やまだ
2026-06-18 23:26:14
2937文字
Public 無双オリジンズ
 

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惇紫 足音の話

「紫鸞殿の足音がしなくなることがあれば、気をつけてやってもらえませんか」
 傷の治療を施されている最中、元化という若い医者からふいに話しかけられた。まだ声変わりもしない、いとけないような容姿であるのに、知識が豊かで誠実な治療をする。夏侯惇が戦中まともな処置をしなかった傷口の膿を、城下の診療所で丁寧にぬぐわれていたときのことだ。
「どういうことだ。あいつが幽鬼に化けるとでも言うつもりか?」
「いえ、そうではなく。紫鸞殿がそうなるとき、足音を立てるのを忘れるくらい疲れ果てている可能性があるので」
……余計わからん。筋道立てて話してみろ」
 紫鸞の記憶障害を根治させたこの医者は、長いこと彼と起居を共にしている。紫鸞が躊躇なく友と口にするのは元化くらいだ。夏侯惇も紫鸞の紹介で知人となって久しいが、このような話をされるのは初めてのことだった。
 ところが、酒で洗った傷口に粉薬を振りかけながら、元化は困ったような顔で笑う。
「筋も道もありませんよ。それだけの話です。それに、ただ気が抜けてそうなっている可能性のほうが大いに高いですから、あの人は」
「なぜそれを俺に言う。おまえが気にかけてやればいい話ではないか」
「俺はただの、道半ばの医者です。城にまで上がって紫鸞殿について回るわけにはいきませんから」
 外に患者もいますしね、と続けた元化の手が、夏侯惇の腕へ清潔な布をくるくると巻きつけていく。中途半端に好奇心を煽ったくせに、詳細を語るつもりはないようだった。
「その点あなたなら身分も確かですし、紫鸞殿とも親しいでしょう。……典韋殿に頼もうかとも思ったんですが、あの方に曹操殿のご身辺を警護する以外のことをお願いするのも申し訳なくて」
「俺はいいのか。こう見えて忙しい身ではあるのだぞ」
「それはそうでしょうけど。ですが、あなたには紫鸞殿のほうから寄ってくるんじゃありませんか?」
 ぐっと詰まってしまったのはそれが事実だからだった。任地が重なるときには必ず、当然のような顔をした紫鸞が夏侯惇の視界のどこかにいる。
「紫鸞殿が口にする名前のうちで、一番耳にするのがあなたなんです。だから、よろしくお願いしますね」
 元化に布の端を手際よく処理されてしまえば、治療の済んだ夏侯惇がこれ以上居座るわけにもいかない。消化不良のすっきりしない気分を抱えたまま立ち上がる夏侯惇とは対照的に、元化はさわやかに笑って一礼するのだ。
「また膿が出たり痒みがひどいときには呼んでください。絶対に傷口を掻く、わざと薬を洗い流す……なんてことはしないようにお願いしますね。お大事に」
 そんな彼に何を言えるはずもなく、夏侯惇はただ首肯した。
 
