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nene_404
2026-06-19 15:14:46
4953文字
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風を待つ狛犬
続くかは不明
海へ続く古い坂道の途中に、社はあった。
大きな社ではない。石段は潮風にさらされて少し丸く、鳥居の朱はところどころ褪せている。けれど、朝日が海の方から差し込む時だけ、境内は不思議なほど明るく見えた。参道の端には古い松があり、風が通るたびに、枝葉が細く鳴る。
鳥居の両脇には、二匹一対の狛犬がいる。
阿形の参悟はよく喋り、人の気配にも神の気配にもすぐ気づいて話しかける。吽形の重悟はその反対で、口数は少なく、鳥居を越えるものをただ静かに見ていた。通してよいものと、止めるべきものを見極める。それが重悟の役目だった。阿形の参悟とは違い、めったに狛犬の姿を解くことはなく神社を守っている。
その日の朝、参悟は境内の奥へ呼ばれていた。宮司が供物の皿を落としたとか、注連縄が少し緩んだとか、そういう細かな用事である。重悟は一人、いつものように鳥居の脇で石の姿を取り、坂道と海と、そこを行き来する人間たちを見ていた。
天気はよかった。海から上がる風も穏やかで、悪い気配はない。いつもと変わらない朝になるはずだった。
鳥居の上で、ふっと風が途切れた。
ついさっきまで松の枝を揺らしていた海風が、その一か所だけ急に止まる。重悟は違和感を覚えて顔を上げた。青い空の高いところに、白いものが見えた。
最初は鳥か何かかと思った。けれど、その白いものは羽ばたくでもなく、空に留まるでもなく、ふらりと大きく傾いた。次の瞬間、支えを失ったように、鳥居へ向かって落ち始める。
女だった。
黒と青を重ねた軽い和装の袖が、風を掴めずにばたついている。腰元の赤い飾り紐が跳ね、背に負った大きな白い風袋のような布は、しぼんだまま背中にまとわりついていた。足元に風はない。身体は空中で立て直されることもなく、少しずつ速さを増して、まっすぐ下へ近づいてくる。
飛んでいるのではない。
落ちている。
そう思った瞬間、重悟は石の姿を解いていた。人の形を取り、砂利を蹴って鳥居の下へ飛び出す。間に合うかどうかを考える余裕はなかった。
女の身体が腕の中へ落ちてくる。
受け止めた衝撃は思ったよりも軽かった。背の風袋はへにゃりと潰れ、裾も力なく垂れている。それでも腕の中には確かに温かさがあって、乱れた髪からは海風と若葉の匂いがした。重悟は片腕で背を支え、もう片方の腕で膝の裏を抱えるようにして、ようやくその場に踏みとどまる。女はぐったりと力を抜いたまま、重悟の胸元に頭を預けていた。風をまとっていたはずの衣装まで、今はすっかりしおれている。
「おい」
呼びかけると、女のまぶたがゆっくり開く。唇からこぼれた言葉は細く、最後の音は息にまぎれて消えた。
「おい、本当に大丈夫か?」
「
……
おなか、すいた」
「ア?」
重悟は返事を忘れた。空から落ちてきたものを受け止めたはずなのに、腕の中にいるのは風ではなく、ひどく腹を減らした女だった。
何者だ。どこから落ちた。怪我は。鳥居の内へ何をしに来た。聞くべきことはいくらでもあるはずなのに、腕の中の女はくたりと重悟に体を預けたまま、もう一度、かすれた声で言う。
「とべない
……
」
「飛べない?」
「おなかすいて、風が言うことを聞かない」
意味は分からなかったが、女をこのまま放っておけないことだけは分かった。試しに少し腕を緩めると、女の肩がへにゃりと落ちる。本人は平気な顔をしようとしているらしいが、身体の方がまるで言うことを聞いていない。重悟は仕方なく抱え直した。
「怪我は」
「してない」
「なら、なぜ落ちた」
「おなかがすいたって言ってるだろ」
