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とむぢ
2026-06-19 00:52:30
9467文字
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鼻につく/A▲+S▲(※A▲▽、S▲▽前提)
シガーキスA▲+S▲
!!!S▲とA▲が喫煙者(捏造)です!!!
▲同士の距離は近いけどCP要素はA▲▽(薄め)とがっつりS▲▽(濃いめ)のみ。
モブ♀→S▽、モブ♀→A▽の描写があります。匂いと独占欲の話。
アニだのスペだのゲーだのメタい呼称使いまくり。
弟を丸洗いしたい。髪の先から爪の先まで全部、浴槽の中に突っ込みたい。こんな思いに駆られたのはいつぶりだろうか。たしか色違いのヤブクロンを見つけたとか言って、二時間ほどライモンシティ中のゴミ捨て場を探し回っていた弟が、帰ってきたとき以来だ。しかし明らかにそのときよりも、ノボリは自身が不機嫌になっている自覚があった。
いつだって平常心でいたいノボリの心を掻き乱す原因は、今回も弟のクダリにある。ダブルトレインでバトルを終えて降りてきたクダリから、今朝はしなかったはずの香水の匂いがしたのだ。この鼻腔にこびり付くような甘ったるい匂いは、女性のものでほぼ間違いないだろう。これまで一度だってクダリは香水などつけたことがないし、興味すら持ったことがない。分かりやすく顔を顰めているノボリに向かって、クダリは涙目で自分の鼻を摘みながら『あのね! さっき戦ったひと、すっごいくさかった!』と、オブラートに包むべき言葉を一切包まずに言い放った。鼻を摘んでいるせいで鼻声のクダリから話を聞けば、香水を丸ごと浴びたのかと思うほど、全身から香水の匂いを漂わせた女性がダブルトレインに乗車していたらしい。一緒の車両にいただけでクダリにも匂いが移るとは相当だ。
「香水は個人の自由ですが、度を超えると他のお客様のご迷惑にもなりますからね。どうしたものでしょう」
「ぼくが今いちばんメーワクしてる」
「
……
お前はともかく、ポケモンたちの鼻が心配です。とりあえずコートについた匂いをなんとかしたいので、目を閉じてバンザイください」
駅員室に置いていた、衣類用のスプレータイプの消臭剤をノボリは構えた。クダリは大人しく言うことを聞いた。よっぽど参っているのだろう。目をぎゅっと瞑り両手を上げ、ノボリに全身くまなく消臭剤を振りかけられる。一応少しはマシになったが、それでもクダリは香水臭いままだった。匂いも消えないし、ノボリの眉間の皺も消えない。
「しかし一緒の空間でバトルしただけで、これほどまでに匂いが移るとは
……
困りましたね」
「あのね、バトル終わったあと握手されてそのままぎゅーってハグされたから、多分そのせい」
「
……
。今なんと?」
「体ベタベタ触られた。キャー、オニーサンステキー、だって」
唖然とした。口をポカンと開けて固まるノボリに、クダリはコートのポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。目だけを動かすノボリに、クダリはそれを見せる。丸っこい字で連絡先が書かれたメモ用紙だ。何を企んでいるのかは知らないが、とにかくクダリとプライベートで関係を持とうと渡してきたものに違いない。
いくら大切にすべきお客様と言えども、明らかに度を超えている。弟の身に起きた全ての出来事を理解したノボリは、目を血走らせながら目の前にある白い肩を力強く掴んだ。
「なぜ先に、それを言わない、お前は」
「あのね、羨ましいからって嫉妬は見苦しいよ。あのひと、今度はシングルトレインにも行くって言ってたから、ノボリも待ってたら?」
