をすることならすぐにできる。手紙を書くべきだ。
『そうだ、そうだ、それがいい
……
ジョージ様、わたくしめに任せてください。まずは手紙を出して、ジョナサン様に自分を守るようにお願いする。それから、まだ、たしか、そう、ミッシェル
……
ターニャの娘が奉公しているはず。あの子を伝って、屋敷の中を探るんだ』
ドナレアはかつて同じ時期にジョースター家に仕え、懇意にしていた同僚のターニャのことと彼女の娘のことを思い出した。ターニャは素敵な女性だったが、数年前に亡くなっている。彼女の娘のミッシェルもしっかり者だったことはよく覚えている。まだあまり関係は築けていないが、これから築いていくことができるはずだ。
できることがあることは素晴らしいことだった。ドナレアは恐ろしさに震えながらも、それでも恐怖に立ち向かおうと勇んでいた。彼女は小さな家の中を動き回り、手紙にできそうな紙を必死に探した。なんとか用意した紙とインクで、母が祖母から譲り受けたというペンを握りしめ、机に向かう。恐怖の衝撃でまだ心臓が高鳴っていた。だが、ドナレアはなんだか、ひどく生き生きとしていた。これでジョナサン様の長年の苦痛を癒すことになるかもしれないのだ。彼を救うことができるかもしれないのだ。
彼女は、綴りを覚えている数少ない言葉で手紙を書き始めた。丹精を込めたその手紙が、数日後には白くて長い指の並んだ手によってあの焼却炉に入れられることになるとは知りもしないまま。そして、彼女が最も危険に近づいている状況とは知る由もないままに。
***
鼓膜がぼんやりしている。
ジョナサンがようやく手のひらから顔を上げると、頬も掌も濡れそぼっているのを感じた。あまりに強く咳き込みすぎて肺が痛く、喉の奥がイガイガとしている。涙の膜の向こうに、ぼやけた文字が見えている。『強盗殺人』のおどろおどろしい文字──
…
「ジョジョ、落ち着けよ」
隣で低い声がする。ジョナサンは爆発寸前に感じた。瞬間、また咳の発作に襲われそうになり、ぐっと呼吸を止めた。父の時と同様に、医者がさじを投げた原因不明の肺の病気。感染しないことだけが救いだったが、もう五年もこの症状に苦しめられている。あと何年、苦しめばいいのかも分からない。早く癒えて欲しい、早く楽になりたかった。
「無理して読むなと言っただろう」
ディオが呆れた声を出しながら背中を擦ってくる。ジョナサンはきつく目を閉じた。爆発の前兆がまだ胸の浅いところを漂っている。少しは放っておいてくれないか、と、隣の存在に言えたらどんなにいいだろうか?五年前、初めて発作に襲われたときにはジョナサンの口をこじ開けて呼吸の気道を確保してくれて、それからもずっと看病をしてくれている文字通りの命の恩人に対して、「もう放っておいてくれ」と言えたら、どんなに──
…
まるで心配という檻の中だ。生きているのではなく、生かされていると感じるのは、病気のせいで自分の性格が歪んでしまったからなのだろうか?こんなに近くに“家族”が居るはずなのに 、なぜか広く孤独を感じる。思い出を共有した貴重な人がまた一人この世から消えたのだと理解した今だから尚更だ。新聞は、間違いなく、先日会ったばかりのドナレアの死を報じていた。冗談でへそくりを奪いに行くと言って笑っていたのがバカみたいだ。強盗殺人だって?あんなに立派な女性に、なんて惨い仕打ちを。
ぜえ、ぜえ、と喉が嫌な音を立てる。ディオがこちらを覗き込んでいた顔を上げ(彼はいつもなぜか咳き込むジョナサンを覗き込むのだ!本当に嫌だと思うのに、その度に、ジョナサンが一番嫌だと思うのは自分の心の狭さだった)、部屋の隅に視線を向けた。見なくても、怯えたように壁に張り付いているミッシェルの姿がジョナサンには見えた。
「君、ハーブティーを持ってこい。人肌の温度のものだ」
「はい、ディオ様」
ミッシェルが素早く動く衣擦れの音がする。ディオは片手でジョナサンの背中を擦りながら、もう一方の手で懐中時計を取り出した。ジョナサンは「もう行ってくれ」と言いたかった。発作の波がもっと引いていたら確実に言っただろう。
ディオは時計から目を離し、ジョナサンの顔をまた覗き込んだ。濡れて束になった睫毛を震わしているジョナサンの横で、彼はふっと微笑んだ。
「大丈夫だ、ジョジョ、君がこんな状態なのに放っていくわけないだろう?言ったじゃないか、支え合おうって。大丈夫だ、俺がついている
……
」
なにも言えないジョナサンの背中を、ディオは何気なく数回タップした。その振動でまた咳が出そうになったのをなんとか堪えていると、耳に陶器の音が聞こえてきた。嗅ぎ慣れた少し甘い香り。
「よし、さあ、これで楽になるぜ
……
」
ミッシェルはジョナサンに憐憫の目をちらりと向けた後、テーブルにいつもの茶器を置いた。白くて長い指の並んだ手が、お茶がなみなみ注がれた茶器を手に取り、ジョナサンの目の前に置いた。
☆☆☆
最近、病気になっているジョナサンばかり書いてるような~💦
エルダーフラワーの花言葉には『苦しみを癒す』という意味も含まれるそうです^^!
毒に詳しくないのでテキトーに書きましたが高頻度で飲んでいたらジョナサンはとっくに空の上だと思います~💦
・エルダー(年長)なのでモブのドナレアに出演いただいてみました。
・ドナレアは与えるという意味がある言葉をもじっています。
・ドナレア・“ブルー”にしたのはエルダーフラワーが持つ毒(シアン化水素)に掛けたからです(全国のブルーさんに謝るべき、、)。
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