言い方だけは妙に偉そうだったが、語尾はすぐにしぼんで、威勢より空腹の方が勝っている。腹を減らした猫の方がまだ張りがある。重悟はしばらく腕の中の女を見下ろしていたが、鳥居の前でこのまま問答を続けても仕方ないと判断した。
落ちてきた理由も、何者なのかも分からない。けれど今の彼女に必要なのは詰問ではなく、まず座る場所と食べ物の方だろう。
「座れる場所まで行くぞ」
「歩ける」
女はすぐにそう返した。重悟が腕を緩めると、女はゆっくり足を下ろし、石畳の上に立った。立てないわけではない。ただ、背筋を伸ばしても、背中の白い風袋はしぼんだままで、黒と青の衣も風を含まずに重たそうに垂れている。堂々としているつもりなのだろうが、どう見てもへにょへにょだった。
「無理をするな」
「してない。飛べないだけだ」
「それがもうおかしいだろう」
「とにかく歩けるから大丈夫だ」
そう言って、女は境内の方へ歩き出した。足取りは意外としっかりしている。しかし、裾が足に絡み、そのたびに面倒そうに眉を寄せる。重悟は半歩後ろを歩いた。支えるつもりはなかったが、倒れそうになれば手を出せる距離ではあった。女はそれに気づいたのか、横目で重悟を見る。
「過保護だな」
「落ちてきた奴が言うな」
「好きで落ちたんじゃない!」
縁側まで来ると、女はようやく腰を下ろした。座った途端、張っていた気だけが抜けたように肩が落ちる。お腹がぐうっと音を立てて、女は右手でさすっていた。
重悟は社務所の方へ行き、朝の支度で作っていた竹皮包みを取って戻った。中には握り飯が二つ入っている。女は包みを見るなり、分かりやすく目に力を戻した。
「食っていいのか?」
「食わないと飛べないんだろう」
「助かる」
さっきまで偉そうだったくせに、食べ物を前にするとやけに素直だった。重悟が竹皮をほどいて渡すと、女は両手で受け取り、すぐに口をつける。最初の一口にまるで遠慮はなかった。
女が握り飯を飲み込むたび、境内の空気まで少しずつ変わっていく。松の枝が小さく鳴り、鳥居の注連縄がかすかに震え、さっきまで動かなかった鈴緒が、誰も触れていないのに揺れた。
「よく食うな」
「腹が減ると飛べないんだ」
「燃料か」
「人間の世界で言うならそうだな」
重悟は隣で二つ目の握り飯へ視線を移す女を見ていた。空から降ってきた時点で人間ではないのだろう。だが、神らしい威厳を感じるより先に、握り飯で少しずつ元気を取り戻していく腹ぺこの女に見えてしまう。最後の一口を飲み込んだ時には、背中の風袋も息を吹き返したように丸みを取り戻していた。女は満足そうに息をついた。
「ふぅ、生き返った!」
「そこまでだったのか」
「腹が減ると、だいたいそうなる」
「迷惑な体質だな」
「風神だからな!」
「
……
風神?」
重悟はそこで眉を動かした。女は、今さら思い出したような顔をする。
「言ってなかったか?」
「あぁ。聞いていない」
「腹が減っていて自己紹介を忘れていたか」
言いながら、女は縁側から立ち上がった。今度はふらつかない。足元に細い風が巻き、砂利が小さな円を描く。髪がふわりと持ち上がり、さっきまで垂れていた衣が軽く空気を含む。空から落ちてきた時の頼りなさは、もうほとんど残っていなかった。
「千速だ。見ての通り風神だ! じゅーごは狛犬だろ?」
「なんで名前知ってるんだよ」
千速はすぐには答えなかった。代わりに、風をまとい直した裾を軽く払う。その仕草はさっきまで握り飯を両手で食べていた女とは思えないほど軽やかで、どこか得意げだった。
「さあな」
「答えになっていない」
「名前くらい、風が運んでくることもあるかもな」
「そんなわけねえだろ」
「とにかく秘密だ♡」
千速はそこで少し笑った。明らかに重悟の反応を楽しんでいる顔だった。腹が満たされた途端、声にも表情にも余裕が戻り、ついでに少し意地の悪さまでついてきた。
「愛してるぞ、重悟♡」
「なっ! 調子のいいやつだな
……
」
「いいだろ。命の恩人なんだから」