なにかを勘違いしているクダリは、自身の肩にあるノボリの手をサッと払い除けると、女性から貰ったメモ用紙をぐちゃぐちゃと丸め始めた。意味のない塵と化したそれを、またポケットに突っ込む。出来たらゴミ箱に捨ててほしい。どうせポケットに入れたことを忘れたままクリーニングに出す羽目になるのだから。クダリの誤解を解く気にもなれなかったノボリが、溜め息を一つ零す。
「
……
9時10分発のダブルトレインですね? あとでカメラを確認しておきます」
「うん。でもね、ちゃんと勝ったよ」
「そこは別に疑っておりません」
当然のことながら勤務中にシャワーを浴びられるはずもなく、再びアナウンスで呼び出されたクダリはいつもより覇気のない笑顔で仕事に戻っていった。遠くなるその背中を見つめるノボリの頭の中に、次第に靄がかかっていく。
そういうわけで、ノボリは今日一日ずっと気が晴れなかった。仕事の合間にブラックコーヒーを飲んで休憩しても、心は全く休まらない。モヤモヤする。クダリから知らない人間の匂いがすることが、こんなにも気に食わない。クダリが挑戦者の女性に香水の匂いが移るほど体を密着させられた事実が、ノボリをとびきり不愉快な思いにさせた。相手は大切にすべきお客様であることに変わりはないが、それでも言ってしまえば赤の他人だ。実の親でさえ音を上げた
弟
あれ
の面倒を見れるのは、魂を分けた兄である自分だけだ。いくら親しくなろうと近付いたところで、他人にあの白くて自由気ままな生き物を制御できるはずかない。
早くいつものシャンプーやボディソープの匂いを纏った、自分がよく知っているクダリにしたい。自分の一部と言っても過言ではない弟を、守り抜いてきた白を、勝手に汚されたような感覚がノボリに襲いかかる。そんな独占欲にも似た気持ちを悶々と抱えながらも、ノボリはこの日すべての乗務をそつなくこなした。あとは終発のスーパーダブルトレインで、まだ挑戦者とバトルをしている最中であろうクダリの帰りを待つのみだ。一足先に事務作業を終わらせ、帰る支度も終えたノボリは、ふと自分のデスクの引き出しの奥を覗く。
タバコくさいノボリきらい。いつだったかクダリに一度そう言われたことがある。この世で最も憎たらしくて最も愛おしい弟に嫌われてまで、健康を害する煙を吸う趣味はノボリにはなかった。ならば禁煙しよう、そうしよう。そんなノボリの決意を嘲笑うかのように、デスクの引き出しの中には、未だに開封済みの煙草の箱が入っていた。ストレスで心と体がずっしりと重たくて仕方がないとき、どうしても煙に縋りたい夜がある。ノボリはコートを椅子に掛けると煙草を持ち出して、職員用の喫煙室へと向かった。挑戦者とのバトルを終えたクダリが戻ってくるまでに一本だけ吸うつもりだ。胸焼けしそうなほど鼻につく香水の匂いや、クダリに色目を使った異性が存在した事実を、一度頭の中から消したかった。
▲▽
喫煙室の前まで来ると、ボタンを押すと自動的に開くドアの前に立つ。その瞬間、ノボリの視界は真っ暗になった。次にふわりと足が浮くような感覚。ただの立ち眩みとは訳が違う、この何とも言えない奇妙な感覚は何度か経験したことがある。目のピントを調整するように瞬きを繰り返すと、チカチカと点滅していた視界が次第にクリアになっていく。喫煙室に入ったノボリの視界に飛び込んで来たのは、
自分
・・
だった。
「
……
む」
「おや」
間違いなく同一人物なのだが全くの別人のように感じる。その和かな笑顔のせいだろう。自分が絶対にしないであろう笑顔を浮かべるノボリを前にして、ノボリは察した。ああ、たった今、目の前に立っているこの男が“サブウェイマスターのノボリ”として存在している世界へと繋がってしまったらしい。よりにもよって、という言葉がノボリの頭を過ぎる。
「こんばんは、スペノボ様。どうやら世界線が混線してしまったようですね」
「
……
一点だけ確認させていただきたいのですが、アニノボ様が
私
わたくし
をお呼びしたわけではありませんよね?」
