ねぶくろ
2026-06-20 18:45:22
11547文字
Public 一次創作
 

蟲毒への資格

短編集『未満の僕ら』に収録予定の短編です。
よろしくお願いします。

 ラックの最上段に差し込まれたチラシが目に留まり、柳枝やなえだタクミは歩みを止めた。運転免許取得の合宿のお知らせや、薬物乱用を防止するための啓発チラシに紛れて覗く、『宇宙科学研究所』の七文字。魅力的なその文字列に誘われて、チラシを手に取る。どうやら、現役のロケット開発技術者をゲストに迎え、言わずと知れた有名大学の教授が、航空宇宙工学についての公開講座を行うらしい。時期は、夏休み期間中の九月上旬。会場は、教授が籍を置く、遠方の大学だ。
 申し込み期間は八月下旬の日曜日まで。まだ二週間ほど猶予がある。行けるんじゃないか、と胸が高鳴り、タクミはチラシの内容に目を通した。公開講座にも様々な形式のものがあるが、この講座は大学生に限り受講料が無料らしい。アルバイトで小遣いを稼いでいる身とはいえ、会場までの交通費を考えれば、受講料が安いに越したことはない。新幹線の代金を調べようとスマートフォンを取り出し、──画面に表示された新着メッセージに、指先が鈍る。
『晩御飯は要るの?』
 母からの短い問いかけに、『要る。遅くなるから先に食ってて』とメッセージを返して、息を吐く。タクミは手にしたチラシに視線を戻して、眉間にしわを寄せた。
 公開講座の会場までは、新幹線で約三時間。講座の終了後、すぐに駅へ向かったとしても、自宅に帰り着くのは二十三時ごろだろうか。大学一年生としては許容範囲の活動時間に思えるが、過保護気味なタクミの両親がそれを許容するかは疑わしい。
 実家暮らしのタクミにとって、両親は庇護者である以上に出資者だ。生活面でも経済面でも多大なる恩恵を受けている身で、彼らの純粋な愛情を無碍にすることは難しい。何よりも、とタクミは軽いため息を吐いた。紙面に記載された、有名な国立大学の名前を見つめる。
 あんたが行ってわかるような講座なの? ──そう問われたら、自分は何も言い返せない。
 脳内で捏造した母からの苦言は、リアルな響きをもって思考をかき混ぜた。苦い表情で、角の取れたフォントで印字された大学名を見つめる。分からなくても行きたいんだ、なんて言えるほど青臭い性格はしていないし、きっと分かるから行かせてくれと無条件に言い返せるほど能天気な性質たちでもない。自分の限界は、自分が一番よく分かっている。
 母親に難色を示されて何も言い返せない自分を想像し、タクミは硬い表情でチラシをラックに戻した。少し皺の寄ったそれを名残惜しく眺めてから、思いを振り切るように頭を振って、ラックに背を向ける。タクミは渡り廊下を移動して、隣の校舎へと向かった。階段で一階層上がって、三階へ。廊下を曲がってすぐの場所に位置する図書館で、検索用のパソコンを使って教養科目の参考図書を検索する。
 貸出中、という無情な文言を前に肩を落として、タクミはパソコンの置かれた台に頬杖をついた。トントンと指先で台の天板を叩きながら、他のタイトルを思い出す。背負ったリュックから授業中に配布されたレジュメを取り出すのはかったるい。ぼんやりと覚えている著者名を検索バーに打ち込んでいれば、「あれ、タクミじゃん」と馴染みのある声が掛かった。背後を振り向けば、同級生の掛川かけがわが腕に重たそうな分厚い本を抱えて、ひらりと空いた方の手を振った。
「なに調べてんの? あ、テスト勉強?」
 軽い足取りで近づいてくる彼に、「エネルギー工学基礎の参考文献って覚えてる?」と問いかければ、掛川は分厚いレンズの嵌った黒縁メガネを押し上げて、「いろいろ紹介されてただろ、どれだよ」と軽く笑った。
「テストが不安ならオレのノート見せようか? 結構綺麗にまとめてる自信あるよ」
「いや、大丈夫。授業中に紹介されてた話の出典を調べようと思っただけだから」
