いわくら
2026-06-19 00:47:35
5755文字
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僕のための水族館/君のためのプレパラート

理科室で出会う魔表🔬

 
 陽が沈み始める頃、一つの生命体はこの場所を訪れる。
 一般的にこの場所は好まれない。薬品と、消毒液と、生臭い気体が混ざったにおいは、曖昧な存在であるオレを隠すのには絶好の立地で、大体の時間をひかりが遮られた隅で過ごす。
 明るいものは苦手だった。まずそもそもの性質が違う。それらと一切交わることはなかったし、これまでもないと確信していた。似合う場所というよりも、住処に近い。同質なものと共にするという点では人間と何も変わりなく、あるのかもわからない活動限界をここで待つ。それがオレの在り方だった。
 であるはずなのに、奴はオレの前を横切った。それはあまりにも不確かで、曖昧さに満ち溢れた邂逅であったような気も、どこかで全てが決まっていて、ふさわしい瞬間が遂に訪れただけであったような気もする。ただ一つわかっているのは、オレが住処から奴へ、ほんの少しであっても意識を向けなければならない、ということだった。

「ふふ、いつ見てもかわいいなあ」

 今だって、くらい底の一歩先、陽の差し込む床の上で奴は佇んでいる。何度排除したいと思っても、大抵の人びとが感じられるオレの視線を奴はさも気にしていないようだった。中身が空であるのか、それとも受け取った上で無視をしているのか、どちらであるのか不明だったけれども、おそらく前者なのだろう。そういう性質の声をしていた。くらやみの中では視覚以外の全ての感覚が鋭くなる。きっとオレとは全てがかけ離れているということが、皮肉にもすぐにわかった。

「君、どこから来たの? 海? それとも川? すごく小さいし、お母さんとすぐにはなればなれになっちゃったのかな」

 現在進行形で不可解な言葉を発している奴は、毎日この時間に水の入った硝子容器を見つめる。何分、何時間観察していようとその中身は変わらないというのに、飽きもせずにこの場所の扉を開け続ける。最初は拒絶に近かった感情も、ここまで来てしまえば当然の呆れと、若干の関心があった。

「ボクがいるから、餌の心配はいらないよ。って言っても、ここは学校だし、誰か他の人がお世話をしているんだろうけど……

 その容器の中身を確かめようと、陽が沈みきった頃、オレも眺めてみたことがある。透明な液体の中には稚魚、それもフグと呼ばれるらしい生命体が何匹か身体を揺らし泳いでいた。元々名称は知らなかった。奴が呟くその言葉の羅列を、棚にあった書物の中から見つけただけだ。少し色の褪せた写真と同じ模様を携えたこの生命体は、オレを認識することなくしずかにヒレをなびかせていた。
 そして、オレの住処は学校と呼ばれることもはじめて知った。自我を持った瞬間から、オレはこのくらやみの中にいた。太陽が顔を出す時間を避けているからか、この場所には誰一人訪れず、常に静寂に包まれた、秒針に刻まれることのない時間を過ごした。それは奴が姿を現し始めるまで、永遠に続くかと思っていた。

「君に触れられたら、嬉しいだろうなあ。流石にボクだって、学校のものに許可もなく触ったりしないよ。水槽が壊れちゃったりしたら、先生に怒られちゃうし」
 ――いっそのこと、君がともだちになってくれればいいのに。

 みじかい第一関節の先、ちいさな爪が振り子のように揺れた。硝子の縁に触れ、わずかな存在である稚魚をつつくようにつるりとした表面を撫でる。奴のかげは西陽によって床を伝い、このくらやみまで辿り着いてしまいそうだった。指のかたちにくり抜かれたかげが、オレを誘うように揺れていた。

「そろそろ帰らなきゃ。今日もじいちゃんに叱られちゃう!」

 長くも短い一日という時間の中には、必ず終わりが訪れる。いつか生命体が土と同化するように、太陽は東から西へと活動範囲を移動させ、おまけに奴をも連れ去ってしまうのだ。宿題をやらなきゃだとか、新作のゲームをやらなきゃだとか、なくてもいいようなくだらない理由を独りでに呟きながら、奴はこの場所を後にする。
 別に奴がいてもいなくても、くらやみの中に変化はない。常に温度と湿度は一定で、時間や生命といった縛りを持たず永久に残り続ける。人間はこれを孤独と呼称するのだろうが、自我を持つことでさえオレには選択することができるのだ。意識を持たず漂うことだってその中の一つではあったけれども、何故だか奴を眺めることは日課のように染みついていて、あえて今更放棄するという気にもならなかった。