今この瞬間から“ノボリ”とは一人の人間を指す個人名ではなくなってしまった。アニノボとスペノボの二人が同じ時空に存在している。自分が別の世界線に紛れ込んでしまっているかどうかを確認する方法はただ一つ。周囲の人間に自分が見えているかどうかだ。しかし残念ながらこの喫煙室という密室空間には、スペノボとアニノボの二人しかいない。
「さて、そうだと言ったらどうしますか?」
至って真剣なスペノボからの質問に、アニノボは微笑みながら返答した。出た。スペノボは奥歯で溜息を噛み殺す。苦手とまではいかないが、スペノボがアニノボをあまり得意としない理由はこういうところにある。基本的に常に白黒はっきりとした答えが知りたいスペノボに対して、アニノボは曖昧な答えを返すことが多い。そうすることで相手の反応を楽しんでいるのか、もしくは何も考えておらず天然でそんな態度を取っているのか。どちらが正しいのかは知らないが、どちらにせよスペノボにとってアニノボとは捉えどころのない男であった。真面目で誠実な男だとは思うが、それだけではないマイペースな一面も併せ持つ。
二人きりの空間で警戒を緩めないスペノボを前にして、アニノボは肩を震わせ笑いながら、自身の手にある箱から煙草を一本抜き取る。
「ふふ、冗談ですよ。今夜はクダリに隠れて一人でこっそり吸おうと思っていたところですが
……
スペノボ様がご一緒してくださると言うのなら大歓迎でございます。楽しい夜になりそうですね」
「
……
煙草、吸われるのですね。アニノボ様にそういったイメージがあまりなかったものなので、意外です」
思えば二人きりで会話をするような機会もそうなかったのではないかと、スペノボから話を広げた。これがいつもの集会ならば、ここにもう一人“ノボリ”が存在しているはずだ。
「それはそれは、クリーンなイメージを壊してしまったのなら申し訳ございません」
「いえ、特にクリーンなイメージがあったわけでもないので、お気になさらずスパスパ吸ってくださいまし」
「あっはは! 言いますよねぇ。既に楽しくなってきました」
アニノボに対するスペノボの毒舌は今に始まったことではない。ひょっとするとこれが何も取り繕っていない、素のスペノボなのかもしれなかった。そこはスペノボの弟・スペクダによく似ていると、アニノボから見て思う。ライターを取り出したアニノボは目を伏せて、慣れた手付きで煙草に火をつけた。火がついた煙草を燻らせ、一息ついてから話す。
「毎日は吸いませんよ。あまり吸うとクダリが悲しみますから。ですが
……
無性に煙で体を満たしたい夜もあるでしょう?」
「はあ
……
なるほど。中毒性って恐ろしいものです」
渋々といった様子でスペノボはアニノボの隣に立った。さっさと吸って自分の元いた世界へ戻ろうと思い、煙草を口に咥えてから気付く。ライターを忘れた。これでは火がつけられない。弟のことを考えすぎて、自分のことが疎かになっていた。仕事中は影響が出ないようにずっと気を張っていたのに、まさか一日の終わりにやらかすとは思ってもいなかった。
自身のズボンのポケット部分をパンパンと叩き、何かを探しているスペノボの肩を、アニノボが指で優しく叩く。スペノボがゆっくりと振り返ると、自分が咥えている煙草の先端を指さすアニノボがいた。それだけで何を提案しているのか嫌でも分かってしまったスペノボは、本気ですかと言わんばかりの表情でアニノボを見る。どうやら嘘でも冗談でもないらしいアニノボが、近くの灰皿に灰を落とした。そして無言でそれをまた咥えて、スペノボの目をじっと見つめた。やっぱり何を考えているのかイマイチ読み取れない別世界の自分を前にして、スペノボは若干たじろぐ。しかし、このまま逃げたら笑われてしまいそうな気がして、それが嫌だったスペノボは、咥えた煙草が動かないよう指で押さえながら、仕方なく顔を近づけた。違う世界線を生きる同一人物、どこからどう見たって同じ顔同士。同じ色をした瞳と瞳を合わせ、瞬きにタイミングを合わせる。煙草の先端同士をぴったりくっつけて、息を吸う。お互いの制帽のツバが当たって、位置が少しズレた。二人のノボリの視線の先では、火を待っていた煙草がじんわりと赤く燃え始める。煙が上がる。用は済んだとばかりに、スペノボがアニノボから離れた。