 掛川の申し出を断り、──ふと彼の抱えている書籍に目が吸い寄せられた。巨大なロボットが表紙に描かれた本だ。表題を見るに、展示会か何かの図録らしい。
 タクミの視線に気づいて、彼が「巨大ロボット好きなんだよね」と、適当なページを開いて見せる。中には、どこかの港湾部に展示された巨大なロボットの写真と、その構造を示した図面、展示会にあたって資料をまとめた学芸員の解説が並んでいた。黒々と紙面を埋める解説に目を滑らせて、その専門性に舌を巻く。
「すげぇ、結構難しいことも書いてあるんだ。……掛川って、ロボ作りたいんだっけ」
 問いかければ、掛川は「まぁ、作れたらいいんだろうけど」と言葉を濁した。
「設計の成績良くないから、まだ考え中。ロボに関わる仕事は設計だけじゃないしな」
 どこか恥ずかしそうにヘラリと笑った彼は、「そういや、あっちの本棚に試験用の特集コーナーが組んであったから、見て来れば? なんか参考になる本があるかもよ」と話題を変えた。ありがとう、と礼を言って、貸し出しカウンターへ向かう彼に手を振る。
 掛川が示した方へと向かえば、そこには確かに『テスト前に、基礎をおさらいしておこう!』と題した特集コーナーが設営されていた。主に一年生が受講する共通科目や、教養科目の参考文献と、関連図書を選定したらしい。入門書の並んだ本棚をじっくりと眺めて、授業内で名前をあげられていた研究者の著書を手に取る。パラパラと中身を確認してから、タクミは貸し出しカウンターへ向かった。
 貸出手続きを終えた本をリュックに仕舞い、ふと視線をあげる。壁掛けの時計は、十六時二十分を指していた。そろそろ移動しなければ、十七時からのアルバイトに遅れてしまう。タクミは、一冊分質量の増したリュックを揺らして、図書館を後にした。

 校舎を出ると、もわっと不快な蒸し暑さに襲われた。アスファルトから立ち上る熱気と、鼓膜が壊れるんじゃないかという勢いの蝉の声。夕方にも拘らずギラギラと照り付ける太陽を睨みつけて、校舎の裏手に位置する門へ向かう。守衛所に詰めている警備員に会釈をして、タクミは駅への近道を辿り始めた。
 見慣れた道を一人で歩いていると、どうしても頭に公開講座の存在がちらつく。──新幹線の代金を調べるくらいは別に良くないか? いやでも、どうせ行かない場所について調べたって虚しいだけだし。
 頭の中で喧嘩を始めた相反する主張を無視するために、タクミはリュックサックに放り込んだポーチから、ワイヤレスイヤフォンを取り出した。スマートフォンに接続して、お気に入りの洋楽を流し始める。アップテンポの英語で思考をかき混ぜ、胸の内に居座る未練を薄める作戦だ。
 どうせ自分に、航空宇宙工学なんてわかるわけがないんだから。それに、新幹線代だって馬鹿にならない。もしも泊りがけで出かけるなんてことになったら、春から貯めているバイト代じゃ賄えないに決まっている。
 だから諦めろ、と呪文のように自分自身に言い聞かせる。身の丈に合わない望みは持たない方がいい。楔を打ち込むような戒めを思考に叩き込み、住宅街を縫うようにして走る細い道を曲がった。途端に見晴らしが良くなり、交通量の多い大通りに出る。バスの走る幅広の車道の脇には、街路樹に彩られた大きな歩道が続いていた。
 駅まで続くメインストリートだ。暮れなずむ陽射しの強さに、駅までバスに乗ってしまおうか、と一瞬思考が傾くが、桜並木によってつくられた居心地の良い日陰に入って、考えを改める。日除けのないバス停で十数分も待ちぼうけを食らうより、このまま歩いてしまった方がずっと速いし快適だろう。
 すっかり緑の葉が生い茂った桜並木は途切れることがなく、太陽の傾きもあって、タクミの歩く道には陽射しがほとんど当たらない。時折、湿度の高い夏の風が肌を撫でていくが、木陰を歩く身ではその湿っぽさも不快からは程遠かった。じわりと汗ばむ気温の中を、イヤフォンを貫通するほどの蝉しぐれを浴びて歩く。五分も歩いていれば、車が入るために歩道が途切れている箇所に行き当たった。全国的にも有名な、国立大学の正門前だ。思わず横目で、地味な佇まいの門扉を窺う。