「またね。また明日、会いにくるから!」

 いつだったか、そのかげだけではなく、中身を覗いてみたいと思った。この場所に並んだ器具のように、板の上に転がし、レンズの焦点を合わせ、細胞のひとつも逃さないように眺めてみたい。オレが奴に意識を向ける理由はそこにあった。そのためなら、住処を抜け出しても構わないと思うくらいに。
 


 だからオレは、今この時、実験を開始することにした。観察日記は今日で終了。ついに第一フェーズを抜け、第二フェーズへと移行する。
 室内を見渡し、誰ひとりの体重も乗せることのなかった空間の隅に着地した。足を作る、ましてや身体を形成するということはオレにとって初めてのことだったから、奴の輪郭を参考にした。毎日目に入れていた部位をひとつひとつ思い出しながら、瞼を開いてみる。これが視界。これが呼吸。これがあいつ。それでも奴の中身を再現することはできず、その悔しさだけがオレの生命活動を維持する理由になった。
 奴はこの場所から離れるために、扉近くへと移動したようだった。身体を動かしてみる。脳へと神経を使い信号を送るという手順は理解しているはずなのに、思っていたよりも加減が難しい。近くにあった丸椅子に足先がぶつかり、少しばかりの音が響く。

……誰か、いるの?」

 ミスを犯したかと思ったけれど、あちらが先に捕らえてくれるのならば好都合だ。招き誘うために、こちらから応答を返すことはしない。追いかけるよりも、徐々に近づいて全てを呑み込む。それがこの実験の目的であった。

「一応、毎日誰もいないか確認してから入ってるのに……。勘違い、かな」

 そんなもので済まされるのはごめんだ。時間をかけて蝕むという方法自体が、くらやみの本来の在り方なのだから。焦らずに、だが着実に追い込む。今まで意識をする必要もなかったけれど、オレはやはり住処に順応した性だったらしい。
 もう一度、今度は明確な意思を持って音を立てる。椅子の足と足が重なり、ひとつの障壁もないこの場所を覆うように、鈍いそれが広がった。途端に、奴は肩をひとつ揺らしてこちらの方面を向いた。手順一は成功のようだった。

「ほ、ほんとに誰かいる……?」

 ああ、いるとも。それも、生憎たちの悪いやつが。
 一見気の弱そうに見える奴は、予想に反してこちらを横目で伺いながら歩みを進めてきた。一歩、二歩、三歩。左右で均等に距離を縮める足先が、息の上がった呼吸と同じ間隔でこちらへ向いた。窓のまわりでゆらゆらとカーテンが揺れ、その度に奴の顔を隠し、オレの顔を隠す。秋も終わりに近づく風は冷たさを孕み、オレと奴との間を通り抜けていった。

「きみは……

 対象を写すことのなかったひとみが、次第にオレのかたちをなぞっていく。足から腕、そして指先、一巡して頭。くるくると移動する視線は、ようやくオレの緋を指し示し、やがて止まった。

――オレが誰だかわかるか?」

 ゆっくりとその言葉を口にした。二度目の邂逅を舌で味わうように、失うことのないように、忘れることのないように。そして、はじめて眺めるひとみの奥を暴くように。
 えっと、と、ちいさなくちびるが震えた。その動きはやけに緩慢で、控え目で、下手をすれば見逃してしまいそうなほど僅かな発声だった。けれどもオレにとって、奴から吐き出される二酸化炭素や、生命を維持するための酸素、身体を構成する炭素は、棚に並んだどの瓶のラベルたちよりも気分を高揚させた。

「もうひとりの、ボク……?」

 夕陽の一欠片は、息たえる前にと水槽の稚魚へ自身を反射させる。最後は奴の紫や金を縁取るように滑り落ち、まぶたの中へと消えていった。
 

 手を引く。はじめて触れた指先、血液の循環、近づく呼吸音、そのどれもが愛しくてたまらない。もう一方の腕で腰を抱いた。突然の行動の意図を読み取れない奴は、食べられようとしていることにも気付かずに平衡感覚を手放す。
 小道具の椅子や棚がいくつかの音を立て、オレは奴をくらやみに招き入れる。理科室の地面は埃っぽく、その上に散らばった奴の色は、すでに先ほどの眩しさを失っていた。
 捕食してしまいたい、と思った。この狭い世界に存在するはずもなかった、かわいらしくカーブした頬の桃色や、少しだけ開いた口端から覗く舌先、何より見開いたひとみからこぼれ落ちる、ひかりを纏った水分たち。そのどれもを硝子板の上に採取し、並べ、ラベルをつけて、箱の中に仕舞ってしまいたい。誰に触られることもない、傷つけられることもない、オレだけのくらやみの中へ。
 硬い床の上に転がされた奴は、オレを見つめながら動くことはない。実験対象としてふさわしい、上出来な態度だ。皮を一枚ずつ剥がすように、頬に貼られた絆創膏のふちを引っ掻いてみる。