まっすぐ言われて、一瞬だけ返事に詰まった。千速はその沈黙を見て、さらに楽しそうに目を細める。風神というより、餌をもらった野良猫に近い顔だった。ただし、その野良猫は空を飛ぶ。
千速は軽く地面を蹴った。風が足元を持ち上げ、身体がふわりと浮く。そのまま鳥居の上まで上がると、彼女は得意そうに重悟を見下ろした。くるりと空中で一周すると境内の木々が揺れる。
「本当に風神だったのか」
「だからそう言っているだろ!」
千速は鳥居の上をひと回りし、今度は落ちずに重悟の前へ降りてきた。最初の失態をなかったことにしたいのか、着地だけはやけに綺麗だった。
ちょうどその時、境内の奥から参悟が戻ってきた。風の気配が濃くなった境内と、空を見上げている重悟、それから縁側に残った竹皮を見て、だいたいのことを察したらしい。
「重悟! お前の握り飯、風神様への供物になったのか!」
「黙れ」
「あぁ! 供物なら、ありがたく受け取った」
千速は悪びれずに言った。参悟は声を立てて笑い、重悟はますます黙るしかなくなった。
「握り飯、うまかった」
「それはよかったな」
「重悟っていい奴だな」
千速は再び鳥居の外へ向かって浮き上がり、ふと思い出したように振り返った。
「また腹が減ったら来る」
「ここは茶屋ではない」
「じゃあ、また落ちたらくれるのか」
「なんでだよ!」
千速の笑いに合わせて、鳥居の注連縄が揺れる。ずいぶん勝手な神だと思った。それでも、不思議と目が離せない。
───それが、風の女神と狛犬の最初の出会いだった。
それからしばらくして、重悟は狛犬姿でも空を見る癖がついた。鳥居の脇に座り、坂道や参道を見張っているはずなのに、風が少し乱れると、つい視線が上へ向く。白い衣がまた落ちてくるのではないか。そう思っている自覚はあったが、認める気はなかった。
「重悟、また空か」
「見張っているだけだ」
「鳥居は下だぞ」
「空から落ちてくるかもしれねぇだろ」
「この前の風神様か」
参悟は楽しそうに笑った。重悟は石の姿のまま、何も聞こえなかったように鳥居の外へ視線を戻す。千速が来るのを待っているわけではない。ただ、落ちてきたものを受け止めるのも、鳥居を守る狛犬の役目のうちだと、自分に言い聞かせた。
その日の昼過ぎ、海風がふっと弱まった。
松の枝が一瞬だけ鳴るのをやめ、鳥居の上で白い風袋が揺れる。重悟が顔を上げると、そこには千速がいた。今度の彼女は、初めて会った時のようにへにょへにょではなかった。背の風袋は十分に膨らみ、黒と青の衣も軽く風を含んでいる。どう見ても、風は足りている。それなのに、千速は重悟と目が合った瞬間、にっと笑って風をほどいた。
「じゅーご!」
身体がすとんと降ってくる。危ない落ち方ではない。落ちているというより、最初から重悟の腕の中を狙っている降り方だった。重悟はそれを分かっていたのに、反射で石の姿を解いてしまう。人の形を取り、鳥居の下へ出ると、千速は当然のようにその腕の中へ収まった。
「
……
今のはわざとだろう」
「さあ?」
千速は悪びれもせずに言った。腕の中の千速は軽く、温かく、髪も衣も風を含んでふわりと揺れている。初めて受け止めた時のような弱々しさはない。落ちてきたのではなく、会いに来たのだと分かる降り方だった。重悟が黙って見下ろしていると、千速はさらに楽しそうに目を細める。
「お前も私に会いたかっただろ♡」
「ち、調子に乗るな!」
「空を見てたくせに」
重悟は返事をしなかった。参悟が横で笑っている気配がしたが、そちらを見ると余計に面倒になるので無視した。千速はそんな重悟の反応が気に入ったらしく、腕の中で機嫌よく足を揺らす。
「おなかすいた」
「またそれか」
「重悟が握ったおにぎりが食べたい」
「俺は狛犬だぞ」
「知っている」
千速は当然のように言って笑った。重悟はため息をついたが、結局、彼女を縁側へ下ろして社務所へ向かった。参悟がまた笑ったが、もう何を言われても言い返す気になれなかった。
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