 
 傷が後遺症もなく無事塞がり、戦の後始末も済み、そろそろ新たな任地へ移動しようかという話が出るころには、夏侯惇は元化と交わした言葉のことなどほとんど忘れかけていた。それをどうして今思い出したかと言えば、横を歩く紫鸞の足音が不規則に消えるからだ。
 酒家で食事を奢ってやった帰路だ。すでに紫鸞の邸へほど近い街路は、時間帯もあり人通り少なく静閑としている。互いにほろ酔いで益体もない話をしながらだらだらと歩いていたところ、ふと話題が途切れたときの沈黙がやけに澄んでいたので気がついた。足音も、衣をさばく音すら、夏侯惇のものしか聞こえない瞬間がある。
「飲み疲れたか?」
 試しにそう言ってみると、紫鸞は重たげに瞬きながら考えこむようにした。
「疲れた……というよりも、眠い。歩きながら眠れそうな気がする」
「しっかり目を開けておけ。俺はともかく、寝入ったおまえのこの図体を元化殿へ任せるのはしのびない」
「努力している……
 紫鸞はごく自然体でいるように見える。目をしょぼしょぼさせながら進む足取りは重く、ほぼ地面に履の底を擦りつけるようにして歩んでいるはずなのだが、それだというのに砂利を踏む音ひとつしないのだった。
「声を出していれば気が紛れよう。何か話せ」
……それが俺には一番難しいんだが」
「故郷の話などどうだ。幼きころの話でもいい」
 紫鸞のよく光る目が一瞬上がった。ざり、と足下からふたりぶんの砂を踏む音がする。
……桃の花が咲き誇る美しい里だった。俺は里の外からの拾われ子だったそうだが、皆身内のようによくしてくれた」
 拾ってきた童子に護身以上の武技を仕込むものだろうかと思いはするが、当の紫鸞がいかにも懐かしげに語るので夏侯惇も相槌を打たざるをえない。そうか、と返すと嬉しそうにする。
「優しく厳しい姉のような人がいて、この人とともに新たな未来を創るのだと信じられる人もいた。……俺は恵まれていたのだろうな」
 すべてを過去形で語る紫鸞を見る。親兄弟もなく故郷もなく、同郷の者すらない男が、夏侯惇の隣を足音をたてて歩いていた。
「里を出てからしばらく、生きねばならない、と思って生きていた。逝ってしまった彼らのぶんまで自分は生き延びなければならないのだと」
……今は違うと?」
 うん、と紫鸞は無邪気に微笑む。
「今は、俺自身が生きたいと思って生きている」
 言葉のかたちを噛み締めるような声だった。
「あなたたちとともに殿の目指す天下を見てみたいと思う。ほかの誰に求められたからでもなく、俺が、そう願っている」
 そうか、と言えばよかったのかもしれない。そうか、では今後も戮力して事にあたってゆこう、と言えば、紫鸞は喜ぶだろう。だが夏侯惇の喉はそれを吐き出したがらなかった。
 代わりにぽろりと漏れたのは、随分ぶっきらぼうな要望だ。
「今夜は、おまえたちの所へ泊まっていく」
……惇兄?」
 きょとんと瞬く紫鸞の足音がまた消える。
 元化の言葉を思い出す。この男は今、夏侯惇の傍で緊張を忘れている。それを信頼の表出だと読み解くのは決してうぬぼれではないはずだ。
「どうせ持て余しているから、部屋なら山ほどあるが……いいのか、突然予定を変えてしまって」
「休沐中だ、構わん。明日ともに登城すればおまえが寝過ごすようなこともなくなるしな」
 隣を歩く紫鸞の肩をかるく叩く。ぽん、と間抜けた音がする。
「飲み直すぞ。もっと話を聞かせろ。里での暮らしや、おまえの姉君たちについて」
 紫鸞が今の紫鸞になった過程が知りたいのではなくなっている。ただ他愛もない思い出話が聞きたかったし、共有したかったのだ。
「代わりに、俺も淵や孟徳の幼いころの話をしてやろう。あやつらの逸話なら腐るほどあるからな」
 にやっと笑ってやると、まじまじと夏侯惇を窺っていた紫鸞の頬も緩んだ。柔らかに笑って雀の足取りで土を蹴る。音はない。
「それは楽しみだ。眠いなどと言っている場合ではなくなった」
「元化殿に土産がいるな。道すがら何か買っていくか」
「惇兄」
「なんだ」
……ありがとう」
 か細く感謝を囁いた紫鸞の肩を再び叩く。歩きながら夏侯惇の手へ重心を預けようとふざける男の顔は見ず、そのままぐっと進行方向へ押し出した。並んで歩けば表情は見えない。
「なんのことだ」
 自分の足音だけを引き連れて、夏侯惇は紫鸞の横を行く。