「
……
失礼ですが、普通にライターを貸してくれれば良かったのでは?」
口の中に広がる毒煙を味わいながら体内に取り込み、ほっと息をついたスペノボが小さく文句を言う。たった今アニノボの協力もあって火がついた煙草を人差し指と中指で挟み、空いている方の手でズレた制帽を元の位置を戻した。巷ではシガーキスなどと呼ばれている方法で、無事にスペノボの煙草へ火を分け与えることに成功したアニノボは、満足そうに目を細める。
「せっかくですので、本当に出来るかどうか試してみたかったんです。初めてでしたが、わたくしとスペノボ様の相性が良かったおかげで簡単に出来てしまいましたね」
「相性も何も、同じ
人間
ノボリ
ですからね
……
」
「ところでスペノボ様、一つ訊いてもよろしいですか?」
「私に答えられるものでしたら、どうぞ」
久しぶりに吸い込む煙草の煙は、スペノボの(主に弟のことで)ゴチャついていた頭を丁度良い具合にリセットしてくれた。苛立っていた気持ちも徐々に落ち着いていく。きちんとアニノボの声に耳を傾けつつも、ほぼ無心で煙草を吸っていると、唐突に痛いところを突かれた。
「今日、スペクダ様と何かありましたか?」
「
……
」
露骨に目を逸らすスペノボの態度は、分かりやすく図星だと言っているようなものだった。弟の名前が出てきたことに少なからず動揺し、咄嗟に返事が思い付かなかったのもまずかった。揺らぐ煙を見つめながら、アニノボはさながら探偵のように更に質問を投げ掛ける。
「言い方を変えます。スペクダ様に何かありましたか?」
「何か
……
と言いますと?」
不利な状況には変わりないが、スペノボだってまだ負けていない。ポーカーフェイスを保ちつつ、煙を深く吸ってから逆に聞き返す。もしこれでアニノボが頓珍漢なことを言うものなら、スペノボは適当にはぐらかすつもりでいた。本来なら今頃、ストレス発散として一人で一服しているはずだったのだ。それが何故か人智を超えた不思議な力が働いて、別の
自分
ノボリ
が存在している世界へと来てしまい、喫煙室で共に煙草を吸っている。思い出すだけでも気が立つので、なるべく今日の出来事をスペノボは話したくはない。しかしアニノボの返答は素早く、尚且つ正確だった。スペノボに誤魔化す余地を与えない。
「たとえば、一日中スペクダ様から女性の香水の匂いがしていたとか」
「な
……
何故それを」
この瞬間、スペノボのポーカーフェイスは綺麗に崩れ去った。こうもピンポイントで当てられてしまっては、もう隠す意味もないと悟ったからだ。アニノボは壁に背中を預けて、深い溜息と共に煙を吐いた。
「わたくしの弟もそうだったからですよ。どうやらわたくしどもは、似たような状況にあるようです」
そこからはもう驚きの連発であった。アニノボの口から語られるアニクダの現状が、ほとんどスペクダと同じだったからだ。細かいところを見ていけば違う点もいくつかあるが、大体の流れは一緒だ。バトルサブウェイに乗車していた女性の香水の匂いが移り、それが悲劇的なことに一日中続いた。アニノボ曰く、アニクダは自身のコートの匂いを嗅ぎながら『ああこれ? さっきのお客さんがつけてた香水の匂いが移っちゃったみたいだね』と平気そうな顔をしていたらしい。そこは匂いや変化に敏感で、嫌そうにしていたスペクダと反応が全然違う。
「今からわたくしがお話することは、机上の空論に過ぎませんが
……
」
一通り今日起こった出来事の話が終わると、今度は正に自分たちにしか通じない話を、アニノボが切り出した。
「わたくしどもは存在している世界は違えど、元は同じ一人の人間。全ての事象が完全に一致するわけではなくとも、予め“ノボリ”という男の目の前に敷かれた、同じ