 タクミが目をやると、丁度、在校生らしき女性が門を抜けてやってきた。肩までの長さに揃えた真っすぐな黒髪が、湿った風にふわりと揺れる。迷いのない足取りでメインストリートを歩く背中は、見惚れるほどに真っすぐだ。
 彼女は、書籍でも入っているのか、やたらと生地の張ったトートバッグを肩から提げて、颯爽とタクミの前を歩き出す。ちらりと覗いた横顔は理知的な雰囲気を湛えており、いかにも勉強ができそうだった。薄化粧と、装飾の少ないシンプルな服装も相まって、育ちの良いお嬢さんという印象を抱く。
 先を歩く凛と伸びた背筋を眺めて、羨ましいな、と知らずの内に呟きが零れた。きっと彼女は、自分の頭の出来を恨んだことなど、一度もないのだろう。バッグに詰め込んだのと同じように、大量の知識を自身の頭に蓄えて血肉にし、それを力にして次なる未知を噛み砕いては、飲み下す。──知識を自身の足場にできるから、どんな場所へも、恥じることなく凛と背を伸ばして歩いて行ける。そんな強さを感じる後ろ姿に、自然と目線が下へと落ちた。ざらついた街路の表面を眺めながら、苦笑する。
 国立大学生って、カッコいいな。二流大学の共通科目で躓いているような自分とは、住む世界が違うんだ。
 砂を噛むような気持ちでその事実を再確認し、スマートフォンの音量を上げる。もうこれ以上思考しなくて済むように、タクミは鼓膜を揺らす英詩に意識を傾けた。

     *     *     *

 自分は賢い。──その自信が揺らいだのは、高校一年生の夏のことだった。
「成績が落ちてるけど、塾には通ってないんだっけ?」
 二者面談が始まってすぐ、開口一番に成績の話題に触れられて、タクミは思わず目を伏せた。返す言葉がそこに落ちているかのような仕草で机の天板を見つめるが、年季の入った木目は何も示さない。タクミは気まずさと羞恥を飲み込んで、「特には」と曖昧な返答を返した。担任の英語教師は、「そっか」とシンプルな相槌を打って、問いを重ねる。
 タクミの通う高校は、県内で五指に入る偏差値の高い進学校だ。国公立をはじめとした難関大学への進学率も県内屈指と言われており、地元でその名を知らない者はいない。当然、日々の授業はレベルが高く、進行も速い。──そんな学校に進学したせいか、タクミの一学期の期末テストの成績は、下から数えた方が早かった。
 担任は、タクミが授業に置いていかれていることをやわらかな口調で指摘して、「分からないことは遠慮せずに質問をしに来てね」と言葉を結んだ。終始顔を上げられないまま、かろうじて頷きを返して教室を後にする。
 面談の影響で遅刻している部活動に顔を出せば、地学部の面々は星が出るのを待っているのか、トランプをして時間を潰していた。教室の中央に寄せた机を囲み、二年生の三人が車座になっている。
 天体観測が主な活動である地学部は、夏の間は日が沈むまでの時間を勉強にあてたり、学校に提出する部活動記録の作成、合宿のための申請書の作成にあてたりと、比較的自由に過ごしている。活動と無縁のトランプに興じているのは、今が面談の時期で、教室内に集まっている人間が少ないからだろう。
 それぞれに手札を持った二年生たちは、「お疲れ」「柳枝もやる? ババ抜き」と口々に声をかけてきた。荷物を置いて、彼らの輪に入る。既に始まっていた一戦は、人数が少ないこともあってすぐに決着し、タクミを交えてカードが配り直された。
 日が暮れるまで何しよう、望遠鏡のメンテナンスはもう少し人が集まってからの方がいいよな、などと事務的な会話を混ぜながらトランプをする。揃ったカードを場に捨て、隣の人の手札を引き、──活動にまつわる話題が尽きたあたりで、誰かが「初の二者面談はどうだった?」とタクミに話題を振った。心臓がドクンとひと際強く脈打って、表情が強張る。タクミは視線を手札から動かさず、息を吸い込んだ。