「く、くすぐったい……

 こまかい睫毛が震え、奴は呟く。なにか拒否でもされるのかと思ったけれど、予想よりも従順らしい。頭蓋骨の中が空だからではない。わかっていて、受け入れているのだ。その確信は、あるのかどうかすらわからないオレの心臓の奥を貫くような、激しい衝撃をもたらした。

「食道、肺、肝臓、腎臓」

 解剖図で何度も目にした名称を、一つずつ奴の身体を撫でながら確かめた。シャツのボタンを外し、少しでも中身に近づくように、境界線をかき混ぜるように触る。

「胃、膵臓、小腸、大腸」

 少しずつ、息が上がりはじめる。最初はオレだけだと思っていたのに、何故か奴までも肩を揺らしながら何かに耐えていた。てっきり恐怖だと認識していたそれは、熱のこもったまなざしから、どこか違うものであるような錯覚をオレに与える。

――心臓」

 薄い皮膚に、形成したばかりの皮膚を重ね合わせる。一定の間隔で上下する肋骨の先、生命が生命たる所以を外から眺めた。それは、奴が稚魚を見つめるようなものではなく、全てを解剖して保存液の中に入れた後、それを腕の中に抱いたときような、満ち足りた感情をオレに与えた。

「満足、した……?」

 そんなオレを見かねたのか、奴はくらやみの底からオレに話しかけた。頬は茹ったようにあかく、蕩けたまぶたから紫が垣間見える。太腿から下はオレの支配下にあり、腕さえもだらりと床に投げ出したまま、熱を持ってちいさく震えている。すでに太陽は姿を隠し、教室は夜と一体になっていた。
 満足したか、していないか。そう訊かれれば、いいえ、と答えざるを得ない。皮膚を破って、血液を混ぜて、身体も精神をも、全てを受け入れてほしい。

「いつから、ここにいたの?」

 見てたんでしょ、ボクのこと。オレの渇望を横目に、名探偵が謎を解くよりも遥かに簡単な推理を奴は始めた。どこか楽しそうに、先ほどの熱と興奮を冷ますように笑っている。

「半年前から」
「それって、ボクがここに通うようになってからじゃない……

 恥ずかしいよ、と、奴は顔を背けた。剥がした絆創膏には切り傷が、そしてその内部からは血液が流れ出ている。その濁った緋が俺と同質であることを祈りながら、舌で触れ、口内に含んだ。
 汚いからだめ、と自ら起き上がった奴は、頬の傷口を手のひらで隠すように覆う。その手を支える腕にだって、幾つもの痣が刻まれているというのに。皮膚の下でも、血管が切れているという事実に変わりはない。

「さっきのとか、今のとか、ほんとに楽しいの……?」
「ああ、楽しいさ。何故わかった?」
「だって、嬉しそうなんだもん。もうひとりのボクって、少し変なひとだね」

 こんなにかっこいいのに。薬品の入った棚に腰掛けながら、奴は再び不可解な言葉を発した。形成されたのがつい数十分前なのだ。どんな姿かわからないのだって、別にオレにとって重要性がないからこそ確認していなかっただけだ。
 横を向き、硝子に反射した自分の顔をはじめて目に入れる。奴と同じ金の先には、つり上がった眼に、不機嫌そうに寄った眉、そして紫ではない、緋が在った。どこかで手順を間違えたか、と後悔する。材料が後ろ姿だけでは、全てを同じかたちにすることは難しかったらしい。

「こんなのが、いいのか」

 大袈裟に頭を縦に振った奴は、お気に召したらしいオレの構成部位を見つめている。その横顔が水槽の中身を見つめるときと重なり、それさえもを奪って、目を塞いでしまいたいような感情が渦巻く。

「またここに来たら、君に会える?」

 それであるのに、オレのくらやみの中に再び入り込もうとする奴は、やはり理解し難い生命体だった。これから暴かれようとしていることを、知っているのか知らないのか。実験台にされていることも、保存液に浸されていることも、何もかも知らないふりをして、奴は再びこの場所に入り込もうとする。

「食べられても、いいならね」

 そう実験者は供述する。もうここから出ることはできないと実験室のドアを閉じ、被験者を対象物として見つめ続ける。それがオレの全てであると、論文の最終項にピリオドを打つのだ。
 もう帰らなきゃ、と奴は口にした。衣服がヴェールのように奴を包み、実験の痕跡を隠してしまった。だが、オレは奴が逃げないことを知っている。毎日オレに投げかけられる言葉を聞き逃したことは、これまでに一度もないのだから。

「またね。また明日、会いにくるから」
 


 陽が沈み始める頃、一つの生命体はこの場所を訪れる。
 水槽の中の稚魚は泡を吹き出しながら、餌を待ち続けている。見事に整ったヒレと、あかいひとみを携えて。