人生
レール
を走るようになっているのではないでしょうか」
「小難しい話になってきましたね
……
。つまりアニノボ様は、何気なく送っている私たちの日常はリンクしていると、そう仰りたいのですか」
「そういうことになりますね。そしてそれは
ノボリ
わたくし
の片割れとして生まれ、
ノボリ
わたくし
と二両編成で生きる
クダリ
あのこ
も同じなのではないかというのが、現時点でのわたくしの見解です」
ハイペースで一本目を吸い終え、いつの間にか二本目の煙草に火をつけているアニノボが話を続ける。
「今回はわたくしとスペノボ様の気持ちが強く共鳴した結果、並行して存在している二つの世界線の境目が曖昧になり、混線してしまったという可能性が考えられます」
「お待ちくださいまし。その理論でいきますと、ゲーノボ様の世界でも同じようなことが起きているのでは
……
」
思考を練りながら口に出した、もう一人のノボリを頭に思い浮かべるスペノボだったが、すぐに“あの御方なら大丈夫だろう”という結論に至った。スペノボとアニノボの性格を足して2で割って、そこに厳かなオーラを足したような男が、今ここにはいないが確かに“ノボリ”として存在している。実際に二人はそのノボリと会って話したことがあるが、自分たちの中でリーダーを決めるとしたら確実に彼だと、言葉には出さずとも思っている。彼は自分の弟が他人に接触されて香水臭くなったところで、ストレスには感じないはずだ。肉体的にも、精神的にも、恐らく彼が一番強い。途中で口を噤んだスペノボと思考がリンクしたらしいアニノボは、喉仏を震わせ笑い声を漏らしながら話を繋ぐ。
「ゲーノボ様が精神的にダメージを食らうことがあるとすれば、ポケモンバトルが出来ない環境に行くか、ゲークダ様と引き離されることくらいでしょうから
……
。第一、ゲーノボ様は喫煙者じゃありませんからね」
「ああ、なんとなくそんな気はしていました。煙草なんて百害あって一利なしですから、私どもはゲーノボ様や弟を見習うべきです」
「ええ、本当に。仰る通りですね」
そんな百害ある嗜好品を、未だに二人で並んで吸い続ける。今日は一本だけと決めていたスペノボは吸殻を灰皿に捨てた。そろそろ元いた自分の世界に帰らなければならない。
「火、ありがとうございました。それでは、私はこれで」
「おや、もう帰ってしまわれるのですか?」
「クダリが仕事を終えて戻ってくるまでに私も帰らなければ、何を言われるか分かりません。それに、本来私が走るべき線路はここではありませんから」
良い意味でも悪い意味でも素直な弟のことだ、先に仕事を終えて待っているはずの兄がその場にいなかったら、後で辛辣な文句を言われるに違いない。それに何より、早くあの愚弟を家に連れて帰って風呂にぶち込む作業が兄には残っているのだ。髪の先から爪の先まで、ふわふわでモコモコの泡で洗わせる。それからドライヤーを面倒くさがって濡れた頭のまま部屋中を歩くであろう弟の首根っこを引っ掴み、座らせて、乾かしてやるのだ。過保護だ何だと言われようが、今までずっとこうしてきた。
帰ってからやることが山ほどあるスペノボは、迷いのない足取りでスタスタと喫煙室の出入口の方へ歩いていく。その後ろ姿は暗い路地裏へと足音も立てずに消えていく、チョロネコのようでもあった。スペノボは帰り際に一度だけ振り返る。あと一つ、確認しておきたいことがあったからだった。まだ壁に背をつけて煙を燻らしているアニノボと目が合う。
「アニノボ様は、今回私と気持ちが強く共鳴したのだと仰っていましたよね。アニクダ様が知らない人間の匂いを纏わせて帰ってきたとき、どう思いましたか」