「成績落ちてるよって言われました。俺、この前のテスト下から数えた方が早くて……、マジでヤバいんで、勉強教えてください」
 顔を上げ、大仰な仕草で三人を拝む。コミカルさを意識して作った声音が功を奏してか、室内の空気はさほど深刻にはならなかった。先輩たちは軽い笑いと共に、「柳枝って苦手科目なんだっけ?」「入りたてあるあるだよな、中学と勝手が違うし。すぐ慣れるから大丈夫だよ」と口々に声をかけてくる。あたたかく、適度に距離のある対応が心地よい。
「漢文が苦手で……。国も時代も違うから、まず誰のなんの話か、全然わかんないんですよね」
 揃ったジャックを場に捨てながらぼやけば、正面に座った先輩が、「あ、」と何かを思い出したように声を発した。そのまま、「お前、対戦ゲームとか好き?」と問いかけられて、「まぁ、はい」と頷く。彼は手札を机上に伏せて、カバンからスマートフォンを取り出した。
「古代中国が舞台のゲームがあってさ、人物とかことわざとか結構勉強になるからやってみなよ。今お友達紹介キャンペーンでボーナスアイテム貰えるんだよね……、このコード読み込んでアプリ入れて」
 差し出された画面には、お友達紹介キャンペーンで使用するらしいQRコードが表示されていた。彼に倣って手札を机上に伏せ、スマートフォンでそれを読み込む。残りの先輩方も同じ勧誘を受けたのか、呆れた様子で「お前、困ってる後輩をカモにすんなよ」「柳枝も、無視していいんだぞ」と口を挟んだ。スマートフォンにアプリをダウンロードして、「あとでやってみます」と勧誘してきた彼に言葉を返す。それを受けて、先輩は意地悪い表情で笑った。
「ゲームしすぎて成績落さないようにな」
 苦笑を返して、「その時は先輩にも責任を取ってもらいますよ」と軽口を返す。そん時は塾に通えよ、と先輩に言い返されて、タクミは曖昧に苦笑した。

 塾は頭の悪い子が通う場所だから、といつだったか、母親が言っていたのを覚えている。あれは確か、夕方のニュース番組で「小学生の習い事ランキング」か何かを特集していた時のことだ。
 全国で約四割の小学生が塾に通っている、というニュースを目にして、当時小学三年生だったタクミは、「俺も塾に通ってみたいな」と何の気なしに呟いた。
 クラスで頭がいいとされる子供たちは、多くが塾に通っていた。中学受験をするのだ、という子も少数ながら在籍しており、当時のタクミにとって『塾に通う』というのは、一種のステータスだったのだ。
 タクミの言葉に、夕飯のカレーをスプーンで掬いあげた彼女は、眉根を寄せてテレビへ視線を放った。小学生の約四割が、と強調するニュースキャスターの声に頭を振って、リモコンで音量を絞る。タクミの母は、「塾は頭の悪い子が通う場所だから」と憐れむような声で言い放った。
「行く必要がないなら行かなくていいのよ。……それとも、授業についていけてなくて困ってるの?」
 そう言ってこちらを見る両の瞳は真っ黒く、タクミは思わず視線をカレーの皿に落とした。
 頭の悪い子の行くところ、と想像もしなかった答えに、心臓の動きが速くなる。心が、荒波に放り出されたいかだのようにぐらついた。いつも算数で自信ありげに挙手をする龍太りゅうたくんも、中学受験に向けて週に四日も塾に通っている聡美さとみちゃんも、頭が悪くてかわいそうな子なのだろうか。そう考えて、塾に通うことを一種のステータスのように思っていた自分の無知が恥ずかしくなった。
 取り繕おうと、母を見返して「なわけないじゃん」と問いかけを笑い飛ばす。先ほどの言葉に大した意味などないのだ、と誇示するように軽い声を繕って、「ついていけないほど難しい授業じゃないし」と言葉を重ねた。
 自分は賢いのだ、授業についていけずに塾に通うような子供たちとは違う。強く念じながら見つめていれば、母は「習い事がしたいならスポーツにしたら? 中学校にあがったら部活で有利になるみたいだし」と視線を自身の手元へと落とした。そうだね、と相槌を打ちながらカレーをスプーンで掬う。大好物のはずなのに、頬張ったジャガイモは何の味もしなかった。

 結局、塾に通うことはしなかったな、と幼い頃のこと思い出す。タクミは人の流れに乗って、第一志望である国立大学の門扉をくぐった。受験票を手に、合格番号の掲示された看板へ向かう。辿り着いた掲示板の前には、多くの受験生とその保護者、そして物見遊山にやってきた在校生の姿があった。人だかりの後方に佇んで、自分の番号を探す。
 探しても、探しても、自分に割り当てられた番号は見つからなかった。まだ春には遠い、肌寒さの中で息を吐く。──不思議と、悲しみはやってこなかった。胸を満たすのは、「やっぱりな」という納得だ。やっぱり、受からなかったか。そうだよな、そりゃあそうだ。何か、ずっと背負っていた荷物を下ろせたような気持ちで息を吐く。透明な雫が頬を伝って、一滴だけの涙が地面を濡らした。
 自分の限界はここなのだ。人生で最大の努力をしても、第一志望の大学には届かなかった。きっとこの先、どれだけの努力をしても、自分は今以上の高みにはたどり着けない。
 身の程を知る。それだって、生きる上で重要な賢さの一つだろう。無謀な望みを抱かないように、叶わない夢を追いかけないように、届かない高みに手を伸ばさないように。今日からは、地に足をつけて生きていこう。
 魚の小骨が喉に引っかかるような微かな痛みを飲み込んで、用済みになった受験票を握り潰す。身の丈に合わない望みは持たない方がいい。楔を打ち込むような戒めを思考に叩き込み、タクミは踵を返して門扉をくぐった。

     *     *     *

 乱暴な揺れに、意識が浮上する。誰かに肩を揺すられている、と理解してタクミが顔を上げれば、そこにはプリン頭の男が立っていた。色の抜けた金髪をハーフアップにした、見るからにチャラそうな二十代後半の男。野村のむらさん、と彼の名を呼べば、野村秋仁あきひとは、「客がいないからって、レジでうたた寝はマズいだろ~」と笑った。煙草の香りが鼻先を掠めて、今がアルバイト中だったことを思いだす。煙草休憩の間、レジ頼むなと一方的に宣言して店舗の外に出て行った彼の後ろ姿まで思い出して、タクミは「俺、どれくらい寝てました?」と野村に問いかけた。
「十分くらいか? オレも一応客が来てないことは確認してたから、問題ないっちゃ問題ないけどさ」
 お前がちゃんとしなきゃオレがサボりづらくなるだろ、と彼が再び笑う。野村は、よく笑う男だ。たった二人しかいないアルバイトの仲間が野村でよかった、と度々思う。
 タクミは「すみません」と軽く頭を下げて、レジカウンターの内側に座り直した。カウンターに突っ伏していたせいか、頬には変な形の跡が残っている。手のひらでごしごしとそれを擦っていれば、野村は「なんかヤな夢でも見てた?」と笑い交じりの声を重ねた。
「眉間にしわ寄ってたけど」
……。別に、嫌な夢ではないです」
 大学受験の時の夢を見た。頬を伝った一筋の涙を思い出して、目元に触れる。そこに雫の跡はない。そのことに安堵していれば、野村は「大学忙しいの?」とポケットから取り出した煙草の箱を弄びながら問いかけた。先ほどまで煙草を吸っていたはずなのに、既に口さみしくなっているらしい。彼がタクミに声をかけてくるのは、大抵が暇を持て余している時か、喫煙を堪える必要がある時だ。チャラくて不真面目そうな外見に反して、野村は一日に吸っていい煙草の本数を三本と決めて、そのルールを厳格に守っている。タクミは彼の問いを曖昧に流して、人気のない店内に視線を放った。
 二人がアルバイトをしているのは、客入りの少ない寂れたレンタルビデオショップだ。月額五百円ほどで数百の作品を観放題に出来る今の時代に、わざわざ一本百円でビデオをレンタルする物好きはほとんどいない。シフトの間に客が来ることはほとんどなく、大抵の時間はぼーっとしているか、野村とゲームの話をしているか、教科書や参考書を読んでいるか、の三択だ。店主の老人は二人に店を任せきりでほとんど顔を出さず、たまにふらりと現れては、「ま、半分は道楽だしな。処分するにも金がかかるから、借りるやつがいれば儲けものだ」と客入りの少なさに肩を竦める。