スペノボは至ってシンプルな問いを投げ掛けた。そういえば、これまでに何度か顔を合わせる機会があっても、アニノボの口から本心を聞き出したことはまだ一度もないのではないかと、ふと思ったからだ。各世界線のサブウェイマスターが一堂に会するときでも、アニノボは基本的に聞き役だった。それにスペノボは何度も自分の弟に対する複雑な感情を、アニノボの前で曝け出してきた。今ここには居ないノボリは、常にオープンにしているようなものだから良いとして、アニノボが感情的になったところを見たことがない。これでは不公平だ。同じ人間だというのにこうも違うと悔しい。
「
……
そうですねぇ
……
」
鋭い眼差しを向けるスペノボからの問いに、アニノボは咥えていた煙草を離して目を伏せ、考える素振りを見せる。発すべき言葉を探す沈黙の間に、二回ほど煙を大きく吸い込んでいた。
「あまり良い気はしなかったとだけ、答えさせてください」
肝心な表情は白い煙でよく見えなかった。しかしそこにいたのは間違いなく“自分”だった。スペノボは何も言わずにまた前を向き、ボタンを押してドアを開けた。一歩外へ踏み出し、アニノボから完全に離れる。途端に襲いかかってきた立ち眩みに目を固く閉じる。数秒後、目眩が治まった次の瞬間から、スペノボはこの世界にたった一人のノボリに戻っていた。
▲▽
ノボリが駅員室に戻ってくると、クダリが床で仰向けになって寝ていた。いや、目はしっかりと開いている。笑みを絶やさずに天井を凝視している。ここに来る途中ですれ違った部下が気まずそうにしていたのは、十中八九これのせいだと察した。
「
……
お疲れさまです、クダリ。コートを脱いでいる点だけはえらいですが、大の大人が職場の床で寝ないでください。踏みますよ」
「あれ? ノボリだ」
起き上がりやすいように手を差し伸べてやったのに、それを無視してクダリが自力で起き上がる。空を掴んだ手を、ノボリは決まりが悪そうに元の位置に戻した。
「もう先に帰っちゃったと思ったから不貞寝してたのに」
「? 私がクダリを置いて先に帰ったことなど、今まで一度もないでしょう」
「だってノボリ、今日のぼく、嫌なんじゃないの」
いつも以上に拙く聞こえるクダリの言葉に、ノボリは首を傾げた。3秒ほど経ってから合点がいく。クダリなりに自分が香水臭いことを気にしていたらしい。振りかけた消臭剤のおかげで、椅子の背凭れにかかっているコートからは匂いがほぼ落ちているが、やはりクダリ自身の髪や肌からまだ甘ったるい匂いが残っている。今朝の衝撃が凄かったので、若干の思い込みもあるかもしれないが。
「
……
まったく、馬鹿なクダリ」
眩しいものを見るように、ノボリは思わず目を細めた。ノボリがクダリを嫌になることなど、今までもこれからも、一度だってありはしないのに。きっとそれは、どこの世界の自分でも同じなのに。地頭が良いのに時々お馬鹿さんになってしまう弟が、やっぱりどうしたって可愛くて仕方がない。
「間抜けのノボリに言われたくない」
可愛くない減らず口でさえ、今は愛らしく聞こえる。疲れもあるのだろう。ノボリは帰宅を急ぐ。
「兄に向かって間抜けとはなんですか。ほらクダリ、家に帰りますよ。今日は夕食の前にシャワーを浴びてもらいます」
「
……
ノボリ、たばこ吸った?」
どうせ隠したって絶対にバレるので堂々と帰ってきたが、やはりいざ弟に指摘されると心臓が跳ねる。“ギクリ”と、ノボリの頭上に出た擬態語をクダリは目で読んだ。それから今朝のように自分の鼻を摘むと、分かりやすくノボリから1メートル以上距離を取る。
「あのね、たばこくさいから離れて歩いてね」
早くお揃いのシャンプーとボディソープの匂いを纏わないと、今夜はクダリの隣に行くことすら許されないみたいだ。ズンズンと先を歩くクダリの後ろを1メートル以上離れて歩きながら、ノボリは今度こそ禁煙を胸に誓った。
後日、ノボリのデスクの引き出しから煙草を持ち出して、ギアステーション内のゴミ箱へ捨てるクダリの姿が目撃された。
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