 一世代前のポップスが流れる店内には、今日も今日とてタクミと野村の姿しかない。煙草の箱をポケットから取り出しては、しまい直す野村を横目に眺めて、タクミは、「野村さんって、大卒でしたっけ」と問いを発した。彼が「ん?」と目を瞬いて、小首を傾げる。
「大卒だよ。……何、勉強の悩み?」
 問い返されて、言葉に迷う。脳裡にチラつく、公開講座のチラシ。自分の番号がない掲示板。頭の悪い自分には、届かないもの。
「悩みとかじゃ、ないんですけど、」
 言葉を探す。考えるうち、思考が見慣れたスマートフォンの画面を脳裡に浮かべた。キャラクターを選択し、フィールド上でアイテムを用いてバトルを行う。高校時代に先輩から紹介された、古代中国を舞台にしたゲーム。
……蟲毒こどくって、知ってます?」
 タクミの言葉に、「コドク?」と野村が言葉を繰り返す。口元に手を当てて虚空を睨んだ彼は、「なんか、虫をいっぱい使う、呪いみたいなやつだっけ?」とこちらを見た。頷いて、手元に視線を落とす。
「壺の中に毒をもつ虫を詰めて、殺し合いをさせるんです。最後に残った一匹を使って、人を呪う、みたいな。……なんか、ずっと、勉強ってそんな感じだよなって思ってて」
 小さな教室に同年代の人間を詰め込んで、頭の良さを競わせる。──けれどその賢さや、選ばれることは、果たして誰の為なのだろう。
 タクミの呟きに、野村は「あ~」とわかったようなわからないような、間延びした相槌を打った。ステッカーのベタベタ貼られた壁に背を預けて、「まぁ、言ってることは分かる」と腕を組む。彼は腕を組んだまま、古ぼけた蛍光灯を見上げた。それ以上は、何も言わない。
 沈黙が流れ、やけにキラキラと、未来を夢見る女性アイドルの歌声が鼓膜を震わせた。息を吸い、小さな声で言葉を重ねる。
「俺は、蟲毒の壺にも入れなかった。競争に参加する資格すら、なかったな~って、思う時があって。……だから何、ってわけじゃないんですけど」
 目を瞑る。瞼の裏に残る、宇宙への憧れ。もう二度とくぐることのない、第一志望の門扉とその奥に広がる景色。手を伸ばしても届かなかった。蟲毒へ至る資格すら手に入れられず、タクミは受験に負けた。きっとこの先、自分が勉強で勝つことはないのだろう。──分かっているのに、望むことを止められない。
 タクミが瞑目していれば、「お前、いくつだっけ」と野村に問われた。瞼を持ち上げて、「十九です」と応じる。彼はかすかに目を細めると、口をへの字に歪めて首を傾げた。
「まだ十九でそんな暗いこと考えてんの? 人生百年とか言われてる時代だぜ? 折り返しにもなってないのに、自分のこと諦めるのは早くねぇか」
 言われて、反応に惑う。彼は軽くため息を吐いて、壁につけていた背を浮かせた。レジカウンターの内側に手を伸ばし、タクミの額を指先で弾く。大して痛くもないデコピンに驚いて彼を見返せば、野村は「オレですらまだ四分の一だぞ」と、なぜか胸を張るように言い募った。
「十九で自分に見切りをつけるとか、判断が速すぎるだろ。この先お前の身に何が起きるかなんてわからないし、身の丈に合わせて縮こまってたら一生成長できねぇじゃん。伊能いのう忠敬ただたかが地図を作り始めたのは五十五歳だぞ? 七十過ぎで亡くなってるから……、人生の七割が過ぎてからの挑戦だろ? それでも歴史に名を残すほどの結果を出せるんだから、十九でそんなくよくよしてんなよ」
 たまたまその壺が満員だっただけだろ、この先いくらでも戦うチャンスはあるって、──と、彼が無責任に笑う。呆気に取られて、目を瞬いた。タクミの反応を気にした風でもなく、彼がまた壁にもたれかかる。
 野村は我慢しきれなくなったのか、紙煙草を一本取り出した。火はつけないままに、それをくわえる。彼はフィルターを噛み潰して口さみしさを誤魔化しながら、他人事だと割り切った、気楽な口調で言葉を重ねた。
「お前は真面目だし、一生懸命努力できるから一つひとつの『上手くいかなかった』を引きずるんだろうけどさ、別に『上手くいかなかった』は、諦めなきゃいけない理由じゃないぜ? 上手くいかなかったなら、『次はこうしよう』でいいの。律儀に『自分には向いてないんだ、諦めよう』とか思うなよ」
 流れるような言葉に、つい、疑問が零れる。
……、なんでそんなに励ますんですか?」
 タクミが問えば、野村は心底不思議そうに片眉をあげて、「別に励ましてないけど?」とタクミを見返した。くわえた煙草をガジガジと噛みながら、彼が続ける。
「オレはただ思ったことを無責任に言ってるだけ。オレの言葉でお前がどうなろうと知らないし、責任も取れねぇよ」
 彼は悪びれることもなく、「でも、誰だってそんなもんだろ」と炭酸が弾けるような笑いを零した。あまりにも嫌味のない、爽快さすら感じさせるあっけらかんとした物言いに、思わず目を奪われる。タクミが何も言えずに彼を注視していれば、野村は口にした煙草を指先で摘まんで、そそのかすように言葉を継いだ。
「お前のこと否定するやつもオレとおんなじ。大して責任感なんてないまま、なんとなくその時思ったことを言ってるだけ。……だから、いちいち間に受けて立ち止まる必要なんてねぇよ」
 勉強の悩みは解決したか? と顔を覗き込まれて、「だから、別に悩みとかじゃないですから」とため息を返す。野村はどこか満足げに目を細めて、指先に摘まんだ煙草を揺らした。
 なんとなくその時思ったことを言ってるだけ、と彼が言い切った言葉が頭蓋骨の内側で反響している。塾は頭の悪い子が通う場所だから、と母が零した言葉が浮かんで、眩暈に似た感覚に襲われた。あの言葉も、大した意味のない、その場の思い付きだったのだろうか? 思考が濁って、上手く考えがまとまらない。
 タクミは、知らずの内に「塾って、」と野村に問いかけていた。
「どういう場所だと、思いますか?」
 漠然とした問いに、どういう場所って、と彼が困惑したように苦笑する。野村はさして考える間を置かず、相変わらず笑いの滲んだ声で言葉を返した。
「勉強を頑張りたい奴がいくところじゃねぇの?」
 あっけらかんとした回答に、なぜだか涙腺が緩む。なんだ、それでよかったのか、──と、安堵と落胆がまぜこぜになったような感情で胸が満たされた。そうですね、と気の抜けた返事を返して、小さく頷く。野村は我慢が出来なくなったのか、「ちょっと煙草吸ってくるわ」と席を外した。

 客が来ないまま店じまいをし、タクミが帰宅したのは夜十時過ぎのことだった。玄関のカギをあけて、「ただいま」と声をかける。居間から「おかえり」と母親の声が返った。少しの緊張に、ピリピリと肌が痛む。感電したようにぎこちない体を何とか動かして、タクミは背負ったリュックから一枚のチラシを取り出した。ホームページからスマホにダウンロードし、コンビニで印刷した、公開講座のチラシだ。
 行きたい、と言ったら「どうせわからないでしょう」と否定されるかもしれない。「一人でこんなに遠くに行くなんて」と心配されて、引き留められるかもしれない。何とか両親を説得して参加しても、自分の頭では話についていけない可能性だってある。望んだ先に、想い描いた通りの景色が広がっているとは限らない。──それでも、それは、手を伸ばさない理由にはならないと、知った。
 身の程を知って縮こまっているよりも、身の丈に合わせて諦めるよりも、無謀な夢を見たい。到底敵うはずのない毒虫に揉まれながら、それでも一番を目指して足掻きたい。『競争の場に立つことすらできない』なんて、惨めな気持ちで憧れを手放すのは、嫌だ。
 息を吸い、居間へと続くドアのノブに手をかける。ドアを押し開け、タクミは望んだ蟲毒への第一歩を踏み出した。